第三話 斯くて祈りは渦を為し

「…………」


 皆が、重苦しく沈黙する。この状況で何かをしたいと願った所で、俺やダフネさんでは何の助けにもなりはしないだろう。大人しく、専門家に任せるほかは無い。

 だが、分かっていたところで、結局ただ坐して待つことしか出来ないというのは、歯がゆいものだ。

 ……医師の方を見れば、何やら忙しなく、持ってきた水を使って作業をしていた。何でも、胃の腑の洗浄だとか、大変な事をしているらしい。


「――おや、アーダルベルト様。わたくしの仕事に興味がおありですか?」


「……興味が無い訳では無いが、それ以上にディディエが心配なんだ。大丈夫そうか?」


「ええ、ええ、確かに中毒ではありますが、この程度ならまあ、問題ないですとも。

 ……ヒヒ、私に掛かれば、例え死にたいと思っている者であろうと、生かすことなど訳ありません。どうか、のんびりと見ていてくださって構いませんよ……イヒヒッ」


 医師がそう怪しく笑うと、歯抜けの口が露わになる。

 ……本当に大丈夫か? 本当に? ……いやでも、エクトールさんは腕は本物だ、と語っていたしな……。


「う、ぐ、ぐ……」


 ディディエが、苦しそうに呻き出す。俺はすわ何ごとかと慌てたが、医師は動じることも無く、脇に置いてあった桶を寄せ、ディディエの顔を突っ込ませた。

 ……ディディエが苦しそうに、血が混じった胃の腑の中身を吐き出させられる音が、室内に響き渡る。

 医師は、興味深げにその吐瀉物へと顔を近づけ、何やら匂いを嗅いでいた。


「――んー……やはり、アレですねえ。三日四日は寝込むかもしれませんが、命に別状は無いでしょう。わたしを早めに呼んでおいて、良かったですね。対処が遅くなれば、まあ死んでいたでしょう。まあ、不落と名高いディディエ様の事ですから、案外生き残っていたかも分かりませんが」


「な、そんなに強い毒だったのか……?」


「ええ、まあ。盛られたのならば、明白な殺意があったと見るべきでしょうな。

 脅しや嫌がらせで用いる物では無いでしょう。ラクァルでは見ない毒草ですから、取り寄せるとなると高くつきますし――これ、頂いていっても構いませんか?」


 医師は、吐瀉物を指差しながらそう言った。

 ……そろそろ、医師ではなく、怪医師とでも呼んだ方がいいのかもしれない。それぐらい彼は胡散臭く、怪しかった。エクトールさんは、どこでこんな人物と知り合ったんだ……?


「……そんなもの、何に使うのかは知らないが。欲しいなら、持っていくと良い。貴方は医師だ、悪事になど使うまい?」


「ええ、ええ、無論ですとも。必ずや、人の世の発展に役立てるとお約束しましょう。こう見えても、私とて矜持は持っていますので、ご安心を……ヒヒ」


 その引き笑い、怖いんだよなあ……。

 困惑と共に引き釣った愛想笑いを浮かべていると、ずっとすすり泣きながら俯いていたダフネさんが、徐に口を開いた。


「あ、あの……ディディエ様は、大丈夫との事ですが……」


「ええ、ええ。私の師匠に誓っても良いぐらい無事だと、断言します。

 貴女は、家政婦さんですか? ……なら、軽く注意事項を認めておいて差し上げましょう。良く従っておけば、必ず快復しますよ」


 言うが早いか、彼はいつの間にやら手にしていた紙へとさらさらと何かを書き上げ、ダフネさんの元へと預ける。


「そう、ですか……そう……良かった……!」


 ダフネさんは、言葉を絞り出しながら、泣き崩れた。……余程、不安が強かったのだろう。これで、ひとまず落ち着ければ良いのだが。

 一方で医師の方は、例の吐瀉物を持参した革袋に流し込んでいる。

 ……本当に持って帰るのか……。


「ええ、ま、こんなところですかな……っと、と……零すところだった。

 ええ、それじゃ、私は失礼しますよ。診察代はまた後日、経過を確認しに参りますから、用意しておいてくだされば。

 ――ではお大事に」


「ああ、ありが――とう……」


 俺が礼の言葉を述べるのも待たず、医師は足早に去っていった。

 ……最後まで変わった人だったなあ。


「妙な奴だろう? 俺も、そう思う。

 だが、あれで鉄都随一の医師であることは、間違いないのだ。現に、ディディエは一命を取り止めた訳であるしな」


「エクトールさん、有難うございました。

 とりあえず俺は、ダフネを部屋で休ませてきます」


「ああ、そうしてやれ。

 ……後で話が有る。俺は、そうだな。先に集まった皆を落ち着かせ、帰しておこう。

 不安を抱えさせたまま長居させても、良いことは無いしな」


「済みません、お願いします。俺のような若造が語るよりも、万倍良いでしょう」


 *


 応接室。

 俺は、ダフネさんを部屋で休ませてやった後、ここでエクトールさんと顔を突き合わせていた。

 ふと横を向き、窓から表を見やれば、すっかり日は落ちていて――これまで見たことも無い、不気味にも美しく輝く真円の紅い月が、上がっていた。


「…………?」


 空気中の塵か何かが、光を変な風に見せているのだろうか。俺が思考を巡らせていると、エクトールさんはゆるりと、口を開いた。


「――こちらは問題なく終わったぞ。ダフネ嬢の潔白についても、俺の名を出して皆に保障しておいた。

 彼女の様子はどうだ?」


「ええ、茶を用意してあげたら、なんとか落ち着いたようです」


「ふむ……茶、か。それはいいな。良ければ、俺にも一杯淹れてはくれないか。無論、お前の分も用意して、だ。

 重く、苦々しい話をしようというのだ。茶の一つでも無いと、やっていられん」


「……良かった、実は用意しておいたんですよ。そんな気分にはなれないと断られたらどうしようかと思っていました。今、持ってきますね」


 俺は、一度部屋を出て茶のセットを取って来た。

 カップへと茶を注ぐと、温かな湯気が立つのを見ると、不思議となんだか落ち着く気がする。

 二人で、揃って茶を啜る。一息つき、俺は切り出した。


「あの、エクトールさん、一応お伺いするのですが……エクトールさんは、ダフネの事を疑わないのですか?」


「おう、愚問だぞ。

 ディディエは、悪意を持つ者を傍に置き続けるほど節穴では無い。

 確かにあいつは豪放な武断派だが、伊達で騎士長の座を何十年と務めていた訳では無いのだ」


 一切の迷いも無く、彼はそう断じた――ああ、これが信頼というものなのか。

 数十年の時を共に戦場に立ち続けた友への、絶対的な感覚は、なんと気持ちの良いものだろうか。


「はい。俺もそう思います。……しかし毒を盛る、とは。

 まさかとは思いましたが、あの男……」


「犯人に、心当たりが?」


「心当たりというか、あの男……インゴ・フンメルが、酒を持って近寄って来たんです。初めは、厭味ったらしい奴だとしか思っていなかったのですが――」


 俺は、事の顛末を語って聞かせた。エクトールさんは、膝の上に組んだ手に重々しく俯いている。


「……インゴ、か」


「ディディエも、油断というか……まさか、あの男がそこまで本気だったのだとは、思っていなかったのでしょう。何せ、奴が持ってきた酒は、奴も飲んでいるのです。まさか、あれ程に強い毒が盛られていたなどとは……いえ、まだ奴が全く無関係である可能性もあるのでしょうから、こう断ずるのは早すぎるのですが」


「だが、状況的にも奴が何かしら仕掛けたと考えるのが、最も自然な事は間違いないな。聞いただけでも、挙動が怪しすぎる。

 それに、アーダルベルト。お前、あ奴の子、マインラートの事は?」


「知っています。何度か、任務を共にしたことも有りますから。人の好い騎士でした」


「そう、そいつだ。

 ――実は、此度の黒位三剣への昇格は、お前にするかマインラートにするかで、意見が割れていたのだ」


「そう、だったのですか? まさかそれで、インゴ・フンメルは俺が邪魔だったから……?」


「それに加えて、あいつにはディディエへの私怨が有る。」


「私怨?」


「そうだ。インゴはかつて、自らの友をディディエによって裁かれた過去があるのだ。もうずっと遠い日の話だがな。

 まあ、単純な話だ。インゴには親しい友が居り、そしてその男は、紛れも無い罪人であった。外部の敵と手を結び、有ろうことかここ鉄都に侵攻させるためにあれこれ手を回していたのだ。

 当然、直ぐにそれは明らかになり、極刑を科せられたのだが、インゴだけは、最後までそいつがそんなことをする訳が無い、と主張していた。現実にはその男は間違いなく裏切り者であった訳なのだが、まあ詳しい話は良いだろう。

 とにかく、ディディエはインゴの館に乗り込み制圧し、匿われていたその男を見つけ、斬ったのだ」


「そのような、ことが……」


「ああ。恨みを抱いていても、まあ不思議では無いだろう。

 ……俺としては、外患を招かんとした者を匿ってなお、その友諠を思い軽い罰則だけで済ませたディディエに感謝するべきだと思うがな。

 まあそんな訳で、インゴとディディエの間には、因縁があった。それが今回、お前がマインラートと競り勝って昇格したことにより、燻っていたその火種が炎となって甦った、というのが俺の見立てだ。……無論これは、侮蔑に満ちた当て推量ではない。

 ……インゴは、今から一月ほど前に、シルヴェストルと激しく言い争いをしていた。お前のような若造より、俺の息子の方が位を上げるのに相応しいと、詰め寄って主張していたのだ。

 シルヴェストルは私一人で決める事では無い、と退けていたが、インゴが納得していないのは誰の目にも明らかだった。

 それからだ、インゴが王党派の首魁、ディリクと度々会うようになったのは。インゴは謀だとか、そういう、人の機微に付け入って暗躍することは得意では無い。奴の杜撰な振る舞いを見ていたのなら分かるとは思うが、このような毒殺など、あいつに思いつく訳がない。あいつは本来、正面から剣を抜いて斬りかかるような真似しか出来ない愚直な武辺者であり……あの年になっても白位に至れなかったのは、それが為だ」


「王党派の有力者が、ディディエに恨みを持つインゴを焚きつけた……?

 そこまで、過激な手を打つなんて……」


「確かに今の騎士団の内情は、奴らにとっては良い状況では無かろうが、幾ら何でも、そこまで追い詰められてはいない筈だ。

 奴らは騎士派の中でも未だ大きな影響力を持つディディエへ対抗するために、インゴを抱き込み、お前という存在が現れ、再びノアイユ家そのものが勢いを取り戻すことへの牽制の駒とする事を本来の目的としていたのだろう。

 ……だが、奴らでさえインゴの恨みは抑え難く、直ぐに暴発してこうなった、といった所だろうか。この有り様では、あいつも直ぐに切り捨てられ、終わるだろうな」


 ……きっとインゴは、騎士派の貴族からも、王党派の貴族からも、ディディエの毒殺未遂の犯人として糾明されるのだろう。そう思うと、だんだん胃の辺りが気持ち悪くなって来た。

 ああもう、なんでこう、人が集まる所では人同士がこうなってしまうんだ?

 ……剣を振っているだけで全てが片付くならば、どれほど楽だろうか。何で、国家臣民の為と力を尽くそうとしているだけで、政局のあれこれに巻き込まれなければならないんだ。

 詮無き考えを、頭を振って追い払う。


「確かに、俺の昇格が決定されるに当たり、騎士派の者達からの突き上げがあったとは聞いていましたが……」


「……ノアイユ家は確かにかつて程の影響力こそ持っていないが、それでも騎士派の貴族達や民衆はその名に期待していたのであろう。

 初代たるクローヴィス様やディディエが人生を懸けて築き上げた"誇らしき騎士"という栄光と伝説は、今でも人心に強く根付いている。

 騎士とは、強さとは、国家の礎たる剣とは、神の徒たる刃とは。ラクァルという国家に深く刻まれた矜持の体現者として、ノアイユに強く有って欲しいという願いを抱くものが、俺やディディエが想像しているよりもずっと、多かった。 

 ……お前が思っている以上に、お前がこの早さで三剣へと至った事は、大きなことだったのだろうな」


「…………」


「正直に言えば俺は、お前の昇格については尚早ではないか、と慎重な立場を取っていた。

 別に、お前の実績や実力に疑念を抱いてはいないが、それは政治的な力が一度に加わり過ぎるのではないかと、恐れていたのだ。

 現に今このような事態に陥っているのを見るに、もう少し強く主張するべきだったのやもしれぬ。……もう既に、時は逸したが」


「俺が……騎士派の雄として未だ有力であれと、そう人々が望むノアイユ家の子が昇格したために、ディディエは王党派による謀に巻き込まれることになったのですか」


「そも、聞いた限りでは最初に狙われていたのはお前だったようだがな……」


 確かに、インゴは最初、俺へとあの毒酒を勧めて来た。ディディエが庇ってくれなかったら、俺が倒れていたかも知れないと思うと、背筋に嫌な汗が伝う。


「…………ディディエは、今のノアイユ家なら、さして耳目を集める事も無く、

 俺が騎士としてやっていくのに大きな不都合はない、と見立てていたようですが、現実とは複雑なものですね」


「俺もそう思っていたが、お前は俺たちの予想を遥かに超えて優秀であったのだ。多くの人々が、思わず期待してしまう程に。

 名高きノアイユ家を、英雄たるディディエの後を継ぐ者が、よもや今こうして流星の如く現れるとは、と」


「俺は……どうするべきだったのでしょうか?」


「あまり気に病むな、と言っても無理な話か。それも、仕方あるまい。とにかく、お前はよく頑張っているさ。

 此度の一件は、誰もが明朗に筋道立てて、お前の昇格についての異議を唱えることが出来なかったという証左でもある」


「正面から力を抑えられないのならば、後ろ暗い謀殺に頼る他は無い、という訳ですか。

 人々から認められたとしても、その先に待っているのがこれでは、嬉しいとは思えませんね」


 俺は溜息を吐き、手すさびにカップの中の茶をぐるりと回した。冷め始めた茶が、弱々しく湯気を立てている。


「――エクトールさんは、そのディリクという者が、此度の謀に係っているとお思いなのですか?」


「ああ。というか、十中八九そうだろうと、俺は思っている。

 何時だって、決定的な証拠こそ出てこないが、ラクァルの上層で何かしらの事件が起きる時は、必ずこのようにあいつの影がちらついているのだ。もう何十年も、尻尾を誰にも掴ませぬままにな。

 伊達に、王党派等という胡乱な存在を纏めている訳ではないという訳だ。あいつは、紛れも無い怪物だよ」


「成る程……しかし、王党派、とは。今さら王家には何の実務能力も有りはしないというのに、彼らは何を求めているのでしょうか?

 王政復古などを目指したとて結局、騎士の在り方など今と然して変わりはしないでしょうに……」


「ふん、奴らの大半は現状の権威勾配に不満があるだけの烏合の衆だ。

 そうでない者達も、王へと責の全てを押し付けて楽をしたいだけの惰弱な連中に過ぎん。

 ……だが、そういったこれまでの認識も、改められてしまう時が来たのかもしれぬ。

 計り知れぬ悪意の下、政局の為に英傑をも殺めんとしたのであらば、奴らは最早捨て置くべきでは無い……此度の事件を受け、そう考える者は少なくあるまい。

 頭が痛い話だが、今はただ、真なる犯人が奴らでは無かった、ということを願うばかりだ。

 なあ、アーダルベルト。お前もよく祈っておけ。国が割れる日など、どうか永遠に来ぬように、と」


 ……国が、割れる。

 ああ、それは。なんて、嫌な響きだろう。だが、その嚆矢は既に放たれてしまったのかもしれない。

 騎士長シルヴェストルが……あのディディエへの深い思いを抱く彼がこの狼藉を放っておくことなど、きっと出来やしないだろう。

 となれば、その先に待っているのが……或いは、陰惨な内戦なのだとすれば。

 ……きりきりと胃が痛み、軽くだが、吐き気もする。


「――ええ。そのような日が訪れぬことを、唯祈るばかりです」


「うむ……さて、俺も帰るとしよう。

 こんな大事があったばかりだが、お前が安心して眠れることを祈る」


「有難うございました、エクトールさん。

 今日は本当に、助かりました。ディディエが永らえる事が出来たのも、貴方が居てくれたからです」


 俺の言葉に、エクトールさんは笑みを浮かべ、力強く頷いた。

 この状況でそう振る舞えるとは、なんと強いことだろう。


「……頑張れよ、アーダルベルト。

 お前なら、きっとどの様な苦境であろうと、越えていけるに違いない。

 そして、艱難と辛苦を越えた先で尚良き未来を築かんと出来るのは、強く良き心と、固く折れぬ意志を持つ者なのだ。

 お前は、俺やディディエをもやがて超え、強くなれると信じている。俺は元より、きっとディディエもそうだろう。

 どうか理想が、お前と共に有らんことを。

 我らがザリエラ神が、お前に微笑まん事を」


 簡潔な祈りの言葉を残した老騎士は踵を反し、義足が立てる硬質な音と共に去っていった。

 俺は椅子へと腰掛け、机へと肘を突き手を組んで額を抑えるように俯せ、深く、深く溜息を吐く。

 頭が痛い。何故、力を尽くし責務を果たさんとしたことで、同胞を内乱へと導くようなことになってしまうのか。


 ……気持ちが、悪い。胃のむかつきが治まらない。もし小さくない規模での戦いが起きるとすれば、多くの者たちが死ぬのだろう。如何に騎士派の勢力の方が大きく強いのだと言っても、王党派に何の備えも戦力も無い訳がなく。


 もしかしたら、親しい友や仲間たちが、戦いの中で死ぬことになるのだとしたら。

 もしかしたら、それが子を得たばかりの、人としての幸福というものを強く抱きしめている最中のレオかもしれない。

 もしかしたら、それがずっと俺の面倒を見てくれていたエリオット隊長かもしれないし、ボドやマーシュといったラクァル兵かもしれない。

 もしかしたら、それが――――


 気持ちが悪い。吐き気がする。頭が痛い。手や節々の神経が、泣くように疼いて痛む。

 ――ああ。強すぎる悲しみや不安に襲われると、人はこんな風になるんだなあ、とどこか他人事の様に、自らを省みる。


 ……何時も、こうしてぐるぐると思考していると不意に現れ、俺と話をしてくれるダフネさんは、今日は姿を現すことは無かった。

 ああ、いや。今日は俺こそが、彼女の下に向かってやるべきなのではないか?

 尤も、そんなものは不要で、彼女は今頃ただ穏やかに眠りこけているかもしれないが。


 扉へと、手を掛けようとして――――




 *




 奇怪なる紅き月の輝く晩に、ピアーは、言われるがままに大聖殿へと訪れていた。足取りは重く、引きずるように。自らの振る舞いを、認識しているのかどうかも定かでは無く。ただ茫洋と、虚ろに空を眺めながら。

 或いは、それはもう彼では無く、かつて彼であった何かでしかないのかもしれない。既に暗流の者の囁きは、魔性となってピアーの在り方を穢し切っていた。


「わた、しは……私が、それを為せるのならば……」


 祈りが、そこには在った。

 願いが、そこには在った。

 それは真実、愛と呼ばれるに相応しいものだった。


「人の世よ、どうか、安らいで在れ……」


 ――――だが。だが、それは。その願いは、大きすぎる。

 ……何故、人のたったひとりが背負って、ただ孤独に叶えられようか?


「…………何だって、為しましょう。己に出来る事を、果たすために」


 止める者は、居ない。

 手渡された、不気味に脈打つ石を固く握りしめ、彼は神像の足に追い縋るように跪き――


「――全ての苦しみが、終わりますように――」


 ピアーの肉体は、やがて独りでに動き出した。そこにはもう、彼の意志は介在していなかった。石を握りしめる左の手が、大きく、大きく振り上げられる。上体が引きずられて起こされた。

 そして、かつて彼のものであった筈の左腕は。

 ピアーの心臓へと、その石を突き刺したのだ。


 血が飛び散り、神像の足許へと降りかかる。

 瞬間、その石は燐光を帯びた。やがて薄ぼやけた光は波となり、ピアーの肉体を中心として、どこまでも広がってゆく。

 

 ……何処とも無く、哄笑が響き渡る。

 暗がりより現れた者が、人を誑かし、悪道へと誘う魔物が、嗤っている。

 それに伴って燐光は反転し、悍ましき闇となり渦巻き始め……空間をも歪める、愛を起点に練り上げられた呪いが、姿を現した。


 かつて、ヴォルジュの町から一切の者を拐かした、魔の大渦が。

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