第五章 私にできること

第28話

 朝一番に出勤したアルビナータが朝会のため会議室へ向かっていると、廊下でコラードと会った。

「コラードさん、おはようございます」

「アルビ、お前もう出勤すんのかよ」

 アルビナータが近づいて見上げたコラードの顔は、半ば呆れた様子だ。コラードは、昨夜のぐったりしているアルビナータを見ているのである。当然だろう。

「もう平気ですから。朝御飯もしっかり食べてきました」

 命の恩人の片割れに、アルビナータはにっこりと笑顔を浮かべてみせた。

 アルビナータがヤーヌス神の力によって過去の世界から帰還して、一晩。アルビナータはすっかり復調していた。指一本動かすのも億劫ですぐ眠りに就いてしまった昨夜が嘘のように、身体が軽い。朝早くに目覚めたこともあって、アルビナータは昨日できなかった仕事をしようと早めに出勤していたのだった。

 すると、コラードはしょうがねえなあ、と言わんばかりの表情になった。

「やる気があるのはいいことなんだがな、今日は臨時休館だ」

「え? そうなんですか?」

「一部だけとはいえ、展示ケースのガラスが割れてるからな。まあ職員は仕事だから、俺たちには関係ないんだが」

「……」

 やる気の出端をくじかれ、アルビナータは気まずい表情になった。

 しかし、よく考えなくても今日は臨時閉館になってしかるべきなのだ。精霊たちから聞いた話によれば、展示室や収蔵庫への被害は相当なものだったという。展示ケースの購入費や収蔵庫の扉の修復費用、保存環境を整えるための魔法道具の購入費は、とんでもない額になるに違いない。被害の数を数えれば数えるほど、周囲に多大な迷惑をかけた自分がアルビナータは情けなくなる。

 肩を落としていると、コラードはぽんぽんとアルビナータの頭を撫でた。

「お前がそんなに落ちこむ必要はねえよ。あの腕飾りをお前にやったのは俺だし、ティベリウスでさえ魔法がかかってるって気づかなかったんだ。つか、巻物がなきゃただの腕飾りだし。そんなもんを基本は一般人のお前が警戒するなんて、無理だろうが」

「……」

「お前は、腕飾りと原本の軸に似たような文があったから不思議に思って調べようとしただけだろ? 学芸員なら当然で、今回はたまたま妙なもんに引っかかった。それだけだ」

「…………はい」

 言い方こそそっけないが、コラードの眼差しも声も、ただ後輩を慰める優しさに満ちている。罪悪感と自分への腹立たしさはまだ消えないものの、少しだけ救われた気持ちでアルビナータは頷いた。

 アルビナータは頭を下げた。

「精霊たちから聞きました。昨日は助けてくださって、ありがとうございました」

「いいって別に。また姉貴から逃げるのに付き合ってくれたらいいさ。今度はリディニにでも行くか」

 と、コラードはアルビナータの白い髪をかき回す。照れているのだ。面倒見のいい性格で感謝されるのは慣れているかと思えば、意外にそうではないことをアルビナータは知っている。

「ルネッタさんは大丈夫なんですか?」

「ああ、一応家に様子を見に行ったら元気だったから、逃げてきた。そっちこそ、ティベリウスはどうなんだ?」

 問いと共に、髪をかき回すコラードの手が止まる。

 アルビナータは顔を曇らせた。

「……それが、今朝、私が見舞いに行ったときはまだ目を覚ましてなくて……今は、精霊たちに付き添ってもらってます」

 アルビナータを過去の世界から連れ戻すため、ティベリウスが何をしたのかは、朝食の席で精霊たちに聞いたから知っている。ヤーヌス神への供物として己の血を大量に捧げた彼は、アルビナータの帰還とほぼ同時に気を失ってしまったのである。出勤前に見た寝台で眠る彼はただでさえ白い肌がさらに色を失っていて、寝台がまるで棺のように思え、アルビナータはぞっとしたほどだった。

 コラードは両腕を組んで、一つ息を吐いた。

「まあ、当然か。あいつに言われて隠れてたけど、やばそうな気配がなくなったから見てみたらお前がいるのはいいとして、あいつが血を流して倒れてたからびびったのなんの……まああいつはヤーヌス神の仕業だって考えてたわけだし、自分の血を供物して召喚か何かしようとしてもおかしくないわけだがよ」

「……」

「にしても、お前に買ってやった腕飾りが国際条約違反の代物って、なんの冗談だよって言いたくなるな。ひとまず、ヤーヌス神像にひっかけておいたけど……あれどうすりゃいいんだ? 館長にゃ一応、後日お前かティベリウスから報告してもらうって昨日言っといたが、ごまかすのは無理っつうかやばいよな」

「……そう、ですね」

 コラードが何のことを言いたいのかすぐに察し、アルビナータは視線を下げた。

 時空を操る魔法は絶対の禁忌なのである。それを可能にした古代の道具が現存し、しかも今も実際に用いることができると他の国や国内にいる悪意ある者に知られてしまったら、どうなることか。原本と腕飾りを盗みに来たり、事実を誇張して広めドルミーレや国を貶めようとするかもしれない。そんなこと、絶対にあってはならない。

 だが、だからといって秘密が人に知られてしまうことを恐れ、館長や国王に何も話さずにいることはできない。ドルミーレが各所に被害を受けた以上館長には原因を探り、対策を講じる義務がある。国王にも、国を守る責務があるのだ。

「とりあえず、昨日のことは館長に報告して、どうするのがいいか聞いてみます。館長は館長室にいるでしょうか?」

「どうだろうな。今日来るのは間違いねえけど、始業時間になってからのほうがいいんじゃね? 一緒に行ってやろうか?」

「いえ、嬉しいですけど、一人で行きます」

 アルビナータは緩々と首を振って、先輩の助けをきっぱりと断った。

 経緯はどうあれ、昨日の騒動はアルビナータの行動が原因なのだ。腕飾りと巻物の軸を近づければどうなるか知らなかったというのは、言い訳にならない。

 コラードはふ、と頬を緩めた。

「じゃあ後で、古代アルテティアで何を見たのか教えてくれ。ティベリウスが軍基地へ行った弟に会いに行った頃だったんだろ?」

「はい。デキウス帝がティベリウスを見るなり顔を輝かせて走ってきたのが可愛かったです。それと、ティベリウスがガイウスさんに怒られているのも見られました」

「はあ? あいつが親衛隊長に怒られてたのか? なんで」

 なんじゃそりゃと言わんばかりに、コラードは声を裏返した。当然である。常に温和で思慮深い現代のティベリウスの振る舞いからは、自分の親衛隊長に説教されるようなことをするなんて到底想像できないだろう。

「ティベリウスたちが軍基地へ行っているあいだに、宿営地に泥棒が入ってんです。それで、上層部の人たちの私物が盗まれてしまって。自分ならルディシ樹海の精霊たちに泥棒の行方を教えてもらえるかもしれないからと、ティベリウスはこっそり夜に一人で樹海へ入ったんです」

「おいおい……意外と大胆なんだな、あいつ」

「そうですね。でも、前からそういうことを言ってましたよ。皇宮へ入ったばかりの頃も、グレファス族の集落にいた頃の感覚で色々やってしまっては怒られていたんだそうです」

 それでも繰り返すうち、やがて何も言われなくなったこともいくつかあるようだが。魔法や風の精霊たちの力で高いところへ上ることは、その一つだ。ティベリウスが魔法を自在に使いこなし、また精霊たちを従えているのを何度も見て、口を挟む必要がないと判断したのかもしれない。

 そうこうしているうちに、アルビナータとコラードは館長室の前に着いた。コラードはアルビナータより先に腕を伸ばし、扉を開けようとする。

 ――――が。

「まあアルビ、出勤できたのね! よかったわあ」

 館長室の扉が内側から勢いよく開けられ、二人があ、と言った次の瞬間。アルビナータの視界が柔らかなもので遮られるのとほぼ同時に、嬉しそうな女性の声がアルビナータの頭上から降ってきた。ルネッタである。

「お、おはようございます、ルネッタさん……」

 自分をぬいぐるみのように抱きしめる腕の中で、アルビナータはなんとか彼女に挨拶した。今日はいつになく、抱きしめる腕の力が強いような気がする。

 心配してくれていたのも彼女が復調しているのも嬉しいが、これはちょっと息苦しいし、恥ずかしい。何より通行の邪魔だろう。マルギーニに見られれば、確実に雷を落とされる。

「おい姉貴、そのくらいにしてやれよ。アルビが困ってるだろ」

「あらコラード、貴方もぎゅうってしてもらいたいの?」

「誰がんなこと言ったんだよ!」

 コラードが呆れ声でルネッタをたしなめようとすれば、このとおりである。さらにルネッタがアルビナータを離し、コラードに抱きつこうとするものだから、もはやいつもの光景だ。

 現代に帰ってきたのだと、今朝と同じあたたかな思いがアルビナータの胸に灯った。

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