第29話

 夜。夕食の後片付けを終えたアルビナータは、ティベリウスの私室へ足を向けた。

 山の主である土の精霊に促されて入室すると、穏やかな田園風景を題材とした壁画とモザイクタイルが目に入ってくる。だが調度は現代的な意匠で、古代アルテティアの趣の室内装飾とはどうにも似合っていない。

「……アルビナータ?」

 アルビナータが広々とした寝台に近づくと、夕方に目を覚ましてからも横になっていたティベリウスはふわりと微笑み、緩慢な動作で枕を背に上半身を起こした。それを合図にしたかのように、ティベリウスに言われるまでもなく、彼の枕元に侍っていた精霊たちは退室していく。

 アルビナータは、ティベリウスが持っていた物を見て目を瞬かせた。

「ティベリウス、それは……」

「僕の章だよ。あんなことになっちゃったから、巻物はどうなったのか確かめようと思って」

 言いながら、ティベリウスは巻物を巻いていく。

 アルビナータはそれを複雑な顔で見ながら、寝台横のテーブルに銀の盆を置いた。

 アルビナータが現代に戻った後、『帝政』ベネディクトゥス・ピウス帝の章は血の跡も力の波動も完璧に失せ、普通の巻物に戻った。しかしそれは、時空の門が閉じられ、周囲へ影響を及ぼさなくなったというだけだ。

 その代わりとでも言うかのように、皇帝がルディシ樹海を訪れたあたりの場面に、それまで書かれていなかった記述が付け加えられていた。

『帝はルディシ樹海で、稀有なる娘と出会った。紅玉が如き瞳、純白の髪。いずれの異民族とも異なる装いをしたその姿は愛らしく。精霊と神の加護は、滾々と湧き出でる泉の如し。彼女こそ、神がこの純潔なる帝に与えたもうた運命の乙女か』

 そんな文で始まって、皇帝が少女の守護によって邪悪な者を退けたことが記されていた。その後少女は神と共に去り、皇帝は樹海で失踪し、異母弟が代わって皇帝の座に就いたことまでを綴り、ベネディクトゥス・ピウス帝の章は終わっている。

 アルビナータの叫びもむなしく、ティベリウスは世界から失踪した。だが歴史は、わずかなりとも改変されてしまったのだ。他ならぬ、アルビナータ自身の行動によって。

 アルビナータが原本の変化を知ったのは、今朝のことだ。しかしファルコーネとマルギーニは、コラードから昨日のうちに見せられていたらしい。アルビナータが館長室で語る必要はなかった。

 アルビナータは顔を曇らせた。

「……『帝政』がああなったのは、私が過去のティベリウスに会ってしまったからですよね……」

「……本来の歴史で僕と君が会っていないのなら、多分、そうだろうね。オキュディアス一族が歴史の小さな改変に気づかないまま記して、今に至ったことになっているんだと思う」

「……」

 ティベリウスは目を伏せ、アルビナータの問いを肯定する。少しばかりぎこちない調子なのは、アルビナータを気遣おうとしたからなのだろう。

 ティベリウスは巻き終えた巻物を傍らに置くと、アルビナータが持っている銀の盆に目を向けた。

「ねえそれ、葡萄酒?」

「葡萄の果実水ですよ。このあいだ葡萄酒を持ってきてくれたのとは別の農家の方が、持ってきてくれたんです。体調不良なんですから、お酒は駄目ですよ」

 やんわりとたしなめながら、アルビナータは寝台横のテーブルに銀の盆を置いた。古代アルテティア帝国の遺跡の出土品を磨きあげた水差しから杯に注いで、ティベリウスに渡す。

 一口飲んで、ティベリウスは顔をほころばせた。

「ああ、美味しいね」

「はい、私もさっき飲んだところなんです。精霊たちにも好評でした」

 精霊たちは基本的に、人間の飲食物を口にしない。が、作物に味を加えず素材の味を活かして調理した類であれば口をつけることもある。そのため、果実水や酒は好んで飲むのだ。

 葡萄の果実水を飲み干すと、ティベリウスはテーブルに杯を置いた。寝台の端にアルビナータを座らせ、口を開く。

「それで、アルビナータ。ファルコーネとマルギーニにはどう報告したの?」

「過去の時代へ行ってしまった経緯や、見たことをそのまま話しました。過去へ行く方法を見つけてしまった以上、どうすればいいのか考えるには、どんな状況だったのか知らないといけませんから」

「うん、それがいいよ。これからどうするにしろ、二人の協力は不可欠だもの。あと、今の国王にも助けてもらわないと」

「はい。国王陛下にはまた、館長からの報告と提言をまとめた書簡をルネッタさんに届けてもらうことに決まりました。ルネッタさんは私より先に報告しに行っていて、そのときにもう話をしてあるそうです」

 と、アルビナータは説明する。

「それで、二人は『帝政』の僕の章をどうするつもりだと言っていたの? あと、ガイウスのヤーヌス神像と、首の金細工のことも」

「館長は、原本とヤーヌス神像の首飾りを触れさせなければ過去の時代へ行くことはできないのであれば、今のところは様子を見る――――とのことです。翻訳は終わってませんし。だから今のところは、ヤーヌス神像は金細工と一緒に館長室の金庫で預かってます」

「そう……じゃああとは、国王がどう判断するかだね」

「はい……ティベリウスに悪いようにはならないと思いますが……」

 アルビナータは不安を隠せない表情で頷いた。

 国王は、どのような決断を下すだろうか。ベネディクトゥス・ピウス帝を敬愛し、アルビナータにも気さくに声をかけてくれる国王だが、時空を超える手段についてなのである。悩むに違いない。

 そう、時空を超えるなんて――――――――

「……」

 そこまで考えて、アルビナータは先ほど中断させていた、自分が歴史を改変してしまった事実にまた目を向けることになってしまった。

 今のところ、ベネディクトゥス・ピウス帝の章の一部が書き変わるという形でのみ、過去でのアルビナータの行動は現代に影響していることが確認できている。大きな歴史の流れは変わっていない。

 しかし、他はどうか。

 歴史は無数の人々の生と死、出会いと別れが重なりあって織り成していくもの。たった一つの小さな出来事が物事のずれを生じさせ、それが積み重なって後世に大きな影響を及ぼすことも充分ありうるのだ。アルビナータの宿営地での行動は、名もなき人々の生死を変えているかもしれない。

 アルビナータがラッパを吹くことで、古代アルテティア帝国の兵士たちは盗人に気づいて追いかけることができ、仲間も捕らえられた。彼らはあの後、裁判にかけられたはずだ。元の歴史では無事に逃げおおせていたのなら、これもまた後世の人々の生死を左右しているかもしれない。

 ――――いや、アルビナータはもっと大変なことをしてしまっている。

「…………ティベリウスは、あの時代へ戻りたいですか?」

「…………アルビナータ?」

 アルビナータが表情を変えたのを見てか、ティベリウスは眉をひそめた。

「……………………怖かったんです」

 心の奥底でわめく声に促されたように、ぽつり、とアルビナータは視線を落として呟くように言った。

「どんなに話しかけても、誰も気づいてくれなくて、自分が空気か何かになってしまったようで……剣や長槍が当たり前にあって、男の人は皆すごくたくましくて強そうで……珍しくはありましたけど、やっぱりああいうのは怖い、です」

「……」

「でも、あの時代のティベリウスにも最初、気づいてもらえなかったとき…………考えたんです。ティベリウスも私と会うまでずっとこんな感じだったのかなって。そう思ったら、可哀想で……………」

 言葉を重ねるほどに過去の世界でいた頃の感情がよみがえり、アルビナータの感情は高ぶっていった。

 さみしさ、恐怖、失望、同情。宿営地に置かれたたくさんの武器、力に呑まれた盗人、犯罪を犯した兵士の裁判の様子、ヤーヌス神の威厳。様々な感情と記憶が胸に押し寄せてくる。締めつけ切り裂くようなあの痛みまでもが再現されるのだ。

「だから、早く帰ってくださいってあの時代のティベリウスに言ったんです。どこにも寄らないでルディラティオへ帰ってくださいって」

「……!」

「言わずにいられなかったんです…………!」

 アルビナータは叫ぶように、過去を変えようとしたことをティベリウスに打ち明けた。

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