終章

第0話・終

 日々はあっというまに過ぎていく。気づけば、もう国王が来訪する日を迎えていた。

「…………ティベリウス、そろそろいいですか?」

「ああ、うん。わかった」

 海風や眩い陽光、海鳥の鳴き声が窓から吹きこみ、落ちてくる正午過ぎ。アルビナータがそう声をかけると、祈りの間で精霊たちにクレメンティア女神像に祈りを捧げていたティベリウスは立ち上がると、部屋をあとにした。

 部屋から出てきたティベリウスは、アルビナータが持っている木箱を見て目を瞬かせた。

「アルビナータ、それは?」

「古代アルテティアの置き物です。書斎に飾っておこうと思いまして。構いませんか?」

「うん、いいよ」

 と、ティベリウスは快諾する。アルビナータはほっとして、二人で書斎へ向かった。

「国王はまだ表のほうにいるの?」

「はい。こちらへ来るのは初めてですから、展示室の見学が長引いているみたいです」

 先ほどまで館長室へ行っていたアルビナータは、遠目に見た国王の様子を思いだして苦笑した。持ち前の知的好奇心を発揮して、解説役の館長を質問攻めにしていたのだ。王城に出入りしていた頃、共に古代アルテティアの本を読みあさった仲である。アルビナータは、相変わらずだなあ、としか言いようがなかった。

「そういえばティベリウス。今朝会ったときに館長が、もしよければ今度、古代アルテティアの暮らしについてティベリウスに講義してほしいと言ってました。先日の大博覧会で会った学芸員や教授の方々から、そういう要望がドルミーレのほうへ届いたそうでして」

「もちろんいいよ。アルビナータは大丈夫?」

「はい。じゃあ後で、館長に伝えておきますね」

 快諾をもらえ、アルビナータは顔をほころばせた。

 この講義が告知されれば、国中の古代アルテティア史を専攻する学芸員や学者、学生からの応募が殺到するに違いない。古代史に興味を持つ一般人も、知れば聴講を希望するだろう。

 ティベリウスの言葉に、彼が語る古代アルテティアの世界に興味を持って知ろうとしてくれる人が増えているのだ。それが、アルビナータは嬉しかった。

 書斎に近づくと、見張りの兵たちが気づいてティベリウスに見惚れた。

「御役目、御苦労様。悪いけど、少しだけ外してくれないかな。国王が来るまで、ここで時間をつぶしたいんだ」

「は、はいっ」

 ティベリウスが微笑んで頼むと、兵士たちは慌てて敬礼するや二人の横を通り抜け、展望台から出ていく。中年兵士さえ頬が染まっていたのは、気にしてはいけない。

「……やっぱり、そうやって人に命令しているのを見ると、ティベリウスは皇帝だったんだなあって納得できますね」

「あはは。宿営地でも、こんな感じだったでしょう?」

 苦笑してティベリウスが聞いてくるものだから、アルビナータは同意するしかない。宿泊地や視察先でのティベリウスの振る舞いは、それほど人々が思い描く皇帝らしかった。

 特に印象的だったのは、視察した軍基地での演説だ。演説台に立って話す内容、涼しくも芯が通った声音、きりりとした眼差し。初めて、あるいは二十年ぶりに見る生身の皇帝の眩い姿と真摯な鼓舞に、屈強な兵士たちは皆酔い、涙していた。現代でも彼を皇帝だったのだと思うことはしばしばあるが、あれほど五感で感じ、納得できるものはなかった。

 それほど民を熱狂させた古代の賢帝と、末裔たる王国の若き国王が対談するなんて、改めて考えてみるとすごい話だ。立場こそ似ているものの、時空が違うのである。古代アルテティアのことで話の多くは盛り上がるに違いないが、現代の政治の話について触れることもあるだろう。一庶民が聞いていい話題の濃さと重さではないような気がする。

 とはいえ、‘アウグストゥス’をこの世に顕現させる‘巫女の学芸員’である以上、逃げられないのだが。なるべく現代の政治の話は避けてほしいものである。

 つい数日前に国王から贈られたばかりの古代風の調度で調えられた書斎に入り、アルビナータは包みを机の上に置いた。木箱を開け、中にはめこまれるように収められていた物を取りだす。

 損壊した、紐に通された首の金細工だけが磨かれて美しいヤーヌス神像。――――神を宿しうる、ガイウス・ウィンティリクスの持ち物。

 机の上に置かれた置き物に、ティベリウスは目を瞬かせた。どうしてこれがここにと、戸惑いを顔に浮かべてアルビナータを見る。

「アルビナータ? これ……」

「館長と主任に原本の異変のことを報告したときに、このヤーヌス神像をティベリウスにあげられないか、相談したんです。あちこち破損してますけど、ガイウスさんの持ち物がそばにあれば、少しはさみしさも紛れるかと思いまして。首飾りも、腕飾りから外してつけました」

 陛下からの許可もちゃんと下りてますよ。アルビナータは、悪戯が成功した子供の顔で笑ってみせた。

「…………これ、僕のものにしていいの?」

「はい。今日からティベリウスのものです。書斎にでもティベリウスの部屋にでも、好きなところに置いていいんです」

 まだ信じられないといった表情のティベリウスに、アルビナータは頷いてみせた。

 ガイウスのヤーヌス神像をティベリウスに渡せないかとは、前々から考えてはいたのだ。しかし、いくら歴史的価値の点では高くなくても所蔵品なのだから館長に提案しても却下されるだろうと思って、アルビナータは口に出せずにいた。

 だが、今回の件でヤーヌス神像が条約違反の品であることが明らかになり、ファルコーネとマルギーニは頭を悩ませていた。そこでアルビナータは、今ならと提案してみたのだ。さすがに渋い顔をするだろうとびくびくしながらの提案だったのだが、もちろん国王の承認を経た上という条件はあったものの、思いのほか二人はあっさり許可した。

 ヤーヌス神像の首の金細工も、コラードに腕飾りから外すことを伝えると、さっさとやってしまえとむしろ推奨された。彼もまたティベリウスのことを案じていたし、何より神の力の恐ろしさを体感しているのである。神様なんざ怒らせるもんじゃねえ、とかなり本気の顔で言っていた。

 ティベリウスはヤーヌス神像に触れた。

「……首飾りまであるんだね」

「はい。首飾りがないと、またヤーヌス神に怒られてしまいますから」

 アルビナータは冗談めかして言った。

「それに、原本に触れさせなければいいわけですし。……私もティベリウスも、あの時代へ行くつもりはもうないですしね」

「……うん。そうだね」

 展示ケース越しに見つめることしかできなかったヤーヌス神像に触れたティベリウスの顔が朱に染まり、歓喜と幸福に満たされた。最高級のサファイアが強い感情をあふれさせて、きらきらと輝く。

「ありがとう、アルビナータ。僕、すごく嬉しい……」

 言って、それでも感情を表しきれないとばかり、ティベリウスは傍らにヤーヌス神像を置くと、片手でアルビナータの手を掴み、指を絡めた。なんとかしてアルビナータに自分の感情を伝えたいという気持ちが、指先から伝わってくる。

 ねえアルビナータ、とティベリウスはどこか泣きだしそうな顔でささやいた。――――まるで七年前、アルビナータが名を告げたときのように。

「僕はこれでいいんだよ。こうやって、君が一緒にいてくれて、僕のために何かしようとしてくれる。――――僕にとって、それが一番さみしい気持ちを忘れさせてくれる慰めなんだよ」

「……!」

「ありがとう、アルビナータ。僕を見つけてくれて。君がいたから、僕はこの時間を迎えることができた。……ありがとう」

 そうティベリウスは、神に祈る敬虔さでアルビナータに感謝を告げる。深い、万感の思いがこめられた声音がアルビナータの胸に落ちていく。

 あまりに美しくて見惚れ、アルビナータは息を止めた。頬を真っ赤に染め、顔を俯かせずにいるのがせいいっぱいだった。

 そのとき、ばたばたと誰かの足音が近づいてきて、アルビナータは慌ててティベリウスから離れた。それから数拍もなく、扉代わりの布がめくられる。

 書斎に現れたのはミケロッツォだった。いつもなら着崩している制服ではなく、今日ばかりは喉元までボタンを留めた、白地に青と金の装飾が映える正装をまとっている。

 ミケロッツォはティベリウスを見るや、うお、と目を丸くした。

「展示してた像よりもずっと美形じゃねえか。こりゃあいつらがぼうっとなるわけだ」

 開口一番、礼儀も何もない発言である。国王が聞いていたなら、極寒の空気の中で冷ややかな一瞥が投げられることは間違いない。

 ティベリウスは気に止めた様子もなく、首を傾けた。

「君は誰? 国王の伝令?」

「あ、ティベリウスは会ったことがなかったんですよね。国王陛下の伝令の、ミケロッツォさんです」

「どーも、ミケロッツォ・シモンチェッリです」

 アルビナータが紹介すると、ミケロッツォは道化師めいた大仰な仕草でティベリウスに頭を下げる。正装だからか、一層おどけたふうでおかしい。この人らしい、とアルビナータは小さく笑った。

「ミケロッツォさん、どうかしましたか? 国王陛下がおいでになられたんですか?」

「ああ。今こっちに向かってきてるところだ。……というわけで」

 そこで一度区切ると、ミケロッツォはそれまでの砕けた態度はどこへやら、貴族の末席に相応しい洗練された動作で一礼した。

「‘アウグストゥス’、お待たせいたしました。まもなく、国王陛下がお見えになられます。どうかご準備をお願いいたします」

「わかった。教えてくれてありがとう」

 と、ティベリウスはミケロッツォに微笑みかける。ぱっと見ただけでは驚くだけだったミケロッツォだが、これはさすがに効いたようだ。赤くなりこそしないものの、代わりに硬直する。

「じゃあアルビナータ、中庭へ行こう」

「はい」

 アルビナータは頷き、‘巫女の学芸員’として、ティベリウスの斜め後ろに付き従った。配置された兵士たちの視線を受けながら中庭へ向かい、回廊で国王を待つ。

 やがて空気がさらに変化し、国王が姿を現した。

 古代に生き、今を生きる悲運と美貌の皇帝が、軽く目を見張る国王を笑顔で歓待する。アルビナータはその赤い目で、高貴な人々の対面を見守った。

 古代から在り続ける白亜の別邸に、今日も精霊の風が吹いている。

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アウグストゥスの巫女 ―再訪― 星 霄華 @seisyouka

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