第七話 黒衣の者は願いて語り

 時が、流れた。

 どれほど過ぎ去ったのかも、もう誰にも分からない。

 灰が積もった錆色の荒野に、神がじっと横坐っている。両の手に抱えた白き嵐も今やすっかりと吹き荒ぶ威を鎮め、安定してそこに納まっていた。


 ――――もうずっと、唯一人だけが有った領域の空を闇が切り裂いた。断裂より、黒衣の者が顕れる。ボロボロになった金刺繍の黒いローブ、目深に被ったフードの下に、宇宙を宿したように紫紺の星雲が瞬く。

 彼の者こそ、かつて宿敵に敗れた末に、世界を追放された者。魔術の祖と人々に謳われるその名は、トリクナム。

 彼は、古き時代の始まりに世界に降り立ち全てを照らした光輪の神の、その従者であったクァルカの成れの果てであり、彼は今尚、主への忠を変わらず抱いている。

 彼は、たったひとつの願いの為だけに、自らが居た世界へ舞い戻るための足掛かりとして、そこに程近い場所に有りかつ独立性を持った、この錆鉄の荒野へと侵入したのだ。


 驚いたのはトリクナムである。

 神としての気配に覚えが無ければ、気づく事も無かっただろう。

 ずっと以前から姿を隠していた血神ザリエラが、見知らぬ姿で、得体の知れぬ凄まじいエネルギーを抱え、死んでいるかのようにじっとしているのだ。

 トリクナムの記憶の内では、常に薄笑いを浮かべ、人を食ったような態度しかとらなかった屈指の古神が、聖性をさえ湛えた穏やかな清廉と共に。


 トリクナムは暫し硬直した後、これはそのままにした方が良いだろうと判断した。

 訳の分からぬものに手を出すことは賢明ではない。流れるような動作で背を向けて、その場を離れようとした、その時に。


「ああ……誰かと思えば、まさか君、クァルカの小坊主かい? 随分と、姿が変わったようだけど。

 その愉快なくらい堅苦しい意志は、きっと永遠にそのままだろうね」


 玉のような声が、呼び止める。

 或いはザリエラにそのような心算がなくとも、トリクナムは神に言葉を掛けられて、無視できるような育ちをしなかった。

 トリクナムは深く、息を吐いた。それは溜息のような、ややもすれば他者に自身の負担を示すような類のものでは無く、ただ、心を強く持つための準備であった。


「――――お久しぶりです、古き血神よ。このような所に居られたのですね。

 ……あの、そのお姿は?」


 トリクナムは、ザリエラが苦手であった。

 他の神とは趣を異にする、傲慢も虚勢も無い、何なら威厳もよく分からない諧謔的態度への対応が、彼には難しいのだ。


 ザリエラは、古き神である。或いは主たる光輪神ナハーラームと同等か、もしかすれば、それ以上に古い起源を持つかもしれぬほどの。

 古くよりずっと在り、己の原点を抱き続け、神として、世界の中でそれを証明する者。敬うべきなのだ。尊崇の意を表し、十全な礼を持って接するべきなのだ。

 だが、どれほど真面目に振る舞おうと返って来る何だかゆるい彼女の言葉は、何時だってトリクナムを翻弄する。


「ああ、これかい? 何、少しばかり、よい戦士が居てね。その前に降り立つとあっては、美しくなければ、勝利の女神の沽券にかかわるというものさ。

 だからこう、ちょっとそいつの趣味に合わせてね、整えたって訳だ」


 トリクナムは、絶句した。神の多くは通常、自らの姿を絶対的な自己の表れとしており、服飾や装備の変わることは有れど、根本的な部分を容易く変えることは無い。

 況してや、トリクナムが知っていたザリエラの姿は、燃えるような紅色の長髪を持った長身の、どちらかといえばあだやかな美女という風であり、まさかそれがこの様な、少女然とした姿を取っているとは。トリクナムは、そのよい戦士とやらの趣味を勝手に覗いてしまったような気分になり、少し、申し訳なくなった。


「そ……そうだったのですね。

 しかし、随分と永い事、お隠れになっておられたようですが、何かあったのですか?」


 トリクナムは気を取り直してそう問うと、ザリエラは一瞬気まずそうな顔をしたのち、またすぐ飄々とした態度を取り戻す。


「……ああ。それに関しては、あまり気にしなくていい。姿は現さずとも、人々の事は見てやっているしね。

 やることは、やっている。別に君も、深入りしたいとは思わないだろう?」


「――正直に言うならば、まあそうですね」


 やんわりと遠ざける言葉がかけられて、トリクナムはやや考え、素直に頷いた。

 それは、ザリエラにとっては少々意外なものであったようだ。


「おや。そんなに素直な物言いとは、珍しい。

 ふむ……君にそのような変化が有るとは、こいつは思ったよりも随分と、遥かな時が流れていたらしい。

 ……クァルカの小坊主がねえ……」


 その感慨深げな呟きに、トリクナムは困りながらも言葉を返す。


「その、クァルカというのは、今は名乗っていないので……出来ればトリクナムとお呼び下されば」


「ほう? トリクナム……三なる者とは、随分、大きく出たものだ。

 まさか君が、かの造物主たる真神ふたつに並ばんとする野心を持つとはな」


 トリクナムとは、三番目の者という謂いを持つ、古い言葉である。

 ザリエラはその響きを、光輪の主たるナハーラームさえ含む古き神々をも生んだ、真なる神のふたつに続くものだと解釈し、からかうようにそう言った。

 ――――即ち、まさか主の忠実なる従者たるお前が、主を越えた存在であるような物言いをするとはね、と。


「いえ、それは、その、勢いと流れで……」


「……まさか本当に真神ふたつに掛けた名だったとは。今のは冗談のつもりだったんだがね」


「……!! ……まあ、もういいでしょう、この話も。

 ところで、ずっと気になってはいたのですが――」


 絶句。のち、様々な要素に起因する羞恥を覆い隠すように、トリクナムは慌てて話題を変えることを試みた。


「ああ、これかい? これが、件の"よい戦士"だよ」


 問いかけに先んじて、白き嵐に穏やかな目をやったザリエラは、何を気負う素振りも無く、あっけらかんとそう答える。

 トリクナムは再び絶句した。そもそもそれは人ではないのですが。実際には何も口を衝くことはなかったが、それでもザリエラには彼が何を考えているのかは筒抜けであるらしかった。

 トリクナムは、それに思考を巡らせて、ある結論にたどり着く。この古き女神は、意志に纏わる権能を持っているのだ。道理で、思考など見抜かれるわけだ、と。


「……あのなあ、君。

 言っておくが、僕じゃなくても君の言いたいことなんて分かるぞ」


「な、何故……」


「――ところで、これ。気になるかい? 気になるだろうなあ、君はずっと、知りたがりだったものなあ。

 でも、これを知りたいなら、僕の事情から説明しなけりゃいけないなあ。でもあんまり僕に関わりたくもないだろうしなあ?」


 露骨な挑発。それは罠か、先ほどの冷たい対応への単なる意趣返しか。ザリエラはなんとも楽しげに微笑んでいる。

 トリクナムは、その言葉につい、じっと重苦しく黙り込んでしまったが、やがて徐に口を開く。


「ああ……そうですね、これは、またとない機会なのかもしれません。

 ひとつ、お訊ねしたいのですが。貴女はいま、ファルサファリスとの繋がりは無いと考えてもよろしいでしょうか」


 ファルサファリス。名を司る神であり、名を持つ万物の運命を見て、世界の破綻が無きように調整しているという、現在の世界を運営している者らの中でも最も有力な神のひとつであり……トリクナムにとっては、浅からぬ因縁のある相手であった。


「ファルサファリス、か。その名を聞くのも、随分と久方ぶりだよ。何せ、ずっと引き籠っていたものでね。

 あいつ、滅茶苦茶怒ってたんじゃないか? 会合だとか定期的な報告だとか、完全にすっぽかしてたからなあ。

 まあ、そんな感じだ。正直、顔もあんまり思い出せない。結構、髪はフサフサだったかな……」


「フ、フサ……いやまあ確かにそうではありましたが。

 ――では、まず、貴女の事情を聞く前に、私に話をさせてください。あの時、何があったのかを」


 トリクナムは、ザリエラにファルサファリスとの繋がりが無い事を確認し、決意を固め、重く息を吐き出した。そして、静かに語り始める。


 ――――彼が……或いはこの世界が、主を失った日のことを。


 *


「あれは、もうずっと前の話になります。貴女がお隠れになってから、天上、神々の都では、本当に大変な事があったのです。

 貴女もよく知っての通り、私はナハーラーム様に仕え、人々と神を繋ぐ使者の任を担って……いえ、ここは流石に語るまでも無いことでしたね、済みません。

 ともかく、真なる神たるヒュラネルとエグゾースが去りし後、熱と光を喪いゆく世界を再び照らすためにあの方は降臨し、実際にやってのけた。他ならぬ貴女や、降臨に随った他の者たち――柱の六神を初めとする神々の尽力もあり、世界は無事、かつての如く栄えてゆきましたね。

 私は、未来とは、ずっとその様に続いていくものなのだろうと、無邪気に考えていたのです。……我が主が、弑されるその時までは」


 トリクナムの言葉に、ザリエラは目を見開く。

 飄々たる微笑は、ただの一瞬で消え去っていた。


「……何だって? ナハーラームが、死んだというのか?」


「厳密には、死んだという訳では無いと思うのですが……。

 あれは、もう夜も遅くの事でした。その日の私は、人々の世にて執り行われる降臨祭に纏わる調整のため、人々の下へと出向いていたのです。神都へと帰る頃には日はとうに沈み、すっかりと暗くなっていました。

 私は急いで宮殿へと戻りました。我が主は、誰かが見ていなければずっと働き続けてしまいますから、どうせその日もまた、少しの休憩もとらずに神々の報告でも纏めて居られるだろうと思い、駆け足で向かっていました。

 奇妙さに気が付くまでに、大して時間は掛かりませんでした。何せ、仕事部屋にまで、明かりがついていなかったのです。

 御存じだとは思いますが、確かに我が主は、エネルギーの消耗を抑えるために、夜間に宮殿内を照らすことはしていなかったのですが、それでも仕事部屋だけは、一晩中……少なくとも働いている間はずっと明るくしておりましたから、これは只事では無いなと覚りました。

 あの方が私に声を掛けられたわけでもなく、独りでに休憩しているなどあり得ない。絶対に。

 判神フォスティマに散々に説教をされても改めなかったぐらいですから、筋金入りです」 


 「ああ、あの子か。何だか懐かしいな。我らが最高神に二日間ぶっ通しで説教をするんだもんな、たまげたよ」


「ええ。とても、迫力がありましたね。

 ……話を戻します。私は、異常を察知して主を探し、宮殿中を駆け回りました。

 そして、漸くその姿を見つけた時には、手遅れでした。

 その暗い部屋の中に倒れ臥していた我が主は、私が幾ら呼びかけても、どれほど揺すぶっても何の反応も示すことは無く……既に、自我と因果を抜き取られた後だったのです」


「……自我と因果、というと?」


 トリクナムへと、疑問が向けられる。

 ザリエラの表情は、言っている事の意味が理解出来なかったというよりは、理解出来た事が、こんな事で本当に合っているのか、という困惑に揺れているように見えた。


「はい。自我……或いは、自らを認知するための土台、己という人格のようなもの、意識そのものとでもいいますか……。

 そういった存在の根幹と、肉体を結びつける因果が奪われてしまったのです。何とも抽象的な話ですが、詰まるところ今、我が主に健在なのはその肉体だけです」


「……本当に、そんな事が……。

 何があった? それの下手人が、ファルサファリスなのか?」


「はい。奴は、そこに居ました。象徴たる、貫かれた二重螺旋の杖と共に。

 如何なる姦計を弄したかは分かりませんが、奴は、自身が持つ名の権能を濫用し、我が主から、それを奪ったのです。

 名とは自他を分つ境であり、己を定める根幹に程近い概念でありますから、奴にならば、確かに可能であったのでしょう。

 目的が何なのかは、正確には分かりません。奴は、それを語りはしなかった。ただ、左手に結晶のようなものを持っていて、背中を向けたまま、こう言ったのです。


『おや、随分と早いお帰りでしたね、クァルカよ。予定では、帰還は日が昇った後になると伺っていましたが?

 ……御覧なさい、この美しい輝きを。穢れ無き、まことの純白を。流石は光神、成る程、このように曇り無き精神を持っていたからこそ、この方はこんな世界に降り立ち、ずっと、誰かのために在り続けることが出来るのでしょうね。

 ああ、今日は何もかも、予定が狂う日だ。分かりますか、クァルカよ。そこに転がっている我らが光輪の神は、死にませんでした。この様に、己の淵源を抜き取られて尚も、世界を照らし続けるつもりでいるのですよ。考えられますか、このような高潔が?

 まさか、自らの何もかもが奪われるというその瞬間に、己が光の権能を切り離し独立させて、完全に自立したシステムと成すなどと。……私でさえ、手出しが叶わぬほど強固な護りを掛けて。

 まったく、意識も心も無くとも、為すべきを果たさんとするとは。全てが台無しです。私も、見る目が無かった。この女が、まさかこれほどとは』


 ……何も、言葉が出ませんでした。私は、ファルサファリスの背信に気づけなかった。

 尤も知っていたとしても、私など所詮は文官、何が出来たかは分かりません。私は、無力でした。

 そしてその後に、奴は名の力を以て私を縛り付け、ある所へと連れていきました。

 地上の秘境、霧深き東の森の深奥に眠る、暗き淵の底。そこには、紫紺に揺らめく混沌の門があったのです」


「――ほう?」


 軽い相槌を打ちながら、静かにトリクナムの語りに聞き入っていたザリエラは、ある一節を耳にすると、軽く驚いたように声を上げた。


「……また、懐かしいものが出てきたな。真神エグゾースの忘れ形見、混沌の名残か。

 そこに落ちて、出てきたものは一つも無い。無限に続く回廊だけがあるというのは、噂話だったかな」


「ファルサファリスは、私が邪魔だったのでしょう。何せ私は、主たる神を弑した現場に駆けつけてしまったのですから。

 だから、殺してしまうより、そこに放り込んで、死体も残さず完全に消してしまいたかったのでしょうね。

 ……それが、奴にとって最大の過ちと言えるでしょう」


「ふむ、現実に君はここに居る訳だからね。

 ……それで、どうだった? エグゾースの遺した秘境に突き落とされた気分は」


 古き神々にとっても全く未知の、真なる神が遺した秘境を覗いて来たというトリクナムへの興味を隠すことも出来ず、ザリエラは、その不謹慎な心にばつが悪そうにしながらも、ちょっとわくわくした面持ちで訊ねた。

 トリクナムは静かに、だが決然と頭を振る。


「最悪です。もう一度言います、本当に最悪です。あんなもの、今すぐにでもこの世界から消し去った方がいいです。本気です、私は。

 あの中は、全てが、矛盾しているのです。右を向けば左が上から降って来て、手を叩けば音の代わりに火花が跳ねて、日は廻る事もせずただ明るさを変えるだけ、月は目まぐるしく伸び縮みして、鳥は地面を這いつくばって、獣が片足で空を飛び、魚が鳥を食い殺し、木々は嗤いながら獣を刺し貫き、眠ってみれば目が覚めて、夢を見れば、自分が自分で無くなる様を幻視する。

 私はあの世界を後ろ向きに歩き続け、木の実の代わりに土を食み、水の代わりに空気を飲んで、空気の代わりに日の光で呼吸しました。

 考えられますか? 日が翳っていくと同時に呼吸が苦しくなっていく訳の分からない世界が。やがて、十七番目の丘を越え、足元に縋りつく花の妖精を自称する大樽を蹴飛ばしたとき、本が一冊、落ちてきたのです。

 私は無視して進みましたが、本が自分からついてくるのです。足も無いのに、ひょこひょこと跳ね歩きながら。

 余りにもしつこいから仕方なく拾ってみたのですが、そこからがまた、訳が分からない事ばかりで」


「ごめん、正直もうお腹いっぱいなんだけど? 流石は混沌のエグゾース、定まらず在ることを定めとする大いなる矛盾者にして、創造主ヒュラネル最大の敵対者だ。正直ヒュラネルが敗れずに良かったと心から思ってしまうね、僕は」


 ザリエラは、真なる神であるふたつの存在が引き起こした、かつての戦争の事を思い出しているようだ。それは人の世の誰もが知ることも無い、神々にとってさえ、とても古い記憶である。


「私もそう思います。ええと、それで。本を拾ったあとにですね。全てが逆しまに働く混沌の世界では、本は開き、読むことをせずともすべてが解ってしまうのですよ。その内容の全てが余さず。

 内容は、奇妙で醜悪な、趣味の悪い童話のようでした。無邪気に可愛らしく綴られた文章は底抜けに残酷で、そこには一切の生産性もなく、ただただ気分が悪くなるような代物ばかり、十四篇も収録されていました。

 私は本を丁寧に土に埋めて破り捨てると、蝶々が一頭飛んできて、言うのです。


『君は面白い。とても、つまらないからね』


 ただ矛盾が生じているだけの言葉を吐く者のほうが余程つまらないと思いませんか?

 私はもう全てが嫌になって、その場に寝ころびました。生きる事と死ぬことが分からなくなり、急に存在することが面倒になったのです。

 私は、疲れていました。きっと、世界に中てられておかしくなっていたのでしょう。もういっそ、死んでしまおうと思ったのです。

 だから手頃な尖った石を見つけたとき、喜び勇んで自分の喉笛を突いたのですが、駄目でした。混沌の世界では論理など、意味を為しません。なぜ、尖った石で喉を貫いて死ぬことがありましょうか? そんなこと、全く無意味で馬鹿馬鹿しいことなのです。私は石を放り投げて、仕方なく歩き続けました。勿論、前は向かずに。

 やがて、どこにも行けぬまま、途方も無い年月が経ってしまいました。そこで、やっと気づいたのです。どこかに向かおうとしているから、どこにも往けないのだと。私は俄かに立ち止まり、どこにも行かない! と大声で叫び、ただじっと立っていました。

 すると、目まぐるしく周囲の景色が動き始め、私は、三つの町に飛ばされたのです。町が三個あったのか、三つという町なのか、よくわかりませんでしたけど。確かに、三つの町でした。

 蔦に巻きつかれた老年の男が、語り掛けてきたのです。


『やあ、旅の終わりよ! 君はとても、手が温かいね。ところで歌を知っているかな、ほら、随分と流行っていただろう? 子供たちが、夢中で咀嚼していた、卵の歌だ。――――空に鳥さん、卵を産んで、地面へぶつかり砕けて散った♪ 流れた黄色をネズミが啜る♪ ネズミが蛙に呑まれて鳴いた♪ チュウ、チュウ、あたたかい……』


 そこまで歌って、男は泣きだしたのです。続きが分からないんだ、と叫びながら、顔を抑えて、幼子のように。

 やがて、伸びてくる月が男を呑みこんで、また縮んで。男は影だけを残して、消えていました。

 私は周囲を見渡すと、噴水が見えたので、そこへと向かってみたのです。近づいてから、気が付きました。

 それは噴水ではなく、巨大なタコでした。タコは言います。


『ああ、神様、もうお許しください! 私は、水では無く墨を吐きたいのです!

 確かに、私は太陽を染めてしまいました。すっかり穢れた太陽は、とうに洗い落とされた墨を忘れられず、自ら黒く染まっては、お供の蜂たちに水で濯がれることを徒に繰り返しておりますが、あれは太陽が悪かったのですよ?

 だってそうでしょう、あんなに明るくてきれいなんですから。それは、墨を塗ってみたくなるでしょう、タコなのですから!

 私は悪くありません、タコに罪は無いのです……ああ、今度はあの月を穢してみたいなあ。うふふふ……』

 タコは雷に打たれて死にました。

 香ばしい匂いが漂う中を、私は無視して進みます――――」


「そろそろ頭が可笑しくなりそうだから、掻い摘んで貰ってもいいかな?

 というかちょっと君おかしくなってないかい? 大丈夫? ここは僕の世界なんだから混沌に狂わないでくれないか」


 ザリエラに苦言を呈されてやっと、トリクナムは自分が妙な思考の渦に呑まれていることに気が付き、二、三度自らの頭を軽く小突く。


「……済みません。ちょっと、後遺症があるのかもしれませんね。

 とにかく私は、旅をする内にそれまでの肉体の情報を失って黒く染まり、今この様な形をしているという訳です」


 トリクナムは取りあえずで、結論へと辿り着かせる。

 ザリエラは、そのあんまりな省略に呆気に取られながらも、トリクナムの選択に安堵したようだった。


「そりゃだいぶん、掻い摘んだなあ……まあいいか。

 多分、あんまり述懐すると本当に狂うぞ、もうやめておいた方がいい」


「ええ、そうしておきます。……私はどうにかあの世界を越えるとき、ある力を身に付けました。

 これまで、世界のどこにも存在して居なかったあるエネルギーを見出し、それを利用出来るようになったのです」


「……混沌に由来するあれこれじゃあるまいね、それ」


 ザリエラは訝しんでいる。


「ああ、それに関しては問題ありません。これは間違いなく、あの狂った世界ではなく、私の内側から顕れたものなので」


 そう言いながら、トリクナムは指を軽く爪弾いた。その先端に、暗く瞬く焔が灯される。

 トリクナムの、顔の代わりに揺らめく紫紺の星雲が呼応する。やがて揺蕩う星がひとつそこに現れて、弾けて粒子と散るのと同時に、暗き炎もまた、爆ぜて消え去った。その名残に、闇の瞬きを残しながら。


「……ふぅん、すごいね、それ。確かに僕も、一回も見たことが無いものだ。

 ふむ、この場に書神が居ないのが残念だよ。あいつが居たら、きっと質問責めに溺れる君が見られただろうに」


「知識の守護者、シェルターク様ですか。そういえば、貴女が隠れてよりの事なので知らないとは思うのですが、あの方もいつ頃からか姿を見せなくなっていました。大事が無ければよいのですが……」


「あの書痴の事だ、どうせ本を探してぶらついているか、書に埋もれて出てこれなくなったか、ってところじゃないか?」


「ああもう、誰に聞いてもそう言われるんですよ。シェルターク様、信用が有るのやら無いのやら。まったく……」


「あいつはそういう奴だったからねえ。ええと、それで、何の話をしていたっけ。

 ……ああそうか、君が謎パワーを得たって所まで聞いたんだった」


 謎パワーという表現が如何なるものなのかを、トリクナムは理解できなかった。

 思わず、口からその単語が反響する。


「……謎パワー……いや、まあ実際由来はよく分からないのですが、あの……まあいいか。

 とにかく、この力は恐らく、何でもすることが出来るのです。火を点すことも、岩を眠らせることも、矢を防ぐことも。

 畏れ多くも神の力に拮抗し、世界を裂き、その隙間を潜ることさえ」


「へえ、そうやって僕の世界に乗り込んで来たのかい。

 連絡も無く、予定も付けず、いきなり女の所に飛び込むとは。

 随分と大胆になったものだ、これが成長というものかな? なんだか感慨深いね」


 からかうような言い草ではあるが、そも、本来は神の坐所へと無理やり侵入するというのは、相当な無法である。

 それを、笑い話のような皮肉ひとつで流してくれるというのは、彼女の気遣いであるのだろう。トリクナムは感じ入り、素直に言う。


「――その節については、まこと慚愧の念に堪えません。

 ここの事を、放棄された旧い世界だと勘違いしたのです」


「……君、僕の世界を廃墟か何かと思ってる?」


 トリクナムは、懇切丁寧に、心よりの謝罪を述べたつもりだった。

 そして、自分が何を言ったかに、じっとりとした眼差しのザリエラの返答でようやく気づき、慌てて取り繕う。


「い、いえ! そのような訳では……済みません、失言でした。

 と、とにかく、私は混沌の世界を切り裂いて、悍ましい無秩序が零れないよう十分に注意をしながら、元の世界への断裂を開けました。

 既にその先では、クァルカの名はファルサファリスの権能により禁じられており、それに由来する、私を世界から追放しようという力が働いていたのです。私はその力に抗って無理やりに、天上の神都、メリスコルグへと迷わず降り立ちました。

 丁度ファルサファリスが神々を集め、我が主が、従者共々身罷られたと騙っていた所に出くわしたのです。

 驚く神々を余所に、私は躊躇わず力を槍と為し、ファルサファリスに叩き込みました。そして、名の神の権能に順わぬ名を高く掲げ、世界への楔と為したのです。

 クァルカの名を持つ者が永遠に世界から取り除かれても、再び其処へと舞い戻れるように」


「成る程。合点がいったぞ。それで、君はそんな御大層な名を名乗ったという訳か。

 名の神を越えて、古き神さえも越えた先。原初の真なる神……ひとつ、創造者たる白きヒュラネル。ふたつ、不定の秩序、混沌のエグゾース。

 ――――そして並び立つは三なる者、即ちトリクナム、と。

 神々に深く強く認知させるほどに、ファルサファリスの権能の効きも多少は鈍くなるだろうからな」


「はい、その通りです。……尤も、それでも奴の力は余りに強大でした。

 我が主の仇討ちは疎か、新たな名を持ってしても世界に留まり続ける事は困難であり、私は三日三晩の戦いの末、再び世界から締め出されたのです。

 ですがそうなる直前にどうにか、我が主の眠り続ける肉体だけは取り戻しせました。

 私は多くの世界を渡り歩き、機を、窺っておりました。……必ず奴を討ち斃し、我が主の肉体へと、在るべき名を、自我と因果を還すために」


 トリクナムが語り終えると、ザリエラは穏やかな顔を浮かべ、口を開く。


「……そうか。ありがとう、聞かせてくれて。

 ここまで、よく頑張った。偉いぞ、クァルカ――いや、トリクナムか。

 ああ――お前のような者が居てくれるナハーラームが羨ましいよ。僕に従者は居ないからなあ」


「は、お褒めに与り、恐悦至極に存じます」


「おや。そこはずっと独りで頑張ってきて、久しぶりの温かい言葉に思わず涙を零す所じゃないのかい?」


「そうしたいのは山々ですが、自分の目がどうなっているか、よく分からないのです。この星雲の下に、それは有るのでしょうか……?」


「うーん、自分でも分からないなら、お手上げだろうね」


 ザリエラの言葉に、トリクナムは肩を竦めて困ったふりをしてみせて、暫し穏やかな沈黙が訪れる。

 やがて、深く呼吸をした後、意を決したトリクナムが口を開いた。


「……畏れ多くも、お願い申し上げます。

 我が主をその手に掛けたファルサファリスへと立ち向かうために、どうか、力をお貸しください。今の私には、味方が居ないのです――――」

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