ハミガキコ・シンドローム

すぐり

歯磨き粉症候群

 『間もなく皆既月食が始まります。一夜限りの天体ショーをどうかお見逃しなく』

 間接照明代わりに点けたテレビから零れるキャスターの声が、暗い部屋の中に木霊する。その底抜けに明るい声は、疲れ切った身体と、疲弊しきった心には毒でしかないのに。

 思わず漏らした欠伸。

 カーテンの隙間から覗く満月。人工物のように綺麗な円を描く月は、子供の頃にお道具箱へと貼った黄色いシールのように、一点の曇りもなかった。どことなく思い出した油粘土の香りが、懐かしくて嫌になりそう。

「天体ショーだってさ」

 ため息交じりの言葉。

 もちろん私の声に返事なんて無い。だって一人暮らしだから。

 真っ暗なリビングを、形の崩れたクッションや放り出したままのトートバックを踏まないように洗面台へと向かう。僅かに足元が揺れたのは、散らかった床の所為か地震の所為か。

 歯ブラシを手に取りつつ鏡台の電灯をつける。

 カチっ。

 電球色の柔らかな明かりに照らされ、鏡越しに見える疲れ切った自分の顔。

 今にも消えてしまいそうな表情で、笑えてきちゃう。でも今日は週の半ば、あと二日の辛抱で休日だ。何とか生きないと。

 そう決意を新たにしながら歯磨き粉のチューブを指でつまむ。

 あっ。

「歯磨き粉……今日こそは無くなっちゃうかな」

 絞りつくされて、薄く平らになったチューブ。

 キャップを空けてから、チューブの中に空気を入れて、勢いよく歯ブラシの上に中身を押し出す。

 ぷすっ。ぷしゅー。

 気の抜けた軽い音が鳴るも、お目当ての真っ白なペーストは一切出てこなかった。ぎゅっと力一杯に絞っても、出るのはほんの僅かにミントの香りが混ざった空気。

「さて」

 明かりを背にチューブの口から中を覗く。

 もちろん明かりなんて届かないから、見えるのはただ真っ黒な空間だけ。その光景が、どこまでも深く、無限に広がっているようにも思えて、好奇心が、本能が刺激されるのだ。

 再びチューブを膨らましてキャップを閉めると、その淵をつまみながら思いっきり振る。

 いつからだろう、何故か子供の頃から習慣になっていた行為。

 歯磨き粉が無くなったと思っても、こうして振れば何度でも歯磨き粉が出てくるようになる。本当に不思議なことが多いよな、と手首を振りながらぼんやりと考えるこの時間が、結構幸せだったり楽しかったりする。

 振れば振るほど出てくる歯磨き粉の永久機関。

 このチューブは、どこか遠くの歯磨き粉工場に繋がっているのかな。振る度に小さなワームホールの様な何かが発生して、少しずつ出来立てのペーストが流れ込んできたり、もしかしたら既にこの中に小さな工場が入っているのかも。いや、空気中のよくわからない物質を、歯磨き粉に変換するフィルターがあるのかもしれない。

 うん、よくわからない。こんな下らないことを延々と考え続けて……、やっぱり疲れているのだろう。

 もうそろそろかな。

 ハリのあるチューブをデコピンする。ぼわぁんとプラスティック越しに空気が揺れる音がした。

 キャップを開けると、チューブの口から溢れかけた白のペーストが顔を覗かせる。

 歯ブラシの上にそっと絞ると、ちょうど一回分。整えられた毛先の上に載った今日の歯磨き粉には、よく見ると極小のスクラブが沢山入っていた。

 再び空になったチューブを覗くけれども、やはり中は真っ暗で見えなかった。

「歯磨き粉のチューブをのぞくとき、チューブもまたこちらをのぞいているのだ――。なんてね」

 たぶん明日の朝も、また同じことを繰り返すのだろう。代わりの歯磨き粉なんていくらでもあるのに。空っぽのチューブを覗いて、見えもしない奥底を妄想して、歯を磨くだけのただの日常を。

 あぁ、確かシュレーディンガーの猫だっけ、違ったかな。このチューブをハサミで切り開くまで、チューブの中で発生している現象の可能性は無限に広がっている。そして私が好奇心に負けてハサミで切り開いた瞬間、いつも、チューブの内側に歯磨き粉がこびり付いているだけという現実のみが、私の目の前で確定しているのではないのかな。

 もしかしたら、歯磨き粉チューブの内側だと思っているのが外側で、外側が内側で、私たちがチューブの中にいるのかもしれないし、どちらも外側なのかもしれない。なるほどなぁ、このチューブはクラインの壺なのか。

 はぁ、何を考えているんだろうなぁ……くだらない。

 カチっ。

「いやぁ、やっは、ふはへへるほはな」

 鏡台の明かりを消してリビングへと歩きつつ、歯ブラシを咥えたまま呟いた声は、言葉にならずに真っ暗な部屋の中で溶けて消えた。

 やっぱ、疲れてるのかな。

 僅かに開いたカーテンの隙間に手を入れて、ベランダへと出る。

 夜風が冷たかった。

 ミントが口の中の熱を奪っていく。

 遠くを走る車のライトが宵闇に消える。

「皆既月食かぁ」

 歯を磨く手を止めて、そっと空を見上げた。

 星一つない空に浮かぶオレンジ色の満月。

 ぼんやりと眺めていると、真ん丸の月がゆっくりと黒に覆われていく。

 どこか艶のある濡れた黒に――。

 そして黒に侵食された満月が、ゆっくりと瞬きをした。

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ハミガキコ・シンドローム すぐり @cassis_shino

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