第27話
王杓と鍵を持って人を導くという神の姿が失せ、樹海に再び静寂が訪れた。
ティベリウスは、自分がたった今何を見ていたのか、まだよく理解できなかった。あまりにも不思議だからというのもあるが、おそらくはそれ以上に、恐怖を感じるほどの力の奔流に思考が竦んでしまったからだろう。
「今のは…………一体…………」
呆然とした声をガイウスは漏らしているが、ティベリウスは言葉を返せない。自分が理解できず、感情を落ち着けることができないでいるのに、何か言えるわけがない。
それでも、ヤーヌス神とあの少女の姿が頭の中で何度も再生されるままにし、深呼吸を繰り返しているうち、次第に心臓が落ち着きを取り戻してくる。それに伴い、委縮していた思考が動きだす。
「いなくなっちゃった……」
呟くと、自分の声を耳が拾う。それでようやくティベリウスは、あの少女が消えてしまった事実を認めることができた。遠かった現実の手触りが、ゆっくりと戻り始める。
「……やはり、あの娘は時空を超えてきたのでしょうか」
「だと思う。ヤーヌス神が降臨なさったんだもの。『在るべき時に還れ』っておっしゃっていたし」
ティベリウスはヤーヌス神像に近づくとそっと触れ、もう力があふれておらず、触れても何も起こらないことを確かめた。ヤーヌス神像を拾いあげると首飾りごと白い袋にしまい、アルブムに括りつける。
「このヤーヌス神像、本当に神を招く奇跡を起こすなんて思わなかったな。ガイウスも、この神像がこういう奇跡を起こすとは聞かされてないんだよね?」
「はい、そのような話を聞いたことはありません。祖父や父が知らないか、私に話していないだけかもしれませんが……」
と、ガイウスは息をつく。本当に彼は何も知らないのだろう。言葉の端々に、困惑が強くにじみ出ていた。
「そっか……何にせよ、ヤーヌス神が導いてくださったんだから、きっとあれでアルビナータは故郷へ帰れているよね」
「……それほど行方を気になさるとは、先ほどの娘、素性のことはともかく、お気に召されましたか?」
主の何気ない呟きを拾ったガイウスは、意外そうに片眉を上げる。
言いたいことを察し、ティベリウスは苦笑した。
「まあ、あんな恰好をした人は見たことがなかったし、最初は姿が見えなくて筆談だったし…………ほんの少し一緒にいただけなのに、印象深いことがたくさんあったから。……ちょっと懐かしくなったし」
「懐かしい……? そういえば先ほど、グレファス族の巫女のことを口にされていましたが」
「うん、そっちのこともあるけど……彼女は僕のことを、『皇帝』として扱わなかったからからな」
最初からアルビナータはそうだった。丁寧な態度ではあったがあくまでも年上の者、目上の者に対する礼儀の範囲内。ティベリウスがこの国の最高権力者であることを知っているはずなのに、『皇帝』の地位に対する敬意や媚び、軽蔑はまったく見当たらなかった。
亡き父に皇族として迎えられて以来、そんな態度をしてくる異性をティベリウスは知らない。部族の民に尊敬された巫女の息子であるものの、ただの子供として扱われていた頃に戻ったような錯覚さえ覚えた。
――――それに。
「……アルビナータは最後に、何を言いたかったのかな」
「途中までしか聞きとれませんでしたが、早く帰れ、と言ってましたね。この視察のあいだに、陛下の身に何か起きるのでしょうか」
「そうなるよね。僕に対して言っていたし」
ティベリウスが相槌を打つと、ガイウスは眉をひそめた。
「しかし、確かにここは樹海――防御壁の外ですが、今アルテティアと刃を交えるのは得策ではないと、異民族たちとて承知のはずです。それ以外の賊の襲撃も、精霊が棲むこの樹海で、陛下を傷つけることができるとは考えにくいのですが」
「うん、そうなんだけどね。でも、父上だって暴漢に命を狙われたことがあったし、誰が何を考えてもおかしくないよ」
いっそ能天気とさえ言える明るさで、ティベリウスは苦笑した。
ティベリウスが皇帝になって十一年。就任直後の戦役以来、目立った内憂外患はなく穏やかな治世が続いているが、害意を向けてくる者がいなかったわけではない。政治や皇帝の地位に不穏な影がつきまとうものであることは、呑気だと言われがちなティベリウスでも理解している。
ならば、やはりアルビナータは元の時代へ帰ったほうが良かったのかもしれない。今のところ、亡き父帝の皇妃から産まれたデキウスが皇位継承権第一位だが、女の気配を一切漂わせないティベリウスが若い娘をそばにおけば、継承権の順位が変わることもありうるのでは、と周囲が彼女に注目するのは明白だ。素性の知れない娘に反発する者やデキウスの皇位を望む者が、彼女に害をなそうとしないとも限らない。
そうなるくらいなら、ティベリウスは彼女をおくべきではないだろう。
――――できるなら、もう少し彼女と話してみたかったと思わないわけではないけれど。
ティベリウスはそんな本心に気づき、驚いた。女性に対してそうして感情を抱いたことは、初めてなのだ。彼女の姿を見て、声を聞いたのはほんの少しのあいだだけでしかないのに。
さいわい、ガイウスは思案に暮れている様子だ。ティベリウスが振り返っても気づいていない。
こぼれ落ちた本音を心の奥底に沈め、ティベリウスはにこりと笑んだ。
「平気だよガイウス。もし誰かがアルテティアを脅かすために僕の命を狙っているのだとしても、そう簡単に殺されるつもりはないよ。まだやりたいことも、やらなければならないこともたくさんあるもの」
「……」
「デキウスにはもう少し、色々なことを勉強してもらいたいし。襲われても時間稼ぎくらいはするから、そのあいだに助けに来てほしいな」
「わかっています。そのためにも、私に黙って宿営地から抜けだすことはおやめください」
ティベリウスは丁寧に頼んだが、ガイウスから返ってきたのはそんな手厳しい意見だ。表情を改め、ティベリウスに向き直る。
「ティベリウス様、どうか御身を大切になさってください。貴方は、アルテティアになくてはならない御方。俺のただ一人の主です。……俺は、貴方を失くしたくないのです」
「……うん」
「必ずお守りいたします。だからどうか、危険なことに自ら飛びこむようなことはお控えください」
そうティベリウスを見つめるガイウスの声にも表情にも、深い思いがはっきりとにじみ出ていた。ティベリウスが皇帝に就任して以来めったに聞くことのなかった一人称も、あえて皇子の頃のように主君の名を呼んだのも、親衛隊長としての己を忘れるほど真摯であること――ガイウスの心からの願いの証であるように思われた。
「うん。……ありがとう、ガイウス」
皇帝として軽率な行為に対する反省の色を含んだ感謝の言葉が、自然とティベリウスの口からこぼれ落ちる。それでやっと、ガイウスは表情を緩めた。
「……早く戻りましょう、陛下。帝都へは当然ですが、まずは宿営地へあの男を連れ帰らないと」
気絶したままだった盗人は、出入りができない不可視の壁をティベリウスが築いた上で、あの場に放置しておいた。ヤーヌス神の力に中てられた者が正気に戻るのかどうかわからないが、捕らえた彼の仲間の自白によると、彼はアルテティア市民権の保有者だ。ならば、裁判で処罰を決めなければならない。
そうだねと頷き、ガイウスに続きティベリウスも愛馬にまたがった。
ティベリウスとガイウスは帰路の途中で盗人を拾うと、心配して駆けつけてくれた古木の精霊を案内役に、奥深い樹海を抜けた。夜明けの空と未だ眠る大地が広がり、真っ黒な砦の影がその狭間に屹立しており、どこか不気味だ。
そしてティベリウスの眼前には、多くの精霊たちが集ってくれていた。土や水、樹木や火、雷。皆、ティベリウスがグレファス族の子供だった頃、遊び相手になってくれたものやその仲間たちだ。
「これはまた……壮観ですな」
ガイウスは目を見張り、呟いた。普通の人間なら、数体の精霊が群れているのを見ることはあっても、これほどの数が一同に会するのを見ることはないのだ。ティベリウスにとっても、これが初めて見る光景だった。
かつて共に戯れた人の子を再び見送ろうと、一体誰が提案し、これだけの数に知らせて回ったのか。胸が締めつけられるような喜びを覚え、ティベリウスはアルブムを一歩進ませると、ぐるりと精霊たちを見回した。
「皆、今日も助けてくれて、そして見送りに来てくれてありがとう。ここへ逃げこんだ盗人は僕たちが連れて行くから、安心して。さっきヤーヌス神が降臨なさったけど、時空の迷い子を元の時間へ導いてすぐお帰りになられたから、心配しなくていい。樹海は無事だよ。不安がっている子がいたら、教えてあげて」
ティベリウスが頼むと、精霊たちは一様に頷いた。よかった、とティベリウスは顔をほころばせる。
「僕はもうすぐ、アルテティアの帝都に戻る。きっと今度こそ、ここへ帰ることはないと思う。でも僕は……グレファス族のグロフェの息子ティベリウスは、この大地と樹海を忘れない。君たちのことも決して忘れないよ」
どこかさみしそうな顔をしてくれる精霊たちに、ティベリウスは誓約する。初めて出会った父と共に離れて以来、一度もこの地へ足を踏み入れたことはなかったのに、こうして別れを惜しんでくれることが嬉しく、申し訳なかった。
精霊たちに見送られながらアルブムを駆けさせ、ティベリウスは名残惜しくなって振り向いた。
鎮座と言うに相応しい威厳でもって夜明け前の闇の中、樹海はそこに在った。自らの中であれほど強大な力がぶつかりあったことに気づいていないかのように。生まれて初めて会った父に連れられ後にした日とまったく変わらず、そこに在る。きっとこれからもそうだろう。
「……さよなら」
精霊たちと、故郷と、そこに眠る人々に。
存亡の危機に瀕したグレファス族を再興した巫女と、同じ色をまとった少女に。
ティベリウスは別れを告げ、馬首を宿営地へ向けた。
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