第二部

 序  旅の始まり

 騎士の躰が、積もった灰の中に眠るように、横たわっている。既に、彼の目覚めを待つだけという段階まで、時は来ていた。

 トリクナムは、思案する。事ここに到り、姿を隠してしまった血神のことを。曰く、「ええと、ほら、何だ。そうなる前に、全力で殺し合っていた訳だし? 目覚めた時に、何か混乱があったらいけないだろう?」と。それは実際、そうであろうとは思える内容だが、それだけが理由では無いという事は、そういった機微に疎いトリクナムでさえ気づいていた。しかし彼には、そこから先の事はよく分からなかった。

 ともかく、トリクナムは、じっとその時が来るのを待ち続け――――


 *




 ――――柔らかな感触の内で、目を覚ます。体を動かそうと試みたが、思うままには出来なかった。

 ……何も、思い出せない。やっとの思いで立ち上がって見れば、真っ白な灰だけが、視界を覆い尽くしている。

 ――起きていられない。腕を突くことさえ儘ならず、再び倒れ込んでしまう。自分は、こんな所で何をしていたんだ?

 いや。そもそも、自分とは、何だ? 考えてみれば、己が名前さえもよく分からない。頭には薄靄がかかった様に、輪郭のない思考だけが支配しているようで、ただただ全てが漠然としている。


「気が付いたようだな」


 誰かの声が、耳に届く。聞いた事があったかな、と思考を巡らせようと試みるも、当然のように、このような頭では答えが出る事など有り得なかった。


「お前に、名を与えよう。そうして初めて、お前はお前になれるのだから」


 ――――ああ、成る程。俺には今、名が無いのか。だから、こんなにも、自分が曖昧なんだろう。それはなんとも、腑に落ちる物言いだ。


「――――ァ、……ゥ――」


「無理に喋ろうとしなくてもいい、今はただ、楽にしていろ」


 言葉を発しようとしたが、徒労に終わった。言われるがままに、何も考えずただじっとする。

 やがて、声の主が居ると思われるところから、一定の周期で何かが響いてきた。それはまるで柔らかな金属をぶつけ合うような、緩く穏やかにぼやけた響きながらも、どこか芯の通ったような奇妙な音色であり、聞いている内に、その判然としない印象とは裏腹に、不思議なくらい、意識の靄が晴れてきた。


「さあ――――此処に、名を告げる。

 名の神にさえ縛られず、天地をも貫き徹す、強き名を。

 我、三なる者の名に於いて。

 剣と共に、血と魂をも決意に捧げ、尽きぬ恐れを乗り越えて、やがて灰より顕れし者よ。

 汝の名は、グラウス。灰銀の騎士、グラウスだ」


 ――――ああ。そうだ。

 俺が、ここで何をしていたのかは、今でも思い出せないが。

 剣は、確かに、共に在った。数多の戦いを共に越え、あらゆる辛苦を切り拓き、最後まで共に在ってくれた、その筈だ。

 俺は、騎士だ。剣を以て己を定め、人たるを喪ってでも、何かの為に刃たらんと、そう、在ろうとしていた筈だ。


 自らの奥底に、無性に懐かしい、白めく鎧兜の輝きが見えた。

 時代遅れな大兜、不退の誇りを示す無数の傷が付いた鎧。歴戦を越えてなお穢れを知らぬ、血さえも払う、真っ白い外套。

 そして、かつて己も握っていたと、何も思い出せぬままにそう断ぜられる、大ぶりな灰銀の剣。


 全身に、力が漲ってくる。灰銀の騎士、グラウス。覚えは無いが、妙にしっくりとくる。

 気が付けば、自らの内に見えていた輝きは、形となって世界をも照らしていた。


 それが治まり、立ち上がる。もう、思考のままに身体が付いてくる。

 俺は自らを顧みて、外套こそ無いものの、その姿が先ほど垣間見た、古き騎士の似姿なのだと理解した。

 それと同時に、思う。……確かに灰銀の甲冑を纏ってはいるらしいが、だからといって灰銀の騎士、というのは余りに安直ではあるまいか?


「――改めて。灰銀の騎士、グラウスよ。君が生まれたことを、嬉しく思う。

 ここには居ないがもう一人、君を保護していた或る方もきっとそう言うだろう」


 声の主の方へと向けば、果たしてそこには華奢な、ぼろぼろに薄汚れた金刺繍の黒いローブを纏った何者かが立っている。

 顔に当たる部分には、紫色の、炎とも宇宙の星々ともつかない不可思議な揺らめきが見て取れる。恐らくだが、人ではないと思う。

 ……それに、もう一人、保護……理由も分からないのに何だか無性に気になるのだが、やはり、よく思い出せはしない。歯がゆいものだ。


「ああ、まだ、何もかもよく分からないんだが、とりあえず。有難う。やっと、気分がすっきりした。

 ……そのもう一人にも、会うことがあったら感謝していたと伝えておいてくれ」


「そうだな。機会があれば、そうしておこう。まあ君が直接出会う方が早そうな気もするが。

 時に、何もかもよく分からないとの事だが。もしかして、何も思い出せないのか」


「ああ。何も分からん。

 ……いや、自分が騎士であった気はしているが。確信はあるが、確証はない。

 俺は、どうしてここに居るんだ? というか、産まれた、とはどういう事だ? ――お、お前が……俺を産んだのか……?」


 或ることに気づき、戦慄が走る。

 もしや、この眼前に在る謎の顔面宇宙の黒ローブが……?


「待て。何か誤解をしている。断じて私は君の母親では無い。分かるとは思うが。

 君は……ええと、そうだな。一回死んだも同然になっていたんだ、人として。そこを、君を保護していた者が掬い上げ、私が新たな生を与えたのだ。

 具体的には、無くなってしまった君の本来のものとは異なる、代わりとなる肉体を創り上げて、君をそこに移したという訳だ。理解はできるか?」 


「あ、ああ……いや、取りあえずは安心した。結局よく分からないが、輪廻のようなものだろう、多分」


「そういう認識で別に構わない。別に、そう見做すことが出来ない訳でも無い。

 しかし、何も思い出せないというのは……ふむ――そうだな。では、幾つか質問をしてみよう」


 黒衣の者は、あれこれと俺に言葉を投げかける。家族のこと、騎士としてのことだとか、単純な計算問題だとか、信仰に関する知識だとか……多岐に及ぶ内容の問いに答える度に、この眼前に在る不審な何者かは少しずつ、何やら考える素振りを見せるのであった。


「ふむ。

 意味記憶は確かだが、エピソード記憶は思い出せない、か。まあ、取りあえずは喜ぶべきだろうな。詰まるところ、君個人として活動した記憶は思い出せずとも、かつて君が得た知識は健在だ、という話となる訳だ。

 ……しかし、元々の君の親、或いは教育係は、相当に熱心だったのだろう。君の諸々への認識や知識量は、人並み以上にはあると言えるだろう。……本当に何も、思い出せないか? それ程の知識があるのなら、本を読んでいたりした記憶の一つも、あるだろう」


 本。本か。ふと思うその瞬間に、脳裏に火花が弾けるが如く、ちらと浮かんでは消えゆく影があった。慌ててその端っこを摘まみあげる。


「……! 待ってくれ、何か、今――」


『おう、■■■■■■■。これも読め、これも。面白いぞお』


 そう語りながら、立派な髭を蓄えた老人が、にこにこしながら大量の本をどかどかと積み上げていく光景。曖昧で朧気だが、確かにそれは、自らに纏わるものであるという感覚はしている。恐らく、俺の記憶なのだろう。

 それについて深く意識する内に、段々と、切れ切れではあるが、エピソードが浮かび上がってきた。

 ……奇妙な感覚だ。真っ白な紙に一部だけ、とても精緻な風景画が切り張りされているようなもどかしさがある。


「ああ。何だ、見たことあるような爺さんが滅茶苦茶な量の本を置いていくんだ。それを一つ一つ読んでいった、気がする。

 こんなに読める訳無いだろ、なんて内心思っていたけど、何だかんだで一月かからず読み切った……筈だった気がする」


 奥歯に物が挟まり過ぎている俺の言葉を聞いた黒衣の者が、顎に手を当ててこちらをじっと眺め、少し考え込み、やがて口を開く。


「ふむ。それは、相当良い家だったのだろうな。人界では本は高級品だ……いや、今でもそうかは分からないか。人の世は目まぐるしく移ろうものだ。

 ――――取りあえず、君のエピソード記憶が健在……というと語弊があるな。ともかく、完全に喪われてしまった訳では無いようで、何よりだ。その分なら、刺激を得ていく内に蘇る……かもしれないし、やっぱり曖昧なままかもしれない」


「大分ふわふわしているが」


「仕方が無いだろう、君のような者が居た前例が無いんだから。

 さて、それでは……次は、これを試してみようか」


 黒衣の者はそう言うと暗い閃光を指先に集め、薙ぐようにして空を割く。彼は、俄かに現れた朧げに黒が渦巻く断裂の中に腕を突っ込むと、一振りの剣を取り出し、俺へと手渡す。


「剣、か?」


「ああ。試しに振るってみると良い。肉体の動作確認もしておかなければいけないからな。

 その剣は、特別なものという訳では無いが、それなりに上等な品ではある。

 君のような騎士が握るには少々物足りないかもしれないが、最低限の役割は果たしてくれる筈だ。戦士には、武器が必要だろう? ……いや、戦士とは武器など無くても戦い続けるものだったか?

 とにかくだ。本来君が持つべき剣も有りはするのだが、今はまだ、渡すことは出来ない。それで我慢してくれ」


 本来持つべき剣……そう言われて、名を得る時に垣間見た騎士の得物を、思い出す。漠然と、彼が指しているのはきっと、あの剣の事なのだろうなと直感する。

 手渡された剣はあの剣と比べるとやや細身であり、頑強さという点では確かに劣りそうではあるが、その分軽く振りやすく、鋭い刃を持っていた。

 躰を思いのままに動かすと、新たに用意されたという俺の肉体には覚えなど有る訳も無かろうに、確かな経験に基づいた業が表れる。魂にでも、染みついているというのだろうか?


「……ふむ、良い剣じゃないか。気に入ったよ」


「ああ、それなら良かった。肉体も、問題がなさそうで何よりだ。

 後は記憶だけ、か。まあ、それは気長に向き合うといい。焦ったところで事態が進展することも無い」


「そうだな。

 ……しかし、記憶が蘇るとして……それはそれで、不安もあるな。

 もし自分がとんでもない罪人だったら、どうするべきだと思う?」


 ふと思ったことを訊ねると、彼は一瞬だけ顔の部分の揺らめきを一度大きく震わせた後、ぴたりと身動きを止めた。

 ……何か変なことでも言ってしまっただろうか。


「……まあ、余り深くは気にするな。そも、そうとは限らんだろう。たとえ君が単なるろくでなしだったのであれば、あの方も君を救いはしないだろうしな、多分。

 さて、そろそろ本題に入りたいのだが、構わないかな?」


「本題、か。俺をこうして蘇らせたのも、何かさせたい事があって、という訳か?」


「ふむ。君は察しが良いな。私は、君に助けを求めたいのだ。

 ――――我が名はトリクナム。力を、貸して欲しい。我が主の為に」 


 その顔に宇宙の炎を宿した黒衣の者……トリクナムが、滔々と語りだす。

 曰く、己が光輪の神の従者、クァルカであったこと。

 名神ファルサファリスが裏切り、主から大切なものを奪い去ったこと。

 混沌の狭間から舞い戻るも、復讐叶わず再び追放され、現在へと至っていること。


 ……それはもう、大変に驚いた。

 最初の方こそ、そうか、なるほどな、等と軽く相槌を打つだけで済んでいたが、段々と聴いた分だけ記憶というか、知識に由来する感覚が蘇って来てからは、もうそれどころでは無い。何せ神話でしか聞かないような単語がぽんぽんと飛び出してくるのだ。

 しかも彼が語る内容は、俺が認識している歴史と全然違う。

 トリクナムと呼ばれている神は、名神の軍勢と共に、神の都へと乗り込んできた邪神とかいう存在と戦った筈ではなかったか? どう聞いてもトリクナムが乗り込んでいる側だ。だが、言動や様子から、嘘の気配は感じられない。

 ……歴史が勝者によって作られるのは、人の世でも神の世でも変わらないのだろうか?


「――――私は。我が主に、また目覚めて欲しい。以前のように、あの方に多くの神々や人の世を眺め、笑っていて欲しいのだ。

 我が主に、あのような背信に遭い死んでしまったかのように眠り続けなければならぬ道理など、有りはしない筈だ。

 頼む。私に、力を貸してくれ……!」


 怒りが、嘆きが、痛いほどに伝わってくる。

 それは余りに真摯な忠節であり、また、善き者が理不尽に奪われる事への、遣る方なき憤懣であった。

 トリクナムの面から窺い知ることは出来ないが、そのよく分からない揺らめきの下では、きっと涙が零れているのだろう。ならば答えは一つだ。


「分かった。トリクナム、お前の意志は確かに俺へと届いたぞ。

 その忠義も、善く在る者への祈りも皆きっと、世界に在るべきものだ。

 ――――だから、俺がお前の味方になってやる。実際、恩も有ることだしな。

 それで、何をすればいいんだ? 相手はその……神話に名高きファルサファリス神なのだろう。

 ……一応聞くが、俺に出来る事なんてあるのか、本当に?」


 正直に言って、何か出来る気は全くしない。

 俺が元々知っていたものだけでも、世界の内で名を持つ全ての運命を司る、世界を管理する内でも最も影響の大きい一柱、ということなのだ。それだけでも人の身で対峙するには大きすぎる存在なのは明白だし、その上先ほど聞いたトリクナムの説明によれば、柱の六神の中でも一際存在感を放つ、実質的な世界の統領とさえ呼ぶ者も居た強き神だというのだから、まあとんでもない話だ。

 人間に……今の俺は元人間なのか? まあいい、俺にどうこう出来るとは思えない。


「――――ああ。まずは、君に感謝を述べよう。正直に言って、断られるんじゃないかと気が気でなかったよ。

 とにかく君には、人界へと向かって欲しいんだ。何もいきなり、ファルサファリスの下へと乗り込んで殺して来い、などとは言わないさ」


 その言葉で、気が付いた。というより、まあそうだろうとは思っていたのだが。

 こんな殺風景な、見渡す限り灰が積もった荒野など、人の世に有るはずも無い。いや、俺の見識が狭いだけかもしれないが。……聞いてみるか。


「人界……そういえば、ここは、どこなんだ? 話に伝え聞く、天上の神の都とは言い難い風景だが」


「ああ。何度も言っているが、君を掬い上げ、保護していた者が居る。その方の坐所だ」


 坐所。坐所と言ったのか。神の手によって、俺たちの元々いる大きな世界とは些か異なる時空に創られる、力の強き神々ならばひとつは持っているというものであり、大きな屋敷で例えられるあれだな。

 俺たち人間や、力の弱い神々はそれぞれの部屋に割り当てられているが、そもそも彼らは別荘を持っているとか言われる、あれだ。


「そうか。

 ……そうか。俺は、神の地に居たのか。

 その神は、ここには居ないと言っていた者のことか? 何か、あったのか?」


「……済まない。余計な事は言うなと言いつけられている。まあ、何れ分かるだろう、多分。

 それよりだ、話を進めよう。君には、隠されている或る町を探して欲しい。どこに在るかは、分からない。名をモルファナ。

 今の私は、どうしてもそこへ向かうための足掛かりが必要なのだ。

 そして本当に申し訳ないのだが、具体的な手掛かりは全く無い」


「無茶言うなよ!」


「本当に済まん! やってくれ……!」


 広い広い人の世の中で、ただ一つの、それも隠された町を探せなどとは、とんだ難題を吹っかけてくるものだ。

 ええい、そんなに申し訳無さそうにしても簡単にはならないんだぞ。畜生、安請け合いも考え物だ。


「…………せめて、そこが何であるかは、聞かせてくれ」


「無論だ、順を追って説明しよう。

 実は私は、人でも神でも無い。中途半端な生まれでな。神々の様に、明確な使命や根源と共に発生した訳でも、人の様に連綿と続く歴史の中に生まれ落ちた訳でもない。……いや、両親が居るのだから、神よりは人に近いだろうか。

 私は、或る古き神と、人との間に産まれたのだ。私の母である神は、私の特異な境遇が人の世で迫害を産むのを恐れ、父の一族全てと共に誰も居ないところへ往き、そこで隠れ住んだ。問題が起きぬよう丁寧に、外界から隔絶させた上でな。

 そこは時の流れさえも干渉出来ぬ秘境となり、今尚、私の帰るべき場所として存在している筈なのだ」


「別に、お前が行けばいいんじゃあないのか?」


「出来たら、やっているさ。その地と私は、私の名を持って結びついていたんだ。

 そして私の元々の名は、ファルサファリスによって禁じられた。それが為に、モルファナへの道を開く事が、出来なくなったんだ。

 鍵が無ければ、錠を開けられないのと同じことだ。無理に抜け穴を創ろうとして、感知されればただでは済むまい」


「……理由は分かった。だが、そこで俺に何をしろというんだ?」


「簡単な事だ。君はたった一つのものを、そこへ持ち込むだけでいい」


 そういうと、トリクナムは虚空より、人の頭ほどもある謎の立方体を取り出した。

 黒く空気を揺らめかせ、僅かな波紋を放ち浮かんでいるその正十二面体へ向け、トリクナムは人差し指と親指で抓むような素振りを見せ、力を籠める。

 すると、実際に触れても居ないのにその正十二面体は見る間に収縮し、やがて姿さえも変え、ただ静かに佇むだけの小さな四角い箱となった。


「それは?」


「これには、"私"が入っている。……私の一部が物理的に入っているという訳では無いぞ。中にあるのは、小さな、"私という概念"の欠片だ。

 今しがた仕掛けた封印を解けばその概念が再び成立し、私はそこにも居る、ということになる。そうすれば、其処への転移も可能になる筈だ」


 ……随分と、曖昧な話になってきたな。


「それが、お前がモルファナに存在している、という事実を作るための細工、と。

 まあ一応は理解出来たが……それは、魔術なのか?」


 トリクナムの名は、人の世に在っては魔術の祖として語られている。

 ならばその技術は、魔術と呼ばれるそれらに他ならないのだろうか。


「魔術……ああ、人の世ではそういう風に呼ばれているらしいな。

 私はよく知らないのだが、何度か覗き見たことはあるぞ」


「成る程。妙に曖昧なのは気になる所だが、とりあえずは置いておこう。

 俺の中には、魔術で何かを転移させるのは難しいという知識が有ったような気がするんだが」


「そうなのか? そう言われても……私には出来るが……」


 ……人の常識を当てはめるのが間違ってるんだろうな、きっと。


「分かった、もう話を戻すとしよう。

 封印とやらも、ファルサファリスに感づかれぬようにするためだな? 

 如何にも、感じ取って下さいと言わんばかりの波紋が出てたもんな、それ」


「理解が早くて助かるよ。使い方は簡単だ。まずは君がモルファナへと辿り着く。

 そして、この針を箱へと刺すだけだ。単純だろう?」


 黒く長く、やや鈍い先端を持つ奇妙な紋様の刻まれた針を創りだし、指で摘まみながらトリクナムが説明する。

 確かに単純ではあるがな、単純では。箱を特定の所に持って行って、針を刺すだけだもんな、ええ?


「そうだな。そのモルファナの場所がどこなのか分かっていれば、この上なく簡単だよ」


「……頑張ってくれ!」


 思わず、溜息をついた。そして頭を振って、気を取り直し、俺は問いかける。


「取りあえず、少しでも情報が欲しいんだが。その、モルファナが何年頃に成立したか、分かるか? というか、今は何年なんだ? 俺は、何時からここに居たんだ……?」


「……済まない。そう言った話は聞かされていないから、君については分からないな。今の年に関しては、そうだな。確かめてみよう。待っていろ――」


 言うが早いかトリクナムは右手に黒い炎を生み、大きく払う。

 炎は大きく広がり、やがて黒き幕となった。薄ぼんやりと、そこに人の世の光景が浮かび上がる――


「これは……ガルラームの王宮か、都合がいい。書類の一つもあるだろう。どれ……」


 トリクナムが手を翳すと、幕へと映っている光景が移動し始め、やがて顔面蒼白のやつれた男性が働いている執務室が映し出された。

 その机に山と積まれた書類に記された年月は――――


「光暦一六六七年……だな。

 それで、モルファナが成立したのは……したのは……光暦以前の時代、なんだ……」


「――――は?

 つまりお前は最低でも一六六七年以上昔に誕生した隠れ里を探して来いと言ってるのか? 一体人の世のどこを当たったら情報が得られるというんだ? 流石に無茶だろう、それは」


「……やってくれ……」


 ちょっと泣きそうになるのやめろよ……。 


「……いいだろう。

 ああ、一度承けたのだ。やってやろうじゃないか。

 放り出すのも、寝覚めが悪い。騎士の底力というものを、見せてやる」


「本当か……!」


 ……トリクナムがうきうきしながら、いつの間にやら用意していた地図を開き、あちこち指を差しながら語りだす。


「よし、そうと決まれば出立だ。最初はどこに向かう? 大陸北端の、グロウキア遺跡にでも向かってみるか?

 あそこも随分と古い時代に滅亡した国家だからな。何か、今に伝わらぬ情報が残っているかもしれん。

 それとも、西方屈指の大国、ガルラームを目指してみるか? あそこは光輪信仰の本拠、人界で、神々に関する情報を集めるなら、最も相応しかろう。……尤も、あの地の坊主たちは排他的だ。余所者がいきなり向かった所で、入れてもらえるかも怪しいか。向かうならば最低限、光輪信仰に纏わる所作を身に着けておいた方がいいだろうな。ああ、もしくは――」


「待て待て、一度に言われても混乱してしまう。

 ……行先、か。それを決める前に、今の俺について、もう少しだけ整理しよう」


 俺は、気になっていたあれこれを、トリクナムに質問する。

 トリクナムは、俺の疑問に何も詰まる事無く、明快に答えてくれた。


 曰く、今の俺の肉体は普通の人間のものとは少し違う作りになっているらしい。

 身体能力等に根本的な違いがある訳では無いが、生命力という一点は他者と比して卓抜しており、恐らく何をされても死なず、というか多分どれほど頑張っても死ねず、致命傷を受けるとも、どの程度時間を要するかは分からないが蘇るだろうとのことだ。ついでに、老いもしないらしい。これで探索にどれほど時間が掛かっても安心という訳だ、感心したよ畜生め。

 それらの異常とも呼べる特徴に関しては、ここに到るまでの経緯と関連が有るらしいが……一度死んだ者は、死ねないとでもいうのだろか? よく分からない。


 ……ところでなんだが、もし仮に敵対的なものに捕らえられるようなことがあった場合、滅びる事が無いというのは、つまり、幾ら過激な拷問を受けても死ねないという訳で……ああ、恐ろしい想像はやめておこう、気が滅入る。


 次に、食事は取らずとも死にはしないらしいが、空腹感は食わねば消えないそうなので、結局摂食は必須なのだろう。

 最後に、睡眠に関しては好きにしていいとのことだ。どういうことだ? なんでこれだけこんなに投げやりなんだ。

 ……とにかく生命の維持に関しては、然して気を遣う必要は無さそうだった。これならば、どこへ行っても取りあえず行動できるだろう。


 それを踏まえて協議した結果、初めに向かうべきところが決まった。

 大陸西部、中央寄り。フォストリク国領やや南部にある商業都市、ハルマーがその目的地である。

 取りあえず人の多いところに行き、その社会と生活にある程度馴染んでから情報収集をすれば良かろうという訳だ。


 そして。これは、渡りに船でもある事なのだが……トリクナムが下調べしたところによれば、現在、人の世の中ではとんでもない事が流行しているようだった。

 なんでも今の人の世では、彼の主たるナハーラームが厳重に封じるように命じていた筈の、古き時代、真なる神が宇宙を創造するのに使ったエネルギーの塊が見つかるようになっているらしいのだ。それだけでも大変な事なのだろうが、その上それを捜し当て、国へと売りつける行いが、商売として成り立っているらしい。

 人々の多くが、遺跡だとかまだ見ぬ秘境を求め世界中を彷徨って、それを求めているのだという。


 ……旅をするならば、備えが要るものだ。特に、未だ人の手及ばぬ、秘された地を往くのならば、尚更に。

 俺には力がある。恐らくだが、元とはいえ騎士だったのだ。人々の中にあって、武力は決して低くないだろう。上等な剣に全身を包む灰銀の甲冑、目を引く事には困るまい。とりあえず路銀を稼ぐことは、難しくなさそうだと言える。


「――それで、トリクナム。いい加減、多少は落ち着いたか?」


 思考を一時中断し、そこらへんで膝を抱え、横になって嘆いていたトリクナムへと声を掛ける。


「ああ……差し詰め、発掘の時代とでも語るべきか、これは……」


 トリクナムは聞こえているのかいないのか、身を横たえたまま、力なくそう言葉を漏らした。……事情を聞いた限りでは、仕方のない事なのだろう。主の慈悲に満ちた気遣いが、水泡に帰したようなものなのだから。


 神叡結晶。

 かつて、神々の間でそう呼ばれていた、今では人々が競って探し求めるその欠片は……この宇宙の全て、古き神々さえも生んだ真なる神、白きヒュラネルがその創造を為すために利用していた"可能性を齎す力"の結晶であり、平たく言えば、何にでも成り得る力なのだ。それは魔術にも似ているが、比較にもならないほど、神叡結晶の方が強いとトリクナムは語る。


 世界を治めていたナハーラームはそれが争いを導く事を知り、せめて人々がもう少し成熟するまでは、と封印を施していたが、彼女が斃れたことが切っ掛けとなったのか、それが顕れ出したのだ、という話である。そこからは、既に聞いた通り。人々はそれを求め、何と逞しいことか、商売にまでしているのだ。


「ああ、ナハーラーム様……どえらい事ですこれは……」


 項垂れている。

 何でもナハーラームが降り立って少し経ち、人々の暮らしに余裕が生まれてきたころに大きな事件が有ったらしく、ナハーラームは止む無く封をしたのだという。

 ……トリクナムは、虚ろに嘆き続けることを、まだ当分やめられそうにないようだった。


「と、取りあえず、俺はそろそろ行こうと思う。最後に聞いておきたいんだが。

 ……そもそも、どうやって出ればいい? ここには、戻って来られるのか?」


「ああ、行きに関しては私が道を作ろう。君には、あちらの世界との縁が有る。難しくはないさ。

 帰りに関しても問題ないだろう、何せ君はこの世界で再誕したのだから。この世界の主に祈れば、きっと招いて貰えるさ」


 そう言いながらトリクナムは、何やらあらぬ方向に急に目をやり、軽く頷いている。猫か? 何が見えているんだろう。


 ……漸く立ち上がったトリクナムが、古めかしい言葉で句を唱える。暗い閃光が迸り、世界に紋が刻み込まれ、それはやがて扉の形を成してゆく。

 随分と瀟洒な扉だ。細やかに全体を彩る装飾は飽くまで品よく嫌味なく、余白との釣り合いが美しい。趣味が良いな。


「さあ、心の準備は出来ているか? これから、君の道が始まるのだ。なんだか、私もわくわくしてきたよ」


「準備など必要ないさ。何処にだって、行ってやる。

 ……いや、待てよ。出立の前は、神に祈るものだった気がするな。祈りの句は……ええと、確か……駄目だ、よく思い出せん。まあいいか、適当でも。

 ――我らの偉大なる神、慈悲深き……名前が出てこないな。慈悲深き我らが神よ。どうかそこに在り、お見守りください。貴方の名の下に、剣を以て道を拓いて参ります。必ずや慈悲と共に、迷えるものを導いて、貴方の名を高め、朽ちぬ栄光を捧げます。どうか、我らを赦し給え――」


 こんなものか。高める神の名が分からない問題が発生しているが、それはそれとして大体こんな感じで合っていた筈だ。

 ……うん、よく馴染む。祈り、中々いいな。


「じゃあ、行ってくる」


「ああ、行って来い、灰銀の騎士、我らの希望よ。

 私たちはここで見ているから、安心して行くがいい」


「……見ていられるというのも、何だか緊張するけどな」


 背に掛けられる言葉に苦笑しながら扉へと手を掛ける、

 意を決しそれを開くと、黒き火花が渦を為し、その奥に次元の歪みのようなものが姿を現した。

 毎度思っていたが、なんでこいつの術は一々こう、ちょっと禍々しいんだ? こいつ自身は別に邪悪という感じはしないのに。


 俺は迷わず歩を進める。周囲の空間に歪みを感じる。ぐるぐると世界が渦を巻き、緩やかに波打ちながら回転している。俺は歪んだ道の中を真っ直ぐとただ進み、やがて周囲から全ての光が消え、真っ黒な闇に包まれても、ただ進んだ。


 そして、ある所に到達した瞬間に、自分が、さっきまで居た所とは別の世界に立っていることに気が付いたのだ。


 見知らぬ平原の只中に、ただ立っていた。小鳥が、数羽で群れて空を飛んでいる。足下を見れば草が風にそよいでおり、その先端には何やら虫がたかっていて……何のことは無い。つまり、本来俺も知っている筈の、何の変哲もない全く普通の世界だ。


「……全部夢だった、なんていう訳じゃないんだよな?」


 不安になって、腰に据え付けた荷物袋を漁ると、そこには確かに黒き小箱と奇妙な針が、入っていた。


 ――――見果てぬ旅が、始まる。

 モルファナなどという町は、本当に見つかるのか。俺は本当に人の世の中で生存していけるのか。かつての記憶とやらは、戻るのか。

 それら全ての疑問には答えなど無く、今は、ただこう考えるのみだ。分からないけど、とにかくこの道を進み続けてやる、と。


 俺はまだ名も思い出せぬ己が神に、そう固く誓うのだった――――

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積もりし灰に血を注ぎ 袰須 @phoros

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