第五話 永遠の憧れ
――――躊躇があった。困惑があった。悲嘆があった。憤怒があった。絶望があった。それらの全てをただ踏みしだき、乗り越えて。生きねばならぬと嘯いた虚勢も、静謐の内に消えてゆく。気が付けば、自分が何処にも無くなってしまっていた。何も分からない。何も感じない。ただただ、全てが凍り付いたかのように。
俺は、何を望んでいた? 俺は今、何処に居て、何をしている?
どれほどの時間が過ぎたかも分からなくなったころ、遠方より、再び聞こえてくるものが有った。
それは紛れも無い剣戟の音。鉄がぶつかり悲鳴を上げる、もうきっと魂にさえ染み付いたであろう、この数刻でずっと聞き続けた響きが、神聖でさえあった静寂を引き裂いたのだ。
……うっそりと立ち上がる。毀れた剣を引き抜いて、折れた腕を気にも留めず、足を引きずってそこへと向かう。……ただ、敵を殺すため。
果たしてそこには、二つの動くものが居た。
一つは、無数の人間を無理やり束ねて一つの塊にしたような、剣を持つ数多の腕が生えた異形の巨怪。
もう一つは――今より幾分古き時代の、白銀に輝く甲冑に身を包む騎士であった。
時代遅れな大兜、不退を体現する細かな傷が無数に付いた鎧、歴戦を越えてなお穢れを知らぬ、血さえも払う、真っ白い外套。
そして何よりも戦士の誇りに相応しい、輝く灰銀の大剣を構えた堂々たる騎士が、油断無く立っている。
空っぽになったとすっかり思っていた心が、突如として眩く照らされ、気づく。
俺の心から何もかもが無くなってしまった訳では無く、ただ、深く昏い闇に覆われ、見えなくなっていただけであったという事に。
……そうして、思い出した。自分がかつて触れたものを。
寝物語に聞かされたお伽噺をも凌駕する、驚嘆すべき騎士の姿を見たことを。
それが燦然と輝く一条の白光となり、ずっと自らを照らし続けていることを。
俺は今、知った。その己を導く光が、憧れという名であることを。
「ディディエ――!」
森の主たる巨獣を只一撃で返り討ちにしたあの時の姿が、脳裏を過る。
気まぐれに鍛練に付き合わされたときの、お前には才が有ると誉められた時の喜びを、思い出す。
誇らしげに飾ってある現役時代の鎧兜を前に、酔っ払った彼に何度も聞かされた誉れの歌が、再び聞こえてくる。
気づけば、駆けだしていた。身体がボロボロなことなんてすっかり忘れて、ただ、あの騎士と轡を並べる為に。
*
老騎士の剣が閃くと共に、馳せ参じた若き騎士が折れた剣を振るう。
怪物の腕は幾本も斬り落とされ、苦痛と憤怒に声を上げる。
二人の騎士に、言葉は無かった。目配せさえ要らず、その連係は完全であった。
やがて、当然に怪物は斃れた。征剣騎士は皆一騎当千の誉れ高く、他国の騎士、十人にも匹敵すると謳われたのだ。それが二人も居れば、例え如何なる怪物が相手であろうとも、勝つのは当たり前だ。
……そして、騎士達はやっと、互いを見やる。
深く、深く息をした後に、すこしだけ頷いて――――
ここは、穢されたる神の坐所。
冒涜受けし、滴る血と鉄の神、ザリエラの名に於いて。
荒野に在る全ての命は、戦いを全うせねばならない。
それは、如何なる神であろうとも覆せない、この世界の在り方なのだ。
……たとえ、その場の誰もがそれを望んでいなくとも。
生きることを赦さぬ害毒が、ただそれを為さしめている。
やはり、言葉は要らなかった。
若き騎士が、血に塗れた地へと突き立っていた、まだ使えそうな剣を抜く。
対峙する老騎士は悠然と立ち、ただ待ち受けている。
*
跳ねる。肩に乗せた剣を、体に巻き付けた腕を一息に伸ばしきり全力で振り下ろす。
渾身の袈裟切りを、ディディエは軽く身を逸らしただけで回避する。だがこれは飽くまで布石にすぎず、振り下ろすと共に曲がった肘を全力で撥ね伸ばした勢いのままに突きを放った。巌を砕き、鉄をも穿たんとする閃光の如き一撃はしかし、灰銀の大剣により、容易く弾かれた。
ディディエは尚一歩も退ることなく、鋼鉄で出来た柱のように、厳然と立ち続けている。
……これが、ラクァルの征剣騎士。その英雄たる、先代騎士長の姿なのだ。重く硬い灰銀に身を包み、不退を是とし、進む先の全てを征した、鉄の戦士。
二度、三度と剣を振るうが、その全てをディディエの輝剣は容易く弾く。どれ程に身を翻し撹乱しようと、彼がが動じることは、きっと決して無いのだろう。
ディディエが、動く。彼は大剣を片手で容易く振り上げ、大上段から叩き付ける。
それは、洗練された現代の騎士達がする動きからはかけ離れていた。余りに堂々とした、戦場を支配する、王者の一撃だった。飛び退き躱すと砕かれ飛び散る石塊が身を掠めた。一連の動きを終えたディディエは一見隙だらけにも思えるが、あれは、罠だ。迂闊に手を出そうものなら剣を容易く弾かれ、そのまま斬られて死ぬだろう。それは鍛練の中で、身体に叩き込まれたことだ。ひとつの終わりこそ、次なる道の始まりなのだと。
決して油断せず、間合いを大きく取り、相手の剣の届かぬ所に立ち、機を窺う。そして、一歩大きく踏み込んだ。相手の反応を見て、何時でも攻撃に移れるように、剣を身の近くに構えながら。
ディディエは動じることも無く、剣の切先を下げたまま柄を斜めに上げ、待ち構えている。そこに一切の隙は無く、兜の奥からこちらを射貫く眼差しが伝わってくる。全身に怖気が走り、背筋には嫌な寒さが現れ、全身が総毛立つ。
慌てて飛び退くが、ディディエは凄まじい速度で距離を詰め、剣を突き出した。
衝撃が、身を貫く。片手しか使えぬ状況ながら、なんとか無理やり弾くことに成功したが……馬鹿みたいに重い一撃だ、何度も受けることは出来ないだろう。
しかし、折れた腕というのはなんとも邪魔なものだ。出来る事なら取り外してしまいたい……そんな馬鹿げたことを考えながら、距離を取って息を整える。
ディディエは、尚も堂々と立ち続けていた。その姿に、感じ入る。これが彼の戦い方であるならば、彼の下についていた者たちは、その背を見て、どれほど頼もしく感じていたことだろうか? 英雄と謳われるのも頷ける。
――――気を改め、剣を振るう。その全てが、弾かれる。まるで、そうではない、儂が教えたのはそんな打ち込み方だったか、と問わんばかりに全てが退けられる。何もかもが、通用しない。これまで何度も立ち会ってきた全ての経験が、脳裏を目まぐるしく過っていく。彼が俺の動きに対してどう動いていたのかを思い返して見出した、彼の癖に合わせて初めて放ったとっておきさえ、彼は容易く対応した。何ということは無い、彼が見せていた癖というのは、彼のものではなく、俺の癖に対応して表れていた動きに過ぎなかったのだ。
無我夢中になり、彼の構えを打ち崩さんとするが、それが届く事は無い。やがてまた、彼の剣が振り下ろされる――迅い…!
咄嗟に構えた剣ごと、派手に吹き飛ばされる。勢いのまま引き摺られ、噎せながら起き上がった。見れば、鎧には大きな切り傷のような痕が付いており、肝が冷える。剣でなんとか威力を殺し、尚もこれほどの重さを持とうとは! これが、齢七十を超えた老人の剣だと? 冗談じゃない! 何の異能も無く頑強な灰銀の鎧にこれほど大きな傷跡を残すことが、どれほどの労力を要するのか分かっているのか!?
俺も……俺とて、幾多の修練と実戦を越え、成長を続けていた筈だが、この英雄との力の差は未だ明らかなものだと、痛感する。全く、どれほど分厚い壁として俺の前に立ちはだかるつもりなのか。……絶望がふと脳裏を過るが、俺はその弱気を撥ね飛ばす。
――――そうだ、委縮するわけにはいかない。俺は、強くなった!
あの時よりもずっと、ずっと……幾人もの屍を越えて、数え切れぬ死を越えて!
吼える。恐れを振り切り、弱気を叩き潰して、ただ、勝つために、示すために。貴男が育てた子は、貴男を越えてみせるのだと!
何より、この人の前で、子が死ぬ所を再び見せなど、するものか!!
一つだけ……一つだけ、彼には隙があった。それは彼自身のものというよりは、彼の纏っている鎧によるものである。それは、傷痕であった。槍で激しく貫かれた痕のようなそれは、彼の胸元、心臓の真上に付けられていた。……奇しくも、俺が友に付けられたそれと同じように。
剣の切先に神経を集中する。ただ、あの一点でいい。全てを穿ち、貫いて、一撃で終わらせる。
ただ一つの攻撃だけに、これまでの全てを賭けよう。これまでの……産まれ生きた、今へと至るまでの全ての道をここで、この剣に預けよう。
呼吸を、止める。同時に、全ての流れが止まった気がした。自身以外の何もかもが、時の流れから置いて行かれたように思えた。
身体が、独りでに動く。力が抜け、宛ら倒れ込むかのように、矢よりも速く踏み込む。
剣は、それよりも一拍遅らせて、渾身の力を余さず伝えて突き出した。狙いはただ一つ。
老騎士が構える剣の腹、中央に走る稜の上、弾かれ、逸れる事を前提として、その上で心臓を……貫く。
何故だか、ふと、剣を交わした誓いの日のことを思い出した。
――――血が、零れ落ちる。必殺の突きは、果たして灰銀の鎧を貫き穿ち、その栄光に、幕を引いたのだ。
ディディエは一言だけ、「見事だ」と呟いて、俺を抱き留め、頭をゆるりと撫でて……その永きに亘る生涯を終えた。
「ありがとう、ございました……ラクァルの誇り高き騎士よ、俺を救ってくれた人よ。
……我が父よ、どうか、貴男の魂に安らぎがありますように」
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