第八話 横紙破るは特権と、悪戯っぽく神は言い
どうか、力をお貸しください――
トリクナムが、絞り出すように紡いだその言葉は、この上なく真剣な助けを求める祈りの句となり、世界に響いた。
ザリエラは普段と変わらぬ調子で薄く笑いを浮かべ、それに答える。
「いいよ……と言いたい所だけど、今は少し、難しい。
理由は分かるだろう? 見たままさ、こいつから手が離せなくってね。
とにかく、これの説明をしなけりゃ何も始まらないんだけど――まあいいや、嫌でも聞いてけよ。
えーと、どこから話をしようかな……とりあえず、何故僕が表舞台から去ったのか、という所かな」
目を伏せて、古き神は述懐する。
もう随分と遠くなった記憶の奥底、折り重なる綾絹を一枚一枚手に取るように、ゆっくりと、ひとつひとつ丁寧に――――
「そうだね、ずいぶん永いこと、神や人の祈りを聴いて来た。
それこそ僕は、他の六神や君なんかが生まれるよりもずっとずっと古くから居たんだぜ? 願うものが人であろうと、神であろうと、たとえ物であろうとも関係無く、ただ意志に応えるものが、この世界には必要だったからね。全体を見ても、生まれたのは相当早い方だったと断言してもいいだろう。
僕は、ずっと君たちを見てきた。やがて神々が自らの力と在り方への自覚を持ち始め、何かに祈る必要がなくなってからは、神秘の力を持たぬ人間たちを中心に見る事になった。
彼らは弱く、だが逞しく、苦痛と困難の上に数え切れぬ死を積み重ね、その上に、なお輝ける自らの歴史を積み重ねていった。
神々の多くは然程興味を示していなかったが、彼らも実に惜しい事をしたものだ。あれは、美しいものだったよ。間違いなくね」
本人以外の誰も知らぬであろう、古神の由が柔らかく語られる。
どこまでも声音はやさしく、目を細めた穏やかな微笑みを浮かべ、愛し子を抱きしめるかのように両の手で白き嵐を擁き、横坐る。
その姿はまるで、人の世に語られる永遠の聖母のようであった。
「――――さて。或るところに、人を愛した神がいた。
神は人々の痛切な祈りに応え加護を授け、それは苦難を切り拓く刃となった。
人々は歓喜に打ち震え、涙を流しながら感謝と祈りを捧げたのさ。
そして、神が人を愛したように、人が神を愛したら、彼らは何をしてくれると思う?
…………彼らはね、僕が彼らに力をあげたように、僕に何かを返したかったんだよ。僕は意志に応える神だからね。彼らがどういう気持ちだったのかは、手に取る様に分かってしまうのさ。
誰かに何かをあげるとき、それが返礼であるとき、それが、大きな価値を持っていなければならないとき。
ああ――――生命とは、まず、生きるものなんだ。当たり前だろう? そう、その存在の根幹に、生きて、在るということがあるんだよ。
彼らはね。自らに……生物にとって、最も大切だと思えるものを、僕に捧げようとしてくれたんだ。純粋な、祈りと共に……」
声が、震える。ザリエラの言葉が何を示しているのか、トリクナムは考えるまでもなく、理解せざるを得なかった。
命とは余りに儚く、故に何よりも強く瞬く。その輝きが今そこに在るのだという奇跡――即ち、生ける人の命そのものが、神へと捧げられていたのだと。意志と祈りに応えるという在り方が、人々の真摯な愛と祈りに基づいたそれを拒むことも、窘めることもさせずにおったのだと。
「やがて、僕は意志と戦いの神から死の神となり、そしてある時から、贄が当たり前のように捧げられることになった。
僕は、この世界に生まれ、どうしようもなく滅びへと向かう中で、それに抗って生きていく者たちの意志に応えようと生まれたんだぜ?
それが彼らは、気が付けば僕の為に、そんなことしなくても別に加護だってなんだってくれてやるのに! ただ良かれと思って、まだ生き続けられるものを終わらせているんだ。それも、自らの同胞の命をだ。……気が狂うと、思った。
僕は、それまでのように人々に、直に加護を与えはしなくなった。というか、出来なくなった。僕はこうやって自分の世界に引き籠って、彼らに神託を降すこともせず、どうにかこうにか、かつて組み上げた、人々の祈りに呼応して加護を齎す自動の術に頼り切って、なんとか神としての面目を保っていたという訳だ。
……さあ、どうだい? これが、お前が助けを求めた古神の姿だ。情けなくてがっかりしたか?」
「――――そんなことは有りません。有り得ません。私などが、何を言えるということも無いでしょうが……ああ。
私はただ、苦悩に満ちようとも、それでも人々を見続けた貴女の誇りに敬意を表するまでです。私は、やはり、貴女に力を貸して欲しいと思います」
トリクナムの言葉に、半ば感心、半ばは呆れたように、ザリエラはくすりと笑い、目を閉じる――――そして再び開く頃には身に纏う空気をすっかり一変させていた。
諧謔に満ちた鷹揚も静謐に満ちた慈愛も鳴りを潜め、今そこに在るのは間違いなく、尽きぬ誇りと威厳に満ちる、屈指の古神であった。
「……そうか。ならば、お前の意志に、こちらも敬意を以て答えよう。隠し立ては無しだ。心して聞くがいい、三なる者よ。これは、知っては退けぬことだ。
今、世界には――この、僕の坐所たる世界では無く、お前の元居た世界には――悍ましき陰謀が潜んでいる。神々を穢し歪め、延いては人界さえも破滅させんとする、悪意に満ちた企みが。
正直に言おう。僕はそれに穢されたために、半ば狂っていた。だから、本当に駄目になる前にその干渉を断ちたかったというのが、ここに隠れていた理由の最たるものだ」
「……何ですって?」
トリクナムは己が耳を疑い、聞きかえす。何かの間違いなのではないかと思わずには居れなかった。
……ザリエラは、しかしその荒唐無稽な話を訂正することも無く、言葉を続ける。
「言ったとおりだ。その原因が人か神か、或いは真神に類する高次の何かかは分からない。
ただ、悪意を持ち、畏れを知らず神にさえ干渉せんとする……しかも、人々をその目的のために扇動さえする存在が、跳梁跋扈していることは間違いない。邪な意志の働きを感じるのだ。
これは、我が権能に誓って断じよう。何者かが破滅を望み、その為に全てを利用せんとしているのだと」
「有り得るのか、そんな事が……!?
いえ、失礼しました。実際に起きていることを、その様に。
……疑う訳では無いのですが……」
「良い。気にするな、僕とて未だに惑っているのだから。
兎に角だ、この、白き嵐と成り果てた戦士は、その陰謀に巻き込まれたのだ。己が同胞たちと共に」
「何があったのですか?」
「ヴォルジュのことは知っているな?」
「……かつて人界に在った、あの青銅と煤の大都市ですか。確か……八五二年に滅亡した筈ですが、何が起きたのかは知りません」
「ああ。それだけ知っていれば、とりあえず十分だ。僕も、その内情について詳しくは分からない。
はっきりとしていることは、その時既に、或る秘儀が生まれていたということだ」
「秘儀……とは?」
「起きたことを説明しよう。
僕の世界に、急に人が現れた。お前がそうしたように、世界の境界を裂くことも無く。
前触れは、一切無かった。その者は瞬くよりも速く出でて、僕に向けて深々と一礼し、手にしたもので己が胸を貫いた。
僕が呆気に取られていると、飛び散った血が空間の歪みとなり、それはやがて渦を為し、気づけばその内より多くの人が、現れたのだ。
……それらは全て、ヴォルジュの住民だったのだろう。彼らは悉く正気を失っており確認することは儘ならなかったが、少なくとも時期は完全に一致しているし、八五二年に一度に人が居なくなった事件は、他には無かったはずだからな。
彼らは言葉を持つことなく、ただ全てが僕に向けて一度頭を下げて、殺し合いを始めた。
異様な光景だった。制止の言葉も聞かず、手を掴んで無理に止めれば、抑えられた手を手首ごと千切り捨てて、同胞へと刃を振りかざす。
戦士ならぬ女でさえも、年端もいかない幼子さえも、みな全て狂い、血に沈んだのだ。ただ一晩で……。
生存者は居なかった。最後まで立ち続けた一人の子供も、血に塗れ歪んだ剣で自らの眼球を刺し貫いて死んだからだ。
最後の一人の死に際し、尋常では起こり得ぬエネルギーの放出が生じた。その濃密が過ぎる死の力の内に僕が見たものは、彼らの命を使って邪な死を練り上げ、戦いと勝利という僕が逃れ得ぬ概念を媒体に、穢れと毒を流し込む秘密だった。
彼らは、悍ましき儀式へと、ただ利用されたのだ。信仰心を焚きつけられ、僕への感謝と喜びを示すという名目の下、悪意持つ何者かの野心のために、その命を薪として! 赦せるものか、赦せるものか……!
……やがて、信仰は贄を伴うものとなり、僕は神としての在り方、その根本からの歪みを得て、それからは、既に語った通りだ。こうやって自分の世界の中で、穢れの責苦に悶えながら引き籠っていたという訳だ――――」
ザリエラは、言い終えると静かに目を閉じ、深く、深く息を吐く。
その様には心よりの怒りと、己の在り方への自嘲が滲んでいた。
「そのような、有るまじき事が……いや、ならば。その、手中に在る戦士は。
それに、繋がりが有るとするのならば、その者は、まさか――――」
トリクナムの形にならなかった問いに、ザリエラは怒りを抑えた深刻な面持ちで、短く息を吐き出して、言葉を紡ぐ。
「ああ、そうだ。ヴォルジュを呑んで以来、ずっと発生していなかった冒涜の渦が、この者を呑み、ここへと送り込んだのだ。
我が愛し子ら、ラクァルの征剣騎士団の同胞と共にな。彼らの、僕への信仰をよすがとして、無理やりこの世界への道を開いたのだ」
「…………ヴォルジュの再演が、行われたのですか?」
トリクナムがどうにか、そう絞り出すと、ザリエラは一度だけ頷いた。
「そうだ。夥しい血が流れ、屍が折り重なった。ただ一つ、違ったのは。
この者は、何故か正気を失わなかった」
「何と。多くの人々を惑わせ、剰え貴方さえ穢さんとするほどの呪いを撥ねのけたと? 一体何故、そのような事が……」
「分からない。
何か理由が有るとしたら……この者は、ある物を持っていた、という事ぐらいか。
"透き通った石"の付いた首飾り。お前には、これだけ言えば、分かるだろう?」
耳にした瞬間に、トリクナムは打ち震える。
その言葉を聞いて連想できる物は、一つだけだった。
「ま、さか……神叡結晶が!? なぜ、人の世にそんな物が!」
「……ひとまず、話を戻すぞ。
この者は、人には通常有り得ざる、或る異能を目覚めさせていた。それは代償を引き換えて力を得るという、妙に律儀な力だった。血で血を洗う凄惨な地獄の中で、強き生への希求によって花開くように顕れたそれは、お前が察するように、世界を去った真なる神が遺していった叡智が齎した、原初の力に依る奇跡だったのだろう。
やがて彼は、流れたる血を力へ転じ、友の血河を刃と成して、あらゆる敵を……いや、同胞を斬り伏せた。
動く者が彼だけになっても、彼は、やはり正気だった。少なくとも、他者からの干渉を受けて、自裁することはしなかった。
僕は気が付けば、彼の前に降り立っていた。それが、穢れの所為でそれを為すように仕向けられていたのか、僕自身がこの稀なる者に触れたかったのかは、もう分からない。――うん、まあどっちでもいいけどね。別に?
ああちょっと待って、何か緩んじゃったな……ええと、それで、うん、今もう一回威厳を出していくからちょっと待って――」
「別に私は気にしないので、早く続きを」
トリクナムが無感情に先を促すと、ザリエラは少々不服そうにしながらも言葉を続ける。
「……じゃあいいか、別に。あんまり堅苦しいのもらしくないし。
兎に角、それはするべきことでは無かったんだよね、恐らく。僕が降り立って幾許もしない内に、呪いが巻き起こったのさ。
とんでもない光景だった。死んだはずの騎士達の骸がみな起き上がって、嗤い出すんだ。何百もの、死の尊厳を穢してね」
「なんと。混沌の世界ですら、そこまでのものは有りませんでしたね、流石に」
「まあエグゾースに悪意は無いだろうから、比べても仕方ないだろう。ナンセンスというものさ。
それで、僕はその哄笑に冒され、戦争の狂熱に溺れ彼とやり合ったという訳だ」
「……その者も気の毒に。陰惨な戦いを切り抜けた先で、選りにも選って貴女と戦うなど。
試練と忍耐を愛する底神アギガでさえ眉を顰めるでしょう、それはやり過ぎだと」
「おお、懐かしいなあ、あの苦行好きか。あいつ、まだ兄弟喧嘩してるのかな……話が逸れたじゃないか。
ええと、それで。まあ、こいつも物凄く頑張ったんだけどね。まあ流石にね、そこは戦神だからね? 僕には勝てなかったのさ」
「まさか!?
戦いを通じて、貴女をして物凄く頑張った、などと評させるとは……!
一体何をしたのです、その者は」
「君、一体僕を何だと思っているんだい……?
まあいいや。結構凄かったんだよ、本当に。まず、僕の剣を普通に弾いてくるし。
僕が持ってるのは、断ち切るという概念が具現化した神剣だぜ? こいつの、代償の力で生んだ刃は、そんなものとさえ渡り合うんだ。
びっくりするだろ。僕はした。お前もしろ」
「なんと。あれを抜いたのですか、人間相手に。本当に、正気では無かったのですね……。
しかしよもや、貴女の紅刃を弾くとは。ゴルレイが知れば、何としてでも己が騎士団に引き入れようと手を回すでしょう」
「ゴルレイか……あいつはあんまり好きじゃあないけど、あいつの黄金郷は好きだったんだよなあ、僕。
天に浮かぶ壮麗な白銀の城が、綾なす光で黄金の如く煌めいて――――
なんだか懐かしい名前ばかり出すじゃあないか。君、どうしたんだい今日は」
「……済みません、話の腰を折ってしまい。何分、こちらの世界に戻ってくるのも、誰かと話すのも久方ぶりなもので。
郷愁でしょうか? なんだか、色々なものをふと思い出すのです」
「ふふ……ならば、仕方あるまいよ。さ、続きを話そうじゃないか。
そんなこんなでこいつと僕は烈しく切り結んだ。剣同士がぶつかる度に、こいつの灰の刃は砕けた。
無論、ただの剣じゃあ僕とは戦えないから、こいつは嗤い続ける同胞の骸を斬り、その血を持って刃を成し、なおも戦ったのさ」
「それは、また。凄まじいものです。人の子が、そこまで……その者は、何という名なのですか? それほどの者を、何時までもその者、などと言い続けるのは気が引けます」
「分からない……いや待つんだトリクナム、そんな顔をするんじゃない。
顔が見えなくてもどんな感情で、どんな表情をしているかは分かるんだからな。
無論、征剣騎士の名は一人残らず知ってるさ、顔だって分かる。当たり前だろ?
だが、特別な事情というものがあるんだよ。今となってはこいつの名は、全ての名を管理するファルサファリスすら分からないだろう、それ程の話なんだ。
もし……もし、本当に奇跡的にもこいつの名前を覚えていられるとしたら、余程こいつと親しく、深い付き合いをしていた者だけだろうな。何が有っても、こいつのことを忘れたくないと願えるような」
「……まあ、それが何故かは、続きを聞けば分かるのでしょうから聞きませんが。
貴女がその者の名を頑なに口にしない理由は、とりあえず分かりました」
「気づいてたか。そう、呼べないんだ、こいつの名前。
まあ、それでだ。僕たちは、こいつの刃が砕け灰塵となり、雪の如く舞い散る中で戦い続けた。
必然的に呪われた遺体の数はどんどん減っていく訳だよ。少しずつ、邪な冒涜の影響は減じていったんだが……何より僕自身が穢されていたし、儀式の核はそれでは無かったようだから、僕は止まれなかったんだよ。戦いは、終わらなかった。
やがて渡り合う中で、僕が投げた石の破片が鎧を貫通し突き刺さったが、こいつは一切怯まず雄叫びを上げて、突っ込んできたのさ」
「猛々しいですね。私には真似できそうも有りません」
「君はそういうタイプではないからなあ。
それで、だ。僕はその刃を身を捩って避けて、剣で迎え撃ったのさ」
暫し、場を沈黙が覆う。
トリクナムがザリエラの顔をじっと見ると、その古神は神妙な顔つきになって目を背けた。
「……迎え撃ったんですか?」
「やっちゃったんだよね」
「……殺したんですか?」
「あれは致命傷だっただろうなー……正気じゃなかったとはいえ、酷い事をした。
……その後の、彼の献身が無ければ、きっと僕は、もう立ち直れず、永遠に血に狂ったままだっただろう」
「何が、貴女を救ったのですか?」
「ああ。彼はね――最後まで残っていたもの、即ち自分自身を"代償"の力を使って引き換えたんだ。全ての呪いを跳ねのけようとして、人としての情報どころか、何と魂とその行く先をも、ぜーんぶ纏めて、力に換えた。今後の人生も、彼の子孫が為し得たかもしれない可能性も含めて、輪廻の先に無限と広がる全ての道行きの、何もかもをだぜ? ……ああ。名前も、その時に喪われた、って訳だ」
「……それほどの事が、可能だというのですか?
これが、ヒュラネルとエグゾースが遺していった、原初の奇跡……」
「凄いだろ。凄いよな。僕を見ろよ、最早穢れの欠片も無い。……こいつが、何もかも吹っ飛ばしちゃったんだ。
あらゆる呪いを、悪しき干渉を。しかも、それが――いや、これはいいか。さて、とにかくだ。やっと、本題に入れるな?
君は、僕に助力を乞うた。僕はそれを了承しよう。だが、それには一つ、条件が有る」
「条件ですか。私に出来る事ならば、何であろうと構いません、どうか仰ってください」
「無論、遠慮などしないとも。今の君は、何でも出来るって言ってたよな。
――――人間の身体を創ってくれないか」
「……まさか、中に入れるおつもりですか?」
「だって君、こいつはもう魂さえないんだぜ? 輪廻の輪にだって、もう還れっこない。このままでは何時か、ただの力の嵐として散逸するだろう。
……今はこの嵐だけが、こいつの存在を世界に証明している微かなよすがなんだ。これが消えてしまえば、きっと本当に、こいつが居たことを誰もが忘れ去ることになる。恐らく僕だって例外ではない。
――――」
ザリエラはそこまで語って不意に口を噤み……そして、再び言葉を紡ぐ。
「僕は、そんなのは嫌だ。
こいつと、もっと過ごしてみたいんだ。頼むよ」
それは、純真な願いだった。
トリクナムは、この神が、ここまで素直に他者に何かを望む様を見たのは初めてだった。驚きが心を揺らしたが、トリクナムはどうにか平静を取り繕って、ザリエラへと訊ねる。
「た……確かに、不可能ではありませんが……。
しかし、その、どうやってその者を入れるのですか?
聞いた限りでは、個としての情報は全て失われていそうなのですが……」
「まだいける。僕には、まだこいつの意志が見えている。今ならまだ、そこからエッセンスを抽出して、元々の――人の精神の形に出来るはずだ。後はそこから、こいつが元々のこいつとして在ることを望み、全てを忘れてただ消える事を拒んでさえくれるのならば、あとは神として、奇跡を起こす。起こしてみせる」
ザリエラが、真っ直ぐな瞳でトリクナムを見据え、決然と語る。
誇りに満ちていた。意志を庇護する古き神が、己の矜持にかけて、それを成せると言い切ったのだ。
トリクナムの答えは決まった。
「お任せください、古き神よ。
このトリクナム、貴女の望むまま、名も分からぬ一人の騎士の為に、最高の器を創り上げましょう。
半刻も要りません。少々、お待ちください」
*
時が、刻々と過ぎてゆく。ザリエラにとっては、何も出来ず自らの世界に引き籠っているうちにすっかり慣れていた筈なのだが、不思議と今は、一秒一秒がいやに長く感じるのであった。
トリクナムに、集中できないからという理由で遠ざけられたこの神は、それからもうずっと落ち着き無く、そわそわと右へ行ったり左へ行ったり、転がる小石を蹴飛ばしてみたり、ずっと動き回っていた。
勿論、離してしまうことの無いように、両の手にしっかりと白き嵐を擁いたまま。時折じっとそれに目線を落としては、微笑みを零す。
待ちきれない。待ちきれないのだ、彼女は。どれほどぶりだろうか? いや、もしかしたら初めての事だったのかもしれない。
野心も無く、決意も無く、ただ純粋にザリエラ自身を案じ、その為に何もかもを擲たんとする者が現れるのは。
彼女の下へ届く祈りと意志は、生存するための闘争への祈願や、領土的野心を宿すものが大半であり、本当に古い時代、まだ神々が幼く、ザリエラに助けを求めていたような時代でさえ、その強さ故にザリエラ自身は顧みられなかった。
実際彼女は、特にそういったものを求めた経験は無い。何せ、必要も感じていなかった。
だから少し、刺激が強すぎた。
あの時垣間見た感情……狂える血神と対峙し、毅然と立ち向かった騎士が、最後の時に感じていたことが。
彼が、悲しみに俯き、泪を流さんとしていたザリエラの顔を思い出して、彼自身も泣きそうになってしまっていたこと。
ついでにその感情の中にひっそりと紛れさせて、有ろうことか彼は不敬にも、己が信仰する神、その姿に向かって……かわいい、などと考えていたとは! しかも、自身を今にも殺さんとしている者の、熱に浮かされた笑みに向かって!
……尤も、本人さえも、それに気づいてはいなかっただろう。不敬を自ら咎めるように、無意識の奥底にひっそりと仕舞い込むように潜められたそれを、しかしザリエラは意志に纏わる権能故に、垣間見てしまっていたのだ。
「ザリエラ様。こんなに離れた所にまで来ていたのですね」
あれこれと、取りとめのない思考をぐるぐる巡らせているザリエラへと、急に言葉が掛けられる。
ザリエラはびくりと背筋を伸ばし、余裕を取り繕って言葉を返すのだった。
「ああ、もう出来たのかい?」
「はい。恙なく、完成と相成りました。
尤も、何分情報が足りず、大体貴女から聞いたままの背格好を整えたといった程度で、人として彼を識別しうる顔や細かい体つき等は再現できませんでしたが……」
「それについては、まあ多分大丈夫だ。僕の方で、色々と引っ張ってみる。
……ところで今、その器の顔とか、どうなってるんだ? お面みたいになってるのかな」
「とりあえず、そこの部分の情報を空けておいたので、こう……白い靄がかかっているように見えると思います」
「へえー……うん、とりあえず、見せて貰おうかな?」
「はい。では、こちらへ」
トリクナムの導くままに、ザリエラはいそいそと歩き出す。
今のザリエラは少女程度の背丈しかなく、トリクナムは華奢でこそあるものの、それでも身長差は少なからずある。
ザリエラは、トリクナムが一切歩幅を考えないで歩くため、付いて行くのが大変であった。
*
柔らかな灰の上に、手を胸で組んだ人の身体が、静かに横たえられている。
輪郭は薄くぼやけ、その顔は言われた通り、白い靄に覆われ一切判然としない。
「おお……本当に創れるもんだなあ。やるじゃないか、トリクナム。誉めてやるよ。君はすごい」
「はい。我ながらいい仕事が出来たと自負しています。背丈や肩幅、足や胴の長さ等の諸々は完璧だと思います。
顔などに関しては、その……エッセンスでしたか、実際にそれを見てから、それに馴染むように調整してみましょう」
「ああ…………さて、それじゃあここからは僕の領分だな」
言うや否や、ザリエラは白き嵐を中空に浮かべて手を離す。
そして、虚空から一本の剣を取り出した。鍔は無く、柄も無く。鍛えられた無銘の刃は、真っ白く煌いている。
ザリエラは優しげな手つきで嵐の中核へとその剣を差し入れて目を閉じ、空いた片手をそこへと翳す。
光と共に、嵐が揺らいだ。その内側から、色の無い膜のようなものが膨れあがり、やがてそれは螺旋状に集束し、剣へ吸い付き、一つのものとなっていく。それが進行すると同時に、嵐が、ゆるりと広がっていった。
ザリエラの手元から拡散した嵐が、世界中に余さず満ちたころ。ザリエラの持つ剣の輪郭が、砕けて消える。
トリクナムはそれが示すものが何であるか分からず、すわ失敗かと気を揉んでいたが、どうやらそうではないらしく、胸を撫で下ろす。
剣の核心から、半透明の、片方は淡く色とりどりに、片方は穢れ無き白銀に煌く、連なる結晶の二重螺旋が顕れた。
「どうだい? ――――ああ。中々、綺麗なものじゃないか。初めてやったけど、こんなこと本当に出来るもんだなあ」
他人事のように言葉を漏らすその姿に、トリクナムは緊張していた気の遣る瀬に困らざるを得なかった。もうちょっと、こう……などという思いをどうにか頭から振り払い、改めて、ザリエラに問う。
「その結晶が、彼の……ええと、精神なのですか?」
「ああ。後はこれを、そこの器に馴染ませられるかどうかだ。……出来そうか?」
そう言って、ザリエラは螺旋結晶を差し出す。
トリクナムがそれを受け取ると、彼女は名残惜し気に中空で手を幾たびかぱたつかせて、引っ込めた。
「ええ、見た所、問題なさそうです。この感じなら、五分とかかりませんよ」
「ふうん。本当に頼もしくなったもんだ。昔はあんなによく泣いていたのになあ」
「色々な事が有りましたからね、もう随分と」
ザリエラの軽口を、それこそ軽くいなしながらトリクナムは作業を進める。
結晶と器とをよくよく見比べて、手元で暗い火花を瞬かせる。指先が空を切る度に軌跡が現れ、それは式となって器の周囲へ散りばめられていく。
そんな作業の途中で一度、トリクナムが首を傾げた後に十五秒ほど、指共々完全に制止した。然る後に、言葉を漏らす。
「――――ああ、そうかそうか」
「……ちょっと、君。驚かせるのはやめてくれないか」
事も無げに作業を続けるその背へと、ザリエラの苦言が突き刺さった。
「済みません、
……ところで、名前はどうしましょうか」
「名前かあ。正直に言えば元々の名で呼んでやりたい気持ちはあるが、それも難しいんだよなあ……。
それに、態々今それを訊いてくるんだ。君、ファルサファリスの影響を受けず、その活動を関知されない協力者が欲しいんだろう?」
ザリエラの問いに、トリクナムは静かに頷いた。
――――世界に在って。ファルサファリスが承認した名を持つ者は、その影響から逃れることは叶わない。神々でさえも、相当に力が強い存在でない限り、その軛を緩めることさえ難しい。ファルサファリスとは、それ程に強い神なのだ。
だから、今の状況は、トリクナムにとっては正に、奇跡が起きているのに等しいことだった。
何せ、最終的には敵わずとも、確かに神とさえ渡り合った騎士が、戦いの果てにファルサファリスが承認した名を投げ捨てている。
それ程の強さを持ちながら、名神の支配を受けずに居られる存在など、永劫が過ぎ去ろうとも、もう現れることはないだろう。
「――はい。よって、世界や神々の法則から外れている私の力を以て、名づけをしたいのですが……」
「ああ、いいんじゃあないか。でも、折角だ。どんな名前にするかは、僕に決めさせてくれよ。いいだろ?」
「はい、勿論。彼にとっても、私よりその方が良いでしょう。元は、征剣騎士なのでしょう?
目覚めた後、己が神から名を賜った事を知れば彼も驚くでしょう、きっと」
「……ふふ、それは楽しみだ。
そうだなあ、ダグ……ディー……いやなんか違うな……グラウス。
うん、グラウスだ」
「それは中々、良い響きですね。きっと、彼によく馴染むでしょう」
そう言い終えると、トリクナムは指を弾いた。星の軌跡が器を取り囲むように走り、散りばめられた式を結んで円陣を成す。
やがてその縁から炎が沸き起こると紫紺の火花が弾けだし、俄かに器が燐光を発する。
そして、トリクナムは譲り受けた二重螺旋の結晶体をその胸に置き、額に人差し指の背を当てて、小さな声で呪文を呟いた。
……結晶から、霜のようなものが迸り、器の表面をすっかり覆う。瞬き程の後に、それらは全て、器の内へと沈んでいった。
「――よし。これにて、完了ですね。少しすれば、覚醒するはずです」
「もう、何もしなくても大丈夫?
なにか、ぜんまいを巻いたりしなくても動くのかい?」
「…………時計じゃないんですから。
しかし、我ながら、大変な事をしたものだと思わずにはいられませんね。
死者を、その死んだ者として蘇らせるべからず、というのは、確か光暦十二年に発された、我が主の言葉です」
トリクナムは、ある事件の戒めに定められ、今なお世界に厳と敷かれている、ひとつの禁へと思いを馳せる。
「おいおい、厳密にはこいつはあの時死んだ、って訳じゃないんだ。
ただ、それまでの形を失ってエネルギー体になったっていうだけなんだから、まあ、その逆の事が起きたって駄目な事はないだろうさ。
――――それに、仮にそうだったとしても……まあ、いいだろ?
自分で言うのもなんだが、ナハーラームが生まれるよりもっと前からずーっと頑張って来た僕の初めての我儘なんだ。あいつだって、そんなに怒りはしないだろうさ」
そう言ってザリエラはくすくすと、まるで少女のように笑うのであった。
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