第8話 変わらない安心感
「……グレン?」
「はい」
「いつ、」
戻ってきたの。
声は最後まで言葉を紡ぎ終えることなく消えた。
「今朝戻ってきました」
ベッドの側には椅子があるのに、グレンは床に膝をついてリディアより目線を下にした。
「言わずに離れてしまってすみません」
リディアを見上げる瞳は、傍らの橙の灯を映す。
言わずに離れて行ってしまうのはグレンの自由だ。けれど、数日振りに見た顔に、リディアの目は勝手に熱を帯びる。泣くときの前に似ている。
リディアはグレンが側に戻ってきたからこそ、彼が姿を消してそのままいなくなってしまうかもしれない……と怖かったのかもしれない。
「そんな顔をしないでください」
思わず手を伸ばして確かめようとすると、
「俺はここにいるから」
あちらからも伸ばされて握られた手に、久しぶりにグレンに触れたことを知った。
変わらずリディアよりも大きな手は、両手で上と下からリディアの手を包み込む。その温かさが染みるように伝わってくるようだった。
「どうして、こんなになるまで抱え込むんです」
上から覆う手で、リディアの手の甲を優しく撫でながら、グレンは辛そうに言った。
こんなに、というのはおそらくリディアが倒れたことを示すのだろう。そういえば、こんな時間に。まさかリディアが起きるまで外で待っていたのだろうか。
「陛下、悩んでいることを言って」
悩みがあるのは分かっている前提で、促す言葉。最近も同じようなことを執務室で促された。
その全ての様子から彼は以前と同じく、優しい。それは純粋に嬉しくて、
「……大丈夫」
リディアは緩く首を振る。
でも、グレンもすぐに首を横に振った。
「もう大丈夫だと言わないで欲しい。――陛下、お願いだ、言って」
どうしてか懇願する声は胸に響き、リディアは琥珀色の瞳を揺らす。
グレンとこうしてゆっくり二人で話すのは、彼が
当初は目覚めたばかりのグレンはグレンで忙しかったし、かつてのようにリディアがグレンと二人になる機会なんてできなかったのだ。
そう思うと、この前の執務室のことも今も、ミーシュに気を回されたのだろうか。グレンは、リディアの心を解すことが上手だから。
――途方もない道に立たされた。そんなこと、とうの昔に悟っていたはずだった。まだ子どもだったときにも子どもながらに感じていた。
それを再び思い知っただけのことだ。
「ちょっと、疲れたみたい」
一言、溢れ落ちた。
それを境にぼろぼろと溢してしまいそうなものを堪え、リディアはシーツに視線を落として揺らぎそうで崩れそうになる声を懸命に抑える。
「何に?」
グレンがより促すから、リディアの心は緩む。
「やらなければいけないことが、たくさんあるでしょ?」
「そうですね」
「色々増えて」
「うん」
「でも、私は追いつけない」
王宮に来ただけでもガラリと変わった生活が、二年前にさらに変わった。
王としての責務が正式にやって来はじめたのだ。そして、リディアは圧倒されつつある。否、倒れてしまったことを考えるととうに背負い切れていなかったのか。
例えば、会議の場は息が詰まる。
授業の窮屈さとはまた違った、静かで、時に紛糾する重々しい場だった。
リディアの親や祖父にあたりそうな年齢の人たちが話す中、リディアだけが場違いで、何が透明なものを隔てたところにぽつんといるみたいな気分に陥る。
例えば、リディアが王位に就くまでは臣下たちの間で決められ、施行されていた全て。
それらが二年前、リディアが正式に王位についたことで、国を運営する全ての事項の最終的な決定権はリディアの元へやって来た。
許可することを表すサインも、元々王のサインの方が強い効力を持つに決まっており、王位が埋まったとなればそうする方が最善だ。
それでもまだ最低限な量で、リディアの時間が圧迫されている理由は、リディアの手際と難易度が増していくばかりの授業との両立にある。
どんなに立派な服を着て飾り立てられても、リディアはまだまだ未熟者だ。
リディアの成長は追いつかない。今も、昔も。スタートが遅かったのに王位につくことが早かったのだから当然といえば当然だけれど。
「今になっても、私がここにいることが相応しいのかどうか分からないの」
むしろ今だからこそ。
王宮に来たばかりのとき、あなたが次の王だと言われたときはわけが分からないという気持ちが強かったけれど、今は理解した上でもっと不明だ。
自分でいいのか、と。
こんなことを言ってもすべてはリディア次第。それゆえに努めて何でもないように聞こえるように出した声は、いつもと変わらなかったはずだ。
音を立てないように短く息を吸って言葉を終えたリディアが口を閉じるのを待って、心地よい相づちを打っていたグレンの方が口を開く。
「陛下、少し、無礼をすることを許してくれますか?」
「……グレンが、私に無礼をしたことなんてあった?」
「どうでしょう? 見る人によれば、といったところですか」
少なくともリディアの記憶にはないので、何だろうと思いながらも軽い気持ちでいいよと許可すると。
「では失礼します」
グレンが床から膝を離して、こちらに乗り出してくるから不意をつかれた。その間に手が離されて、その手が伸ばされてくる。
「ごめんね、ずっと長い間側にいなくて」
気がつけば、柔い力で抱き締められていた。
「あなたの側にいると言ったのに」
すごく近くなったグレンが言っているのは彼が『眠っていた』ときのことだろう。
グレンがいなくても決して一人ではなかった。王宮にはじめて来たときからよく関わってきたユリシウスだって、ミーシュだっていてくれた。
けれども、グレンが姿は見えても『いなくなった』ことはとても堪えた。
グレンが側にいて、話し、笑顔を向けられていたのは一年にも満たない間だったのに、彼はリディアにとって誰よりも大きな存在だった。
「グレン」
「はい」
息を吸おうと思ったら上手く吸えなかったのは、顔をグレンに押しつけているせいだ。そうに違いない。
「――私ね、結構頑張ってたの」
「知っていますよ。目覚めて、見て、すぐに分かりましたから。あなたは成長した。背も伸びましたがもっと別の意味でね。ただ、あなたは疲れているようだとも感じたんです」
元気がなくなったと感じたらしい。
それは外に出るような行動がなくなったからではないのかとリディアは思う。
「頑張りすぎです」
「頑張らなくちゃいけないでしょ?」
「焦らなくてもいいんです。……確かにもうあなたは小さくなくて子どもではないけれど、誰も頼ってはいけないなんていうことはないんだから」
「もう、たくさん頼ってる」
「それは『頼らざるを得ないこと』で頼っているのであって、頼ろうとして頼ったことではないはずだ」
身体に回る腕に少しだけ強まった力はよりグレンがいると感じられて、
「頼って。そのために、俺はいる」
とても安心する。
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