第六話 旅の終わり
戦場には、完全なる静けさが訪れた。
今度はもう、本当にその帳の破られることも無く、世界は真実、孤独が齎す静謐が覆いきっている。
死線を越えて、漸く思う。俺は、一体何をしていたのだろう、と。
急に、こんな訳の分からない所に連れて来られて、そうせざるを得なくなってしまった皆と戦い、命を奪い合って。やがてただただ殺すだけの修羅と成り果て、そしてまたディディエに導かれ、己を見つけ出して……。
これは、結局の所、何だったのだ?
「…………」
頭を振る。答えは、出ない。
戦い終われど世界には何も起きず、暗く圧し掛かる忌まわしき重圧は消えない。
まるで、まだ何も終わっていないとでも、言うかのように。
正気を失っていたピアーが……恐らく何かに唆されて始めたのであろう、自らの命を呼び水に始めた儀式……我らの多くを拐かし、暗い呪いを招いたそれが、悪意の臭いに満ちたるそれが、終わった訳でも、途中で壊れた訳でも無いというのなら。
「俺は、何をするべきなんだ?」
分からない。分からないが、一つだけ、思う。もし仮に、この儀式が完遂していないというのであれば、俺は、これを始めた何者かの暗い思惑を成就させる訳にはいかない。
こんな、悪趣味で陰鬱な惨劇が齎すものが、良いものである筈が無い。断固として、それは拒絶されねばならない。だが――
「分からん、結局何に対してどうすればいいんだ……?
……俺が死ねば、完遂と相成るのであれば――」
うろうろと世界中を歩き回りそんなことを考えている内に。
それが、姿を現した。俺は、それが神に類するものだと、考えるまでも無く理解せざるを得なかった。かつて奉剣の儀に際し、ローラン様が紡いだ聖句が齎したあの不可思議な感覚……寒気も無いのに鳥肌が立ち、眩暈を覚えるほどの力の流れは、確かにそれから零れ落ちていた。
「――――」
それは、少女の姿をしていた。血の染みを洗い流したかのような薄桃の銀髪を持ち、如何なる感情を宿してか、瞳は赤く燃え盛る。
熱っぽく紅潮した顔には絶えず薄笑いを浮かべ、しかしその高揚とは裏腹に、とても、彼女は静謐であった。
病の如き狂熱と、真実、神に相応しき聖性。全てが綯い交ぜにされた在り様は、酷く矛盾したもののように思える。
……まるで、神ならぬ、人のように。
俺は、その姿を見たことは無かった。
いや……それは正確じゃない。その姿は初めて見る、と言うべきだろう。
それが、何故そうなっているのかは、分からない。だが、彼女の気配、どことなく身から零れる雰囲気は……かつて夢の中に姿を見せたあの、真紅の女性が持っていたものと、全く同じであった。
「……お前は……いや、貴女は……何だ?」
「……君は、僕とはなんだと思う?」
彼女が口を開くと、どこか不穏を孕んだ玉のような声が響いた。
逆に聞き返してきた彼女の眼差しは、子が何か言おうとしているのをただ待っている慈母の様にも、何かに緊張しながら、相手が望むことを言ってくれるのではないかと期待している幼子のようにも見える。
「貴女は……神、なのか?」
「君が、そう望むのなら」
……否定、しないのか。
彼女はただ、穏やかに笑んでいる。
「ならば、どうか教えてはくれないか。何故、我々はここに居る?」
「――それは」
彼女は、口許の笑みを崩さぬままに、ただ、眼差しだけに悲しみを湛えて俯いた。
言葉を、詰まらせる。
「これだけは、教えて欲しいんだ……俺は、違うと、信じたい。
だが、遺った者の責務として、問わねばならない。
……これは、貴女の願ったことなのか?」
「……僕は――!」
彼女がそう、強い語気で何かを言わんとした瞬間に。
畏れ多くも、神の言葉を遮るものがあった。
「な、これ、は……」
あの時……この世界に攫われたあの時、謎の渦巻く暗闇と共に溢れかえった、嫌悪すべき冒涜の哄笑が響き渡る。気づけば、世界に満ちる騎士たちの死体が立ち上がり、嗤っていた。それは、常軌を逸した光景だった。
悍ましき涜神が為されているのだということは考えるまでも無く明らかであり、この儀式を成就させる、その最後の大詰こそがこれなのだろう。
「やはり、まだ終わっては……!」
「……ごめんね」
彼女は、静かに目を伏せて、そう言った。その顔には一滴の泪が見えた気がした。
かつて幻視した、何度だって夢に見たあの人が流していたそれと、同じように。
「こんなことを、自分で言うのもなんだけど。
どうやら君には必要なようだから、告げておこう」
ぽつりと漏らされた言葉には、何の不穏も無い。だが不思議と、予感があった。
冷ややかでありながらも精神をひりつかせる焦燥感が、俄かに立ち込める。
「いいかい? 僕は、死なない。
だから……躊躇っては、いけないよ――」
静かに俯いたまま、続けて神は、そう言った。緊張と戦慄が世界に満ちる。
俺は、それが意味することが何であるかを聞くことも出来ず、ただぐるぐると思考を巡らせたが、答えは見つからない。
或いは、既に理解してしまったそれを、直視したくないだけなのかもしれないが。
この世界の中にあって動く事の出来るものは皆、絶対的な理に戦う事を余儀なくされていた。その理が、どれほど強く律する力を持っているものなのかは分からないが、もし……他ならぬ、元々この世界を持っていたのだと思われる、眼前の神さえもそこから逃れ得ぬのであれば?
……神の地を冒した呪わしき何者かは、神さえも薪とし、何を為そうとしているのだろう。
戦場跡の神聖な、死に満ちた静謐は今や穢され、耳障りな笑い声は侮辱となり木霊する。
やがて、神はそれらと共に笑い出した。
……忌まわしき狂熱だけを、その身に宿しながら!
鮮紅の刃が、顕れる。
神が一度刃を薙げば、嗤う骸を諸共に切り払い、俺を裂かんと迫りくる。
思わず剣で防ごうとしたが、嫌な予感が激烈に奔り、寸での所で身を捩り、避ける。
……剣のうち、紅き刃が掠めた所が綺麗に切り裂かれている。極めて状況は悪く、剣の根元、中ほどまでを抉り裂かれたようで、
これは恐らく、一合するどころか振るだけで折れかねない。最早、武器としては何の役にも立たないだろう。
……止むを得ない。したくは、ない。だが、手段を選ぶ余裕はきっと、無い。
俺の傍に立つ、戦友の嗤う骸に刃を突き立てる。血が溢れ、滴り落ちた。
――――その血肉、その全てを余さず"代償"とし、引き換えたエネルギーを灰の刃と形成する。ただ、神と、それを穢す陰謀へと立ち向かうために。
ああ、友よ。この悍ましきを赦さずともよい。ただ、今は力と成ってくれ。
死ぬわけにはいかない。この儀式を成就させては、ならないのだ……!
戸惑いがある。躊躇がある。抵抗がある。これは、為すべきでないと強く感じる。
それでも死ぬことも、こうなるように仕向けた者の思惑通りにただ動くのも……この神に、望んでいる訳でも無いのであろう殺しをさせるのも、嫌だった。
だから剣を向け、刃を振るうのだ。名前すら聞けていない、我らの神へと向けて。
これはきっと、許されない大悪であろう。……だが、彼女は確かに言ったのだ。
僕は死なないから、躊躇わずにやれ、と。ならば……ああ、ならば。神の言葉を信じずして、何が信徒か!
紅く、薄く、何より鋭く。
振るわれた神の剣を、灰の刃が迎え撃つ――――!
――――閃光が弾ける。時の流れさえもびくりと身を震わせ、移ろうことを忘れたかのような永遠の間隙が、一瞬にして過ぎ去っていく。
双方ともに、命を散らすこともなく。
その最初の剣の交わりは、灰の刃が酷く傷つくという一方的な形で終わった。
――――戦える。勝てずとも負けぬのならば、戦えるのだ。
立ち向かう手立ての有ることを知り、安堵とも喜びとも付かない感情が一瞬だけ心の底に垣間見えたが、それに一瞥もくれずに振り切った。
息をする間さえなく、二撃目が放たれる。
滑るように返された刃を勢いが乗り切る前に押さえ付けんとすると、灰の刃は削られながら悲鳴を上げて、塵となって世界へとただ還ってゆく。そして神の紅刃もまた飛沫となって飛び散り、世界を緋に染めていった。
……損耗が予想以上に激しい。狂える神と、その陰に潜みし邪悪に抗う為に、どれほどを利用することになるのか、見当もつかない。
三合目を交わすと刃は完全に砕け散り、迷う間もなく二人目を引き換えた。
彼には、幼い弟が居た。親を早くに亡くし家を引き継ぎ、騎士として日々務めながら、弟を溺愛していた。あの愛らしい笑顔の幼子が彼を見る日は、もう永遠に訪れない。
更に四合ほど、打ち合った。
三人目を引き換えた。生まれると同時に双子の兄を亡くしたこの男は、死したる兄の分まで生きんとし、何に対しても人の倍だけそれをするのだと、誓っていた。鍛練も食事も、勉学だって力を尽くしていたが、ただ一つ。恋人さえも二人分作ろうとして、二人の女性から同時に平手を喰らったことだけは、如何かと思ったものだ。そして、そんな滑稽な思い出さえも、もう笑い話になることは無いのだ。
神が鋭く刃を突き出すと、それは投げ槍の如く撃ち放たれ、遠間からの不意の一撃は、俺の油断ごと灰の刃を打ち砕く。
四人目と、五人目を纏めて引き換えた。彼らは見るたび喧嘩をしており、互いに言い争っては剣を持ちだして、その度に彼らの隊長に酷く怒られ、仲よく罰を受けていた。不思議な事に、戦場では実に息の合ったよい連携を見せるものだったが、きっとこの世界の中でも、それは変わらなかっただろう。
二人分を纏めて引き換えて初めて、戦いに余裕が生まれた。
注意深く周囲に骸がある所へと誘導しながら、その暴威へと立ち向かう――!
神の紅刃は薄く鋭く、何より速く、応じるには困難を極めるものだが、戦いとは、敵の攻撃を凌ぐ事ではない。怯んでばかりでは、勝機など万に一つも訪れない!
逆袈裟に切り上げられた剣を掻い潜り、飛び掛かりながら刃を叩きつける――神はそれを容易く受け止めきり、即座に反撃へと転じ、その赤き剣を烈しく薙いだ。それは、触れたる者の全てを容易く死へと至らしめる、分ち、殺すという剣という概念を形としたかのような、凄まじい一撃である――――だが。この灰の力がそれに抗えるというのは、既に証明済みだ!
余剰が生まれていたエネルギーを、盾とする。死者より齎された真っ白な灰の盾は、死したる者を殺す事など出来ないと諭すかのように、その滅びを受け止めた。
剣を振るう……!
――――漸く、神へと刃が至った。だが、浅い。神は、自らを掠めた刃を見て微笑み、頬から零れる血を、曲げた指の中ほどで拭って口にした。
ああ……戦いは未だ、始まったばかりだ――――
*
灰の刃と血の薄刃が激しく交わり、互いを熾烈に削り、弾く。
一合交わる度、灰が舞い散り積もりゆき、血は飛沫となり、白く、薄らと覆われ始めた地を深紅に染める。
全く幸いなことに、彼女の凄まじき業の冴えにもどうにか渡り合うことが出来ていた。これ程までに俺を育ててくれた者たちには、感謝しなければなるまい。
……しかし、強い。恐ろしく強い。単純に力が強い上に、技量もまた著しく高く。彼女が人の世に戦神と謳われる事は、成る程、全く相応しいだろう。
――――二十八。ともがらの骸が、消えてゆく。俺は彼らの屍肉の全てを引き換えて、力と為し刃を振るい続ける。
心に冷たい炎が満ちる。大悪を犯している。異常な魔境を駆け巡り、人を薪に神と殺し合う。……これは、本当に現実なのか? そう疑念を懐きたくとも、手に伝わる友の骸を裂く感触は夢にはあり得ぬ生々しさを持っている――考えれば鈍るだけなら、如何なる葛藤も無用だ。思考の内から、切り捨てる。
――――底へ、底へ。戦いの深みへと集中していく。死線の上を疾駆する内に、怯懦も躊躇も不要だと、かつて古戦士が語っていたのを思い出す。戦いは、止めどなく加速していった。
神の刃はいよいよ鋭くなり、俺を断たんと舞い踊る。こちらは既に傷だらけだが、何とか致命傷は避けている。問題ない。
二十九、三十、三十一。刃が砕ける度に塵として積もりゆく灰を、狂える神が振るう剣が、その迸りが巻き上げる。
気がつけば、戦場には死の塵灰が扮する粉雪が降り始めてた。
*
七十二、三、四。剣はとうに砕け、落ちていた折れ剣を使って骸を裂く。もう随分と、嗤う声が少なくなってきた。神は、未だ鎮まらない。
体力は疾うに限界を迎えているが、気魄だけで、それを補う。
死ぬには、まだ、早すぎる。……いや、たとえ死んだとしても、戦い続けて見せよう。心臓が止まろうが、脳が砕け散ろうが、ここに我が身が在る限り、この意志を徹して見せよう。その程度の気概なくして、何故、戦いの神に立ち向かえようか!
灰の刃を多数の矢じりと成し、神へと向けて撃ち放ち、同時に突きを繰り出すが、神は容易く矢を撃ち落とし、身を捩って突きを躱し、こちらへと飛び掛かる。
――衝撃。俺たちは激しくぶつかり合い、転げ回る。やがてその勢いも殺されたところで、俺は上を取られて馬乗りにされた。
神は両手で剣を構え、体重を掛け一息に貫かんとしている。慌ててつま先に力を集中し、神の後頭部を蹴り上げ、炸裂させる。
神は吹き飛ばされるも、両の手を大地へとつける形の完全な受け身で衝撃を殺し、事も無げに立ち上がった。……あれを、本当に人が止められるのだろうか?
百を超える同胞を、引き換えた。戦いに慣れてきた途中からは、力の消耗を出来る限り抑えながら、蓄える事に集中していた。
小出しにしていては、いずれ貧して殺される。人の力をどれほど束ねれば、神へと届くのだろうか?
*
――――ずっと、ずっと、戦い続けた。
空より降る灰は、すでに吹雪の如く吹き荒れている。
戦場は、再び静謐を取り戻していた。
死者の身体は、余さず消えた。老いも若きも無く、あらゆる因縁も関係無く、全てが、色の無い力となって、消えていった。血の一滴さえ、遺さぬままに。
故郷に戻るべき亡骸は、もう永遠に還りはしない。
――――ああ。ここに集った、全ての同胞が消えたのか。
……いや。まだ、ひとりだけ。
この荒れ野の最奥で、巨怪と共に眠りについた者を、思い出し、俺は神の刃を振り切って、そこへとひた走る。
そこには、薄く灰が積もっていた。
白く塗れた灰銀の鎧兜の騎士が、己等で仕留めた巨怪と共に、不思議にも涜神の哄笑に囚われず、穏やかに横たわっている。
…………俺は。ああ、俺は。今更に、考える事でもあるまいに。
手が、震える。この手に掛けた時でさえ、こんなに厭では無かったのに。
赦されなくても、いい。震える手で、刃を、突き立てる。
その骸を、血肉の全てを、存在を、力へと引き換えて――――骸がさらさらと塵に解けてゆくのと同時に、共に過ごした思い出が、ばらばらになった本が紙片となり、風で吹かれて舞い上がるかのように、現れては消えていった。
何も、残っていない。
ここに在るのは、剣だけを虚しく大地へと突き立てている、俺ひとりだ。
……ああ。項垂れている場合ではない。
こうしている間にも、きっと、神は迫っているのだから。
そして物のついでに、近くで斃れている巨怪の下へと向かい、その骸をさえ引き換えんとして……気が付いた。
そこから生えている腕の一本に、刻まれた古傷は。
忘れもしない、猪の牙に付けられのだと幼い時分に聞いたそれは。
……紛れも無く、タレル村で一番の狩人、本来の父レジスの勲章なのだと。
訳が分からないが、深く考える必要も、もう、今は感じられなかった。
俺は、傍らに遺されていた義父の灰銀の大剣を振り上げ、父の……きっとタレルの皆のものだったのであろう骸へと叩き付けた。
――――己に纏わる因果の根幹たる二つが無くなったと、これで完全に理解した。
力は、十分だ。これ以上は、そもそも望むことも出来まい。
……引き換えるものも、もう居ないのだから。
眼前には神が、居る。
冒涜の哄笑が止み、幾分かは落ち着いたようにも見えるが、一度始まった戦いは、勝手に終わることはない。
鮮紅の薄刃と、灰纏う銀の大刃が、ぶつかり合う。力が無くなりきる前に、どうにか斃しきらねばならぬ。
――戦いは熾烈を極め、漲る鬼気と剣戟の音だけが、灰の雪散る荒野を支配する。
紅き刃は縦横に撓り、時に地を抉りその下から、時に背後の岩から突き出して、変幻自在に俺を襲った。
力を使ってそれらを弾き、神へと剣を叩き付ける。神はそれを両手で構えた剣で容易く抑えきり、力任せにこちらを跳ね飛ばした。
この細腕のどこにそのような膂力があるというのだろうか。転がって受け身を取り、力を槍と為し、投擲する。
神はそれを平然と手に受け、投げ返してきた。横に跳ねて躱すと、後ろに有った岩が砕け散る。
力を多数の矢じりと為し、神へと向け、時間差を伴って打ち出したが、神は完璧にそれらの全てを撃ち落とし、転がっていたさざれ石を投げつけてきた。石は空中でばらばらになり、恐るべき死の弾丸となり襲い掛かってくる。
咄嗟に力を盾として防いだが、幾つかはその鋭さに任せて貫通してきた。
石は鎧で止まったが、内側に向けて開いた穴のふちが、肉に刺さっている。恐ろしい痛みだが、まだ死にはしない。
力を籠め、吼える。大音声は爆発的な衝撃を伴い、周囲の全てを吹き飛ばす。俺は吹き飛んだ神を追い、駆ける。……体勢を整える前に、決めなければならない!
突き出した剣、未だ起ききらぬ少女の似姿、巻き上がる灰。
――――この手には、何かを刺し貫いた感触が伝わることはなかった。
腹に、違和感を覚えた。それは、熱のような感じがした。俺は、この感覚が、何に由来しているかを、知っていた。
ああ、これは……刃が齎す、痛みじゃないか。
神は、熱と共に笑っていた。
剣が引き抜かれ、激痛が奔る。血を吐き、思考とは裏腹に、体が勝手に膝を突く。
……神経が断たれたのか、足に力が入らない。灰の中へと、頽れる。
俺は失敗したのだ。あれ程に犠牲を払って、痛みを堪え、剣を振るって尚。
許されざる大悪の先、それでも求めた一つの道は、しかし人の世にあるべき罰が、打ち払っていったのだろう。
俺は、何をしているんだ。何故、ここに居るんだ。俺は、ここで諦めるべきなのか。
……もう、諦めるしかない、のか。
灰が、身を覆い隠してゆく。このまま、死ぬのか。訳も分からないまま、変な場所に連れて来られて、ともがらを皆殺しにして、その骸さえ、死の先の安寧さえも冒しながら、全て無駄にして、ただ死ぬのか。
『……ごめんね』
悍ましき涜神の儀に汚された神が、目を伏して漏らした言葉が、脳裏を過る。
まだ、まだ終われないじゃないか。もう、誰も居ないんだ。俺が、なんとかしなくちゃいけないんだ。
あんな顔をするものが、あんな、悲しそうな顔をするものが、狂っていて良いものか!
動け……頼む、動いてくれ、俺の腕よ! 剣は、まだ、有るんだ、灰の刃だって、まだ、生み出せる……ああ――――
力が入らない。身体は重く、動かない。酷く、怠い。目が霞む。音が、遠くなってゆく。意識は茫洋とし、不思議と痛みは消えてゆく。
世界がすっかり遠のいてゆく、その寸前に。……思い至った、ある一つ。
…………ああ。自分の肉体は、まだあるじゃないか。
魂だって、ある筈だ。この先の、有るべき輪廻なんてどうでもいい。
本当なら死んだ先で、やがて生まれ変わって何かをするのだとしても、その先にある可能性だって、全部、全部、引き換えてやる。
今じゃなきゃ、駄目なんだ。今、ここに可能性が無くちゃ、駄目なんだ。未来よ、すまない。全部使うよ。今ここで。
俺は、今ある全てと、ここに至るまでの過去と、未来に広がる枝葉の全てを刈り取って、全てをただ代償として、引き換える。
……そう決めた瞬間に、ただでさえ薄れていた意識が、更に散り散りになっていくのを感じた。
――――どうか、よいことが起きますように。
「…………」
俺は、もう言葉も出せず、ただそれを受け容れていた。
自分に出来ることを、ただやるだけのことなのだ。今までと、きっと何も変わらないさ。終わることよりも、出来た筈だったのに、と後悔することの方が嫌だった。
後悔は、無い。これが、俺の道だったと、今はただ、納得するだけだ。
自らが、形を失ってほどけていく……ぼんやり、ふと思った。
……ああ、でも。イェニさんに別れを言うことも出来なかったのは、すこしだけ、こころ、のこり――――
*
祈りが、世界に木霊する。意志が奇跡となり、無限の力が、爆発する。輝けるひとつの魂と、それがもたらす全てが、色の無い光と焔になり、白き灰の如き粒子を散らしながら、あらゆる邪悪を吹き飛ばした。それは、祈りに導かれ顕れた、純粋な力であった。人としての意識も持たず、何かを感じる心も無く、何かを為す肉体も無く。人としてあった者が、その存在の淵源となる魂が、すべての可能性と共に、引き換えたもの。
それはあらゆる穢れを綺麗さっぱりと消し飛ばし、昏き願いは完全に掻き消され、ここに浄化は成った。今この隔絶された世界に有るのは、一度跡形も無く吹き飛ばされた後再生した、横たわる不滅の戦神と、ただ音も無く吹き荒れる白き嵐だけだ。
時が過ぎ、神が目覚める。
狂熱の祓われたその様は、悪意に齎された惨毒により歪みを得る以前のものであった。
彼女はゆっくりと起き上がり、未だ吹き荒れる大嵐を見て何が起きたかを理解すると、穏やかに……そして悲しげに、微笑んだ。
彼女は、戦いと、その先にある死を司る神であった。
やがて信仰の内に、戦神は勝利の神となり、勝利の熱は死から静寂を掻き消したのだ。鉄都の騎士たちはそれに気づき行いを糺したが、全ては手遅れであった。
そこに揺ぎ無き悪意を以て干渉したものが居た。ただ、神の在り様を歪める為に。
その者はこう、囁いたのだ。神の為に、死を供物とし、命を捧げよ、と。
その悍ましき儀式は、もうずっと古くからの因果と共に、打ち破られた。少なくとも暫くは、悪意ある者も、鳴りを潜めることだろう。
壮絶な戦いの果てに顕れた白き嵐は、いずれここに在る理由を忘れ、散逸するだろう。しかしそれは、彼女にとっては不本意なものだ。
彼女は、数多の人間たちの、故郷を、家族を、仲間を守りたいという意志に、生きたい、生かしたいという願いに応えてきた。
そう、彼女は本来、意志ある者の庇護者であり、戦神としての姿は、結果が導いたものに過ぎない。
だから、彼女は。それが喪われることは、嫌だったのだ。
神は、不滅の戦神、廻る血潮と意志のザリエラは、静かに、白き嵐の中心へと赴いた。強大なエネルギーは、彼女を傷つけはしなかった。
彼女は、ゆっくりとそこへ向け手を伸ばし、消えてしまわないように両手の内にすっかりと擁き抱えて、横坐り、眼を閉じた。
穏やかな、戦いの後の静けさだけが、世界を満たしている――――
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