第26話
静寂の中、アルビナータが示す道を辿っていた馬たちの足が主の指示を待つまでもなく自然と止まったのは、月光が降り注ぐ開けた場所の前だった。
鏡のように静かな水面を湛えた泉が美しく、まるで一枚の絵画のような場所だ。古代アルテティアで中興の祖とも称えられていた武人は、この樹海には額に角がある幻獣が住んでいるという噂話を著作に記しているが、ここならそんな空想も許されるだろう。それほど幻想的な風景だった。
だがアルビナータには、美しい風景への感動を許さないとばかり、場に強い力がさざめいているのが感じられた。その源は、大樹の下に放置されていた白い袋だ。馬たちも場の異常を察して、ひどく興奮し怯えている。
ティベリウスとガイウスが自分の愛馬を宥めているあいだに、先に馬から下りていたアルビナータは辺りを見回した。木の根元に白い袋を見つけ、取りに向かうべくティベリウスに声をかけようとする。
そのとき、声が聞こえてきた。
――――返せ。私のものを返せ
「――――っ?」
あの領域で聞いた声なき声がアルビナータの意識に再び刻まれたかと思うや、身につけている腕飾りが熱を帯び脈打ち、そこからすさまじい力の流れが意識へと流れこんできた。アルビナータは力と意思の奔流に飲みこまれ、意識がまた、現実ならざるあの場所にさらわれる。
しかしそこは、つい先ほど訪れたばかりだというのに、違う様相を呈していた。純白の扉が眼前にあるのは同じだが、その扉の隙間からうっすらと赤――――ティベリウスの力が流れ出てきては、闇と辺りを漂う領域の力に混じっていくのだ。それだけでなく、扉の向こうでティベリウスが何かを呟いている声さえ聞こえてくる。
きっと現代のティベリウスは、供物を捧げて儀式を行い、ヤーヌス神を召喚しようとしているのだ。巫女の息子であり、アルテティア帝国の最高位の神官を兼任していた彼は、二つの民族の神事についてよく知っている。何かの力を発しているに違いない自分の章を手がかりに、ヤーヌス神を召喚しようとしてもおかしくない。
だが、先ほど金細工同士を触れあわせたことで、あの時代にあるべき鍵をアルビナータはこの時代へ持ってきてしまっているのだ。この時代の鍵も、ヤーヌス神のもとを離れている。二つの時代で扉の鍵を人間が奪っているのに、ヤーヌス神があの扉を開けてくれるとは思えない。アルビナータの乏しい魔法の知識でも、そのくらいは推測がつく。
早く帰らなければ。アルビナータは焦燥に駆られた。
きっとティベリウスは、アルビナータを元の時代へ帰すために必死になっているに違いないのだ。コラードたちも駆け回っているだろう。そういう人たちだ。
帰らなければ――――――――帰りたい。あの時代に。あの場所に。
――――返せ。私のものを返せ
あの声なき声がまた――――扉から聞こえてくる。命令の響きは増し、怒鳴りつけるような激しさを帯びている。
そうして、アルビナータは現実――――ルディシ樹海の奥に戻された。
「ガイウス、アルビナータ、どうしたの? 二人とも、大丈夫?」
「はい……なんとか」
心配そうなティベリウスの声にどうにか答え、アルビナータはいつのあいだにか俯いていた顔を上げた。やはり樹海には何の変化もなく、一瞬アルビナータの意識が飛んでいただけのようですらある。
アルビナータの視界に入ったガイウスも、混乱した表情をしていた。彼はアルビナータと同じ金細工を持っているのだ。同じものを見て聞いていても、不思議ではない。
「……君もあれを見たのか」
「…………はい」
「? 二人とも、何か見たの?」
ティベリウスはアルビナータとガイウスを交互に見比べ、どこか不安そうな顔で問う。金細工を持たないために、この場に漂うあの強大な力を察知することはできても、尋常ならざる領域へ行くことはできなかったのだろう。
ガイウスはやや躊躇ってから、ええと肯定した。見えたものについて、どう表現していいのかと迷ったのだろう。畏怖は未だあっても少しは冷静に考えることができているアルビナータは、ガイウスの心情が理解できた。
「私とガイウスさんはさっき、意識だけ、ここじゃない場所……この力の源へ行ってしまってたんです。そこで、『私のものを返せ』という声が……」
「…………それは、人間じゃないよね」
「…………おそらくは」
ガイウスに代わって、アルビナータがティベリウスに答える。根拠を考える必要はない。あれは間違いなく、ヤーヌス神の声だ。
ガイウスは金細工を取り出し、見下ろした。
「……これを返さねばならない、ということだな。当然ではあるが……」
「はい……ガイウスさん」
アルビナータは深呼吸をして、自分と同じ金細工を持つ男を呼んだ。
「私に、その首飾りを声の主に返させてください。私が持ち主にそれを返せば、私が元いたせ……場所に帰してもらえるかもしれないんです」
「……? それは、どういう意味?」
ティベリウスは眉をひそめる。当たり前だろう。ガイウスも不審そうな顔をしている。
やはり、隠し通すことはできないのだ。本当のことを話さなければ、きっとガイウスは金細工を渡してくれない。
アルビナータはぐっと両の拳を握り、腹をくくった。そうするしかなかった。
「……私、本当は千四百年先の未来から手違いで来てしまったんです」
「……アルビナータ?」
「その時代ではクルトゥス島の崖の上にある、ティベリウスが弟さんと一緒に地下の洞窟で遊んだ別邸にこの時代の物をたくさん展示していて……この腕飾りは雑貨屋さんが、仕入れた金細工を加工したのだと言ってました」
一層戸惑うティベリウスを無視し、アルビナータは言葉を続ける。そうするしかないのだ。現代でティベリウス自身から教えてもらったことを語るしか、未来の人間であると信じてもらう方法はない。
案の定、ティベリウスは明らかに動揺し、ガイウスは警戒した。当たり前だ。皇帝がどこの別邸で何をしていたか、普通なら帝国の辺境やその外にいる異民族の小娘が正確に知ることはできないはずだ。
「どうして、僕がデキウスと地下の洞窟で一緒に遊んだことを……」
「……伝わってるんです、私がいる時代に。『帝政』の写本や文献や……この時代の物がまだたくさんあちこちに残っていますから。私は、そういう物を研究する仕事に就いているんです」
貴方自身から聞いたのですとは言えず、アルビナータは曖昧な表現でごまかした。ティベリウスとガイウスにとって、アルビナータが未来の人間だというだけでも信じがたいことのはずなのだ。未来にもティベリウスがいるなんて、さすがに作り話だとしか思えないだろう。
けれど、ティベリウスと周囲の人々の交流が現代に伝わっているというのは本当だ。『帝政』にも、他の文献にも記されている。
だから、ティベリウスと出会う前からアルビナータは彼のことを少しでも知っていたのだ。国王や王弟、ファルコーネやマルギーニがティベリウスたち三皇帝を敬愛したのも、ベネディクトゥス・ピウス帝の功績と人となりが伝わっていたからに他ならない。
「お願いしますガイウスさん。その腕飾りを貸してください。私、元いた場所へ帰りたいんです」
警戒心をあらわにするガイウスに、アルビナータは改めて懇願した。ガイウスから目をそらさず、まっすぐに見つめる。
アルビナータはなんとしても、この時代からあの扉を開けなければならない。ティベリウスは己の魔力を使ってアルビナータを連れ戻そうとしてくれているが、彼の力だけでは開けることができないのだ。
まずはこの時代の在るべき場所に金細工を返し、声の主の怒りを鎮める。そうすればきっと、すでに供物を未来のティベリウスから捧げられている声の主は、アルビナータや未来のティベリウスの呼びかけに応えてくれるのだ。
「…………わかった。ガイウス、アルビナータにその金細工を貸してあげて」
「! 陛下、何故」
主の命令に、ガイウスはぎょっと目を見開いた。
「多分、アルビナータは本当に未来から来たんだよ。僕がデキウスと一緒に地下の洞窟で遊んだことを知っているのはほんの数人だけのはずだし、彼女の服の布地や縫い方はとても丈夫そうだもの。アルテティアや他の地域で作られたものとは思えない。作り話にしては突飛すぎるし……それに」
そこでティベリウスは一度言葉を切った。言っていいものかなあとでもいうように苦笑する。
その表情、雰囲気。アルビナータはまた、現代のティベリウスの顔が重なった。
「この樹海に現れた白い髪と赤い目をした女の人は、グレファス族にとって特別な存在だから。……だから、僕は信じてあげたいんだ」
湖、それからアルビナータへと視線を移し、最後は何かを思い浮かべでもしているかのように、ティベリウスは目を閉じて言った。
彼はグレファス族の巫女の息子だったのだ。アルビナータは改めて思い知った。
「……」
ガイウスはそれでも、頷こうとしなかった。しかし視線をさんざんにさまよわせ、アルビナータとティベリウスを交互に見た後、とうとう苦い顔をして荒く自分の頭を掻く。
「ああもう、わかりましたよ」
ほぼ自棄の声音で言って、ガイウスは袋の前から離れた。アルビナータに首飾りを渡してくれる。
ガイウスに礼を言って、アルビナータは袋の前に腰を下ろした。中にあるものを手探りで確かめ、力を放ち続けているものを指先に感じて取り出す。
髭を蓄えた壮年男性の顔が左右にある、右手に王杓、左手に鍵を持つ、ヤーヌス神の像。
在りし日の姿で威厳を払う、現代でティベリウスが心のよりどころにしていたヤーヌス神像を見つめたアルビナータは、ガイウスから手渡された首飾りの金細工に視線を向けた。
オキュディアス一族の巻物とこの神像が身につけていた金細工を重ねることで、アルビナータは時空を超えてしまった。そしてこの神像から外した金細工を身につけることで、盗人はあの人ならざる領域から流れこむ力にさらされ、心を狂わせてしまったのだ。
ならば、金細工を声が命じるまま本来の置き場所――――この神像の首にかければ、また何か奇跡が起きるはずだ。この神像にも、不思議な力が宿っているはずなのだから。
どうか、神様。貴方の物を返しますから、私を元の世界へ帰してください――――――――
強く祈って、ヤーヌス神像の左手に腕飾りを巻きつけた。
その途端。
「!」
神像が突如、光り輝いた。かと思うと、神事の最中の神殿よりも清く美しく、一切の穢れを拒む強さと威厳に湖畔が満たされた。その眩さに耐えられるはずもなく、アルビナータは両腕を顔の前にかざして目をきつく閉じる。
強大な力がアルビナータの前に現出し、それと共に光は収まった。アルビナータは両腕を下ろし、目を何度も瞬かせて、採り入れる光の加減が狂った視界を取り戻していく。
そして、アルビナータはまみえた。
金の縁取りがされた赤紫のトーガをまとい、灰色の髭を蓄えた二つの顔。右手に黄金の王杓、左手に金細工を絡みつかせた白銀の鍵を持っている。
門扉を司り、物事の始めと終わり――――あらゆる時空を見つめる神、ヤーヌスだ。
――――汝、在るべき時へ還れ。
ヤーヌス神はそうアルビナータに告げるや、アルビナータに白銀の鍵を向けた。すると、あの巨大な扉がアルビナータの前に現れる。
扉が開いていく――――――――
元の時代へ帰れるのだ。確信したアルビナータは、ティベリウスを振り返った。
「早く、ルディラティオへ帰ってください。どこへも立ち寄らずに。でないと――――――」
貴方はこの世からいなくなってしまう――――――――
一番伝えなければならないことを伝えようとしたそのとき、アルビナータの身体はぐいと後ろから引っ張られた。
美しい森が遠ざかっていく。アルビナータは闇の中に放りこまれ、扉はひとりでに閉じられる。
重々しい扉の音が聞こえたかと思った刹那、アルビナータの意識は途絶えた。
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