女と男と秋の空

きみどり

女と男と秋の空

 キリッとした空気の中、草履が地面を擦る音が響く。目の前に広がった京友禅のような光景に、思わず声が漏れた。

 燃えるような紅葉と可憐な桜。この共演に心踊らない日本人なんているのだろうか。

 私は感激して帯とお腹との間からスマホを取り出すと、パシャリと写真に収めた。


 天高くの決まり文句どおり、空は高く澄んだ青で、まるで透明水彩で描いたようだ。遠くの山を眺めれば稜線をハッキリ認めることができ、空気が乾燥しているのがわかる。

 山頂から日に日に下りてきた錦はついに人里に届き、各所で紅葉祭りが催されているこの頃。まさに秋、という感じだろう。

 でも私の心は少しズレたところにある。夏の暑さが去り、気温が下がるのを今か今かと待ちわびてやってくるのは、着物のシーズンだ。


 夏に着物を着るのは暑い。着付けているうちから汗が出てくる。せいぜい浴衣を着て花火大会に出掛けて、どろどろになって帰ってくるくらいだ。


 でも冬は違う。着物姿を美しく見せるために胸や腰にあてた補整タオルも、腰回りをピタッと支えてくれる帯も、私の味方だ。帯の腹巻き効果でお腹が冷えないから、冷えに悩む全ての人の味方と言っても過言ではない。



 私は満足げに微笑み、スマホをまた帯の間に差した。手提げからいちいち出すのが面倒なので、こうしている。体にしっかりと巻き付けているのは帯の下側なので、上側は少し緩んでいて、ウエストポーチのように使うことができるのだ。


 そうして空いた手を、隣の彼氏、ジュンに絡ませる。彼は「すごいなー」なんてありきたりなことを言った口を閉じ忘れ、マヌケな顔をしていた。

「行こう」

 ゆっくり、私たちは再び歩を進め始めた。

 いざ、斜面を飾る紅白の世界へ。




「めぐちゃん、すごいねえ。紅葉ってこんなに赤いんだねえ」

 まるで初めて紅葉を見たみたいに、ジュンは声を弾ませた。

 ずっと先まで続く錦繍きんしゅうの廻廊は確かに圧巻だ。秋の日差しが燃える葉を一枚一枚透かし、宝石みたいに煌めかせている。見上げた葉と葉の向こうに広がる快晴も、紅をより一層際立てた。

 しかも、辺りを埋め尽くすのは紅葉ばかりではない。白い花弁が陽光を弾いて清廉と輝き、やはり青空とのコントラストに輪郭をくっきり魅せて咲き誇っている。

 見頃を迎えた四季桜だ。

 染井吉野と違い、四季桜は春と秋の年二回、花を咲かせる。控えめな印象を受けるその花は、かといって、貧相なわけでは決してなく、繊麗さいれいで上品な娘さんを思わせた。

 両主役は競い合わず、図になり地になり、お互いを引き立て合っている。


 繋いでいた手をあっさり離し、私は帯からスマホを出すと、夢中で季節を切り取った。アングルを変え、構図を変え、シャッターを切りまくる。


「めぐちゃん、一緒に撮ろう」

 声をかけられて我に返ると、ジュンが手招きしていた。いつの間に頼んだのか、そばにはジュンのスマホを構えている男性がいた。




 撮影タイムの後、男性に礼をいって、早速二人で画面を覗き込む。

 誰が撮っても映える色の嵐の中で、着物の彼女と洋服の彼氏が微笑を浮かべて並んでいる。悪くない。

「めぐちゃん、綺麗! 着物っていうのが、さらに良いよね」

 彼の口調から「着物イコール上品なフォーマル」みたいな雰囲気を感じて、私は胸の中で「今日着てるのは小紋だけどね」と呟いた。


 色は空色。秋を愛でに来たにしては挑発的だ。

 寒いけど上には何も羽織っていない。どうしても空色を一片も隠したくなかったのだ。帯ははんはばおび


 着物姿といえば、大体の人はお太鼓という旅館の女将さんみたいな帯結びを想像すると思う。ふっくらした、背中半分くらいのサイズの四角形を背負う、あれだ。

 そうではなくて、私の場合は貝の口。男の人の着物姿で定番の結び方だ。個包装のお菓子の空袋を何となく縛ってみました、みたいな真ん中に結び目のついた逆八の字の結び方だ。


 ただし、私のはちゃんと可愛い。半巾帯は男物のかくおびより幅が広いし、少し結び方を応用して、お尻をカバーするようなちょっとした垂れもつけたからだ。


 この結び方を選んだ理由は簡単。ペタンコだから。お太鼓でも背もたれは使えるけど、長時間の車移動を考えるとこっちの方が楽なのだ。


 半衿はんえりや帯留め、他にもこだわりがある。

 まさに考え尽くしたコーディネート。



 ということを、隣を歩くジュンは知るよしもない。

 彼の着物知識はゼロなのだ。

 知っているのは、私にとって着物は普段着のひとつであるということと、隙あらば着物で出掛けようとしているということだけだ。



 快晴だったはずの私の心に、いつの間にやら雲が棚引き始める。



 大学時代にサークルを通して知り合い、社会人四年目になった今もこうして週末にはドライブデートに出掛けている私たち。きっとそのうち、どちらからともなくプロポーズをして結婚……となるのだろう。

 でも、そんな未来を私は晴れ晴れと思い描くことができない。

 結婚したら、私たちはプライベートを共有することになる。自分の生活スペースもお金さえも「家」のものだ。


 例えば。

 着物に向き合うと暮らしが丁寧になり、時間がゆっくりと流れる。

 着たい日の前からコーディネートを考え、半衿を縫いつけ、ハンガーに吊るしておく。どんなに慣れていても、着るのには洋服よりも時間がかかる。着た後もまたハンガーにかけるし、畳むのも手間だ。しかも、どの行程も和室一部屋を占領するくらい場所を食う。

 着物の柄は先取りが基本だから、季節の移り変わりに敏感になるし、花の名前にも興味が出る。


 そんな私を、彼はどう思うだろうか。

 着物にかけている手間ひまを、お金を、そして移ろいを楽しむ目線を知ったとき、理解してくれるだろうか。



 どんより鈍色にびいろの曇天。



 もしかしたら女にとって、結婚というのは失うことなのかもしれない。今の姓を失って、免許証やら通帳やらの手続きに走り回り。暗黙の了解みたく家事を主に担ってしまい、自分の時間を失い。子どもを望めば、否応なく一定の期間仕事を失い。

 しかも、その事を誰も、夫さえも気づかず、ねぎらわず、雑に扱われるのかもしれない。どんなに頑張っても、主役になれなくなるのかもしれない。

 もっと夢を見るべきかもしれないが、私たちが生きていくのは現実だ。


 ぐずついた心を映すように、私の歩くペースが少し落ちた。ただでさえ着物の影響でいつもより歩幅が狭いのに。歩いても歩いても、廻廊の出口に近づかない錯覚に陥る。

 でも、話しかけてくるジュンに気のない返事をするうちに、トンネルはきちんと終わりを迎えた。


 途端に広がる、どこまでも透き通った青空。

 雲ひとつない、何物も混じらないそらいろ


「あ、物産展だ! 柿が売ってるよ!」

 ジュンが指差した。木々の開けたところにはテントが並んでおり、確かに袋詰めされた橙色が見えた。自然とそちらに足が向く。

「今年って、どの木を見てもいっぱい柿がってるよね。生り年かな?」

 意外な話題に思わず、ジュンの顔を見やった。

「え、そう?」

「そうだよ。その年によって柿がたくさん生ってる年と、全然生ってない年がある。きっと今年は生り年だよ。きっと美味しいよ!」


 それを聞いて、私は自身を節穴と嘲った。

 柿の木を見つける度、その色づきに移り行く季節を感じてはいた。たわわに実る様子に見事だと喜んでもいた。でも年単位で変化を気にしたことはなかった。


「あ、手拭いも売ってるよ。買っていったら着物に使えるんじゃない? 今日の首回りにチラッと見えてるのも、この前出掛けたときに買ったやつでしょ?」

 今度こそ私は素っ頓狂な声をあげた。

「なんでわかったの!? 手拭いを半衿にするって言ったことあったっけ!?」

「ハンエリ……? いや、そんなの前買ったやつだって、見ればわかるよ? 帯につけてるのだって、いつかのデートで買ったとんぼ玉でしょ?」

 私はぽかんと口を開けて、ジュンを凝視した。


 ああ、この人は大丈夫だ。


 私なんかよりも、よっぽど日々を丁寧に生きている。

 今までも、今も、そしてこれからも。どんな歩幅で歩いたって私の隣にいてくれる。


 感極まって「ジュン、結婚しよう!」と言いそうになった。

 慌ててマヌケな口を閉じる。この言葉はもっと相応しい時と場所で、丁寧に交わさなければ。


 その時までに、春よりも夏よりも、秋の空みたいに自分を高めよう。

 ジュンの目線に近づくために。

 お互いを引き立て合えるように。

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