第30話

 過去の世界での、ティベリウスとガイウスのやりとりをアルビナータは思い出す。公の場では絵に描いたような主従であった二人が樹海で見せた、楽観的な主と口うるさい従者の姿。現代でヤーヌス神像を見下ろすティベリウスの切ない眼差しを裏づける、確かな絆があの一場面にはあった。

 あの強い絆が断ち切られないようにしたかった。ティベリウスに、人間と断絶された悲しみを味わってほしくなかった。――――心から笑っていてほしかった。

 けれど、ティベリウスは今もこうしている。それは、アルビナータの行動が無意味だったことに他ならない。あんなにも叫んだのに。

 だからアルビナータは今、ティベリウスに問いかけたのだ。

 彼が望むなら、館長室の金庫にある金細工とヤーヌス神像をどうにかして持ち出し、もう一度金細工で原本に触れよう。そして時空の扉を開き、今度こそティベリウスをあの時代へ帰すのだ。

 アルビナータとは状況が違うが、きっと同じ方法で上手くいく。失踪した直後のルディシ樹海へ戻れば、少しばかり神の悪戯に巻き込まれてしまったということで済むだろう。

 それは、自分がこのドルミーレの学芸員にならないこと――――今の自分でなくなることだとわかっているけれど。

「…………いいんだよ、アルビナータ」

 ティベリウスは緩く首を振って、そう言った。

「アルビナータ。実は僕もね、元の時代へ帰る方法を探していたんだ」

「……!」

「でもそれは、あの時代が懐かしくて帰りたかったからじゃない。アルビナータが悪い人たちに狙われるのが嫌だったからだよ。僕がこの時代にいる限り、アルビナータは僕を皆の前に現すための存在として、色んな人たちに見られ続けてしまうから」

「……」

「僕がこの時代からいなくなれば、アルビナータが狙われる理由はなくなる。精霊たちに守られながらでも、ガレアルテやルディラティオで普通の人として生きていけるはずなんだ」

 ティベリウスはそう断言し、ぎゅっと拳を握った。顔を少しばかり俯ける。

 しかしそれは、ほんの数拍だけのこと。けどね、とティベリウスは恥ずかしそうにも申し訳なさそうにも見える表情で、アルビナータをもう一度見た。

「今日起きて、ずっとここでぼうっとしているうちに君が帰ってくる気配がしたとき、すごくほっとしたんだ。嬉しかった。アルビナータがこの時代に帰ってきたことが。……自分がここへ帰ってこれたことが」

 ティベリウスは手を伸ばすと、アルビナータの手を包んだ。繊細な指のひやりとした肌触りに、アルビナータは思わず息を飲む。

「……でも、ガイウスさんたちに会えないのは、さみしくないのですか? ティベリウスは、ガイウスさんがどうなったかあんなに知りたがっていたじゃないですか」

「……そうだね。知りたかったし、今でも知りたいよ」

「じゃあ」

「あの時代が懐かしいのは本当だけど、今の僕にとって帰りたいのはこの時代だから」

 どうしてとアルビナータがさらに問うのを封じるように、ティベリウスは言った。

「僕はね、アルビナータ。この時代で目覚めてから、ずっと苦しかったんだ。きっと運命の女神たちが何か気まぐれを僕に起こしたんだろうって諦めてはいたけど、本当はこの時代の人たちと話したかった。この時代のことでも、僕が皇帝だった頃のことでもいいから」

「……」

「そんなとき、僕は君に会えた。君は僕に話しかけてくれたし、色々なことを教えてくれた。この時代のことも、文字も、たくさん。僕はやっと、この世界に生きて、受け入れられてるんだって思えたんだ」

「……」

「それに君は、僕が皇帝だった頃のことを世の人々に知ってもらおうとしている。僕のことだけじゃなく、僕の周りで生きていた人たちのことも。……僕は、それが嬉しいんだ」

 ティベリウスは微笑んだ。

「だから、あの時代の僕が、君の助言に従わなくてよかったと思うんだ」

「……!」

「僕は、この時代で君に会えて……一緒にいられてよかった。我がままだとわかっているけど、この時間も記憶も失くしたくないんだ」

 アルビナータの手を包むティベリウスの手に込められた力が、そこで強くなった。

「だから、あの時代の僕を助けられなかったなんて思わないで」

「ティベリウス……」

 鮮やかな青の瞳に見つめられ、アルビナータは顔をゆがめた。

 声や表情、重ねた手から伝わってくるのは、今までアルビナータが何度か彼に見出した諦めではない。温かく優しく、包みこむようで。どこか祈りにも似ている。

 アルビナータは、ようやくティベリウスの思いを理解した。

 ティベリウスはもう、皇帝だった時代――――親しかった人々との断絶を受け入れ、未来へ向かって歩きだしているのだ。過去を懐かしみ、我が身を憂うことはあっても、それでも彼はこの時間、いずれかの神にゆがめられてしまった人生を受け入れている。彼が過去を懐かしむことに囚われ、帰りたがっているのかもしれないというのは、アルビナータの思いこみでしかなかったのだ。

 アルビナータの願いは、とうに叶っていたのだ。

 その事実がアルビナータの肌から身体の奥深くへ、そして胸に伝い落ちていく。雫を受け入れた水面のように、アルビナータの心は震えた。

 緩んだ涙腺から雫がこぼれないようこらえながら、アルビナータは口を開いた。

「……私も、ティベリウスと出会えてよかったです。一緒にいられる時間を、忘れたくないです」

「…………うん」

「私のことは気にしないでください。私も、ここでの生活は悪くないんです。元々、家に籠って本を読んでいるのが性に合ってますから。私が実家にいた頃にどう暮らしていたか、ティベリウスも知っているでしょう?」

「……そうだね。君は学院や王城へ行かない日は、よく家の書庫や自分の部屋に籠っていたね。そうでなければ、国立図書館へ行っていた」

 ティベリウスは小さく笑った。アルビナータも、でしょう、と頬を緩ませる。

「だからティベリウスも、自分を犠牲にして私を町へ帰そうとしなくてもいいんです。私がここにいるのは、人が怖いからだけじゃなくて、ここにいるのが好きだからで。ティベリウスの家なんですし」

「…………うん」

「ティベリウスが皇帝だったときのことも、もっと話してください。私にも、他の人たちにも。そのために、ティベリウスが行くところへ私もついていきますから」

 身を乗り出し、アルビナータはティベリウスに約束した。

 だってそれしかないのだ。ティベリウスは過去を誰かに語るとき、いつだって懐かしそうで、嬉しそうだった。過ぎ去った日々を、自分の周りで生きていた人々のことを語ることを喜んでいた。

 ならば、アルビナータはそれを助けるしかないではないか。

 それでこそ、‘皇帝陛下の巫女’なのだから。

 うん、とティベリウスは頷いた。

「僕は君にあの時代のことをたくさん話したけど、この時代のもっと他の人たちに知ってほしい。ガイウスやデキウスや父上……僕の大切だった人たちがどんな人だったのか、書物に記されていない彼らのことを伝えたい。それは、僕がこの時代にいなければできないことだ」

「はい」

「だから……歴史をこのままにしていいんだ。……このままにしなきゃ駄目なんだ」

「……そうですね」

 アルビナータは淡く、苦く笑みを浮かべた。

 脳裏に浮かんだ過去のティベリウスの微笑みを、きつく目を閉じることで消そうとする。

 ごめんなさい、とアルビナータは心の中で呟いた。

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