第2話 ひととけものと

 それからも兄は少量の食料を持って、毎夕、家を空けるようになった。必ず、エンリィに断わりを入れてくれるのと、長時間でなかったので、エンリィも特に不満を抱くことはなかった。

 そのことよりも不安に思っていたのは、数日に一度、兄を呼びに来るがらの悪い連中の方だった。村に住まう者として、村民としての役目を果たす必要があるのかもしれない。しかし、どうき使われたのかはわからないが、彼らについて出た後、兄は毎度ぐったりと疲れた様子で帰宅する。眠っている時にうなされていることもある。

「どうしても行かなきゃ駄目なの?」と、エンリィが尋ねると、「おれたちには守ってくれる大人がもういないからね」と、シュカは肩をすくめて答えた。


 そして、季節が変わり、今年初めての雪がちらついた日…【ソレ】は突然やって来た。エンリィが外に積んであった薪を取りに行こうと、小屋の戸を開けた時のことだった。

 汚れた灰色に混じって、真新しいような白色が斑に混じる毛並み。大人の猪よりも一回り大きな体躯。太い前脚の鋭い爪、凶暴そうな牙。

【ソレ】は戸の向こうでぺったりと座り込んでいたが、エンリィを見ると、人が挨拶するように軽く前脚を上げたように見えた。


「ひっ」


 必死で悲鳴を呑み込み、慌てて小屋の戸を閉める。


「にっ、兄さんっ」


「エンリィ、どうしたの?」


 事情がわかっていない兄は怪訝そうに怯えた声を出したエンリィに問うてくる。エンリィはぶるぶる震えながら、閉まっている小屋の戸の向こうを指差す。


「くっ、熊がいる。戸の外に灰色の熊がいるの!」


 兄は目を見開くと、驚いたことに何の躊躇もなくコモをはね上げ、小屋の戸を開けた。


「グラチカ…なんで来ちゃったの?」


 シュカに【グラチカ】と呼ばれた灰色の熊は、シュカの頬に鼻面をくっつけて、甘えたように鼻を鳴らした。どうやら喜びを表しているようだった。


 実は、シュカは叔父のフィオから、人食いの雌熊ヒドゥンが崖に飛び込んだ話を聞いた日の帰り道、雌熊に殺されて住む人を失い、空き家になっていた小屋の一つから物音がすることに気づいたのだという。気になって、明かり採りの窓から中を覗くと、中にいた猪くらいの大きさの灰色の仔熊と目が合ってしまった…グラチカだった。


「お母さんがいないって言うから、何だかほっとけなくて。怪我もしていたし…」


 その言葉に「グゥーフー」とグラチカが鼻息を漏らす。それは、まるで、相槌を打っているかのように見えた。


 それから数日、シュカはグラチカに神帰山ナーキゴランに帰るように必死に説得を試みていたが、グラチカは全く聞く耳を持たなかった…否、持たないように見えた。追い出そうにもか弱い子ども二人では、猪よりも大きな熊の仔になど、とても力では敵わない。やむなく、こっそり小屋に置いておくことにしたのだが、存外にグラチカとの暮らしは楽しいものであった。

 グラチカの体はムシロよりも麻布ザーブよりも大きくて温かかった。くっついて眠ると寒さを感じない。

 人語をよく理解し、穏やかな黒い瞳はいつも知的に輝いていた。よく馴れた…というよりも、友人のように心安く、エンリィとシュカの家族であるかのように兄妹の内に溶け込んでいた。


 そして、エンリィがグラチカがいて良かったと実感したことは、時々、兄を連れ出していた感じの悪い輩が来なくなったことだった。

 彼らが兄を訪ねて来た時、グラチカは今までになく獰猛な様子を見せた。シュカを守るように男らの前に立ち塞がり、後ろ脚で立ち上がって、牙を剝き、威嚇した。それはあの崖に飛び込んだという雌熊ヒドゥンの姿を彷彿させるような恐ろしい荒ぶる山の神の姿であった。

 シュカが「おれたちと一緒にいたければ、人を殺してはならない」と、男達をかばって、グラチカを止めなければ、間違いなくズタズタに引き裂かれた無惨な遺体が数体出来上がっていたと思われる。

 しかし、この件が村中の噂になってしまい、エンリィとシュカの兄妹が熊の仔を飼っているということが村民の知るところとなってしまった。


 エンリィはグラチカが村の民に捕らえられて、殺されてしまうのではないかと懸念していたが、小屋にやって来て、グラチカを一目見た村の長は大きく頷いただけだった。


「シュカよ、よくやった。白き山の神カマラを精一杯おもてなしせよ。村をあげて協力しよう。必要な物は何なりと申すが良い」


 エンリィは村の長から言い渡された言葉にほっとして嬉しく思ったが、シュカはおし黙ったままだった。濡れたように光る美しい黄金の瞳で、以前より体色が白っぽくなったグラチカをじっと見つめていた。

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