第四話 赤き大地に死が満ちる

 滴る血と鉄の神。

 ザリエラの名に、捧ぐ。


 遍く大地に満ち満ちる、

 冷厳なる死と、故に耀く生命を。


 ――――人々のそう謳うが故に、神はそれを受け容れた。


 かつて、彼らは加護を得て、外敵の悉くを討ち滅ぼし平らげた。 

 彼らは篤く神を愛しており、だから、何かを返したかった。


 ……ああ、その様にして、それは始まったのだ。




 *




 扉へと手を掛けようとして。

 前触れも無く、その異常は忍び寄っていた。


「……?」


 不意に、視界の中に不可解な黒点が生じる。

 何ごとかと辺りを見回すが、黒点は常に一定の位置に有り、俺の動きについてくる。どうやら、俺の肉体に異常が生じているらしい。


「なんだ、これ……」


 黒点は、渦を巻きながら次第に大きくなってゆく。それに伴い、耳へと届く音がある。

 不気味に遠くから響いてくるそれは、全てを嗤うかのような絶叫であった。


「こんなの、絶対に、おか、しい……」


 意識が、急速にぼやけ始める。黒点は、もはや点などと呼べぬほどに大きくなり、俺の視界を完全に覆い切っていた。やがて、四肢が痺れるように感覚を喪っていき、その代わりに、肉体が何かに包まれているような感触だけが現れる。

 ……やがて、ぐにゃりと何もかもが歪み捻じ曲がるような、吐き気を覚える感覚に囚われた、一瞬の後に。


 *


「――な、え、そんな……此処は……」


 先ほどまで居た場所とは、全く違う所に立っていた。全く奇怪な事に、ついさっきまで身に着けていた礼服やら何やらは何処へ行ったのか、着替えた覚えも無いのに、鎧兜に黒い外套、灰銀交じりの剣を携えた、騎士の正装をしている。

 ……まるで、誰かに、戦えと言われているかのような気がした。


 視界に広がっているのは、どこまでも続いていくような、荒野であった。

 赤く、赤く。土塊と巌ばかりがそこに在り、天覆う空までもが錆びた鉄の色をした、静かな、不毛の荒野。

 ……紛れも無く、何度も幻視して、夢に幾度も現れた、あの。


 ただひとつ、夢の景色と違うのは。

 時に所在無さげに歩き回り、時に痛苦に悶えていた女性は居らず、その代わりに。

 ――我が同胞たる征剣騎士たちが何百も倒れ臥し、一人の騎士ならぬ男が、その中心で跪いていた。


「……皆? そこに居るのは、もしかして、ピアー……なのか……?」


 俺の言葉には、誰も返事をしなかった。力なく倒れている騎士達は、まるで死んでいるかのようにぴくりともせず、跪き続けるピアーは、何も聞こえていないかのようにうわ言を漏らしている。


「出来た……私でも、出来た……」


「……ピアー、どうしたんだ……?

 君は、現状について何か分かるのか? 教えてくれ、君は何を知っているんだ」


「ここは、神の地……戦いと、死ばかりが有る……、

 血を……血、を……」


 血。彼がそう漏らした瞬間、嫌な気配が猛烈に迸る。

 緊張か、恐怖か。俄かに全身の毛が逆立つのを感じる。

 彼が何をしようとしているのかは分からないが、本能は激しく脈打ち、警鐘となり木霊する。それ以上は、危険だと!


「――待て。君は、何を言おうとしている?

 だ、駄目だ! それ以上言うな、ピアー!」


「――他ならぬ、我らが神のため。これらの生を、戦いと血を捧げます――」


 彼は息も絶え絶えにそう言い放ち、力なく頽れる。瞬間、俺の脳裏を過るものがあった。

 何度だって夢に見た、あの赤い髪の女性の姿を。ローラン様が仰っていた、古い神像に瓜二つの、あの神の如き見目の女性を。……悲鳴が、聞こえた気がした。そんな事をしなくてもいいと泣きながら叫ぶ、かつても聞いた、あの悲鳴が。


 ピアーは、もう死んでいた。


 ピアーの骸へと向けて、何処からか、黒い雫が滴り落ちる。澄み切った真黒な雫は、骸に当たると弾けて跳び跳ね、まるで水面に小石を投げ入れた時のように、悍ましい波紋が生じる。それは波打つままに、遺された肉体をもぐにゃりぐにゃりと捩じ曲げて、何処までも拡がり延び、俺たちの全てを余さず呑み込もうとしている。


「ええい! くそっ、一体何がどうなって……!」


 やがて、うねる暗黒の波紋の中心から、一つの球体が現れ浮かび上がる。真黒でありながら、何もかもを照らしつくす太陽の如き威光を湛えたそれは、俺たちの全てへと、遍く漆黒の輝きを降り注がせる。

 俺は、恐怖した。それは、純然たる恐怖の力であった。この世のあらゆる不吉を掻き集めたとて、この威光には遠く及ぶまい。かの邪視を齎す妖獣でさえも、この燦然たる漆黒の前には、ただの塵芥に等しいものだ。

 暗き閃光が、騎士達を、世界を貫き穢し、染めていく。それは、唯ひとつの例外も許されぬものだと、俺は確信していた。

 ――――だが。


「こ、れは……」


 懐から浮かび上がり、その絶望に抗う、二つの星の如き瞬きがあった。

 ひとつは、謎の占い師、サイエラから受け取った、女神と騎士のカードが。

 もうひとつは、かつてアステレ氏がくれた、俺の首飾りへと宿った神秘の力が。

 それらは、全ての邪悪に抗う煌めきとなって俺へと降りかかる闇を弾き、退けている。


「護って、くれているのか……!?」


 永劫とも思えるほどの時が、流れたかのような気がした。きっと実際には、ほんの数十秒といった所だったのだろうが。

 暗き閃光は完全に過ぎ去り、それを放っていた暗き球体は、役目を終えたかのように自壊して、塵となって消え去った。


 場には一見先ほどと変わらぬような再びの静寂が訪れたが、きっとここに立てば、誰であろうと理解できるだろう。


 この世界は今や、悍ましき穢れと冒涜に満ちている。

 重く、ただ重く、呪わしき負の力が溢れているのだと。

 それは嘆くべき理として、律として世界に君臨し、俺の心の内へと何ごとかを語り命じて、俺を正さんとする。


「――ッ、頭が、痛い……」


 俄かに衝動が、湧き起こる。戦い、血を歓びとする、暗い欲望が身を起こす。

 腕が勝手に剣の柄へと伸びてゆくことに恐怖して、叫ぶ。


「ち……がう、要らない! それは、俺が望んだものじゃない!」


 寸での所で、呪縛を打ち払った。腕が、震える。気づいてしまった。

 ……俺は、護ってくれるものがあった。故に、あの暗闇による致命的な汚染は免れ、狂える律を持つ世界のただ中に在っても、どうにか己を保てたが。

 ――だが、他の皆はどうだ? 死んだように倒れ臥す彼らは、直にあれを浴びたのだ。彼らは、世界そのものが戦いを望むようになってしまった、この狂った領域で……果たして、自らとして在れるだろうか。


 やおら一人の騎士が、むくりと起き上がった。

 顔は兜により見えず判別できないが、彼が誰であるかは、紋章と階級で分かる。あれは……。


「ルナール! ルナール、大丈夫か!」


 直ぐさま彼の傍に駆け寄って――――彼が言葉も無く抜き放った白刃に、あと少しで斬られる所であった。


「……ルナール? 俺が、分からないのか? 鎧を見ろ、剣を見ろ。同じ、征剣騎士だと分からない筈が、無いだろう? 紋章を見れば、分かるだろう!? 俺がノアイユの、アーダルベルトだって事ぐらい――」


 二度、三度と白刃が閃く。それらの全ては俺の急所を狙っており、彼が俺を殺す気である事なのは、もう疑いようも無かった。言葉は、届かない。なら――


「――ああ、分かったよ。なら、一遍ぶん殴ってやれば、思い出せるか?」


 彼と改めて向き合い、向かって右に思い切り踏み込んだ。相変わらずルナールはよく俺を見ており、それに反応し、そちらへ向かう。俺はそうなると分かっていた。だから、途中で強く踏み込んだ足を軸とし身を返して左へと進み、彼の懐へと潜り込んで、下から上へと向けて思い切りその頭部を殴りつける。隊長仕込みの一撃だ。


 激しい金属音が響く。衝撃によりルナールの兜は撥ね飛ばされ、その顔が外気に晒される。果たして彼の眼は、正気の者がもつそれでは有り得なかった。それは人の持つべき眼差しでは無い。それは、心と意志の有る者には、持ちようが無い。彼の瞳は一切の感情も無く、外部で生じているものを捉えるためだけの無機質な機構に成り果てているようであった。

 ルナールは、強烈な一打を受けて尚、言葉を発することも無く、俺へと向き直り、正眼に剣を構えている。


「……そうか。じゃあ、これならどうだ」


 俺もまた、剣を構え、彼と対峙する。まだ、決定的な対立をする前に為せることは有る。

 剣を振るう。ルナールは素早くそれに応じ、弾く。それが、俺の狙うままである事に気が付いているのかいないのか、ただ機械的な反射行動として。

 彼の行動は、俺により制御されている状態であった。俺は、一方向にしかそれを為せない様に打ち込んだ――即ち、俺は彼に弾かれたことにより、彼の隙を引き出して、自分は上段で構えているような体勢へと持ち込んだのだ。

 この角度と勢いで、彼の剣の中ほどへと打ち込めば――!


 剣がぶつかり、悲鳴を上げる。痛みに喘ぐような、一条の星が流れてゆくかのような、甲高い音が響く。……だが、それを叫んだのはルナールの得物だけであった。

 中ほどから叩き折られた刃が、宙を舞って地に刺さる。なんとか、巧くいった。ディディエから直々に教わった刃折りの業も、役に立ってくれて何よりだ。

 ルナールは体勢を崩したが、転ぶことも無く持ちこたえたようで、また、ゆらりと俺に向き直り――がむしゃらに此方へと突っ込んで――


「……ッ!」


 油断、していた。或いは、これで戦いが終わったことになって欲しいという、甘すぎる願望故だったのだろう。ルナールの、半ばから折れた剣は俺の腹部へと突き立てられ、鎧にぶつかり激しく火花を散らせた。鎧が無ければ、間違いなく致命傷となっていただろう。


 ……ああ、本当に彼は俺のことを殺す気なんだなあ、と他人事のようにうっすらと考える。それが、自分が今直面している状況であると、はっきり認識したくなかった。

 ルナールは何も考えられずに在るようで、遮二無二俺の腹へと、折れた剣の鋭利な断面を何度も何度も突き立て続けている。

 俺は、彼の頭を横から殴りつけた。ルナールは、ぐらりと上体を揺らし、剣を手放し地へと崩れ落ちたが、まるで、糸に吊られた人形のように身を跳ね起こし……また、俺へと向かって来る。


「……ルナール。俺では、君を止められないみたいだ。

 ――――こうする、事でしか」


 ルナールを蹴りつけ、彼我の距離を取った。

 踏み込み、剣を振るう。彼の……彼の首が、真一文字に切り裂かれた。

 彼は崩れ落ち、もう永久に、戦う事はなくなった。

 ……死んだのだ。俺の、剣によって。


 紅が、乱れ散る。

 ……血が、花の如く咲き誇る。


 そう言えば、南方では人が死ぬことを、散華すると言ったりすることもあったなあ、と思い出す。

 ルナールの骸は力なく腕を放り出し、膝を突いたまま倒れるでもなく、まるで祈りを解いたかのような姿勢をしていた。


 俺は、友を殺したという事に怯えるでもなく、自分がその選択を、決断をしたという事に慄くでもなく、ただ、彼がこれ以上向かって来ないという事実に、ただ安堵していた。……そして、その安堵もやがて、その感情を抱いた己への嫌悪に塗り潰されていく。

 命を殺すという事は、もうずっと俺と共に在った。古く、父より教えられた狩人としての道は、矜持は、それの何たるかを俺に示してくれた。騎士として戦い、人と対峙する事だって、もう何度も有ったのだ。殺す事には、慣れている筈だった。なのに。

 ずっと親しんだ友を、自らの手で殺すということは……この余りに寒々とした、冷たく、地の底まで引き摺り込まれていくような絶望に満ちた感触は、慣れる事など有り得ない。もし、そんな日が来るとしたら、それは俺が人であることをやめる日だろう。


「…………ああ。皆、気が付いたのか」


 周囲を見渡せば、異常は、やはり全てを呑んでいたということが、分かった。

 騎士達が皆、気づけばゆらりと立ち上がり、ただ虚空を……ある一方を見据えて深々と一礼をし、徐に、得物を抜き放ったのだ。

 これから、何が起こるのかなど、考えるまでも無く理解できた。


「――ここは、神の地……」


 ピアーの発言を、反芻する。

 俺たちの神が、こんな事を望んでいるとでも、言うのだろうか?

 ――違う、という声が聞こえた気がした。それが、本当に誰かが叫んだ声なのか、俺がそう願ったから聞こえて来た幻聴なのかは、分からなかった。


 *


 あらゆる所から、剣戟の音が響いてくる。鉄の匂いが、むせ返るほどに立ち込めていた。俺もまた、彼らと同様に戦いの中に放り込まれ剣を振るい、ただ、死ぬことを拒み続けていた。やがて、終わりも見えないような激しい戦いの中で、兜は壊れ失われ、剣は無残に刃毀れし、先端の一部が既に欠けている。腕も片方は肘から壊れ役立たずになり、頭部に受けた傷より零れた血潮が、乾くのと共に瞼を固めてしまい、片目が開かなくなった。息をすることさえ苦しい、心臓が独りでに止まることを選びたがっているかのような疲弊に、しかし膝を折ることも無く、それでもただ、戦い続けた。きっと、その先に何かがある筈だと、漠然と願いながら。

 ……また一人、騎士がやって来たようだ。背後からの気配に振り返って向き合う。彼もまた例外なく血に狂い、獣の如き唸り声と共に襲いかかってくる――振るわれたその槍を見て、それが誰であるかに気づいた時。


 脳裏に、ついこの間、彼が嬉しそうに子を抱いていた光景が過った。

 ……だから、反応が遅れてしまったのだ。


「レオ――」


 胸元に、穂が突き刺さる。守りを完全に突き抜けはしないものの、鋭く放たれた刃は鎧を穿ち穴を開け、その下に在った首飾りを貫いたようだった。引き抜かれた先端には、僅かに肉へと到達したのか、血が付いている。熱が鼓動に乗って、傷痕から零れだす感触が伝わってくる。どくん、どくんと鋭い痛みが奔ると同時に、心の内より押し寄せる、たった一つの意識。……死にたく、ない。どうあってもやはり、まずそう考えずには居れぬのだ。死にたくない。なんと、浅ましき心であろうか? 友と戦うぐらいなら、それをこの手で殺すぐらいなら、いっそのこと己が死んだ方が良いなどと言える高潔なる者は、だが果たして本当に、本来ならば当然に存続を望むはずの、生物というものなのであろうか? ……どうあれ、だ。


「ああ」


 悟る。ただ、悟る。俺の内側に在るものを。或いは、本能と呼ぶべきか、それとも理性に基づいた確たる意志と語るべきものなのか。それは、野に往く獣のそれと何ら変わることの無い、人としての、文明的な誇りある知性に真っ向から対立する、血の内に脈々と継がれた衝動。


「――――ああ。俺は、死にたくない。だから……だから」


 痛みに膝を突いていた、血が滴る身体に鞭打って、ぐっと再び力を籠める。既に血に塗れていた手でしっかりと剣を握りしめ、それを支えに身を起こす。眼前には邪なる誘いに揺れ、本当に自らが望んでいるのかも分からぬ行いに惑ったか、苦しんでいる友の姿があった。不意に名を呼ばれ、己が人としてどう在ったのかが意識を過りでもしたのだろう。だが、彼は再びどろりと理性を蕩かして、伝家の名槍を再び構え、俺に対峙する。もう一度だけ、名前を呼びかけてみたが、彼はもう何も反応しなかった。


「ああ――もう、俺たちは退き返す事など、出来ないのだろう。

 友よ、我が無二の友。俺は、例えお前を殺すことになろうとも……お前のことは、掛け替えの無い友として、永久に記憶に留めよう。お前も、俺を殺したとて、どうか俺達が友であることを忘れてくれるな。……さあ、始めよう。願わくば戦いの先に、それでもきっと、良い未来が有らんことを。願わくば……死の揺り籠が、我らを優しく抱き留めんことを」


 剣を、友へと向けた。友は、退る事無く俺の前に立ち、それを一身でただ受け止める。言葉は、無い。或いは、口を開く事すらも侭ならないだけだったのかもしれない。開けば、嗚咽と嘆息と、血に狂う呻きのみがただ零れて消えるだけだっただろうから。俺たちは真っ直ぐと向き合って……そして、戦いが始まった。


 剣を振るい、弾き、弾かれ、刃が毀れようとも怯むことなく、槍の柄が断たれれば腰の剣を抜き放ち、剣が折れれば、そこら中に幾らでも転がっている剣を拾い上げて己が得物とし、再び戦いを続ける。永遠に続くかとさえ思うような……或いは、どうかこれが永遠に続くものであって欲しいという願望を、一心に抱かざるを得ない死闘も、終わる時が、来る。初めて会ったときから、何度も何度も手合わせをして、俺は結局、彼には一度も負けることは無かった。たった今に到ってさえも、一度の例外も、無かった。無かったのだ。

 ……俺は、逡巡する暇もなく勝った。紙一重を制し、鎧の隙間、板金なき肩の関節部より鎖帷子を強引に穿ち貫き、友の心臓に、過たず刃を打ち立てて。血が、剣を伝って零れゆく。その命の淵源を貫いた剣から直に伝わる鼓動も、見る間に弱弱しく衰えていく。……もう、彼は死ぬしかないのだ。俺が、そうしたのだ。

 幼き時分、初めて出会った同じ年頃の、本当に何物にも代えがたい、楽しみばかりが互いの間に存在していた、我が終生のものとなると信じて疑わなかった、友。

 ……剣を引き抜くと、命が喪われるのに十分すぎるほどの血が溢れた。死は明確な形となり、俺の心を暗色に塗り潰していく。


「……さようなら。レオ。さようなら……さようなら」


 ……それ以外に、何が言えるものか。謝れるか。謝れるものか! 自分が死にたくないから友をこの手に掛けておいて、殺してしまってごめんなさい、だなどと言えるものか!! そんなことをするぐらいなら、自分が死ねばよかったのだという結論しか導き出せないそんな言葉は、惰弱な弱音に過ぎないのだ! 自分が罪の意識から逃れたいと思うが故の、文句の一つも言う事が出来なくなってしまった者に、この上から更にもたれ掛かり甘えるような、決してしてはならない行いだ!! 俺は、俺、は……俺は、許されない。最早、許されたいとも、思えない。

 ……それでも、死にたくない。俺は……どこまで、行くのだろう? この道の先にあるものは、一体何なのだろう? 本能と理性が、共に囁いている。早く、死んだ方が良いと。生きる事は、恐るべき呪いとなり俺の魂をも蝕むだろう、と。だが、今となっては、どのような警告とてもう遅いのだ。


「……生きねば。生きねば、ならない。俺は、生きるために殺したのだ。

 ならば生きねば、嘘になる。俺は、生きねばならぬ…………神よ……」


 友の骸に背を向けて、剣を握りしめ、自らに言い聞かせる。それは、消えぬ罪業に押しつぶされぬ為の、精一杯の強がりでしかない。


 不意に……このような場所に有る筈も無い瞬きが……星の如き閃光が、ほんの一瞬だけ奔るのが、見えた気がした。


 ――――奇妙にも、劫火に蕩ける溶岩の如き熱が、突沸するかの如く煮え滾る力が、自らの奥底から湧き上がってくるのを感じる。違和感を覚えて剣を持つ自らの手を見遣れば、奇妙な事に、全体にべったりと付いていた友の血は全てが嘘であったかのように掻き消え、色の無い、まっさらな雪のような灰の塵となり舞い散っていた。

 ……もうひとつだけ、気づく。胸の傷が、正確には、鎧に開けられた穴の下に在る、貫かれた筈の首飾りが、白く光を放っている。光は時間が経つごとにますます強くなる。やがて胸元から、穿たれて壊れていたとばかり思っていたあの透き通る石が、鎧も何もかもすり抜けて、浮かび上がってくる。石はやがて輪郭を失って輝きとなり、輝きは弾けて細かな粒子となり、俺へと吸い込まれていく。数瞬の後に。


「…………?」


 鼓動が胸を越えてどこまでも響いていくような奇妙な感覚が、一瞬現れ、去った。

 意味が、分からない。分からないが、本能はそれを感じている。あの不可思議な輝きが、遠い日に母がくれたあの石が、俺に何かを目覚めさせたのだと。友の一撃に膝を折り、それでも生きたいと願ってしまった俺に、応えてくれたのだと。

 理屈など、分からない。ただ一つ感じているのは、今の俺は、流れた血に、それが流れた意味を与える事が出来るのだということだけだ。これは謂うなれば、何かを――今の場合は、友の血を対価として――自らの力と成す、謂わば"代償"とでも語るべき悍ましい力だ。この、凡そ人の持つべからざる力は、如何なる神秘に依ってかは分からぬが、俺に宿った。平時なら、俺とてそれに恐れを抱いたであろう。だが――


「――ああ。これならきっと、最期の時まで戦える」


 まさに、まさに。流れて零れ、河の如く広がり続ける血溜りの中で、それを薪と戦い続けることが出来るのならば、最早、何にも負けはすまい。俺は、友の血と引き換えに力と成した、白き灰を纏う剣を振るい、向こうから襲ってきた友をまた一人、斬り捨てた。尋常ならざる、人の叡智を越えた力を纏う刃は、鉄も鋼も、頑強な灰銀さえも一太刀の下に紙の如く容易く割き、人はただ、命を零すのだ――――


 *


 そこからの戦いは、一方的なものとなった。或いは、戦いとさえ呼ぶべきでは無かったのかもしれない。それは、ただの介錯であった。互いに殺し合う事しか出来なくなった者への、最後のはなむけ。苦しみも無く、痛みを感じる暇さえもなきように。純粋な慈悲の心と、生き延びたいというどうしようもない我欲を胸に、ただ白を纏う剣を振るい続けた。一人、また一人、もう、永遠に言葉も交わせなくなっていく。昨日までは普通に過ごしていた、親しく口を聞き、同じ食事をして、同じ所で寝ていた者たちを、この手でじかに殺していく。罪が、限りなく重なり続ける。どのような慈悲深き超越者であろうとも、俺を赦す事など出来はすまい。せめて苦しまぬように、などという心もまた、罪悪の念を和らげるための利己に過ぎないのだから。


 共に戦った者も、常に俺を導いてくれた者も、俺より幼く、俺を慕ってくれていた者も、日々鎬を削っていた者も、皆等しく消えてゆく。命とは、斯くも呆気なく終わってしまうものなのか。そんなこと、獣たちを狩っていた時からよく知っていた筈だったのに、今になって何故こうも俺の胸を締め上げるのだ。欺瞞だ。傲慢だ。命を奪う事に、何の貴賤が要ろうものか。殺している事実は、何も変わらないのに。


 ……血溜まりの中で、自らの手で殺めた友たちを、ふと思い返す。

 面倒見の良い騎士を、殺した。あの時、俺が初めて手合わせをした彼は、何にも代えがたい嗅覚を持っており、よく状況を掴み、俺が敵方から急襲された時に、味方を引き連れ現れたこともあった。彼は、他人の手柄にただ乗りしているだけだと笑いながら嘯いたが、あれは彼の誇るべき力そのものだった。


 双子の騎士を、共に殺した。彼らは二人で一つであるかのように共に戦い、息の合った連係など、右に出る者はいなかった。……すっかり寝坊して、鍛練に遅れた時さえ一緒だったのだ。彼らは死ぬ時も共に、と笑いながら語っていたが、その願いは叶えてやれただろうか。


 大きな躰の粗野な騎士と、彼と戦っていた者たちを、みな殺した。彼は、振る舞いこそ粗蛮ではあったが、常に友を愛し義を重んじ、軽率ではあるものの決して道理に背くことなく、誰からもその心を認められていた。彼は、泣きながら同胞と剣を交えていた。俺は、その苦しみを永遠に感じられぬようにしたが、それが彼にとっての救いなのだろうと語る傲慢は、赦せそうにない。


 恋多き騎士を、殺した。彼は、誰彼問わず女性を見ては必至に口説き、多弁に愛を語ってはその全てに破れ、最後には必ず古馴染みの女の元へと泣きついていた。何時も直ぐ傍にあった本当の愛に、彼は気づいていたのだろうか。


 寡黙な騎士を、殺した。彼は武骨に振る舞うが、人一倍情に厚く、休みの日には決まって町で、困っている者を助け、貧しい人々への施しをしていた。彼は誰からも敬われ、愛されていた。俺も何度か、手伝ったことがある。彼は、善良であったが、この状況でそれが活かされることは無かっただろう。


 誰よりも頭と舌の回る騎士を、殺した。彼は舌戦に於いては常に無敗であり、俺が王党派に有らぬ難癖を付けられた時や、昇進をやっかむ者が現れた時に出くわすと、必ず庇ってくれた。その恩を返す日は、もう永遠に訪れない。


 日向で甲羅を干す亀のような、ゆったりとした騎士を、殺した。彼は、普段は何を考えているかもはっきりとしないような不思議な男だったが、一度戦場に赴けば、烈火の如き闘志を以て、仲間の為に何より激しく戦った。だが今は、かつての如く戦鎚を振るい暴れる姿を、誰にも見せはしなかった。


 何かにつけ、俺と対立したがる若き騎士を、殺した。今にして思えば、彼は俺が嫌いというよりは、負けず嫌いなだけだったように感じる。一々張り合って、突っかかって来る彼のことを面倒だと思ったことが無いと言えば嘘になるが、何だかんだ、彼が居たことは楽しかったとも、思う。


 如何なる時も慇懃に振る舞い、常に皆を導いてくれた騎士を、殺した。彼は、恐らくその本質は獰猛なものであったのだろう。だがそれを理性で抑えつけ、善く在ることへの誇りを持っていた。先達としての器量が、征剣騎士随一であったことに、何の疑いようもない。……これで、勝ったのはまだ二度目だ。一度鍛錬で下した後は、何があっても負けてはくれなかったものな。……こんな場で勝ったって、嬉しくともなんともない。



 ……気づけば、俺が生死を共にした隊の仲間は、全て死んでいた。

 己に纏わる因果が減っていくのと共に、それに付随して、俺から人としての感情が流れ落ちていく奇妙で不快な感覚を覚える。ただただ、俺の内側から、血も零れていないのに、熱が喪われていくようだった。これは肉体では無く精神が傷を得て、死へと向かっているのだろう。


 *


 無情に滴る赤い雫が、乾いた地を潤わせる。削げ落ちた肉が、頸の離れた骸が無数に転がり、世界は余すところなく真紅に染まり果て、そこには紛れも無く、死が横たわっていた。

 一歩踏み出せば、脂気に満ちた泥濘がぬるりと足へ纏わりつく。だが、それを不快だと感じるほどの人間らしい心を持ち続けることも出来なかった。


 ただ茫洋と、考えるでもなく、思う。

 ああ。俺たちは……俺の同胞は、こんなにも多かったのだなあ。

 気づけば、方々から聞こえていた筈の剣戟の音も、すっかりと聞こえなくなっていた。

 今この戦場には、少なくとも見える範囲には、誰も残っていない……俺が、殺したのだ。

 この、異常な空間の中、掻き立てられるままに皆戦い、そして死んで……その先に、何が有るというのか? 分からない。今はまだ、なんの変化も無い。随分と静かになった戦場で、ただ片膝を突き、剣を大地に突き立て屈み込む。無意識に取ったその姿勢は、もうすっかりと慣れ切った、祈りの為のものだった。

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