神と贄

瑞崎はる

第1話 のこされた子どもたち

 くまは山の神、天の神。

 くまはけものの王。

 くまはひとの客人まろうど


 その年に現れた人食いの雌熊ヒドゥンは【凍吠トゥンバル村】の民を恐怖に陥れた。


 最初の犠牲者は【神帰山ナーキゴラン】に入った鹿撃ちの猟師二人。誤って撃った大きな雌熊が激高し、襲い掛かって来たのだという。若い猟師が一人、命からがら逃げ延びて、仲間に起こった恐ろしい出来事を村に伝えた。

 翌日、山で亡くなった二人の猟師を弔うため、遺体を探しに男連中が山入りした。


 ところが、意外なことに遺骸は山の奥ではなく、山の麓…入口近くの大きく平らな岩板の上で見つかった。

 かつては人であった二体の残骸が、無惨に食い散らかされながらも、血のこびりついた頭蓋骨シャーリプが何かを示すかのように仲良く並べられているのを、山に入った男らは目の当たりにした。

 震えあがって、村へ戻って来た男らに話を聞いた村の長は「今年は飢饉になる。【カマラ】を送らねばならんということか…」と、頭を抱えてうめいたという。


 そして、村の長の懸念は違えなかった。


 その年は酷い冷夏で畑の作物がうまく育たなかった。来たる厳しい冬を思い、村人は少ない糧を秋の間に貯め込むのにいそしんでいた。

 それは山も同じであり、秋に実をつけるはずの木や草が養分を充分に蓄えることができずに実り乏しい不作、あるいはそのまま枯れた。鹿や猪は山から降りて、畑に出来た少ない作物を荒らし、家のすぐ側に植えてあった茱萸グゥムの低木や金合歓アーシャの木の皮ですらもいつの間にか食い散らかしていた。無論、熊も例外ではなかった。

 熊害ゆうがいによる村の犠牲者はどんどん増え、山が秋めいた色に染まる頃には合わせて13人にもなっていた。最も新しい犠牲者は木こりの夫婦だったが、もはや、遺骸を探しに山に入る者などいなかった。


 木こりの夫婦には子供が二人いた。

 15歳の兄と12歳の妹。

 兄の名は【シュカ】。

 珍しい琥珀の瞳の少年だった。

 雪ん子のように愛らしい妹は【エンリィ】。

 親を亡くした哀れな兄妹であったが、親の身に何か起きた時のためにと、豊作不作に関わらず、常に備えを怠らなかったさとい親のお陰で、彼らは干した魚や獣肉、塩漬けの野菜などで食いつなぎながら、時に村の者の下働きを引き受け、細々と命を繋いでいた。


「兄さん、お外が騒がしい」


 その日の昼過ぎ、冬の備えの一つとして、掛物や敷物用にと、干した草を幾重にも束ねて編んでいたエンリィは、小屋の外から聞こえてきた村人たちの興奮した声に驚いた。そして、今朝掘ってきた野草の根を塩漬けにするのに、苦味がないよう苦心して灰汁あく抜きしていたシュカに声を掛けた。


「そうだね。何かあったのかな。また、誰かが食われたんじゃないといいんだけど…」


 シュカは困ったように呟いている。

 エンリィの兄は思慮深く優しい。それに、シュカの狼のような金色の目は神秘的でとても綺麗だ。

 兄はしばらく外の声に耳を澄ませていたが、やがて、傍らに置いていた干し草の束で濡れた手を拭って立ち上がった。


「おれ、フィオさんに事情を聞いて来るよ。エンリィは絶対に家から出ないで待っててね」


「わかった。気をつけてね。怖いことだったら、すぐ帰って来て」


「わかってるよ。すぐ帰るから」


 フィオというのは村の西側に住む猟師で、エンリィ達の叔父さん…亡き母のすぐ下の弟だった。

 シュカはエンリィに優しく頷いてみせると、小屋の戸の内側に吊るしたコモまくり上げた。


 数刻後。シュカは帰って来た。

 いつも穏やかな兄にしては珍しく落ち着かない様子で、深く濃い金の瞳でエンリィを見つめ、「どうしよう…」と、声を発した後、再び口をつぐんだ。


「どうしたの、兄さん?何があったの?」


 エンリィは首を傾げる。

 悪いことがあったにしては兄の表情は暗くない。しかし、良いことならば、優しい兄のことだ。すぐにエンリィに教えてくれただろう。


 …私には言えないことなの…?


「ねぇ、教えて。村の人は何を騒いでいたの?」


 シュカは「あぁ…」と、思い当たったようにエンリィを見た。兄は特に感情的になることなく答えた。


「あの人食いの雌熊ヒドゥンたおしたんだよ。母さんと父さんの仇の。フィオさんや猟師たちで罠を仕掛けてね」


 堅固な鉄の罠にかかった雌熊は右前脚を自分で噛み千切ちぎって、逃げ出した。

 フィオたち猟師の狙い通り、雌熊は猟師らが待ち伏せしていた所に現れた。彼女ヒドゥン火縄銃ラーミャの弾を数発浴びせられたが、どれも急所を外していた。そして、暴れ出し、猟師の囲いを破った。走り出した雌熊は…


「崖の上から跳んだんだって。それで、崖の底に落ちていった」


「死んじゃったの?」


「たぶんね。フィオさんも村の皆も【恩恵リューイ】が受けられなくて、ガッカリしてたよ」


 あれだけの大きな体の熊だ。村に持ち帰れたら、たくさんの食肉となり、分け合うことが出来た。ぶ厚い毛皮もこれから寒くなる季節にはとても役に立つ。固い骨だって鋭い爪だって、何もかも無駄になるものなどない。

 今年は例年よりも草木の糧に恵まれず、狩りの獲物も餓死で数を減らし、天候に左右されなかった僅かの作物や魚で厳しい冬を乗り越えられるのか…村の誰もが不安に思っていた。


「残念だったね。熊のお肉美味しいのに」


 エンリィの言葉に、兄は何故か…ちょっと複雑な表情をした。


「食べられたくなかったんだ、たぶん。だから、自分で天に帰ってしまった」


「天に?私たちが食べなくても熊は神様になれるの?」


 熊を狩った際には【熊送り】という儀式を行う。熊の肉を分け合い、山の神に感謝してから皆でいただくというのが凍吠トゥンバル村の慣習だ。天に送られた熊は神様になると聞いた。


「熊はずっと神なんだよ。人の世にいる時の熊は山の神だ。その体でおれたちに恵みを与えてくれる。施されたおれたちは精一杯もてなして、熊を天に送る。そうすると、熊は天の神になる。そして、いつしか、また人のもとを訪れてくれる」


 シュカは真面目な顔で語ると、何かを思い出したようで棚にしまってあった柔らかい麻布と大葉子シャゼンの傷薬を取り出した。貯蔵用の壺から根菜をいくつか出し、壁に吊るしてあった細く割いた鹿の干し肉を二切れ、かぎから外した。かめから水を汲んで椀に移す。どれもほんの少しだけ…エンリィの食事の半分にも満たない量。


「ちょっと出るけど、今度はすぐに戻るから。ついて来ないでね」


 …誰か、怪我をしているの?


 不思議に思ったが、エンリィが尋ねる間もなく、シュカは足早に出て行ってしまっていた。

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