第弐幕 人魔の狭間をさ迷ひて
◇十一月二日
夢を見た。
「うわぁぁあああ!?」皆無は飛び起きようとして、「――わぷっ!?」
何やらただならぬ柔らかさを持った物体に鼻先をぶつけ、
「二度目じゃぞ、ソレ」上から声が降ってきた。
「う、
見渡せば、ここは自室。皆無が十年以上の間、寝起きしてきた部屋だ。
「お前、ではない。名乗ったであろう」「ああ、せやったな。ええと……り、り……」「何じゃ何じゃ、もしやそなた、おなごの名を呼ぶのが恥ずかしいのか? 童貞か? 口付けしたときも、随分と戸惑っておったが」「う、五月蠅いねんお前!」「名前」「うっ」「なーまーえっ」「り……リリス!」「あはァッ、ようできたのぅ。褒めて遣わす」「うぐぐ」
腕なし
「貴様、不敬だぞ!」不意に、足元で中性的な声がした。「『殿下』をお付けしろ!」
見てみれば、半透明の
「痛ッ、いたたッ、何やコイツ!? で、デンカって何のことや?」
「よいよい、
「――ははッ!」
「今のは
皆無は、
「それはそうと、そなたが眠りこけている間、大変だったのじゃぞ?」「せ、せや! 僕はあのあと気絶して――どないなったん!?」「
皆無は立ち上がり、部屋のドアノブを回す――回らない。【
「
「そう嘆くでない。予に対して従順でいる間は、たっぷりと
「
「長い名じゃのぅ。さては
「阿ノ玖多羅皆無」即座に言葉が口から出た。(糞ッ……やっぱり、僕の体を勝手に動かす力は健在か)
「アノク?」リリスが首を
その仕草を可愛いと感じてしまい、皆無は焦る。
「この国のことは知らぬが、変わった名前じゃというのは分かる。どういう意味じゃ?」
「
「あ~、
「ほぅ……ッ!」改めて、皆無は少女の精巧にして流麗な術式展開に
長ったらしい詠唱も、魔法陣も媒体も必要とせず、一瞬のヱーテル展開で術を成立させてしまうとは! これほどの芸当ができるのは、皆無が知る限りでは父・
「ふふん」皆無の子供のような――実際子供だが――尊敬の
「『護国拾家』――古くから続いとる、退魔の名門拾家がおってな。もっとも『護国』なんて文字が付いたんは、明治日本として統一国家になってからの話なんやけど」先ほどは意地悪で漢字を列挙してみせた皆無だが、手ほどきして欲しさに、露骨に素直になる。「
「阿ノ玖多羅皆無――カイム、ではないのか。良かったのぅ」
「カイムやなくて、カイナ。父
「カイムは
「カイムやなくてカムイやったらおるけどな。第七旅団長の
「ふぅん? そんなことより、今はそなたのことをもっと聞かせてお
少女の麗しい唇から己の名が呼ばれたことに、皆無はゾクゾクしてしまう。
「皆無よ、
「父がおるだけ。母の顔は知らん」
「ふむ。父親がおるだけ良いではないか。予なぞ昨日、二親を始めとする親族を
「――――……ッ!?」皆無は、この少女が持つ無限の意志力に、途方もなく強い感銘を受けた。皆無はこれまで父と比較され続けることを悲嘆し、うじうじと悩みながら生きてきたが、きっとこの少女ならばその程度のこと、鼻で笑って蹴飛ばしてしまうことだろう。
「で、そなたの父は、その『阿ノ玖多羅家』の当主か何かかの? あれは大した術師じゃ」
「せや。けど父は、阿ノ玖多羅の生まれとは
「んんん? なのに今は当主なのか?」
「阿ノ玖多羅の力の源・
「何とも滑稽な話じゃのう! ――おや」少女がドアの方を見て、「
――コン、コンコン
「失礼します」果たして、身長一〇〇サンチの奇人にして偉人の父が部屋に入ってきた。
「――パパッ!?」あの絶望的な戦いを経て父と再会できた喜びと驚きのために、皆無の口から昔の呼び方が出てくる。驚き――そう、父が右腕を怪我しているのだ。ギプスでグルグルに固定された腕を首から下げた包帯で固定している。
父が怪我をしている! あの、三人の
「あら~可愛い! 皆無チャン!」パパ呼びが出たことに狂喜乱舞する父に対し、
「
「いやぁ、昨日の戦でヱーテルのほとんどを消費してしまってね」
「二千万超えなんやろ!?」
「だって相手は
「けど治癒系の神術使える人は
「そうか、お前は知らないんだな。実は――」父の口から昨夜のあらましが語られる。
「ふむ」リリスと父の視線がかち合う。「時にそなた、幾つなのじゃ?」
「残念ながら、百を過ぎてからは覚えておりません」
「百ぅ!?」少女が、その泰然とした様を崩して驚く。それを恥じてか、わずかに顔を赤らめつつ、「こほん! 人の身で
「
「王? 予はまだ、王ではない」
「まだ、とは?」
「力を取り戻し、憎き
「「――
「……ご事情を、詳しくお聞かせ願えますか?」父の声が低くなる。
「参ったのぅ……予はそなたの息子・皆無が欲しい」
欲しいと言われ、壁際でびくっとなる皆無。
「予の旅路に連れていきたいのじゃが……話せば、それを許してもらえるかの? できれば、可愛い使い魔の親族とは仲良くしておきたい」
「それはレディ、貴女が
「ほぅ?」少女が目を細める。「
「常人よりも、少々敏感でして。漠然となら、相手が考えていることも分かります」
「【赤き蛇・神の悪意サマヱルが植えし
「恐縮です。が、さすがの私も未来予知まではできません」
「ふむ。まぁよい、可愛い可愛い使い魔の親族なのじゃ、教えてやろう。
「――ええッ!? あの馬の
父が小さく
「ない」美しき
(やっぱり!)皆無は歓喜する。この少女が自分や
「なるほどそれは、本当に何よりです」ほっとしたようにうなずきながら、父が懐から手帳と鉛筆を取り出す。「では次に、お名前をお聞かせ願えますか?」
少女がその、威厳と
「我が名はリリス・ド・ラ・アスモデウス。アスモデウスの名を、やがて襲う者である」
(そう、リリスや)皆無はその名に
「
「
「へ?」父がポカンとした顔になり、慌てて懐から『毎朝見ろ手帳』――忘れっぽい父のために皆無が作ってあげた備忘録を取り出す。しばらくしてから顔を上げ、「いやいや、さすがの私もそれは忘れてないよ?」忘れていたクセに、いけ
「
「ご、ごほん。では話を続けましょうか」やや顔を赤らめながら、父。「調書を取るのですが、お名前の当て字はこちらで決めさせていただいても?」
「当て字、とは何じゃ?」
首を傾げる少女――リリスの愛らしい仕草に皆無はドキリとし、そのことに戸惑う。
「はい、この国の古めかしいしきたりでして。外来語には、漢字を当てるのです」言いつつ手帳に『阿栖魔台』と書いて見せる父。
「何と面妖な……まぁよい。そなたが決めよ」
「それでは――」父が手帳に、
『璃々栖』
と書いた。
少女リリスが手帳を
「宝石。瑠璃玻璃の璃です。
「栖、は?」
「特に意味はありませんが、ルイス・キャロル著『不思議ノ国ノ
「あはァッ、良いな。気に入った!
両腕のない少女の悪魔リリス――否、璃々栖が、
「レディ・璃々栖」父による事情聴取は続く。「貴女が神戸港に現れたとき、【
「そこまで分かっているなら、仕方ないかのぅ。ご明察の通り、【
「何処から来られたのですか?」「――
「一瞬で?」「――そりゃァ、『瞬間』移動じゃからのぅ」
「【
璃々栖の声の温度が下がる。
「それだけの距離を渡れるなど、それこそ
「あはァッ、正解じゃぁ!」璃々栖が嗤う。「予の侍従たる
「囚われて……あぁ、なるほど」父がうなずく。「レディ・璃々栖。大変なご無礼を承知の上で申し上げますが、貴女は今、ご自身の
(
「
皆無は昨晩の少女の様子を思い出す。(一応、【
「囚われていたときに、その『叛逆者』の手によって――」父の言葉に、
「失くしたのじゃ!」璃々栖が、初めて怒気を
やはり、敵の手によって
「……失礼いたしました」父が頭を下げる。「では次に、貴女が他ならぬここ、神戸港に現れた理由についてです」
「秘密じゃァ」早々に調子を取り戻したらしい少女の、小悪魔的な微笑。
父もまたにっこりと微笑み、「駄目です」
「駄目、とは?」
「何が何でも話していただきます」父が虚空から南部式自動拳銃を引っ張り出す。
「分かっておらんようじゃが……予はそなたの息子の命を握っておるのじゃぞ?」
「状況をご理解なさっておられないのは貴女の方ですよ、レディ。私は軍人です。軍人とは、命令とあらば部下や己の命を差し出すものです――たとえそれが、息子の命であっても」その銃口が、あろうことか皆無へ向けられる。「貴女は腕を持たず、侍従の
「だ、ダディ――」
「お前は黙っていろ、皆無」恐ろしく冷たい、父――いや、一人の軍人の、声。
父と璃々栖が
「こやつとは、何故だか抜群に相性が良い」璃々栖が、
「利害の一致を見たようですね?」父が南部式の銃口を下ろす。
「はぁあああああ……ッ!!」力が抜けた皆無は、思わずその場に崩れ落ちる。
「じゃが、話す前に一つ条件がある」
皆無は泣きたい気持ちで璃々栖を見上げる。これ以上事態を複雑化させないで欲しい。
が、当の璃々栖は小悪魔的な笑顔で、「
「「はぁ?」」思わず、父と一緒に素っ頓狂な声を上げ、「「あぁ」」すぐに納得した。
「分かりました。すぐに湯を張ってきますので」言いながら、父が懐からロザリオを取り出し、ぎゅっと握り込む。一瞬だけロザリオが光り輝く。「レディと皆無の移動可能範囲をこの屋敷の居住区全域に広げました。――皆無、屋敷を案内して差し上げなさい」
皆無は璃々栖を連れて、屋敷――第七旅団ではもっぱら『
今でこそ各港は退魔専門部隊たる
「それでここが休憩室や……あっ、休憩室です」皆無は父の敬語を思い出す。
「よいよい」案内されているくせに前を歩く璃々栖が、くるりと振り向いた。長い
「…………」弟扱いされたことを、皆無は何故だか残念に感じる。とはいえ皆無は現状、この美少女に対し、どのような感情を抱くべきなのか判断しかねている。「我が子や言うたり弟や言うたり……そもそも何やねん、我が子て。僕はお前の子供ちゃうんやけど」
「予はいずれ王となり、偉大なる国母にして国父となる者じゃぞ?」
「あぁ、そういう……」
二階建ての二階の隅、休憩室に入ると、
「おやおや皆無、随分と可愛い彼女を連れているじゃァないか!」ビリヤード台の上で
「うっ……」部屋中に充満する濃厚な酒の臭いに、皆無は
午前中のことである。ビリヤード台の上には酒瓶が沢山転がっており、酒の
「
「
「はぁ?」今度は皆無が首を傾げる。
「アンタがウワサの小悪魔チャンかい?」ビリヤード台から飛び降りた
そう、随分と年若いように見えるこの女性は、白髪頭なのだ。皆無の記憶によれば、当人
「何ともまァ
「――…う、うむ」璃々栖が一歩、後ずさる。あの璃々栖が圧倒されている。
「アタシはこの子の親から、この子のことを頼まれているんだ。だから」
それだけ言って満足したのか、
「な、何というか……中々に
「本当に凄いんやから!」
「おや、誰かいましたか?」声に振り向いてみると、
「じゃあ、僕は外におるから」璃々栖を脱衣室に案内した皆無が外に出ようとすると、
「そなたも一緒に入るに決まっておろう?」当然とばかりに、璃々栖が言い放った。
「――――は?」皆無は固まる。
「誰が予の服を脱がすというのじゃ。この通り腕がない」
「はぁッ!?」
「誰が予の体を洗うというのじゃ」璃々栖が妖艶に
「い、い、いやいやいやいや!! 侍従の
「
「悪魔はお前や! じゃ、じゃあ
「確かにあやつは
「え、え、え……ほ、本気で言っとるん?」
「予はさっさと、さっぱりしたいのじゃ。ほれ、
皆無は白目を
阿ノ玖多羅皆無、十三歳。
「ほれほれ、早うせんか」
言って大きく胸を張る美少女璃々栖の、一体全体何処をどう脱がせばよいのか皆無には見当もつかない。それでも――顔を耳の先まで真っ赤っかにして――無我夢中で手を動かし、璃々栖をまずは下着姿にまですることに成功した。
璃々栖の放つ甘い匂いと血の臭いが混じり合った、快と不快の
「――――……」そうして皆無はゴクリと生唾を飲み込みつつ、璃々栖の悪魔的な乳房を包み込む
「んっふっふっ……
催促されても、皆無は全身に冷や汗を浮かべるばかりで、一向に手が動かない。
「……はぁ、まぁ仕方がないか。我が使い魔・皆無よ、さっさと
「ヒッ」命じられるや
「皆無よ、何処を見ておるのじゃ?」
「み、み、見てへん!!」璃々栖のいたぶるような声に、皆無は慌ててそっぽを向く。
「時に、そなたは脱がぬのか?」
主の鈴のような声でそう言われ、皆無は悲鳴を上げる。「ぬ、脱がんわ!!」
「あはァッ! 皆無よ、脱げ」
「ヒッ!?」己の意志に反して
「そなた」ふと、主――璃々栖が至極真面目な声を発した。「
「へ?」言われて皆無は、己の背中を姿見越しに見る。
「蛇、
「で、デビリズム……??? 魔法陣にはまぁ、見えなくもないかな――って」皆無は真っ青になる。「そんなことより!」
璃々栖の裸身に刻まれた、
「と、とにかく清めへんと!」不衛生は破傷風の元だ。
皆無は璃々栖を浴室へ招き入れ、湯船の湯を
「そんなにオロオロするでない」ここでも、璃々栖が泰然とした様を見せる。「ほれ、その桶を肩口に掲げよ」
「う、うん――って、うわっ!?」
璃々栖が桶の中に右肩の傷口をばしゃんと突っ込み、じゃぶじゃぶと動かす。顔色一つ変えずに。たちまち桶の湯が血に染まり、「もう一回じゃ」
言われるがまま湯を用意し、璃々栖がまた、じゃぶじゃぶとやる。
「ま、こんなもんじゃな」
「じゃあ逆を――」
「要らぬ」
「……え?」言われて見てみれば、左肩は傷ひとつない。古傷すら存在しない。
「可愛い我が子よ、治癒の魔術で
「せ、せやった!」慌てて薬王
いきなり口付けされた。ドロリとした甘く高濃度なヱーテルを喉に流し込まれる。
「んッ」喉が焼けるように熱い。呼吸ができない。涙が出てくる。「んん――ぷはぁッ」
「んふふ」ヱーテルが
「このッ――」皆無は、悔しい。西洋化の最先端たる第七旅団の所属ということもあり、皆無は男尊女卑の意識が薄い。が、そうは言っても女に泣かされるなどは
「吐くな吐くなもったいない」璃々栖の唇で口を塞がれ、無理やり
「うっぷ……鬼ぃ、悪魔ぁ……」果たして、皆無の体を角、爪、翼、尾といった
「悪魔じゃからのぅ!」璃々栖が皆無の角に息を吹きかけ、「やはり
「デモナヰズ?」知らない単語が出てきた。
「
「ろっぴゃく……」卒倒しそうになりながらも、皆無は丹田へと意識を集中する。「【
両手を璃々栖の右肩にかざすと、果たして傷はみるみるうちに塞がった。更には、他の切り傷や打撲傷まで綺麗さっぱり治ってしまった。
「え、えぇぇ……」想像の斜め上を行っていた効果のほどに、頬が引きつる。今の口付けで渡されたヱーテル量は
「うむ。やはりそなた、才能があるな。そなたならば、
「さ、サタナヰズ……?」また、何やら悪魔的な単語が出てきた。
「己の
「もしかして――ダディ!?」鳥にも霧にも変化することができる、悠久の時を生きる父。
「左様。ところで」璃々栖が、手袋を脱いだ皆無の左手を見て、「そなた、その手――」
「あぁ、コレ?」皆無は左手の平と甲を璃々栖に見せる。手の平を貫く、大きな傷痕があるのだ。「小さいころ、
「そなたの父――あの優秀な術師殿なら、綺麗さっぱり癒やしてしまいそうなものじゃが」
「そんとき父は出張で。止血は兎も角、傷痕ひとつ残さずに癒やせるほどの術師は、父以外におらんから。あと、『定着してしまっては、さしもの私でも治せない』とは父の言や」
璃々栖の瞳がヱーテル光を帯び、「なるほど。
「痛かったし怖かったけど、ちょっと
不意に、璃々栖が体を押し付けてきた――まるで抱き締めようとでもするかのように。皆無の顔が、璃々栖の豊満な乳房に埋まる。
「何やねん。元気付けようとでも?」
「男はこういうのが好きなのじゃろう?」頭上から、麗しの主の、
皆無は悲しみと性欲の
「あはァッ! ほれ、皆無よ。早う予の体を洗え」ぐいっと胸を張ってみせる璃々栖。「実は
「え…………」とんでもない内容の話をあっけらかんとした口調で言ってのける璃々栖に対し、皆無は言葉が出ない。
「何とか処女は守った。じゃからそんな、
「う、うん」璃々栖の腰まである長い髪を苦労して結い上げ、肩から湯を掛ける。手拭いを持ち出そうとすると、
「手で直接洗うのじゃ」にやにや笑いながら、璃々栖。「乙女の柔肌じゃ。大事に扱え」
「――――……」皆無は卒倒しそうになりながら花王シャボンを手に取り、泡立て、璃々栖の体を磨いていく。高級品たる
「ん…あっ…ふぅぅっ……もうちょっと優しくできんのか?」半笑いの璃々栖の挑発に、
「そ、そ、そんなん言われても……ッ!!」皆無は卒倒寸前である。
「いやぁ、心地よい。本当に不快だったのじゃ……
「ひぃっ……」璃々栖からの
「脚を思いきり開かされ縛り上げられ、あやつの粗末なナニを見せられたときにはもう駄目かと思ったものじゃが、あわやというところで父上と
「――――……」皆無はこの気高い姫君がやけに早口で、そして涙を
「父上は……予と
「――ッ!?」璃々栖が核心を話している。この姫君が神戸に現れた理由の核心を。
「湯を掛けて給れ」
皆無は言われるがまま、璃々栖に湯を掛ける。
「
(なるほど)璃々栖の左の肩口がやけに
「
璃々栖が勢いよく湯船に顔を沈め、数秒してから顔を上げ、
「この街にあるという、予の左腕を探し出す。そして、その力を
その顔にあるのは、泰然とした笑みだ。
(――――……強い)皆無はこの少女に心酔しそうになる。これほどに怖く辛い体験を思い出し、語ったというのに、ものの数秒で持ち直すとは!
「さて、次は髪を洗え」璃々栖が湯船から出てきて、風呂椅子に座る。
「――仰せのままに」
「何じゃ、随分と素直になったのぅ」
「別に」ただ、この姫君のために働くのも悪くないかもしれないと、そう思ったのだ。
「何の話じゃったかのぅ。そう、あの
「ヒッ……」まさに悪魔としか言いようがないその発想に、皆無は息を
「つまりは、予が美し過ぎるのがいけなかったのじゃな!」
そう言って高笑いする璃々栖に、皆無は引きつり笑いをするしかなかった。
「コラッ、髪をそう乱暴に
「はいはい分かりました」
璃々栖の髪と体を拭き、父が準備良く脱衣室に用意して呉れた璃々栖の着替え――洋風の下着と和服――を璃々栖に着せ、自室に戻って璃々栖の髪を梳いていると、
「お話、ありがとうございました」父が部屋に入ってきた。洋食――文明開化日本におけるご
「あはァッ! 【
「この話は上に報告させていただきます。しばし、この屋敷でお
「よかろう。時に」璃々栖が、父が配膳する皿を眺めつつ、「その汁物は何じゃ?」
「
「味噌?」璃々栖が魔術で知識を引き出してきて、「うえぇっ、腐った豆!?」
「発酵ですよ。
「う、うぅぅ……そう言われれば確かに。じゃが……」
「
「
「旨味や」「旨味です」
「う、旨味……じゃと!? 旨味とは何じゃ!?」
「
「白米――あぁ、精製したライスか。カツレツをライスで食すのか、日本人は……?」
「大概そうやで」「そうですね。洋食にも白米と味噌汁は欠かせません」
「なんと面妖な……我が祖国の食と、極東の食が調和するとは思えぬのじゃが」
「和洋折衷やな」「和洋折衷です」
「な、何じゃよ『ワヨウセッチュウ』って……」
「寛げ、と言われてものぅ」皆無の体を操って
「やから、いちいち僕の体を操んなや!」皆無は抗議しつつも首を
「なァんてな!」璃々栖が勢いよく立ち上がる。「
「い、征くって
「探検、もとい」璃々栖が、
ような、ではなかった。まさしく悪戯好きな仔猫そのものであった。璃々栖は屋敷内を歩き回り、扉と見れば蹴破り、床下と見れば皆無に開けさせ、隠し通路などがないか――結界による封鎖漏れがないかを探させた。そして、度々脱線した。面白そうなものを見つけては一心不乱に突進していって、『アレは何じゃ』『コレは何じゃ』と皆無に問うた。
「あぁ、それは試製
とある佐官の私室に勝手に上がり込んだ璃々栖に付き従いながら、皆無は答える。屋敷には自分と璃々栖と
「そなたが振り回しておった長銃に比べると銃身が短い……というか普通の長さじゃな。そなたの銃、そなたの身長よりもなお長くなかったか? そなたの背が低いのは別にして」
「ひ、低いって言うな! 伸びとる最中や!」
「んっふっふっ」璃々栖がぐいっと胸を張る。豊満な乳房が強調され、背筋が伸びた璃々栖に、皆無は見下ろされる形となる。「
「
「ムラタ、とは社名か何かかのぅ?」
「
「ふぅん」璃々栖は
「あっはっはっ! 駄目じゃな。諦めよう!」
それからしばらく、【
「えええッ!?」皆無は仰天する。璃々栖の口から、彼女らしからぬ言葉が出てきたからだ。
「作戦変更じゃァ。この結界内から出られぬ以上は、結界内でできることに注力するほかあるまい。できぬことを『できぬできぬ』と嘆くなど時間の無駄。
「できることって……何するん?」一体全体、次は何をやらされるのやら。
「決まっておろう?」璃々栖がニタリと微笑み、「昼寝じゃァ。ほれ、立たせて
「ひ、昼寝……?」皆無は白目を
「あンッ――…そなた今、予の乳に触れたな? 王の乳じゃ。気軽に触れるでない」
「さ、触ってへんわ! だいたいお前、さっきはあんなにも
「あれだけ触っておいてなお、触り足りないとな?
「ふわぁ~。では、予は寝る」
「ちょっ……僕は何処で寝たらええねん」
「床で寝ればよかろう。それとも」璃々栖がにやりと
「誰が一緒に寝るか!」皆無は顔を真っ赤にして叫んだ。
◇同日
「んぅ……」目覚めると、窓の外は暗くなっていた。「……厠」
慣れ親しんだ洋式の厠で用を足し、部屋に戻る。ふとベッドの方を見ると、璃々栖が無防備な様子で眠っている。璃々栖と花王シャボンの混じり合った甘い香りが
「表紙画みだれ髪の輪郭は恋愛の矢のハートを射たるにて、矢の根より吹き
ヴウゥゥゥゥウウウウウウウウウゥゥゥウウウウゥゥゥゥゥゥゥ…………
外から、妖魔出現を告げる手回しサイレンの音。
「うぉっ、何じゃ何じゃ!?」璃々栖が飛び起き、ベッドの方に手を伸ばしかけていた皆無と目が合って、「……何じゃ、
「ちゃ、
「
「――妖魔警報や。もしかしたら、昨日みたいな百鬼夜行がまた来るのかも……」
「ふむ……おや?」璃々栖がドアの方を見ると同時、
コン、コンコン――
軍衣と、
「仕事の時間だよ、皆無」にっこりと微笑みながら、そう言った。
「レディ・璃々栖」けたたましいサイレン音の中で、父・正覚が璃々栖に西洋風の礼を取る。「ひとまず
「仕方あるまい」
「はい」
「えぇぇ……」
「皆無」
「
「お前は、お前が人間に対して安全な存在であり、かつ日本国にとって有益な存在であることを示せ。それだけが、お前が第七旅団に討伐されずに済む、唯一の道だ」
「……わ、分かった」
「よし、行け!」
皆無は璃々栖からの口付けで
「さぁ我が子よ、腕探しに行くぞ」空に上がるや
「えええッ!?」皆無は仰天する。抗命は最悪、極刑。それに――「あ、
鋭敏になった【
「お願いや、璃々栖!」腕の中の璃々栖を見つめると、
「はぁ~……」果たして璃々栖が肩を
そうして、今。皆無は璃々栖を腕に抱きながら、
「ほれ、【
「あぁ、ナルホド……」敵主力との戦闘終了後、璃々栖が自ら上空警戒を志願したときには何が目的かと思ったが、こういう魂胆であった。皆無は璃々栖からの口付けを受け、「【赤き蛇・神の悪意サマヱルが植えし
次の瞬間、血よりも赤い幾何学模様が、神戸一円の空を覆い尽くす魔法陣が現れた!
「わ、わわわッ!?」仰天する皆無と、
「あー……やってしもぅた。ヱーテルを渡し過ぎたな」
「れ、れれれレディ・璃々栖!?」
「うむ!」皆無の唇に吸い付き、ヱーテルを吸い出す璃々栖。途端、魔法陣が消える。
「はぁ……上空警戒にしては随分と力が入っていたように見受けられるのですが?」
「いやぁ、ソンナコトハナイゾ?」「せ、セヤデ、ダディ!」
……結局、【
「【
父が現れ、またすぐに消えたことを思うと、とても好き勝手には行動できそうにない。
「結局、信用を積んでいくのが近道か。よし皆無、将兵たちの
「次は何をするつもりなん?」皆無は、何処までも前向きな璃々栖が
「負傷者の治療と、親睦じゃな。目指せ、神戸の
「璃々栖病院~! 璃々栖病院じゃァ!」海岸通りに降り立った璃々栖が、怪しげな客寄せ口上を述べる。「今なら先着十名様を無料で治癒してやろうぞ!」
戦闘の後始末や
簡易ベッドに寝かされて治療を受けている者たちが顔を上げるが、名乗りを上げるような勇気ある者はいない。何百もの視線が璃々栖と、その隣に立つ皆無に突き刺さる。
皆無は、心細い。こういうとき、隣にはいつも三
(同じや。
「あはァッ! 犬っころじゃァ。可愛いのぅ!」場違いに明るい声がした。驚いて顔を上げると、璃々栖が
「はァ」場違いに場違いを重ねる璃々栖の言動に、皆無は落ち込んでいるのが莫迦らしくなってしまう。「術式治癒って本来はめっちゃ高価やねんで。それを
「じゃが、可哀そうであろう?」璃々栖が上目遣いに見つめてくる。
「うっ」皆無は、
瞬く間に快癒し、皆無と璃々栖の周りを元気に跳び回る
璃々栖がやおら立ち上がり、旅団員たちに微笑みかけ、「――さて。先着十名じゃぞ?」
「傷が完全に塞がった!」「全く痛くない!」「こんな高度な治癒術式見たことないぜ!」
皆無は戸惑う。皆無は目の前に広がる光景が――同僚たちが自分に笑いかけてくるという光景が、信じられない。皆無の知る第七旅団は、もっと殺伐とした組織のはずであった。
父の名に泥を塗るわけにはいかない。父の名に恥じぬ戦果を挙げ続けなければならない……常に己にそう強いてきた皆無にとり、
「すげえな、阿ノ玖多羅少佐」治療を受けていた単騎少佐――二十代半ばの男性が皆無の肩をバンバンと叩いてきた。「戦いぶりも見事だったし、まさに
皆無は心底ビビる。璃々栖と遭遇したときですら、ここまで驚かなかった。だが思えばこの気の良い同輩は、今まで何度か自分に声を掛けてきたり、飯に誘って呉れたことがあった。が、その都度自分は要らぬ警戒をして誘いを断り、逃げ回ってきたのだ。
小一時間後。
結局皆無は、十人と言わず全員を治療して回った。自ら立てないほどの重傷者も少数いたが、幸いにして――本当に幸いにして、死者はいなかった。
治療を受けた将兵たちが、お礼と称して
野戦将校というのはみな基本的に、強い者を好む。だから彼ら彼女らは圧倒的強さで悪魔悪霊を
「ほら阿ノ玖多羅、お前も飲め。本場シャンパーニュから取り寄せた
上は大佐、下は下士官。老若男女様々な同僚たちが、皆無をもみくちゃにする。
「あはは!」皆無は、
「あ、今、笑った?」「きゃぁ、可愛い!」「お前、そんな顔もできたんだなぁ」
皆無はなんだか、第七旅団に溶け込みつつある。きっかけを作って呉れたのは璃々栖だ。当の璃々栖はといえば、皆無が同僚たちとの歓談を楽しんでいるのを見て皆無のことは同僚たちに任せるのが吉と判断したのか、自分は別の輪の中に飛び込んでいってしまった。
「そなたの髪、良い匂いがするのぅ」「分かりますか? 花王シャボンで毎日洗ってるんですよ」「あの
早々に女性下士官などを垂らし込み、食事の世話をさせている璃々栖である。
たった一晩である。たったの一晩で、皆無が一年以上もの間できずにいたことを、璃々栖は実現してしまった。屈強な男どもや男勝りな女どもの心を
「璃々栖は何で、こんなことができるん?」皆無は今や明確に、璃々栖に心底
「何を言う」璃々栖が晴れやかに笑っている。「予は一人では何もできぬ。このとおり腕はなく、
「うん」たった今、見せてもらったばかりである。
「そも、予は
「璃々栖は何で、そんなにも強いん? 悩んだりせぇへんの? 怖くはないん?」
「王は、悩まぬ」璃々栖が泰然と
ないわけが、ない。
が、
「思索し検討するのは良い。が、悩みはいかん」璃々栖が、笑う。「思い悩むだけでは答えは出ぬからのぅ。悩む暇があったら、今できることを全力で
そうして璃々栖は今、それを有言実行しているわけである。昼間は寝るしか方法がなかったから、少しでも体力を回復・温存させるために潔く寝た。そして自由になるや腕探しに出ようとし、それが叶わぬと分かると早々に作戦を変更して、こうして今、彼女が自由に活動するための土壌を耕し、彼女を応援して呉れる臣民を増やしつつあるわけだ。
『拙速』と見えるかもしれない。『節操なし』と
「悩むな、とは手厳しい姫君だが」先ほどの少佐が話しかけてきた。「俺で良ければ話を聞くぜ、阿ノ玖多羅少佐。そりゃそうだよな、天才少佐殿にだって悩みはあるよなぁ」
「そうじゃぞ、人の子よ」璃々栖が皆無の肩に顎を乗せ、嗤う。「こやつ、たったの十三で国のために戦っておるのじゃ。予が十三のころなど、遊び
「そうだった。まだ十三なんだよな」「言われてみれば」「苦労してたんだなぁ、お前も」
気が付けば、大人たちが皆無を取り囲み、
「本当はもっと、お前と仲良くしたかったんだよ」先ほどの少佐が言う。「けどお前、いっつもピリピリしててさ。――って、おいおいどうした!?」
気が付けば、皆無は泣いていた。自分はようやく、第七旅団の一員になれたのだ。
◇ ◆ ◇ ◆
そんな風にして、一週間が過ぎた。
夜は父に見守られ――もとい督戦されながら西洋妖魔の百鬼夜行を相手に戦い、父の目を盗んでは
将来に対する不安はあったが、楽しくもあった。
そんな幸せな毎日の中で、皆無はどうしようもないほどに、璃々栖に溺れていった。璃々栖なしの生活が想像できなくなるほどに、璃々栖に
幸せだった。幸せだったのだ。
――十一月十日の夜、人生の岐路に立たされることになる、その時までは。
腕を失くした璃々栖 ~明治悪魔祓師異譚~ 明治サブ/角川スニーカー文庫 @sneaker
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