人魚の魔法にかけられて
海沈生物
第1話
ある日の夕方、コンビニからの帰り道の砂浜に、青い鱗の人魚が打ち上げられているのを見つけた。その人魚はいかにも「魔性」という言葉が似合うほど美しい女性だった。「ぜぇぜぇ」と言って死にかけているのにその顔すら美しく、「助けて!」と言われるまでその顔から目を離すことができなかった。
人魚は砂浜を這いつくばって僕の近くまでやってくると、ギュッとズボンの裾を掴んできた。突然のことに心臓がドキっとときめく。彼女は僕の右手に持っているコンビニの袋を一瞥すると、ふんわりとした笑みを浮かべる。
「あの……つかぬ事をお伺いいたしますが、イカの塩辛を持っていたりしませんか? 一口だけ、分けて欲しいのですが……」
イカの塩辛。僕は自分のコンビニの袋を見ると、そういえば明日のために買ったことを思い出す。うるうると目を潤ませてくる彼女とイカの塩辛を交互に見ると、僕は溜息をついた。
「一口と言わず、丸ごと差し上げますよ。その……どうせ、明日の休みに食べようと思っていただけなので……」
「本当ですか! ありがとうございます」
彼女は僕の両手をギュッと包み込むようにして、握ってくる。そのことに頬を赤くすると、彼女はふふっと魔性の笑みを漏らす。僕は恥ずかしくなって目を背けると、コンビニの袋ごと彼女に渡す。
「それでは、いただきますね」
彼女はコンビニの袋からイカの塩辛を取り出す。ビリビリとプラスチックの蓋を外す。そんな姿すら官能的で、つい顔が赤くなってしまいそうだ。
しかし、次の瞬間だった。彼女はそのイカの塩辛を素手で貪り喰いはじめた。鱗だらけの手がべたべたになることなど気にしない。背びれを揺らし、興奮した尾びれで地面を叩き、ただ目の前にいる獲物を貪り、喰らう。その姿はまさに
人魚はイカの塩辛を完食すると、汚れた手を自分の身体で拭き、「けふー」と声をあげた。僕はすぐさま家に逃げ帰りたい衝動に駆られていたが、恐怖のせいか、腰が抜けて動くことができなかった。そんな僕に、彼女はふふっと魔性の笑みを浮かべる。
「イカの塩辛、本当に美味しかったわ。伝承に残る人間はどいつもこいつも酷い奴ばかりだけど、君は良い人ね。それこそ、人間にしておくにはもったいないぐらい」
「い、いえ……満足していただけたなら、幸いです。そ、それでは、僕はこれで……」
動かない腰をどうにか動かして、一刻も早くこの場から離れようとする。だが、そんな僕の身体を彼女をギュッと握りしめてきた。心臓がドキドキして、思わず顔から蒸気が出そうになる。
「待って。さすがにイカの塩辛を丸ごともらうような良いことをしてもらったのだし、ただで家に帰すわけにはいかないわ。そうね……せっかくだから、人魚たちの間に伝わるすごい魔法をかけてあげるわ」
「すごい魔法、ですか? ……い、いえ。イカの塩辛なんてそんな千円もしないものですし、魔法なんてそんな大層なものをかけてもらうのなんて……」
「遠慮しなくてもいいのよ? 大丈夫。この魔法はそんな危険なものじゃないわ。一日経てば魔法のように解けてしまうものだから。ふふっ……」
彼女に背中をトントンと撫でられたかと思うと、僕の身体が突然発光しはじめる。その光は全て僕の心臓のあたりへと収束していくと、やがて心臓の奥底に消えていった。僕は震える右手で心臓に手を当てると、ほんのりと温かくなっていた。
「あの、これどんな魔法なんですか?」
「それは明日になってからの秘密。でも、そうねぇ……仮に君がそのままでいたいと願うのなら、またここに来てほしいわ。私は明日もここで待っているから」
彼女はそう言い残すと、そのまま海の底へと帰って行った。残された僕はその場で呆然としながらも、一体どんな魔法がかけられたのか、と少しだけドキドキしていた。
翌朝目を覚ますと、自分の足が妙に熱いことに気付いた。その熱さは50℃の熱々のお湯に足でも突っ込んだのかと思うような熱さだった。僕は一体何がどうなっているのかと思って布団を蹴飛ばして自分の足を見ると、そこには人間の足がなかった。その代わり、昨日出会ったあの「人魚」と同じような「尾ひれ」があった。それはちょうど太もものあたりから生えていて、僕の右足と左足を一つに統合する形で生えていた。
「もしかして、これがあの人魚の言っていた魔法……なのか?」
「人間」を「人魚」にする魔法。それがイカの塩辛のお礼として、彼女がかけてくれた魔法の正体なのか。僕がフンッと尾びれに力を入れると、ぺしんっと尾びれも動いた。面白い。普段の社畜生活では味わえない、新鮮な感動が僕の胸を包み込んだ。
どうせ、今日は久しぶりの休みなのだ。この奇妙な一日だけの魔法体験を精一杯楽しんでやろう。子どもの頃ぶりにこんな楽しい気持ちになったなと思いつつ、僕は部屋の中で色々なことをやってみた。
例えば、立ち上がること。「えっ、そこから?」と思われるかもしれないが、ここからなのだ。実際、多くの人間は両足を持っているのでイメージしづらいかもしれないが、魚の足は泳ぐためのものなのだ。昨日の人魚が僕の所まで這いつくばっていることに違和感を抱かったが、普通に考えて、この尾びれで人間のように立ち上がることは難しい。ベッドに手を付けながら何度も立ち上がってみようとしたが、リハビリをしている人間の如く、何度も額と床を激突させていた。
それも数十回ほど繰り返していると、段々と立てるようになってきた。もちろんそのままでは立てなくて壁に手を付きながらなのだが、立てた瞬間の感動は普段の人間としての日常では到底味わえない成功体験であった。人魚の身体での生活というのは、なんて魔法みたいに楽しいものなのだろうか。
それから「尾びれで部屋の掃除をする」とか「尾びれで漫画を読んでみる」とか様々なことを試してみた。いつしか夕方になるぐらいまでそのことに夢中になっていた。僕は窓の外を見て夕方になったことに気付いたのだが、その時ふと「戻りたくないな」という感情が湧いてきた。
このまま明日になれば、僕はまた同じ社畜としての日常を送る。この非日常は過去の記憶の一部となり、また憂鬱な日常を送らないといけないのだ。それは、なんだか嫌だなと思った。もういっそ人魚になってしまいたいな、と思った。
その瞬間だった。僕の背中のあたりが熱くなった。朝と同じあの熱さだと思っていると、突然背中に痛みが走った。皮膚を突き破り、僕が着ていたTシャツも突き破ると、やがて背中に「何か」が生えてきた。足と違って背中はさすがに目で見ることができないので、壁を伝い、部屋にある鏡で自分の背中を見た。
本来肌色の背中しかない場所には、明らかに「背びれ」としか言いようがないものが生えていた。そっと触れてみると、ペラペラだが固かった。また、僕が横方向にゆらゆらと揺れると、同じようにゆらゆらと揺れてくれることが分かった。
どうして突然背びれが生えてきたのかは分からない。だが、少なくとも僕は段々と人魚に近付いていく自分が、以前の人間である自分よりも「良いもの」であるように思えた。僕はおもむろに窓の外を見ると、砂浜の方を見た。目を凝らして見ると、そこには昨日会った彼女の姿が見えた。僕はぐっと拳に力を入れると、尾びれを地面にべたべたと這いつくばらせながら、砂浜へと向かった。
砂浜に着くと、彼女はもう何も言わなかった。近付いてくる僕をそっと抱きしめてくれた。その瞬間、僕の身体は燃えるように熱くなった。身体中の皮膚だった部分にはボコボコと鱗が生えた。身体はすっかりと人魚らしい青ざめた色となった。
そこにはもう、僕という「人間」はどこにもいなかった。そこにいるのは、新しく生まれ変わった「人魚」だけだった。
彼女は僕の手を掴むと、またあの「魔性」の笑みを浮かべた。
「それじゃあ、行きましょうか。私たちの生きる海へ」
太陽の光を背に浴びながら、僕たちは海の底へと姿を消した。それから、僕たちの行方を知る人間はもう誰もいない。
人魚の魔法にかけられて 海沈生物 @sweetmaron1
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