第四章

第一話 家族とのひととき

 古き時代に天より降りたった光輪の神は、高き処に神々の都を設けた。

 今尚人々にその名が伝わるメリスコルグでは多くの神が世界を巡らせ、

 光輪背負う彼らの主がそう有れと願ったように、多くを永らえさせた。

 主は従者たるクァルカと共に、慈愛を以てそれを見守っているのだと、

 今の世の始まりと共に、人の世にはそう伝わっている――――


 *


 一年の月日が流れた。

 あれから、ただ日々を懸命に過ごしている。多くの任務を経て、騎士として人として、少しでも成長出来ていたら良いのだが、中々どうして、それは自分では判別がし難いものだ。

 気づけば背の丈が伸びる速度も少し緩やかになって来ており、このまま行けばあと二、三年の内には背丈の成長も止まるのだろうか? それは困る、確かに我ながら随分と育ったものだが、未だディディエに追いつく気配も無いのだ。具体的には、あと十かそこらぐらいは。


「若様。お早うございます」


 自宅。

 寝覚めに茶でも淹れようと思い立ち、湯が沸くのを待つ間に食堂の椅子に腰掛けていると、何時の間にやら姿を見せたダフネさんが、挨拶してきた。

 今ではすっかり慣れたが、初めてここに来たときには、神出鬼没のこの人には本当に驚かされたものだ。

 ……しかし、未だに心の内で彼女について考える時に呼び捨てに出来ないんだよなあ。なんだ、こう……年上感がもの凄く強いというか。無論、それを言ったらディディエだってそうなのだが、ディディエには何故かとても気安く接せるのだ。この違いは何なのだろう?


「ああ、お早う、ダフネ。

 ……相変わらず、どこから来たのか分からない登場をするなあ」


「ふふふ。私はいつだって、普通に移動してるのですけどね?」


 他愛もない言葉を交わす。仕事が忙しい中、久方ぶりに戻って来た己の家というのは、大変に安心感が有る。責務を忘れて一心地つく喜びというものは、中々に味わい深い。

 厨房の方から、湯が沸き始める音が聞こえてくる。そろそろ、良い頃合いか。


「茶を淹れようと思っていたんだ、ダフネもどうかな?」


「まあ。ぜひ、ご一緒させてください。若様の入れるお茶は、好きなのですよ。

 初めの頃は、あまりお上手とは言えませんでしたが、上達しましたよねえ……」


「そうだなあ。最初はやたらに渋いし香りも無いしで散々だったが、まあ、やっている内に慣れもするさ――」


 会話もそこそこに席を立ち、厨房へと向かい、湯気を口から吐きながら沸き立つケトルを火から降ろす。……うん、温度も良いだろう。

 上達、か。何せ、ペルマン氏が淹れるところを何度も見てるからな。あの人は本当に、度を越した不愛想で接客をする気などというものは初めから持ち合わせていないが、腕は大層に良く、人前で技を見せる事も厭わない。彼が自分用の茶を淹れる姿を思い返し、適当に真似するだけでも大分良くなったのだから驚きだ。

 取り止めの無い事を考えながら、沸いた湯をポットに注ぐと、温かな湯気と、まっさらな湯の香りが立ち上る。俺は、この茶葉の色彩が満ちる前の、微かな白湯の香りが鼻をくすぐる感覚が、好きだった。


「――ああ、いい感じかな」


 途中で葉の様子を確認し、きちんと開いていることを確認する。僅かにずれた蓋の間から零れ広がる香りは、成功を確信させるに足るものだ。

 冷める前にそれをカップへと注ぎ移し、卓へと給する。


「――ああ、良い香りですね」


 熱さを我慢していることを窺わせつつ一口喫したダフネさんが、言葉を漏らした。

 俺も、その意見には同意せざるを得ない。


「うん、本当に。

 ガルラームの方で好まれているという葉が手に入ったからそれにしてみたんだが、良いものだったようだ。少し、ほっとしたよ。何せあちらでは、茶と言えば我が国の文化だ、とまで言い切るほどに茶が愛されているんだ。本場の味……とやらが口に合うのか、楽しみ半分、不安も半分だったんだ」


「うふふ……そうですね。

 結構、土地に深く根差した味というものは、余所では受け容れがたいものだったりもしますから」


「確かに、そうかもな。

 そして、予想もつかないような物に出くわすからこそ、知らぬ文化に触れる事は楽しいのだろうなあ」


「そうですねえ……」


 ダフネさんが、穏やかに目を伏せて、カップから立ち上る湯気を見つめている。暫し陶然と、ふわりと上って行っては溶け消えてゆくそれを眺めたあと、ふと、俺へと問いかける。


「若様は、最近はどうですか? お仕事のことだとか、ご友人のことだとか」


「ん……そうだな。

 とりあえず、忙しくは有るけど、毎日が充実しているのは間違いないな。

 この間もルナール……同じ隊の人員と二人で例の獣を狩って来たり、ラクァル兵も連れての、やや規模の大きな戦いなんてものも経験したし。……指揮は、ややこしいよ。俺は自分で前線に立つ方が楽だな」


「それは実に、若様らしいお言葉です。ですが、お気を付けくださいね。その思考が行き着く先はきっと、とても危ない道です。窘められて尚も一騎打ちを果たしたディディエ様のようになっては、いけませんよ?」


「ははは、流石に俺もそんな真似はしないよ。多分。

 ああ、そういえば。友人と言えば、レオの子供が随分大きくなったんだ。

 喋る……というよりは、あー、とかうー、とか、声を発するようになったというか」


「まあ。元気に育っているようで、何よりですねえ。

 ……あのレオ君が、今や一児の父親とは。時間が過ぎるのは早いものです」


「そうだなあ。あいつ、こいつが大きくなったら、いつか俺が親父から受け継いだみたいに、俺が家宝の槍を渡すのかなあ……なんて言ってるんだ。

 気が早いなんてものじゃない、なんて笑ったけど、案外あっという間にその日が来るのかもしれないな」


「そうかもしれませんねえ。

 ……子供が育つのは、本当に早いものです」


 言いながら、ダフネさんは俺を見て目を細めた。

 少々むず痒さを覚えざるを得ないが、何のかんので俺もラクァルに来てから、五年程度しか経っていない。いや、五年も経った、というべきなのかもしれないが。それでも、ディディエやダフネさんが生きてきた年月に比べれば、きっと微々たる時間でしかない。

 その僅かな時間で俺は、あのちっぽけな子供から、きちんと社会に出て仕事をしている騎士にまでなっているのだから、実際、早いと言う他はないのだろう。


「後は……まあそうだな、あまり楽しい話ではないが……最近になってから、というか他の隊と共同の任務をするようになってから、人と対立することが増えたな。王党派と騎士派の対立というのも、これまでは言われているほどでは無いかなと思っていたが、どうにもそれで終わってはくれないらしい。

 ……彼らは、とても、嫌味っぽい。中々、面倒だよ。俺などに敵意を抱いたとて、政局など変わりはすまいに……」


「……そうですねえ。

 力を持っていると見なされることは、良いことにも悪いことにもなり得ますが……とにかく、十分にお気を付けください。何か有れば、迷わず家名よりもご自身の安全を取って頂きたいと私は思ってしまいますが……それが簡単ではないという事も、理解しているつもりです。

 とにかく、私は若様とディディエ様の味方です。何が有っても、変わりません」


「ああ、勿論。ダフネさんの事は、信じているよ。

 貴方にどれほど不可思議な秘密があろうとも、俺の家族である事は、きっとずっと変わらない」


 ……ついに言ってしまった、という感じだ。

 今までダフネさんのそういう所に踏み入ったことは無かったが……いや、まあ良い機会だろう、うん。信用してくれると言うのだ。ならば俺も、それを口にしたい。


「――若様……」


「ああいや、気に障ったなら、悪かった。

 ただ、結構気にしているんだろう? その、昔を思い出せないことだとか」


 彼女は、あからさまにそういった素振りを見せる事は無かったが、それでも長い間付き合っていれば、薄らと見えてくるものもある。

 いやまあ考え過ぎて在りもしないものが見えているだけなのかもしれないが、まあそれならそれで、俺が恥をかくだけで済む。


「……はい。

 隠しているつもりではありましたが、お見通しなのですね?

 正直に言えば……私は、何故自分がこのように信用されているのか、分からないのです。

 だって、そうでしょう? 過去も分からない。自分が何故、他者と違うところがあるのかも、分からない。怪しいところばかりです。私は、自分が間違いなく、貴方や、人の社会に仇を為すものではないと、断ずる事さえ出来ぬのです」


 ダフネさんはぽつりぽつりと、少しだけ悲しげにそう語る。

 ……自らの由来が判然としない不安というのは、どれほどのものなのだろうか?


「あまり、俺がその悩みについて、利いた風な口は言えないが……それでも、これをいう事は出来るよ。俺は、貴方の事を信じている。共に過ごしてきて、貴方に悪い事など、出来るはずも無いと、知っている。諸人が何を言おうと、俺が揺らぐ事は無いよ。

 ……ほら、言ったとおりだ。そんな、他者に仇を為すようなものが、こんな言葉で泣くものか」


「若様、すみませ、有難う、ございます、私などに、そのような言葉を――」


「いいんだ、自分を卑下することもない。いつも有難う、ダフネ」


 彼女に向き合っていると、遠方より足音が向かって来るのが聞こえる。ディディエが帰ってきたようだ。ダフネさんは、慌てて目じりを拭い取り繕う。


「――おい、アーダルベルト……なんだ、ダフネもここに居ったか。

 ……というか何だお主ら、この妙にしっとりとした空気は。昔語りでもしておったか?」


 しっとりって。あまり、ディディエには言われたくないな、最近になって漸くシルヴェストル氏とぎこちなく交流を再開して、偶に家に招いて酒と共に言葉を交わすとき、異様に湿度の高い空間を形成するくせに。


「ああ、まあ、そんなところかな」


「む、本当にそうだったか。酒も飲まずに、よくやるものだ。

 ――それで、アーダルベルトよ」


 あ、この感じは……。


「真面目な話?」


「おう。アーダルベルト……」


 俺の名を一度読んだきり、ディディエは難しい顔をして考え込む。


「昇格だ。お前は、齢の十六……成人を迎えると共に、黒位三剣の騎士となる」


「……早すぎないか? まだ、騎士になってから精々二、三年しか経ってないんだぞ」


 大体、昇進など三から五年に一度有るかどうか、というのが通例である。

 大きな戦役で功を立てた訳でも無いのに三年で二回もするなど、恐らく前例も無い筈だ。


「儂も、そう思う。

 ……済まぬ、儂が迂闊であったのだ――」


 ディディエはそう前置きし、一つ一つ、絡まった糸玉を解すように話す。

 ……ディディエの話を纏めると。


「ええと、それで。

 要は、ディディエとシルヴェストル閣下が再び接近していた為に、騎士派の貴族たちが勢いづいて、騎士派にとって大きな意味を持つノアイユ家の者である俺を盛り立てようと突き上げた、と?」


「そうだ。余りにも、軽率であった。

 ……いい齢をして、情けない。儂は、シルヴェストルを家に招くということの意味を考える余裕が無かったのだ。

 済まぬ。儂やシルヴェストルの言葉を以てしても、彼らの気炎を治められなんだ。

 これから、政争の激しくなろうことを思えば、慙愧の念に堪えん……」


 苦虫を噛み潰したような顔をしながら、ディディエは重い溜息と共に、言葉を絞り出した。


「……まあ、昇格すること自体は有り難いし、とりあえず、懸念は置いておこう。

 その不安についてただ能天気に過ごすつもりは無いけれど、喜べることは喜ばなくちゃあ、損だ。そうだろう?

 しかし、そういう状況だけで位が上がるというのは、癪だな。出来るなら、自分の力で身を立てたいものだけど」


「逞しく、育ったな……いや元からこんなものだったか?

 とにかく、これからは一層注意深く在り、陥穽の有無を見極めねばならぬ。このような状況を招いた儂が言うのもなんだが、努々気を付ける事だ。

 それと――お前は、他者から推されただけで三剣へと到った訳では無いぞ。

 如何に騎士派の貴族が無理押ししようと、それに相応しい功も力も無くば、それに反対する者たちの意見を撥ねのけられる訳も無い。

 お前は真実、王党派の連中にさえも、その位が相応しいと思わせたのだ。これはただ時間が早まっただけに過ぎぬ」


「そう? じゃあ、いいか」


 つとめて軽くそう言うと、ディディエは呆れ半分、感心半分といった様子で妙にじっとりとした眼差しを向けてくるが、何事も無いかのようにそれを受け流す。

 ダフネさんが、笑った。


「うふふ……こんなに立派になったのに、そういう所は昔から変わりませんね。

 さあ、そういう事なら今日はいっぱい、お祝いしましょう?

 折角の昇格なんです、前祝いをするのには十分でしょう」


「おお、それはいい。今日は思いきり楽しもうではないか。

 ……ああそうだ、アーダルベルト。少し、酒を試しておくか?」


「ええ? まだ少し早いじゃないか。不味いんじゃないのか?」


「良くは無い。だが、成人の祝いの席で初めて酒を飲んで、無様に酔い潰れる姿を晒すことになればもっと良くないのだ……」


 ディディエは片手で頭を抱えながら、物憂げにぼやく。


「…………。

 面倒だなあ、貴族というやつは……」


 何をするにも、洒落にならない真剣さの体裁が付き纏う。

 ……いやまあ、結局貴族という立場に拘ること無く、どのような人間であろうとそういった煩わしいことに悩まされるものではあるのだろうが、こちらは最悪、隙を見せれば刺客が放たれるらしいのだ。それも、二大派閥の双方から。


「はっはっは、仕方あるまい、そういうものだ。

 しかし、楽しみだとは思わんか。酒が飲めるようになるというのは」


「まあ、少しは。知らないことに触れるというのは、楽しみだよ。

 ああ……もしかして、あれを開けるのか?」


 もう結構前に、ハイロキアの市で買ってきた土産の酒。淡く薄緑の色を帯びた美しい東方の酒のことを、思い出す。

 思えば、あれからもう二年ぐらい経っている。本当に取っておくんだから、驚いた。俺はてっきり、我慢できなくて開けたりするものだとばかり……。


「いや。あれは、成人をきちんと済ませ、宴が終わった後にゆるりと愉しもう。試しでやるには、勿体なかろう」


 そういうものか。いや、確かにそうなのかもな。


「ああ。じゃあ、その時を楽しみにしておくよ」


「おう、そうしておけ。

 モリアノスのかんなり酒は、普通の酒を知ればこそ、その魅力も分かるというものだ」


「ん……ああ、そういう意味だった?

 あの時買ってきた思い出の物だから、ちゃんとした時に開けよう、という話なのかと思ったよ」


「いやまあ、そういう話でもあるが。

 お前、まだ成人しておらんしな。折角二人で酌み交わすのならば、何に恥じる事もなくなってからが良いだろう?

 だから今日は、儂は飲まんぞ。お前だけが、飲むのだ。友や家族と酌み交わすのではなく、飽くまで貴族としての嗜みを身に付ける為の……謂わば、鍛練だな」


「……鍛練かあ。

 酒を飲むのが鍛練だ、なんて言ったら、知り合いの大酒飲みが羨ましがるだろうな」


 ふとボドや、彼と共に騒いでいた酔漢達を思い出す。彼らはとても楽しそうであったが、俺はあそこまでは酔わない様に気を付けよう……。


 *


 その晩俺たちは、たった三人というささやかな規模ではあるが、今用意できる最高のものを集めた小さな宴を、存分に楽しんだ。

 ほんの少しだけ口にした初めての酒は、苦みと熱を強く感じてそれほど好ましいとは思えなかったが、風味は嫌では無かった。料理と合わせて口にするのは、悪くない……酔いというものは、好きになれそうにはないが。

 世の酔漢達は、よくあのふわっとする感覚を楽しめるものだと感心せざるを得ない。決して良くない類だと考えるまでも無く理解できるあの高揚感。絶対に危険だ。楽しいからこそ、危険なのだ――


 *


「――ああ、お早うございます、若様」


 翌朝。妙に痛む頭を抱えながら起き出し朝食を求め食堂へと赴くと、既に起きて諸々の準備をしているダフネさんと出会った。


「ああ、お早う」


「あら若様。頭が痛むのですか?

 ……お酒は、付き合い程度に留めた方が良いでしょうね、その分だと」


「ああ……これ、酒が悪さをしているのか、なるほどな。全く誰も彼も、よくあれを嗜むものだ。

 ……今日の仕事は午後からで良かった……」


「ふふ、こういう事もあるかと思い、お酒がよく抜けるようなスープを作っておきましたよ。今、お持ちしましょう」


 そう言って、彼女は厨へと姿を消す。

 毎度毎度思うのだが、屋敷の掃除、庭の手入れ、洗濯から炊事まで、たった一人で完璧にこなすというのは、とても不思議だ。

 そりゃあ確かに、この屋敷には人が少なく、故に単純な仕事量もそこまで大きくは無いのだろうが、屋敷自体はかなり大きい方である。その広いお屋敷の、使われていないような部屋まで、埃ひとつさえ残らぬ完璧な掃除を施すというのは、一体如何なる業によるものなのだろうか?


「――ああ、有難う」


 取りとめも無い事を考えている間に運ばれてきた、良く煮えた野菜が顔を覗かせる、綺麗に澄んだスープを口に運ぶ。

 とても温かな、味がした。

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