第二話 闇は囁く

「――思えば、本当に遠くまで来た気がするな。

 父さん、俺は頑張って生きているよ……貴方や村の皆は今も生きているのかな」


 何処へ向けるともない言葉は、当然に誰にも返されること無く、雪に吸い込まれて静かに消えた。

 城塞が聳える丘の上から、雪の積もる飾り付けられた町を見渡し、思いを馳せる。

 人々は、冬の祭りに向けて準備を進めていた。


 戦いと共に流れる時は、瞬く間に過ぎ去ってゆく。

 位が上がるという事はより多くの任務を与えても良いと認められた訳でもあり、当然に、二剣となり、やがて三剣への昇格を控える身になって、以前よりも多くの戦いへと赴くことになっていた。

 確かに昨今のラクァルは他国との大規模な諍いこそないものの、妖しき獣の襲撃に加えて、南部の蛮族たちや、西部南方に位置するロヴリスとの小競り合いが頻繁にあり、故に俺も、度々国境の砦に向かったりしているのだ。

 俺達騎士が到着するとラクァル兵の皆は歓声を上げて喜び、その度に俺は、軽い緊張を抱いたことをよく覚えている。無論、必要とされていることは嬉しくもあるのだが、彼らの命、延いては鉄都の民の命を背負っているのだと思えば、浮かれても居られなかった。


 そして、日々が忙しく過ぎてゆく程に。

 やがて愛する生まれ故郷を、かつての友を、父母をさえ忘れてしまうのではないかと――彼らが生きていてくれるのではないか、という希望を抱いておらずとも平気になってしまうのが、怖くなっていた。

 最近になって気づいたことだが、両親などの近しい人物はともかく、さほど付き合いが深い訳でも無かった知り合いなどはもう、顔が朧げにしか思い出せなくなっている。……我ながら、薄情なものだと自嘲する。そして、結局はそれさえも意味が無いということに気づき、頭を振った。


「……明日。いよいよ明日、か。

 大人として認められるというのは、どれほどの意味を持つのだろう?」


 改めて考えると、何とも不思議な話だ。

 既にその大人たちに交じり、剣を振るっては敵と命がけで殺し合ってさえいる身なのだ。今さらお前は大人だ、と括られた所で、何かが大きく変わる気はしない。


 ……不意に、雪の積もる道を進む、さくりという音が背後より響いてくる。振り向けば、そこには――


「ああ、ピアー。何かあったのか?」


 一人の男が立っていた。純朴な眼差しの彼は、ピアーという名の、まだ歳若く、心根の優しい神官である。彼は一通の手紙を携えているようだった。


「アーダルベルト様、ここに居られたのですか。ローラン様から、お手紙を預かっております」


 ああ……ローラン様、また歴史語りでもしたくなったのかな。暇があると度々こうやってお誘いをかけてくるからなあ。


「ああ、有難う。態々ご苦労だったな、ピアー」


「いえ。皆のため、命がけで戦ってくださる騎士様や、祈りと共に皆を導いてくださるローラン様の為に働くことを、苦労だなどとは思いません。それらは皆、人々が安心して過ごせる世界を作ることに繋がると信じていますから。

 ……私は、自分が戦えるほど強い訳でも、皆に教えを説き、諭せるほどに優れた人間ではないと知っています。そんな私が、貴方たちのために……延いては、多くの民たちの為に働けるというのが、嬉しいのです」


 ……この手渡された手紙に書かれているのであろう内容を思えば、少々申し訳なるぐらいに真面目で善良な、よい志だ。


「俺は、そうやって誰かのために働けるという事を喜ぶ君の精神を、凄いものだと思うよ、ピアー。

 直接的な武力を持たずとも、人心に広く染み渡る素晴らしい説法が出来ずとも、そうやって理想を抱き自らに出来る事を全力で為せるというのは、とても難しいことの筈だ。

 ……君のような者が居てくれるから、きっと世界は良い形を保っていられるのだろう」


「そんな、我が身には余るお言葉です。

 ……これらからも、一層励みます。アーダルベルト様も、三剣への昇格が決まっているとお聞きしました。きっとこれからもっと、貴方は立派な騎士として、淀みなく進んでゆくのでしょうね。

 どうか、貴方の征く道にザリエラ様の加護が有りますように」


「……ああ。無論、この命が続く限り、どこまでも進むさ。

 君にもどうか、我らが神の加護が有らんことを祈るよ」


 ピアーは俺の言葉にただ深々と礼をして返事とし、やがて踵を反して去っていく。


「立派な騎士、か」


 ふと、随分と昔に立てた誓いを思い出す――俺がディディエに見出され、この道を歩み始めた最初の瞬間を。

 俺は、あの時の誓いに恥じる所の無い、立派な騎士に少しでも近づけているのだろうか?


「……俺も、行こう」


 時は、戻らない。ただ前へ、前へと進むだけだ。如何に自分の後ろに、懐かしく、再び触れたいと思うような温かい記憶があろうとも、最早思い出の中にしかないそれは、思い返す事しか出来ない。だから、先へと進むべきなのだ。

 ずうっと後ろを見ている間に、流れていく時の中でただ自分だけが取り残され、出来るはずの事を何もしないで過ごすよりも、せめて自分が出来る事をして、誰かの助けになれた方が、きっと良い。


「父さん……ああ、父さん、母さん、愛しきタレルの皆よ。

 俺が、貴方たちさえ忘れてしまう日が来たとしても……より多くの、誰かの為に生きていくのなら、それを赦してはくれますか……?」


 虚空に言葉を投げかけると、一陣の風が吹き抜け、木々を揺らした。

 ふと、思い出す。俺が、初めて一人で森に入った日の……村が消えたあの日の、帰り道の事を。


 あの時も、木々の葉が騒めいていた。無論それはただ、風が吹き抜けたことで揺れていただけなのだが、俺には森そのものがすすり泣いていたように感じたことを、今でも覚えている。


 俺は、生きている。ディディエが助けてくれたから。

 俺は、騎士としてここにある。ディディエと誓い、そうありたいと願ったから。

 ならば、進もう。今するべきことを、ただ見据えながら――――


 *


「――我が同胞たる、征剣騎士団の諸君。此度は、アーダルベルトの祝いに集ってくれたことへの礼を述べるところから始めたい――」


 夕刻。我が自宅たるノアイユ邸、その大広間。久しく使われていなかったこの部屋に今、多くの人々が集まっていた。理由は既にディディエが挨拶として述べている通り、俺の成人と、黒位三剣への昇格の祝いである。

 ……如何に鎧姿が正装の征剣騎士といえど、こうした宴席ではその限りでも無いらしく、俺を含めた皆、堅苦しい礼服に身を包んでいる。それはそれで圧迫感があるが、鎧姿で箱詰めになっているよりは遥かにましだろう。大広間に完全武装の騎士達が押し込まれているのを想像すると、少しだけ頭が痛くなった気がした。

 一通り挨拶を終えたディディエが、俺にも語るように仕草で促す。


「――血神を戴く我が同胞たる皆様、本日は私のような若輩者の為にお集まりいただき、感謝の念に堪えません。元はと言えば余所からやって来た私が、今こうして騎士として振る舞い、あまつさえ三剣という位を名乗ることさえ許されているということの重みを忘れたことは、一度だってありません。私がこうして多くの人々の為に剣を取り、道を拓くことが出来るのは、偏に皆様がそれを認め、様々な場で助けてくれたからであり、篤く、この場でお礼を申し上げさせていただきます。有難うございました。どうかこれからも、同じ神を戴く者として、同じ民を愛する者として、共に力を合わせて国家の為と尽くすことを許していただけるのなら、それ以上の幸せは無いでしょう。

 挨拶が長くなってしまい、申し訳ありません。今日はこうして、ささやかな宴を設けさせていただきましたから、皆さま、どうか思い思いに楽しんで頂ければと思います。

 それでは重ね重ね、本日は有難うございました――」


 俺が何度も練習した挨拶を終えると、拍手が起きた。若者を見守る年長者の眼差しに、敵対的な閥の者による刺すような眼差しと、俺へと向けられる目は様々だが、とりあえず大々的な失敗はせずにすんだらしく、嘲笑の一つも無く挨拶は完全に終えられたようだ。正直もう疲れた。部屋に帰って寝ていたい。

 俺が、余りにも人が多い環境と、よりにもよってその場の主役が自分であるという緊張に軽く吐き気さえ覚えて来ていた頃。洗練された身のこなしで人混みを通り抜け、俺の方へと向かって来る瀟洒な騎士が居た。


「やあ、アーダルベルト君。顔を合わせるのも随分と久しぶりだ。

 あの時はあんなに小さかった君が、今や三剣の騎士になろうとは、驚いたよ」


「コルネイユさん。そういえば、話すのは奉剣の儀以来ですね。

 碌に顔も出せず、申し訳ありません」


「はは、何だ。それぐらい忙しく職務に励んでいたから、こうして多数の人々に認められるところになったのだろうね。改めて、おめでとう。今後とも、我がウェルト家と親しくしてくれるのなら、嬉しいな」


「ええ、勿論。ノアイユ家とウェルト家の親交は、もうずっと古い時代から続いていると聞いております。そのような得がたい縁を俺の代で断とうものなら、歴代の当主たちに合わせる顔も有りません。……それに、何より俺自身がコルネイユさんやウェルト家の騎士達と親しく交流出来る事は、嬉しいのです。

 ……何分、田舎育ちの余所者、と見られることも未だに有るもので。ウェルト家の皆さまは、そうした事をあまり気にせず接してくださいますから」


「ふふ、確かにうちの連中は皆そうだろうな。

 元々……と言っても、本当に昔の話だが、うちだって実はラクァルの生え抜きという訳でも無いから、その辺りは緩いんだろう、多分」


「確か、ガルラームの方の出、という話でしたっけ」


「そうそう。今から千年以上も前、かの六英雄たる聖剣のクローヴィス様が、当時のウェルト家の当主を決闘で下し、征剣騎士団の一員に加えた、なんて話が有るんだ。その時にここまでくっ付いて来て、今やこっちの貴族様、って訳さ。

 今となっては、元々はそっちにウェルト家があったなんてこと、ガルラームでは誰も覚えてないんじゃないかな――」


「――おう、アーダルベルト。コルネイユも居たか」


 コルネイユさんと会話をしていると、横から割って入る声が有る。そちらの方を見やれば、供を連れたエクトールさんが立っていた。


「エクトールさん、お久しぶりです」


「うむ、本当に大きくなったものだ。

 ディディエに連れられて大聖堂に現れた時を思えば、その成長、著しいぞ」


 ……なんで皆とりあえず背丈の話をするんだ?


「はっはっは、儂の背を追い越す日は、まだ当分先であろうがな」


 ああそうだよ! どうせ俺の方が小さいよ、畜生!

 豪快な笑い声に顔を向ければ、付き合いで飲んだのか、酒精の匂いが軽く漂っているディディエが来ていた。


「おう、ディディエ。客人の応対はもう良いのか?」


「うむ、まあ一通りはな。軽く挨拶する程度なのだ、然して時間も掛からんさ。

 ……しかし、シルヴェストルの奴が来られぬのは残念であった」


 それは、俺も残念だと思う。

 今回、シルヴェストル氏は、政治的な……現騎士長とノアイユ家が盤石に繋がっているということを誇示しては、王党派が暴発しかねない、という理由や、単純に仕事が忙しかったために、欠席している。

 こういう、ディディエは勿論、エクトールさんやコルネイユさんとも交えてあの人と言葉を交わしてみたかったものだが、まあ仕方が無い。


 そうして、あれやこれやと四人で談笑する。この三人の中に俺が居るのは少々場違いというか、あまり相応しくも無い気がして少々座りが悪い。

 ふと見渡すと、レオが来ているのが目に入る。……目が合った。手を振ると、こちらに歩いてくる。その傍らには、品の良いドレスに身を包んだ美しい女性が在る。


「レオ。声ぐらい掛けてくれても良かったのに、なんであんな所に居たんだ?」


「え、いや……だって白位の騎士が一杯集まってるから、ちょっと来づらかった、っていうか……」


 ……気持ちは分かるがな、気持ちは。

 まあいいや。とりあえず、ご夫人に挨拶をしておこう。


「お前なあ……リディアさんも、今日は来て下さり、有難うございます。

 ラウル君も暫く見ていないけど、もう随分大きくなったのでしょうね」


「ええ、あの子も、もう自分の名前が分かるようになったのですよ。

 ――本日はご招待下さり有難うございます、アーダルベルト様。昇格も、成人も。まことにおめでたいい限りですわ。

 ……ほら、貴男もきちんと言わなければ。その為に、来たのでしょう?」


 俺の挨拶を受けたリディアさんは実に優雅に一礼をし、俺への言葉を返した後、レオにそう促した。

 レオは何だか恥ずかしそうにしながら、口を開く。


「お、おう。いや、そうだな。すまんすまん、改めてこういう事を言うのも、何だか妙に照れくさくてな。

 おめでとう、アーダルベルト。自分のことみたいに、嬉しいよ」


「ああ……有難う、レオ。フローリアにも宜しく」


「へへ、あいつも、喜んでたよ――」


 *


 そうして宴も進み行き、俺も挨拶に来る人たちの応対に慣れ始めた頃。一人の男性が、近づいて来た。

 ……さて、この人物は誰だったかな。あまり、見た記憶は無いが。


「やあ、アーダルベルト様。此度はまことに、おめでとうございます。その迅速なる立身出世は、本当に凄まじいものですねえ? シルヴェストル閣下との仲も良いようで、羨ましい限りです。マインラートにも見習わせたいものですな」


 妙に粘つく声音というか、言葉尻に含みがある気がするというか。正直に言ってしまえば、この男の態度はとても鬱陶しい。こういう人間にぐっと堪えて笑顔で付き合っていく必要があるのも、社交界のとても嫌な所だと思う。

 しかし、マインラート……ああ、マインラートか。何度か、任務で協同したことがあったな、そういえば。確か……フンメル家の騎士だったはずだ。言いぶりからして、この男もフンメル家の騎士であることは間違いないだろう。安直に考えれば、父親だろう。


「貴方は、フンメル家の……」


 適当に言葉尻を濁す。俺が名を知らぬことを察した眼前の男は、厭らしくにやついた。


「おお、これは失礼、名乗りが遅れるなど。

 私はフンメル家当主。灰位三剣、インゴ・フンメル。こうして顔を合わせるのは初めてですから仕方が有りませんが、次からはきちんと覚えておいて頂きたいものです」


 ……ああ、やはりマインラートの父親だな。正直、ノアイユ家とフンメル家の付き合いは余り深くなかったはずだが、招待されていたのか?


「インゴ様、今日は私のような者の為に来て下さり、有難うございます」


「ええ、ええ。何分貴方は、彗星の如く現れたかのノアイユ家の御子息なのですから、こうして私が自ら足を運ぶのも、当然ですよ。今日はお目通りが叶い、嬉しく思っております」


 ……態々、凶兆とされている彗星に俺を喩えてくるあたり、この男は本当に、俺と仲良くする気は無いらしい。何をしに来たのやら……。


「さあ、さあ、見れば、余り楽しんでおられない様子。

 こうして酒も取って来て差し上げましたから、是非、共に酌み交わすと致しましょう。ノアイユとフンメルの、お近づきの印に――」


「――ああ、これはこれは。そういう事であれば、当主たる儂と為すのが、筋であろう」


 脇から現れたディディエが、インゴが差し出していた杯を取った。


「ディディエ。こちら、フンメル家の――」


「ああ、良く知っておる。

 ――さあ、インゴ。乾杯と行こうではないか」


「……ええ、勿論。こうして顔を合わせるのも久しぶりですが、変わりなきようで結構な事です、ディディエ様。

 では、乾杯!」


 ディディエとインゴは、杯をぶつけ合う。ディディエは勢いよく杯を押し付け、注がれていた中の液体がインゴの手にする酒杯へと飛び、混じり合う。

 ……滅茶苦茶警戒してるなあ、ディディエ。これ、毒殺への牽制でしかやらないだろ。

 うわ、あいつ滅茶苦茶不愉快そうな顔してるな。


「おっと、失礼。齢を取ってから、力の入れ具合が利かなくなってきたようでな」


「……ハハハ、御冗談の感性はますます磨かれているようですな、ディディエ様。それでは乾杯も済ませたことですし、お先に頂きますよ」


 インゴはそう言って、一息に酒杯を空にした。そして、言葉も無くディディエを見やる。どうした、お前も飲め。客人がそうしたのに、飲まない主など居はすまい。この男の眼差しは、雄弁にそう告げていた。


「成る程、いい飲みぶりだ。それでは、儂も頂くとしよう」


 ディディエもまた、一息にそれを呷る。

 ……大丈夫だろうか。正直このインゴとかいう男、本当に一服盛っていても驚かんぞ。


「ハハハ、流石のディディエ様、実に豪胆な飲み乾しぶりですなあ。

 では、失礼。私も忙しい間を縫って、ここへと来たものですから」


 そう言ってインゴ・フンメルは俺たちの返事も待たずに去っていった。礼節など、知った事かと言わんばかりに。

 ……帰りまでの手際が良すぎる。というか本当に早すぎる、逆に疑うべきなのか分からなくなって来た。これで何かあれば、あの男がいの一番に犯人の候補になるだろう。それが示しているのは、あの男が単純に何も考えていないか、完全に捨て鉢になっているか、ということになる。

 ……出来ればこれらの思考など、全て単なる無礼な勘違いであって欲しいものだが。


「ディディエ――」


「一応、医者は呼んでおいてくれ。エクトールに頼めば、あいつの知り合いの腕利きを呼びつけてくれる筈だ」


「……分かった」


 当然だが、やはり覚悟の上で呷ったんだな、ディディエ。

 ……あの男とのやり取りで、命を懸ける必要など本当にあるのだろうか?




 *




 時を同じくして、征剣騎士団城塞、その礼拝堂にて。

 一人の男が、祈りを捧げていた。名は、ピアー。純朴な善性と、人々の為の無償の愛を持つ、紛れも無く神の徒として相応しい、善良な男であった。


「――神よ、我らが神よ、どうか、人の世から苦しみが無くなりますように――」


 こうして、神像の前で膝を突きながら祈りを捧げるのは、彼の日課であった。

 誰も居ない時間に、誰に邪魔されることも無く、無心に祈り、没入する。彼は、そうすることでやっと、己の心に在る、無力ゆえの虚ろを忘れる事ができるのだ。


 ピアーは、無力であった。

 剣など振るうどころか、持ち上げることさえ困難で、頭もさほど良くはないと、少なくとも彼自身は己のことをそう認識していた。実際、彼と同じ年に神官となった者たちの中では、彼が最も物覚えが悪く、特に読み書きなどは、彼の翌年にやって来た者たちにも習熟の速度で負けていたのだ。

 彼には幼いころから、したいことが幾らでも有った。剣を振るい、凶獣や賊の類から、ただ奪われるだけの者を助けてやりたかった。明晰な思考の下に多くの人々に利益を齎すことや、朗々たる説法を以て、迷えるものを導くことをしてやりたかった。

 だが、長ずるうちに、気づくのだ。自分では、それを為すのに足りていないものが山のように有るということが。

 如何に努力を重ねようと、優れた者に話を聞いて、それを血のにじむような思いで真似ようと、そうは、なれないのだと、彼は自然に理解した。


 やがて、祈りだけが彼の慰めとなった。

 自分の力ではどうしようもない現実について神に祈るというのは、人にとっては決して珍しい行いではない。


 彼は毎日、泣きながら祈るのだ。

 己の情けなさに。世にある非業の恐ろしさに。

 常ならば、それは誰にも邪魔されることは無かった。皆、わざわざ熱心に祈る者に近づいて、脇からそれを乱すようなことはしなかった。


 ……だが、今日は彼以外の者が……誰にとっても見知らぬ"それ"が、いつの間にか、暗がりからぬるりと現れた"それ"が、彼の背後に忍び寄っていた。


「――ねえ、君……」


「ッ!! あ、あなたは一体……?」


 暗く、暗く。夜闇よりも尚深い、遥けき宇宙の虚空の如き黒い色をしたフードを目深に被り、全身を暗き衣に覆い隠して口許だけを僅かに晒した妖しい者が、ピアーへと話しかける。

 途切れ途切れに発されるその声音は、さながら滴る泥水のようで、纏わりつくような重みに満ちていた。……誰が聞いても、この世のものとは思わぬだろうと、ピアーは直感した。


「君、君……平和の祈り子よ、優しき、願いの申し子、真なる安寧を、強く、痛みと共に、望むもの……」


 寸断された言葉の羅列が、奇妙な温もりを伴ってピアーを柔らかく包み込む。

 それは、故も分からぬ安堵のような感情を、この哀れな青年へと抱かせた。


「誰、なのですか……?」


「ああ、君……君が、本当に、望むのなら。神に、それを希うというのなら。そのやり方では、足りぬのです」


「なに、を……やり方……?」


「君、君……貴方の神は、ザリエラは……贄を、求めているのです。不思議では、ありませんでしたか? 何故、かの神が血神、などと呼ばれるのか。それは、もうずっと古い歴史……騎士たちが封じた、昏い、ラクァルの歴史の中に。赤く、犠牲に彩られた生け贄の祭りが記されているように、血をこそ、求めて、いるのです」


 ぴちゃり、ぴちゃりと言葉が滴る。

 泥の海に雫が落ちゆくような奇妙な響きが、薄暮の静謐を冒していた。


「何を、何を言って……まさか、それでは。

 征剣騎士が、贄を、神に奉げていたなどというのですか……!?」


「この国の、永遠とも思わせる繁栄は、流れ、滴る血と、引き換えるように得た、加護のもとに成り立って、いるのですよ。

 ……ねえ、君……だから、かつての如く……世界に広く、剣と法を打ち立てた、行く先の全てを征した、偉大なる原始の騎士達……かれらの如き力を、加護を得て、また、世界に安寧を齎したいとは、思いませんか……?」


 暗がりから現れた奇怪な男は、たどたどしく、そうピアーに語って聞かせた。常人であれば、このような不気味で、訳の分からないことを語る者になど、耳を貸しやしないだろう。


 ――だが。ピアーは、もうずっと心を痛めていた。昨今の、世界を包まんとしている暗雲に、苦しみもがき、きっとこの瞬間にも死んでいる者が居るのであろう事に。

 ピアーは誰よりも純朴であり、敬虔であり、穏やかな未来をこそ、願っていた。

 だから、影より現れた者の甘言に、耳を貸してしまったのだ。その狂人の唾棄すべき妄言を、聞いてしまったのだ。


「ああ、だから、君……血を、捧げなければならぬのです。かの神こそ、血神ザリエラ。血と肉と、命こそがその力であり、唯一の望み。

 ねえ、だからこそ君が、それを為すべきなのです……神に、敬意を表して、その威光を受け取り、世を平定するのです。

 全てを平らげて、在るべき姿を齎して、この世界に、大いなる凪を与えなければならないと、思いませんか?

 ねえ、だから、君……今日の……紅き月の晩に、この石を持ち、君たちの祈る神へと、傅くのです――――」


 黒き狂人は、囁くように言葉を紡ぎ、ピアーに一つの石を手渡した。細長く、鋭く尖った針の如き、奇怪な石を。


「…………」


 ピアーは、もう訳が分からなかった。ただ、いつのまにか姿を消していた狂人が言っていた事が、頭から離れてくれなかった。


「世界に、安寧を……大いなる、凪を……私が、為すべき、こと……」


 ピアーは、無意識のうちに手に固く握りしめていた不気味な石が、どくんと脈動した気がした。

 ……果たしてそれが、石自体が起こす妖しき現象であるのか、それとも余りに強く握りしめたが故に、己が鼓動を手に感じたものなのか、ピアーには分からなかった。




 *




 ノアイユ邸、大広間。それなりに時間も過ぎ、酒席も大分、落ち着きを見せ始めている。


「……とりあえず、何事も無く終わりそうだな」


 ディディエがインゴの酒杯を呷った時はどうなるものかと案じていたが、案外に、大事へと至ることは無さそうであり、全くの取り越し苦労であったことに、軽く安堵の気持ちを覚えていた。


「あ、ディディエ――」


 だが、事態というものは、何時だって急に、がらりとその様相を変えているものだ。あの時……ほんの数刻も経たずして、村の全てが消えていたように。

 ……その時を、俺は。まるで時間が随分とゆっくり流れているかのように、一瞬一瞬を克明に、目で捉えていた。


 悲鳴が、上がる。血が、零れている。あの、俺が見ていた如何なる瞬間にあっても、常に膝を突くことの無かった偉大なる老騎士が、苦しそうに胸元を抑え、片膝を突いていた。

 俺は、本来ならそんな暇はないのに呆気に取られていたが、自分の心に鞭打って、どうにか正気を取り戻す。呆けている場合じゃない!


「やはり、先ほどの……!」


「若様! 何事があったのですか――ディディエ様! 何が、起きて……!」


 悲鳴を受け、裏方に徹していたダフネさんが駆け寄って来て、頽れるディディエの様子を目にし、びくりと身を震わせた。


「医者、医者を! とにかく、今は医者を――」


「――ディディエ様は、毒を盛られたのだ!」 


 突然の事態に事態を掴み切れていない者たちへ向けて、誰かが、はっきりと叫んだ。どよめきは、俄かに強くなり、みな口々にあれこれと噂話をしているようであった。

 騒然とする内に、また別の誰かが、一人を指差して、こう言った。


「あいつだ、あいつに違いない、老いる事も無くディディエ様の傍に潜み続けた妖しきもの、あ奴が悪しき本性を顕わにしたのだ!」


 余りに露骨、だが滑らかな誘導のまま疑念の目は一か所へと集まる。

 ……即ち、俺の家族たるダフネさんへと。彼女は、人々の猜疑の眼差しを一身に受け、今にも泣きだしそうになっていた。

 俺は、庇うように彼女の前に出た。そのまま反論をしようとして――


「この、大戯け共が! 今は下手人を探すより先に、すべきことが有ろう!」


 エクトールさんが、一喝した。傍には、怪しげな風貌の男が佇んでいるが、もしやあの男が先ほど呼びつけて貰っていた医師なのだろうか?

 エクトールさんは、力なく膝を突くディディエに肩を貸し共に立ち上がると、怯え震えるダフネと、人々の視線を遮るようにその前に立つ俺へと呼び掛け、寝室へと寝かせに行くのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る