第6話 ローデ・ハネポートより愛をこめて

 目を開けると無機質な白い天井が一面に広がり、背中には湿った布の触感が広がった。上半身を起こすと、毛布にくるまれた下半身から黒く塗られたチューブが機械へ伸びているのが見える。機械のファンの音に混じって液体の滴る音がかすかに聞こえる。さらに首を上げると、腕に刺された針から伸びた透明なチューブ。その先にはブドウ糖入りと書かれた点滴バッグが吊り下げられていた。

 どうやら病院らしい。だが、ここへ至るまでの記憶がまるでない。

 こめかみを押さえながら一人唸っていると、ガラッと音がして病室の扉が開いた。


「あら?お目覚めかしら?」


 白衣姿の女が入ってきた。

 眼鏡をかけたインテリ風な顔立ち、聡明な立ち振る舞い、左手に抱えたカルテはまさに医者そのものだ。だが、女は右手にマスカットを抱えていた。緑色に輝くその果実は無機質な空間に彩りを加え、病室の憂鬱な空気を吹き飛ばすような甘い香りが広がった。

 女はパイプ椅子に座ると、マスカットを一粒摘んでアタシと顔を合わせた。

 悪戯っぽい笑みを浮かべた彼女は開口一番にアタシが置かれた現状を説明した。


「あなた、交通事故でここに運ばれたのよ。覚えていないかしら」

「交通事故ですか……」と呟きながら、アタシは首を横に振った。


「事故の衝撃で記憶に障害があるかもしれないわ。今から質問するから答えてみて」


 ボールペンを取り出し、女はマスカットを口の中に入れた。


「あなたの名前は?」


 ありふれた質問に、電流が走ったかのような痛みが脳内を駆け巡る。そして、「彩羽いろはりな……」と答えると、額から一筋の水が垂れ、静かに頬を伝っていた。


「りな。素敵な名前ね」


 女はアタシを褒めながらカルテに何かを書き記した。アタシの名前だろうかとぼんやりと推理している間も、女の問診はさらに続いた。


「どこから来たの?」


 さっきよりひどい頭痛に見舞われる。頭をかかえながら、何とか思い出そうとするが、一向に思い出せる気配がない。


「わかりません」


 アタシの答えに、女は憐れむような視線を向け、胸ポケットからビニール袋を取り出して見せた。すっかり乾いた血にまみれた運転免許証だった。


「あなたの免許証よ。住所が東京都A区だけど、心当たりはある?」


 東京都A区……空を黄色く染めるほどのたくさんの銀杏の樹がSNS映えすると話題の公園がある地区だ。それくらいしか覚えていない。首を横に振る他なかった。


「まぁ、仕方がないわ。記憶はまだ解明されていないことも多いの。気長にいきましょう」


 メモを取りながら、女はアタシを励ました。

 そして、マスカットを一粒摘んでアタシに差し出した。


「食べてもいいんですか?」


 栄養剤と思しき点滴を指差しながら、女に尋ねた。点滴で栄養を摂取している間は口から食物を入れてはいけないと思っていたが、そうではないらしい。認識を改めないといけない。


「マスカット・オブ・アレキサンドリアよ。一口いかがかしら?」


 当然のようにアタシの口元にマスカットを差し出してくる。強い香りが鼻腔の奥を突き、思わず顔をしかめた。身体が勝手に拒否反応を起こしているようだった。


「ごめんなさい」


 厚意を無下にしたアタシに女は「いいのよ」と快活に笑って、マスカットをほおばった。


「ご家族のことはなにか覚えてる?」


 女の問診に天井を仰ぐが、真っ白な天井に答えはない。シミのようなほこりかも分からない斑点模様にぼんやりと誰かの姿が被ったような気がした。


「……お姉ちゃんがいたわ」

「そう、お姉ちゃんはどんな人かな?」


 口をついて出た言葉に女は前のめりになって尋ねてくる。アタシは思い出す度に襲われる電流のようなピリピリした痛みに顔をしかめながら、お姉ちゃんとの思い出を語った。


「強がりで優しいお姉ちゃんだった。そうそう。初めてのバイオリンコンクールでね。舞台袖で動けなくなったアタシを励ましてくれたんだ」

「お姉ちゃんのことはどう思ってるの?」

「たった一人の素敵なお姉ちゃんよ。だけど、心配だったなぁ」

「事故に会ったのにお姉さんのことを心配するなんて」


 どこか自分事のようにはにかむ女を見て、ハッと我に返った。興奮して早口になっていたようで、どこか悦楽に浸った女の顔にアタシは思わず俯いて取り繕った。


「そんなに頼りがいがないのかしら」

「そんなことないわ」


 アタシは首を振りながら、「だけど……」と言葉を続けた。


「誰よりも頑張り屋さんで、血豆ができるまでバイオリンを弾いていたの。信じられる?」


 住所もお母さんもお父さんも忘れてしまったけれど、お姉ちゃんのことだけは覚えていた。夏休み田舎で遊んで森に迷っていたところをお姉ちゃんが助けてくれたっけ……暗い森の中、二人で震えながらなんとか森を抜け出せた。今では懐かしい冒険譚だ。とめどなく溢れるお姉ちゃんとの思い出、それが口から零れてくる──記憶障害でもお姉ちゃんとの楽しい思い出が残っていたことが嬉しかった。


「ところで」


 語り過ぎてしまったとアタシは我に返り、女を見上げた。


「次は、お姉さんのことを教えてくれるかしら?」


 アタシの言葉に女は目を丸くして、「わたしのこと?」と自分を指差した。


「だって、アタシたち、初対面なのに名前も知らないじゃない。名前は?」


 名前を聞くも、「ただの主治医よ」とはぐらかされた。


「主治医だったら、尚のこと隠す理由もないでしょ?」

「ごめんなさいね。患者に肩入れしちゃいけないというのが院長の方針なの」


 アタシの脳裏に浮かんだ疑問に、女は困ったような笑みを浮かべて丁重に断った。お偉いさんの決め事なんて、アタシが文句を言ってすぐに変わるわけではない。

 だったら、当たり障りのないことを聞いてみよう。


「あなた、ご家族は?」

「妹と二人きりよ」


 意外と素直に答える女に、面食らってしまった。それと同時に女の目尻がかすかに細くなっていくのを見逃さなかった。所詮は患者と医者の関係。下手にプライベートに踏み入るのは愚策だったと改めるが、会話の流れには逆らえない。


「どんな妹さん?」

「あなたと同じ。たった一人しかいない妹よ。わたしと違って赤いマスカットが大好きな変わった子よ。なんてマスカットだったか、覚えてないけど」


 女は三粒目となるマスカットを頬張った。「うん、おいしい」と女の顔が一気にほぐれた。


「一人きりなの。じゃあ、妹さん、今ごろ心細いんじゃない?アタシのことはもういいから帰ってあげたら?」

「もうあの子は大人よ。それより自分の心配をしなさい」

「ふふっ、なんだかお姉ちゃんみたいね」


 女の言葉にお姉ちゃんの姿が一瞬だけ重なった。なぜか目頭が熱くなっていた。


「あなたこそ妹みたいだわ」


 それは女も同じだったらしい。アタシは可笑しくなってクスクスと笑った、それにつられるように女も可愛らしい笑みの声をあげた。

 談笑と共に肩を揺らすアタシの視界に、不意に毛布に覆われた下半身が映った。意図的に覆われた分厚い毛布にその隙間から覗く暗闇に好奇心にくすぐられ尋ねる。


「そもそも、あたしの怪我って、どうなっているの?」


 一瞬にして、女の顔が曇る。続けて「下半身不全よ」と、ポツリと呟いた。


「あなたの下半身は二度と動かせなくなるかもしれない」


 女は細長いため息を吐いた。そして、天井をひとしきり見上げた後、アタシに再び視線を合わせた。


「けれど、大丈夫。昔と違って医療も発達しているし、きっと歩けるようになるわ」

「へぇ、今の医療技術はそんなに発達したのね」


 感心しながら改めて毛布の下から伸びる黒いチューブに目を見やる。その先にある機械から相変わらずファンが高速で回り続け唸り声のような高音をあげていた。

 好奇心とは本当に恐ろしいもの、一度湧いた疑問が噴水のように溢れて、もう辛抱できなかった。


「ところで、その機械は何かしら?」

「血液ポンプよ。下半身に血を巡らせるためのね」


 大人になると、子どもほど心躍る瞬間はないと学んだことがある。まるで子どもの頃に戻ったみたいだ。ひょっとしたら、お姉ちゃんみたいな女が側にいるせいかもしれないと自分に言い聞かせる。


「今の血流は正常なの?」


 女が機械の裏側に回り込むと、エンターキーを押したかのような軽快な音が鳴った。そして、「ええ、そうね」と淡々と答えた。

 恐らく機械のモニターを覗き込んでいるのだろう。ダムに溜まった水が決壊するかのように好奇心が制御できなくなる。


「もう一つ聞いていい?」


 意地の悪い声色に女の身体が一瞬固まった。アタシはとうとう疑念を晒しだした。


「黒色に塗られたチューブでどうやって血色を確認するのかしら?」


 女は黙り込んでしまった。

 弁論に勝利した余韻はない──ただただ、事実を告げなければならない義務感がアタシを支配していた。


「静脈と動脈で色が違うの。血流の良し悪しの予兆は色合いに出るのに、黒色のチューブでどうやって確認するの?果たして、それはなんの機械なの?」


 ついに固まってしまった女に、「お姉ちゃん」と声をかける。


 返事はない。私は淡々と言葉を紡ぐ。


「いえ、彩羽すずなさん」


 女の顔は機械の裏に隠れて全く見えないが、女の身体が震えているのが白衣越しに見ても伝わってくる。

 そして、幾多もの演算を繰り返した末の結論を告げた。


「どれだけ機械学習しても、本物の真似しかできないわ。そう結論づけます」

「アンタに何が分かるっていうのよ!」


 アタシの出した結論に女はパイプ椅子を蹴飛ばして、激昂の声をあげた。


「試作品のくせに!」


 ブチッと配線が抜ける音共にアタシの視界はブラックアウトした。







 <<彩羽すずなの研究進捗報告書より抜粋>>

 20〇〇年7月〇〇日。

 十七回目のクローン人間は、余計な自我を持ってしまい、失敗に終わった。

 被験者IDー021、生前の名は彩羽りな。彼女の思考データにあった好奇心が失敗の原因だ。生前からおせっかいだと薄々勘付いていたが、ここでも足を引っ張ってしまった。次は知識欲、探求心のパラメーター出力を10%まで抑えて対話型AIの構築と強化を行う。二週間後に再度実験を行う予定。



 <<クローン研究機構、穿原うがつはら所長による20〇〇年度予算審議書より抜粋>>

 確かに、本研究は予定より二年ほど遅れている。

 だが、これはただの模倣――大学生が自慢するコピペではない、新たな創造だ。

 仮に、あらゆるネットセキュリティを破るブラックハッカーがいたとする。そのクローンを作っても、クローンの素体となった犯罪者の思考ルーチンに従って、また国を脅かす犯罪をするだけだ。

 だが、その犯罪者の思考を別人……例えば、正義のヒーローに変えたらどうか?

 国家のサイバーセキュリティ対策を任せられるホワイトハッカーの誕生だ。

 もちろん、才能のある犯罪者だけではない。

 才なき犯罪者すら、サービス残業を恐れない理想の社畜に変えられる。

 労働力を無限に生み出せる、少子化問題すらも解決する経友会けいゆうかい肝入りの国家プロジェクトだ。

 投資価値として十分であり、下記予算額を本国会にて申請する。



 <<彩羽すずなの日記より抜粋>>

 明日は、りなの十七回忌だ。

 報告書を提出したら一度実家に帰省するつもりだ。

 親は「十七年経っても、まだ、りなを作れないのか」と私を責めるかもしれない。「りなと違って出来損ないのくせに」と罵倒するかもしれない。

 だけど、アタシの研究は国のための誇り高い仕事だ。大手を振って帰ってやる。

 アタシをいつも見下してきた生意気な妹はいない……アタシをずっと尊敬する、アタシがいないと何もできない愛おしい妹ができる。安価な労働者不足に嘆く国も幸せ、お父さんもお母さんも出来のいい妹が生き返って幸せ。

 何よりも、アタシが一番幸せなのだから。

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才能が全ての世界から捨てられた人たちより kokolocoro @kokolocoro

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