第9話 変わる関係




 次の日には頭が軽くなったどころか、身体にも変調は感じなかった。一日、休んだからだろうか。それとも――


「満開ね」


 春の温かな風が、ふわりとリディア髪を揺らして去っていった。


「見逃さなくて良かったでしょう?」


 一歩下がった後ろから言われて、本当にそうだと頷く。

 遮るものもなく眺められる庭の、いくつもに分かれた大きな花壇に咲く花々が、遠目であれど咲き盛りの頃だと分かる。

 むしろ上からで遠目であるからこそ、葉の緑が見えないほどの華やかな色に埋め尽くされている様子しか見えない。

 微かな風が吹く中、リディアは静かに庭を見続ける。

 しばらくして、柔らかな風よりももっと柔らかな響きを持った声が「陛下」とリディアを呼んだ。


「なに?」

「他に悩み、ありませんか?」


 どうやらグレンは、リディアの悩みを全て吐き出させようとしているようだ。

 昨夜に続いた問いかけに、リディアは思案する。グレンに聞いてもらうと安心するから、もはや我慢することなく言葉に甘えてしまうために考える。

 きっと今言わなくても、後からでも聞いてくれると思うけれど、今を選んだのはリラックスして打ち明けられると思ったから。

 だけれど悩みと言われると意外とない。大きな括りは昨夜打ち明けてしまったからだろう。

 今も昔も結局悩みはそこなのだな、と改めて実感する。突然放り込まれた場所でつけられた大きすぎる地位と、それに付随する何もかも。


 そのためリディアはないと言おうとした。が、その前にグレンがハウザー家に帰っていたとき、侍女たちが話していたことを思い出した。

 彼は何をしに帰っていたのだろうか。昨日は聞かず終いで、今も直接聞くことはできなさそうなので、リディアは一番不安なことを反対に彼に尋ねることにした。


「グレンはどこかに行ってしまうの?」

「……俺が……? なぜ?」


 グレンは若干戸惑った様子になった。


「結婚するかもしれないって聞いたから」

「俺が、誰と?」

「知らない」


 知らない。でも。

 結婚したからといってグレンはリディアの護衛をやめるとは限らない。それはリディアにも分かっていたし、グレンが側にいると言ったのだ。

 でも、そうではない。

 彼が自分だけの側にいればいいのに。

 急に、華やかな色合いが広がる視界が色褪せた気がしたけれど、気のせいで、花の全ては当然明るい色を保ったままだった。しかしリディアの気分が明るくなることはない。


「俺は、どうでしょうね」


 曖昧な言葉に、さらにリディアの心に影がかかったようになる。

 グレンが縁談の相手と顔合わせしに帰ったのだという話を聞いたときから、なぜか沈んだ心は晴れない。グレンは戻ってきたのに。


「陛下はどうですか」

「なにが?」

「結婚、です」


 リディアは――目先の難しい事が書かれているばかりの紙束だけならまだしも、まだ先のこととはいえ年頃になったことで新たに積まれた「義務」。

 誰に助けてもらうわけにもいかない、それ。


「……うん」


 この話はあまりしたくないのに。


「かなりの量が来たみたいですね」

「……うん」

「陛下は、どんな人がいいです?」


 多くの絵が送られてきて、あの中からどうやって選べばいいのか分からない。けれど人柄を知ることが出来る機会は来るかもしれない。


 どんな人。

 気の進まない話題上、思考を鈍らせていたリディアは少し考えてみる。

 結婚とはどのようなものなのだろうか。リディアの母は結婚はしていなかった。父親が国王で婚姻関係を結ぶわけにはいかず、後から他の人と結婚することもなかった。

 ゆえにリディアには父と呼べる存在がいなかったことになるのだが、村には婚姻関係を結んだ人々はもちろんいた。


 同じ家に住み、寝起きを共にし、食事をする。

 結婚の具体的な内容が分からないなりにそんなことを考えるに、何といっても怖い人は嫌だ。怒りっぽい人も。

 母がいなくなってからリディアを一時期引き取っていた叔母夫婦の内、叔母の夫はそういう人であった。いや、叔母もそうであったけれど。

 それに……と考えようとしたところで、嫌な要素を挙げ連ねるのではなく「どんな人がいいか」なのだからそちらを考えるべきだと気がつく。


 どんな人。


 今一度同じ主題で考えたリディアは一人、頭の中に姿が浮かんだ。


「……グレンみたいな人がいるのなら、いいのに」


 グレンのような人であれば、一緒に歩んでいける気がした。そんな人がいればいいのに。

 自分で言ったことに、自分自身でそうだなぁ、と思う。

 具体的な像が出たではないか。顔だけ振り向いてグレンに笑いかけようとすると――グレンは目を見開いていた。


「グレン?」

「――はい。いえ、あの、少し……」


 呼びかけたリディアに対し、普段見られない様子で何やら言ったグレンは、いつもは彼からは滅多に逸らさない目をさっとずらした。

 そうかと思うと口を押さえるような仕草をし、手のひらの向こうから声が溢れる。リディアは辛うじてその声を拾う。


「それは、良いように捉えてしまってもいいのかな……」


 と。

 顔色は悪いようには見えないが、具合が悪いのではとこれまでにないことに心配になる。しかしリディアが動く前に、グレンは口元から手を外して顔を上げた。

 そして、こんなことを言う。


「陛下が言うのは俺のような人、であって俺自身では嫌?」

「……え?」


 問われた内容が直ぐには理解しきれずに、リディアは一切の動きを止めて――止まってぽかんとする。

 今何と?

 ぽかんとするリディアをじっと見ていたグレンは、何を考えたのだろう。「困ったな、とても緊張する」と、実に困ったように独りごちて彼自身の髪をくしゃりと握った。


「大丈夫?」

「あぁ気にしないでください」


 そういうわけにもいかない。グレンは様子が変だ、少なくともリディアが引っかかるくらいには変。

 困ったは困ったでもこんな困り方をするところは目にしたことがなく、一体どうしたのか。

 リディアが見つめていると、それに気がついたグレンが一度空を仰ぎ、珍しいどころではなく先程に続きリディアから逸れていた顔が戻ってくる。

 真正面から。

 微かな笑みが唇に乗せられているけれど、真剣味が濃い。黒い瞳も、真っ直ぐにリディアの目を捉えてそのまま。


 春の風が一陣、リディアとグレンに吹きつける。


「ねぇ、陛下」


 ことさら優しく呼びかけるときのいつもの呼び方なのに、リディアは眼差しに緊張を覚える。


「少し、お話があるんです」


 すごく真剣な顔で言われるので、反射的に良い話とは思えなくてあまり気が進まない。けれど無視をするなどもっての他だ。

 リディアは中途半端に後ろに向けていた身体を完全にグレンに向き合う形にして、一度、頷いた。

 グレンは頷きを受けて、話しはじめる。


「俺はもう妖精ではありません」

「うん」

「あなたの側に無条件にいられる存在ではなくなりました」

「……そうなの?」

「実は」


 思わぬ言葉に動揺が走る。

 彼はどこかに行ってしまうのだろうか。だからこんなにも真剣な表情をしているのだろうか。


「けれどまた妖精の立場に戻ることができるとしても俺は戻りたいとは思わない」

「どうして?」


 動揺が増すばかりのリディアに、グレンは変わらず続ける。


「本当は……というより以前は、ですね。俺はあなたの側にいられるのならそれだけでいいと思っていました。あなたを守り、側にいる」


 以前は、ということは今はそうではないということだ。それくらいは、リディアにもすぐに理解できた。


「グレン、やっぱりどこかに、行くの?」

「いいえ、まさか」

「じゃあ、」

「ただ今のままではいられなくなりました」


 彼は、リディアにはよく分からない感情を含んで、微笑んだ。

 何を言われるのか全く読めなくて、何を言おうとしているのか分からなくて、リディアが話の続きを待っているとグレンは一度口を閉じた。


 一呼吸置き、言う。


「陛下を抱き締められる権利が欲しいんです」


 昨夜、抱き締められたことを思い出した。

 リディアが顔を押しつけることを止め、落ち着くまで、ずっと。


「他の誰にもない権利、俺が誰にも渡したくない権利です」

「どういう、こと?」

「俺をあなたの側に一生おいてくれませんか? 護衛としてではなく、もちろん妖精としてでもなく、あなたを誰よりも近くで支えられる存在として」


 護衛でもなく、妖精としてでもなく。

 リディアが上手く意図を図れていないことを感じたのだろうか、グレンは苦笑を滲ませる。


「俺はずるいかな、陛下が他の誰のことも知らない内に俺が側にいたことを利用して直接言ってしまうのは」


 だがその直後、彼は目を細めてこの上なく柔らかく微笑んだ。


「――でもね、陛下。俺はあなたのことが愛しくてたまらない」


 優しく蕩けてしまいそうな声音にリディアは驚き、それより鼓動がふいに跳ねてそれにも驚く。

 グレンの眼差しも声と同じ、むしろそれ以上に優しくリディアに注がれていた。


「あなたの一番近くで、他の誰でもなく一番に頼られたい。あなたに少しでもその気持ちがあると信じてもいいのなら、俺はそれを望んでほしい」

「グレン」

「あなたを他の誰にも、渡したくないんです」

「……それって」


 彼は首肯する。


「そういう意味です。俺に、あなたの一番近くで一緒に生きていく権利を与え、あなたが感じていること全て、楽しいことも苦しいことも全部分けて欲しい」


 手を伸ばし、リディアを見つめ、グレンはその言葉を言う。



「陛下、あの絵姿の中の誰でもなく俺を選んでくれませんか」



 ──リディアは、喉の奥が熱くなって声が出なくなった。


 誰よりも側にいてほしい人。

 離れないでいてほしい人。

 この人のような人であればきっと生涯を共にできると、したいと思った人。

 笑顔が、その瞳が、声が、思えば全てが落ち着く大好きな人。

 その本人が、言ってくれる。側に、一番近くに、と。リディアの。


 夢でなければいい。彼が眠り、目覚める前に見続けていた夢でなければいいと強く思う。

 でも、きっと、重ねた手に触れた手から伝わる確かな温かさがあるから、きっと、夢ではない。









 テラスに、並ぶ姿が二つ。

 リディアがグレンの手を取ったあと、その手を包み込み微笑み合っていたとき、グレンが突然このようなことを言い出す。


「そうだ、絵姿送ります?」

「グレンの?」

「はい。こうしてから言うと説得力がないんですが、そういったことは苦手で今まで縁がなかったなりに順序を踏もうとは思って……そのために休みを頂いていたんですよ」


 気まずそうにグレンがするものだからリディアは笑いそうになった、というより、笑った。

 グレンの様子がおかしいこともあったけれど、気が抜けたというこもある。それでハウザー家に帰っていたのか、と。


「これでも焦りまして」

「何に?」

「陛下への縁談の多さと陛下の具合にです」

「……そう?」


 グレンでも焦るのか。

 それにしても絵姿か。グレンのなら見たい気もする。彼は絵になっても穏やかさと優しい笑顔は変わらないのだろうか。

 そんなことを思ったリディアだけれど、グレンに向かって首を振る。


「絵姿はいらない」


 近くに本人がいるのに。

 ただ、ただ。一つだけを望む。


「側にいて、グレン」

「いますよ、ずっと。あなたの側に」







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小さな陛下と最後の妖精 久浪 @007abc

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