第弐幕 人魔の狭間をさ迷ひて

◇十一月二日九時四十五分マルキユーヨンゴーパリ外国宣教会MEP屋敷・自室/阿ノ玖多羅あのくたら皆無かいな単騎少佐


 夢を見た。悪魔デビルに魂を売り、その悪魔デビルの王国を作るために右往左往する夢を。


「うわぁぁあああ!?」皆無は飛び起きようとして、「――わぷっ!?」


 何やらただならぬ柔らかさを持った物体に鼻先をぶつけ、あおけに戻った。


「二度目じゃぞ、ソレ」上から声が降ってきた。あでやかな少女の声。図らずも己の主となった、腕なし悪魔デビルの声である。「そなた、澄ました顔をしておいて、実はすけじゃな?」


「う、五月蠅うつさいねん、お前ッ!」皆無は真っ赤になりながら、ベッドから降りる。

 見渡せば、ここは自室。皆無が十年以上の間、寝起きしてきた部屋だ。


「お前、ではない。名乗ったであろう」「ああ、せやったな。ええと……り、り……」「何じゃ何じゃ、もしやそなた、おなごの名を呼ぶのが恥ずかしいのか? 童貞か? 口付けしたときも、随分と戸惑っておったが」「う、五月蠅いねんお前!」「名前」「うっ」「なーまーえっ」「り……リリス!」「あはァッ、ようできたのぅ。褒めて遣わす」「うぐぐ」


 腕なし悪魔デビルの少女――リリスが、ベッドでぼふっと横になる。


「貴様、不敬だぞ!」不意に、足元で中性的な声がした。「『殿下』をお付けしろ!」


 見てみれば、半透明の悪霊デーモン――受肉マテリアラヰズ状態を維持できていない、手の平ほどの馬がたたずんでいた。翼を持った馬が、ヱーテルをまとった前足で皆無のこうずねを蹴り上げてくる。


「痛ッ、いたたッ、何やコイツ!? で、デンカって何のことや?」


「よいよい、聖霊セアル。そなたはヱーテルを回復させることだけに集中するのじゃ」


「――ははッ!」悪霊デーモンこうべを垂れ、その姿がかすみのように消えていく。


「今のはの従者、聖霊セアルじゃ。ヱーテル核をたっぷり喰わせてやることができて、あのとおり消滅させずに済んだ」リリスが穏やかに微笑ほほえむ。「そなたのお陰じゃ」


 皆無は、斯様かような美少女が自分のベッドで横になっているという事実に戸惑う。


「それはそうと、そなたが眠りこけている間、大変だったのじゃぞ?」「せ、せや! 僕はあのあと気絶して――どないなったん!?」「悪魔祓師ヱクソシストどもに取り囲まれて」「……うん」「取り押さえられて」「嗚呼……」「そなたの父を名乗る男が出てきて」「ダディ、無事やったんやな!?」「アレはすごい術師じゃな。予でもちょっとかなわぬやもしれぬ」「ヱーテル総量やったらリリスの方が圧倒してるやん」「かく、そなたが使い物にならぬ以上、予に抵抗手段はないから――」「つ、使い物て」「――このとおり、投降した」


 皆無は立ち上がり、部屋のドアノブを回す――回らない。【文殊慧眼もんじゆけいがん】によれば、部屋のドア、窓、壁、天井、床の全てが強固な防護結界で覆われている。現状、自分はもはや悪魔デビル――人間の敵である。監禁措置は当然であろう。


嗚呼ああ……あぁぁ……」皆無は頭を抱える。昨日までは最年少単騎少佐として、父には敵わないまでも将来を有望視され、順風満帆な人生を歩んできていたのだ。それが、たった一夜にして人間の、国家の敵になり、明日をも知れぬ身の上になってしまった。


「そう嘆くでない。予に対して従順でいる間は、たっぷりと可愛かわいがってやる」両腕のない悪魔デビルが、脚で反動を付けて起き上がる。「そうじゃな、まずはそなたの名前を聴こう」


寿限無じゆげむ寿限無じゆげむ五劫ごこう海砂利水魚かいじやりすいぎよ水行末すいぎようまつ――」皆無は腹いせにたらを言う。


「長い名じゃのぅ。さてはうそじゃな? お望み通り命令してやろう。我が子よ、名乗れ」


「阿ノ玖多羅皆無」即座に言葉が口から出た。(糞ッ……やっぱり、僕の体を勝手に動かす力は健在か)


「アノク?」リリスが首をかしげる。

 その仕草を可愛いと感じてしまい、皆無は焦る。


「この国のことは知らぬが、変わった名前じゃというのは分かる。どういう意味じゃ?」


阿耨多羅三藐三菩提あのくたらさんみやくさんぼだい等正覚とうしようがく正等正覚しようとうしようがく正等覚しようとうがくしやぶつはん寂静じやくじようや」


「あ~、仏陀の悟りニルヴアーナか! しかし字面が分からぬのぅ。【偉大なる狩人かりうどよ・あまねく動物の言語を解する公爵馬羅鳩バルバトスよ・予にその知識の一環を開示し給れ――翻訳トランスレーシヨン】」少女が唱えると、部屋が一瞬だけ白い光で満たされた。「ふむ、阿耨多羅を阿・の・く・多羅に分解して――、『く』は数字の九じゃな? ノは適当な当て字と見た」


「ほぅ……ッ!」改めて、皆無は少女の精巧にして流麗な術式展開に見惚みとれる。

 長ったらしい詠唱も、魔法陣も媒体も必要とせず、一瞬のヱーテル展開で術を成立させてしまうとは! これほどの芸当ができるのは、皆無が知る限りでは父・正覚しようがくと飲んだくれの師匠・愛蘭アヰラム先生くらいなものだ。陸軍士官学校でも、皆無に術式を教えるに足る講師は一人もいなかった。父と愛蘭アヰラム以外の教師の存在に、皆無は飢えていた。


「ふふん」皆無の子供のような――実際子供だが――尊敬のまなしに気を良くしたらしい少女が、その悪魔的な胸を張ってみせる。「素直に予に従うならば、手ほどきしてやっても良いぞ? で、何故なぜに阿ノ玖多羅の玖は九なのじゃ?」


「『護国拾家』――古くから続いとる、退魔の名門拾家がおってな。もっとも『護国』なんて文字が付いたんは、明治日本として統一国家になってからの話なんやけど」先ほどは意地悪で漢字を列挙してみせた皆無だが、手ほどきして欲しさに、露骨に素直になる。「壱文字いちもんじ弐又ふたまた参ツ目みつめ肆季神しきじん陸玖陸むくろ漆宝しつぽう捌岐やつくび・阿ノ玖多羅・拾月じゆうげつ


「阿ノ玖多羅皆無――カイム、ではないのか。良かったのぅ」


「カイムやなくて、カイナ。父いわく、神無月生まれから取ったとか。良かった、って?」


「カイムは所羅門七十二柱ソロモンズ・デビルが一柱の名じゃ。名前が被ると、人の子らによる悪魔信仰心アストラルが分散される。神や天使ども同様、我ら悪魔デビルにとっても人の子らの信心アストラルは大切じゃ」


「カイムやなくてカムイやったらおるけどな。第七旅団長の神威かむい中将閣下」


「ふぅん? そんなことより、今はそなたのことをもっと聞かせておれ、カ・イ・ナ」


 少女の麗しい唇から己の名が呼ばれたことに、皆無はゾクゾクしてしまう。


「皆無よ、いとしき我が子よ。そなたの家族構成は?」


「父がおるだけ。母の顔は知らん」


「ふむ。父親がおるだけ良いではないか。予なぞ昨日、二親を始めとする親族をなぶごろしにされたのじゃからのぅ!」とんでもないことを口にしながら、笑い飛ばす少女。


「――――……ッ!?」皆無は、この少女が持つ無限の意志力に、途方もなく強い感銘を受けた。皆無はこれまで父と比較され続けることを悲嘆し、うじうじと悩みながら生きてきたが、きっとこの少女ならばその程度のこと、鼻で笑って蹴飛ばしてしまうことだろう。


「で、そなたの父は、その『阿ノ玖多羅家』の当主か何かかの? あれは大した術師じゃ」


「せや。けど父は、阿ノ玖多羅の生まれとはちやう。阿ノ玖多羅は拾家の中でもゐの一番の名家で、退魔師の中にはその名にあやかろうとして阿ノ玖多羅を名乗るやつが多いんよ。く言う父もそのクチや」


「んんん? なのに今は当主なのか?」


「阿ノ玖多羅の力の源・九尾狐きゆうびこはこの百数十年ほどずっと眠りっぱなしで、彼の家は今、魔を祓うだけの力を持ってへんのやって。やから金と引き換えに父を雇っとるんよ」


「何とも滑稽な話じゃのう! ――おや」少女がドアの方を見て、「うわさをすれば、じゃな」


 ――コン、コンコン


「失礼します」果たして、身長一〇〇サンチの奇人にして偉人の父が部屋に入ってきた。


「――パパッ!?」あの絶望的な戦いを経て父と再会できた喜びと驚きのために、皆無の口から昔の呼び方が出てくる。驚き――そう、父が右腕を怪我しているのだ。ギプスでグルグルに固定された腕を首から下げた包帯で固定している。

 父が怪我をしている! あの、三人の莫迦ぶかの怪我を一瞬でやしてしまった父が!


「あら~可愛い! 皆無チャン!」パパ呼びが出たことに狂喜乱舞する父に対し、

ちやう! 違う違う、今のなし!!」皆無は顔を真っ赤にして否定する。「だ、ダディ、どないしたんその腕!? な、何で治さへんの!?」


「いやぁ、昨日の戦でヱーテルのほとんどを消費してしまってね」


「二千万超えなんやろ!?」


「だって相手は悪魔大印章グランドシジル・オブ・デビル持ちの所羅門七十二柱ソロモンズ・デビルだよ? 大印章グランドシジルの展開は、自分が望まぬあらゆる術を無効化せしめることができる、まさに悪魔のような秘術さ。お陰で純粋なヱーテルによる殴り合いだよ。燃費が悪いったらありゃしない」


「けど治癒系の神術使える人は神戸ここにもおるやろ?」


「そうか、お前は知らないんだな。実は――」父の口から昨夜のあらましが語られる。庵弩羅栖アンドラスとの戦闘詳報と、戦いの最中に【神戸港結界こうべこうけつかい】が破られてしまったことが。「お陰で和洋の別なく神戸中の術師が大わらわさ。私の治療のために割けるヱーテルなんて一滴たりとてありゃしない。お陰で私は、とりあえず術式義腕を付けて、定着するのをこうしてゆっくり待っているわけさ。――さて」父が少女の前に歩み寄り、西洋風のお辞儀をする。「レディ、お話を聞かせていただいても?」


「ふむ」リリスと父の視線がかち合う。「時にそなた、幾つなのじゃ?」


「残念ながら、百を過ぎてからは覚えておりません」


「百ぅ!?」少女が、その泰然とした様を崩して驚く。それを恥じてか、わずかに顔を赤らめつつ、「こほん! 人の身で魔王化サタナヰズの域に達するとは、本当に大したものじゃのぅ」


貴女あなたほどではありませんよ、ヱーテル総量五億の魔王様」


「王? 予はまだ、王ではない」


「まだ、とは?」


「力を取り戻し、憎きはんぎやくしやどもを八つ裂きにし、我が土地と民を奪った七大魔王セブンスサタンが一柱・毘比白べヒヰモスくびり殺してからでなければ、王は名乗れぬ」


「「――毘比白ベヒヰモス!?」」皆無と父が、二人して素っ頓狂な声を上げる。十三年前に神戸港に襲来し、父の半身をらった魔王の名が出てきたからだ。


「……ご事情を、詳しくお聞かせ願えますか?」父の声が低くなる。

「参ったのぅ……予はそなたの息子・皆無が欲しい」


 欲しいと言われ、壁際でびくっとなる皆無。


「予の旅路に連れていきたいのじゃが……話せば、それを許してもらえるかの? できれば、可愛い使い魔の親族とは仲良くしておきたい」悪魔デビルが、犬歯をき出しにして微笑む。


「それはレディ、貴女が何処どこまで真摯に答えてくださるか、それ次第でございます」父がにっこりと微笑む。「そもそも、何も息子を使い魔とせずとも、この部屋に潜んでいる悪霊デーモンにヱーテルを譲渡して戦力と成せばよいのではありませんか?」


「ほぅ?」少女が目を細める。「聖霊セアルには気配を消させておいたのじゃが」


「常人よりも、少々敏感でして。漠然となら、相手が考えていることも分かります」


「【赤き蛇・神の悪意サマヱルが植えしどうつた・アダムのりん――万物解析アナラヰズ】」少女の瞳が一層輝き、「【悟りニルヴアーナ】!? 人の子とは思えぬほど、すさまじい能力を持っておるのぅ。七十二柱ソロモンズの上位や七大魔王セブンスサタンクラスになると、過去・現在・未来を見通す力を持つというが」


「恐縮です。が、さすがの私も未来予知まではできません」


「ふむ。まぁよい、可愛い可愛い使い魔の親族なのじゃ、教えてやろう。大印章グランドシジル持ちの悪魔デビルというのは、一個人でありながら一つの世界なのじゃ。別の悪魔デビルのヱーテルなんぞ注ぎ込まれてしまっては、拒絶反応を起こすか、最悪世界デビルが崩壊する」


「――ええッ!? あの馬の悪霊デーモン七十二柱ソロモンズなん!?」皆無は思わず会話に割って入ってしまう。受肉マテリアラヰズを維持できていないことから、大した相手ではないと侮っていたのだ。

 父が小さくせきばらいする。「さて、レディ。最初に、これが一番大事なことなのですが――貴女には、この国に住む人間に対する害意はありますか?」


「ない」美しき悪魔デビルが大きく胸を張って断言する。「我がけんぞくには女夢魔サキユバス男夢魔インキユバスが多い。彼らは人の子らの夢に出て、精液や愛液を介してヱーテルを喰らう。人は健全な状態で生かしておいてこそ、我らの糧となる」


(やっぱり!)皆無は歓喜する。この少女が自分や伊ノ上いのうえ少尉に対して取って呉れた行為を、皆無はしっかりと覚えている。(本当に良かった。人殺しは命じられずに済みそうや)


「なるほどそれは、本当に何よりです」ほっとしたようにうなずきながら、父が懐から手帳と鉛筆を取り出す。「では次に、お名前をお聞かせ願えますか?」


 少女がその、威厳とれんさを兼ね備えた魅惑的な声で、威風堂々と名乗る。


「我が名はリリス・ド・ラ・アスモデウス。アスモデウスの名を、やがて襲う者である」


(そう、リリスや)皆無はその名にれる。(…――って、阿栖魔台アスモデウス!?)


阿栖魔台アスモデウス――何処かで聞いたことがあるような?」父がのんに首をかしげている。


ほうッ、七つの大罪を名乗る七大魔王セブンスサタンの一柱やんけ!」


「へ?」父がポカンとした顔になり、慌てて懐から『毎朝見ろ手帳』――忘れっぽい父のために皆無が作ってあげた備忘録を取り出す。しばらくしてから顔を上げ、「いやいや、さすがの私もそれは忘れてないよ?」忘れていたクセに、いけ酒蛙々々しやあしやあと言ってのける。「けど、何というか……個人的に縁があったような、そんな気がするんだよね」


七大魔王セブンスサタンと個人的に縁なんてあってたまるか!」身内特有の身近さで突っ込む皆無。


「ご、ごほん。では話を続けましょうか」やや顔を赤らめながら、父。「調書を取るのですが、お名前の当て字はこちらで決めさせていただいても?」


「当て字、とは何じゃ?」


 首を傾げる少女――リリスの愛らしい仕草に皆無はドキリとし、そのことに戸惑う。


「はい、この国の古めかしいしきたりでして。外来語には、漢字を当てるのです」言いつつ手帳に『阿栖魔台』と書いて見せる父。


「何と面妖な……まぁよい。そなたが決めよ」


「それでは――」父が手帳に、

『璃々栖』

 と書いた。

 少女リリスが手帳をのぞき込み、「璃、とは?」


「宝石。瑠璃玻璃の璃です。へんには王の意味もあります」


「栖、は?」


「特に意味はありませんが、ルイス・キャロル著『不思議ノ国ノ有栖アリス』と同じ字です」


「あはァッ、良いな。気に入った! は、この国では璃々栖リリスと名乗ることとしよう!」


 両腕のない少女の悪魔リリス――否、璃々栖が、わらった。



「レディ・璃々栖」父による事情聴取は続く。「貴女が神戸港に現れたとき、【神戸港結界こうべこうけつかい】は健在でした。つまり貴女は、結界の内側に突如として現れた」


「そこまで分かっているなら、仕方ないかのぅ。ご明察の通り、【瞬間移動テレポート】の魔術じゃ」


「何処から来られたのですか?」「――物理アツシヤー界で言うところの仏蘭西フランスじゃな」


「一瞬で?」「――そりゃァ、『瞬間』移動じゃからのぅ」


「【瞬間移動テレポート】。貴女の魔術ではありませんね?」「――何故なぜ、そう思う?」


 璃々栖の声の温度が下がる。


「それだけの距離を渡れるなど、それこそ悪魔大印章グランドシジル・オブ・デビル級の大魔術。そして、この部屋に潜む偉大なる気配は――」父が『毎朝見ろ手帳』の所羅門七十二柱ソロモンズ・デビルの項を繰りながら、「位階七十位の君主。瞬く間に世界中の何処にでも移動する力を持つ、大悪魔グランドデビル聖霊セアル


「あはァッ、正解じゃぁ!」璃々栖が嗤う。「予の侍従たる聖霊セアルは、とらわれの予を救うために奮戦し、さらには【瞬間移動テレポート】を使ったがために、ようにまで消耗しておる」


「囚われて……あぁ、なるほど」父がうなずく。「レディ・璃々栖。大変なご無礼を承知の上で申し上げますが、貴女は今、ご自身の印章シジルをお持ちでありませんね?」


悪魔印章シジル・オブ・デビルには、二種類ある)皆無は士官学校で学んだことを思い出す。(一つは七大魔王セブンスサタン七十二柱ソロモンズだけが持つ、己以外のあらゆる術式を封じせしめる大印章グランドシジル。そしてもう一つが、甲種悪魔デビルがみな持っている、強大な魔術の発生装置である小印章ノーマルシジル


 小印章ノーマルシジルには『世界』を構築して他者の術を無効化するほどの力はないが、それでも印章シジル持ちと持たない悪魔デビルとでは、その実力は隔絶している。だが短所もある。それが――


印章シジル持ちの悪魔デビルは――」父が言う。「印章シジルを失うと、魔術の大半が使えなくなる」


 皆無は昨晩の少女の様子を思い出す。(一応、【虚空庫こくうこ】っぽい術や補助系の術は使えるみたいやけど。つまり璃々栖の印章シジルは、その両腕に刻まれとったんやろう。そしてそれを)


「囚われていたときに、その『叛逆者』の手によって――」父の言葉に、

「失くしたのじゃ!」璃々栖が、初めて怒気をあらわにした。凄まじい怒りが感情アストラル体を介してヱーテルを発し、部屋の空気をびりびりと震わせる。が、それも数秒のこと。璃々栖はすぐに落ち着きを取り戻し、「……逃げるときに、失くしてしまっただけじゃ」


 やはり、敵の手によって印章シジルを腕ごと斬り落とされてしまったのだろう……と、皆無は考える。印章シジルを奪われることは、悪魔デビルにとってよほど屈辱的なことであるらしい。


「……失礼いたしました」父が頭を下げる。「では次に、貴女が他ならぬここ、神戸港に現れた理由についてです」


「秘密じゃァ」早々に調子を取り戻したらしい少女の、小悪魔的な微笑。

 父もまたにっこりと微笑み、「駄目です」


「駄目、とは?」


「何が何でも話していただきます」父が虚空から南部式自動拳銃を引っ張り出す。


「分かっておらんようじゃが……予はそなたの息子の命を握っておるのじゃぞ?」


「状況をご理解なさっておられないのは貴女の方ですよ、レディ。私は軍人です。軍人とは、命令とあらば部下や己の命を差し出すものです――たとえそれが、息子の命であっても」その銃口が、あろうことか皆無へ向けられる。「貴女は腕を持たず、侍従の大悪魔グランドデビル聖霊セアルも消耗している。皆無を失っては、自衛する術を失うでしょう?」


「だ、ダディ――」


「お前は黙っていろ、皆無」恐ろしく冷たい、父――いや、一人の軍人の、声。

 父と璃々栖がにらみ合う。…………――一分ほどもってから、


「こやつとは、何故だか抜群に相性が良い」璃々栖が、おおに肩をすくめて見せた。「手放したくはないのぅ」


「利害の一致を見たようですね?」父が南部式の銃口を下ろす。


「はぁあああああ……ッ!!」力が抜けた皆無は、思わずその場に崩れ落ちる。


「じゃが、話す前に一つ条件がある」

 皆無は泣きたい気持ちで璃々栖を見上げる。これ以上事態を複雑化させないで欲しい。

 が、当の璃々栖は小悪魔的な笑顔で、「みじゃァ」


「「はぁ?」」思わず、父と一緒に素っ頓狂な声を上げ、「「あぁ」」すぐに納得した。

 悪魔デビルの姫君は、全身まみどろまみれなのである……身をきよめたがるのも道理であった。


「分かりました。すぐに湯を張ってきますので」言いながら、父が懐からロザリオを取り出し、ぎゅっと握り込む。一瞬だけロザリオが光り輝く。「レディと皆無の移動可能範囲をこの屋敷の居住区全域に広げました。――皆無、屋敷を案内して差し上げなさい」


 皆無は璃々栖を連れて、屋敷――第七旅団ではもっぱら『MEPメツプ屋敷』と呼ばれている建屋を案内する。ここは神戸・外国人居留地のど真ん中に立つ、第七旅団の出張所だ。

 今でこそ各港は退魔専門部隊たる第零師団だいゼロしだん、その中でも西洋妖魔に特化した部隊たる第七旅団によって守られている。が、第七旅団が成ったのは十数年前の話。それまで日本の港は、『パリ外国宣教会MEP』によって守られていた。ここは、その神戸支部である。


「それでここが休憩室や……あっ、休憩室です」皆無は父の敬語を思い出す。


「よいよい」案内されているくせに前を歩く璃々栖が、くるりと振り向いた。長い金髪ブロンドが舞い、窓から入ってくる朝日を吸ってキラキラと輝く。「使い魔にしたとはいっても、半ばのことだったのじゃ。従うべきには従ってもらうが、臣従せよとまでは言わぬ。それに――砕けた話し方の方が、弟ができたみたいで心地よい」


「…………」弟扱いされたことを、皆無は何故だか残念に感じる。とはいえ皆無は現状、この美少女に対し、どのような感情を抱くべきなのか判断しかねている。「我が子や言うたり弟や言うたり……そもそも何やねん、我が子て。僕はお前の子供ちゃうんやけど」


「予はいずれ王となり、偉大なる国母にして国父となる者じゃぞ?」


「あぁ、そういう……」ためいきをついてみせながらも、皆無の視線は璃々栖の横顔にくぎ付けになっている。皆無は我知らず、すでに璃々栖のとりこになりつつあった。顔、体、声、ヱーテル総量――何処どこを取っても、極上の女である。そして何より、心。もしも自分がはんぎやくの憂き目に遭い、親を殺され、腕を斬り落とされ、自分を敵とす集団――悪魔祓師ヱクソシストたちのただ中に放り込まれたとして、あれほど気丈に振る舞い、立ち回れたであろうか。

 二階建ての二階の隅、休憩室に入ると、

「おやおや皆無、随分と可愛い彼女を連れているじゃァないか!」ビリヤード台の上で胡坐あぐらをかき、蒸留酒をらつみしているシスターが、こちらに気付いて声を掛けてきた。


「うっ……」部屋中に充満する濃厚な酒の臭いに、皆無はたまらず鼻をつまむ。

 午前中のことである。ビリヤード台の上には酒瓶が沢山転がっており、酒のさかなが載っていたらしき皿も散乱している。部屋には今、このシスターしかいない。


愛蘭アヰラム先生!」が、皆無はこの変人のことが大好きであった。

 愛蘭アヰラム――第七旅団の中でも最も優れた悪魔祓師ヱクソシストに数えられる『十三聖人』の十三。身長は皆無よりも更に低くて一二〇サンチ程度。西洋風の顔立ちは若々しいが、年齢不詳。皆無が師と仰ぐ数少ない術師の一人だ。


愛蘭アヰラム……愛蘭アヰラム?」璃々栖が首を傾げ、「何とも悪魔的でぼうとく的な名じゃのぅ」


「はぁ?」今度は皆無が首を傾げる。


「アンタがウワサの小悪魔チャンかい?」ビリヤード台から飛び降りた愛蘭アヰラムが、酒臭い息を発しながら近づいてくる。頭巾の間から長く真っ白な髪がこぼれ落ち、の光に輝く。

 そう、随分と年若いように見えるこの女性は、白髪頭なのだ。皆無の記憶によれば、当人いわく『アタシが美女過ぎて求婚が止まらないから、自慢の金髪ブロンドを脱色することで魅力を抑えている。ついでに髪の色をヱーテルに変じた』とのことだが、前者はで、実際の理由は後者であろう。ニヱ――命まで捧げなくとも、声や視力や髪の色や金銭などを信仰対象に奉納してヱーテル総量を増やすというのは、退魔師がよくやる手段なのだ。


「何ともまァ可愛かわいらしい!」璃々栖の目の前までやって来た愛蘭アヰラムが、仁王立ちして酒臭い息を吐く。「アタシゃ可愛い子が大好きだからねぇ!」


「――…う、うむ」璃々栖が一歩、後ずさる。あの璃々栖が圧倒されている。


「アタシはこの子の親から、この子のことを頼まれているんだ。だから」愛蘭アヰラムが、空っぽの酒瓶で皆無の頭を小突きながら、璃々栖に向って言う。「大切に、おし」


 それだけ言って満足したのか、愛蘭アヰラムが千鳥足で部屋を出て、廊下の奥へと消えていく。


「な、何というか……中々にすごそうな御仁じゃな」


「本当に凄いんやから!」


「おや、誰かいましたか?」声に振り向いてみると、愛蘭アヰラムとは逆の方向から父がやって来るところだった。「風呂の準備が整いましたよ」


「じゃあ、僕は外におるから」璃々栖を脱衣室に案内した皆無が外に出ようとすると、


「そなたも一緒に入るに決まっておろう?」当然とばかりに、璃々栖が言い放った。


「――――は?」皆無は固まる。


「誰が予の服を脱がすというのじゃ。この通り腕がない」

「はぁッ!?」


「誰が予の体を洗うというのじゃ」璃々栖が妖艶に微笑ほほえむ。


「い、い、いやいやいやいや!! 侍従の聖霊セアルってやつにやらせりゃええやん!」


受肉マテリアラヰズできないほどに消耗しておるというのに……そなた、悪魔か?」


「悪魔はお前や! じゃ、じゃあ愛蘭アヰラム呼んでくる!」


「確かにあやつは悪魔デビルに対しても理解がありそうじゃが……それでも悪魔祓師ヱクソシストなのじゃろう? 体を預けるに足る相手とは思えぬ」


「え、え、え……ほ、本気で言っとるん?」


「予はさっさと、さっぱりしたいのじゃ。ほれ、はよう脱がせ」

 皆無は白目をきそうになる。卒倒できるのなら、したかった。

 阿ノ玖多羅皆無、十三歳。いまだ声変わりも精通も経ていないこの子供には、母も姉も妹もいない。許嫁いいなずけはいるらしいが会ったことはなく、無論、交際相手などもいない。異性に関する知識は莫迦ぶかの男二人から多少仕込まれてはいるものの、莫迦ぶかたちがこんな子供をまちへ連れていくはずもなく。皆無が女の肌を見るのは、これが初めてのことになる。


「ほれほれ、早うせんか」


 言って大きく胸を張る美少女璃々栖の、一体全体何処をどう脱がせばよいのか皆無には見当もつかない。それでも――顔を耳の先まで真っ赤っかにして――無我夢中で手を動かし、璃々栖をまずは下着姿にまですることに成功した。

 璃々栖の放つ甘い匂いと血の臭いが混じり合った、快と不快のぶんすいれいのような香りが脱衣所を満たし、皆無はもうそれだけでクラクラとしてくる。


「――――……」そうして皆無はゴクリと生唾を飲み込みつつ、璃々栖の悪魔的な乳房を包み込む乳押さえブラジヤーに手を掛ける。この、第二の心臓が口から飛び出して来んばかりのどうは、性欲ではなく恐怖によるものだ。実際、軍袴ズボンの中の一物はすくみ上がっている。


「んっふっふっ……いのぅ、実に愛い奴じゃ」璃々栖が余裕の笑みを見せる。が、そのほおが若干朱に染まっていることに、一心不乱な皆無は気付かない。「ほら、早う」


 催促されても、皆無は全身に冷や汗を浮かべるばかりで、一向に手が動かない。


「……はぁ、まぁ仕方がないか。我が使い魔・皆無よ、さっさとの服を脱がせ」


「ヒッ」命じられるやいやや、皆無の体が勝手に動く。璃々栖の乳房押さえブラジヤーを外し、皆無自身の視線と意識はその暴力的な乳房にくぎけになりつつも、体の方は下着に手を掛ける。


「皆無よ、何処を見ておるのじゃ?」


「み、み、見てへん!!」璃々栖のいたぶるような声に、皆無は慌ててそっぽを向く。


「時に、そなたは脱がぬのか?」


 主の鈴のような声でそう言われ、皆無は悲鳴を上げる。「ぬ、脱がんわ!!」


「あはァッ! 皆無よ、脱げ」


「ヒッ!?」己の意志に反してろつこつ服を脱ぎ、ワヰシャツを脱ぐ。「し、下は勘弁して――」


「そなた」ふと、主――璃々栖が至極真面目な声を発した。「悪魔化デビラヰズが解けたときの、そなたの裸身を見たときから思っておったのじゃが……背中の、そのあざは何じゃ?」


「へ?」言われて皆無は、己の背中を姿見越しに見る。きやしやなその背中には、蛇がのたくったような奇妙な痣がある。「分からへん。生まれたときからあったから」


「蛇、どうらつさそりの尾……何だか魔法陣っぽいのぅ。何とも言えぬ悪魔味デビリズムを感じる」


「で、デビリズム……??? 魔法陣にはまぁ、見えなくもないかな――って」皆無は真っ青になる。「そんなことより!」


 璃々栖の裸身に刻まれた、の数々。大小様々な切り傷や打撲傷も痛々しいが、中でも一番ひどいのは、今なお血がにじんでいる右肩――腕を斬り落とされた跡だ。


「と、とにかく清めへんと!」不衛生は破傷風の元だ。

 皆無は璃々栖を浴室へ招き入れ、湯船の湯をおけすくい、蛇口の水で冷ます。数年前に開局した神戸水道局から供給されるこの水は、衛生的と評判だ。清めるための湯は用意したものの、皆無はこの凄惨な切り傷にどう触れてよいやら分からない。


「そんなにオロオロするでない」ここでも、璃々栖が泰然とした様を見せる。「ほれ、その桶を肩口に掲げよ」


「う、うん――って、うわっ!?」


 璃々栖が桶の中に右肩の傷口をばしゃんと突っ込み、じゃぶじゃぶと動かす。顔色一つ変えずに。たちまち桶の湯が血に染まり、「もう一回じゃ」


 言われるがまま湯を用意し、璃々栖がまた、じゃぶじゃぶとやる。


「ま、こんなもんじゃな」


「じゃあ逆を――」


「要らぬ」


「……え?」言われて見てみれば、左肩は傷ひとつない。古傷すら存在しない。

「可愛い我が子よ、治癒の魔術でやしてたもれ」


「せ、せやった!」慌てて薬王さつの術を使おうとするも、つい先ほどヱーテル枯渇で倒れたばかりであることを思い出す。「待っててな、触媒持ってくるから――むぐッ!?」


 いきなり口付けされた。ドロリとした甘く高濃度なヱーテルを喉に流し込まれる。


「んッ」喉が焼けるように熱い。呼吸ができない。涙が出てくる。「んん――ぷはぁッ」


「んふふ」ヱーテルがきらめく糸をめとりながら、璃々栖がいたぶるように微笑む。「どうした皆無、何を泣いておる? 誰じゃァ、予の可愛い子供を泣かせた不届き者は?」


「このッ――」皆無は、悔しい。西洋化の最先端たる第七旅団の所属ということもあり、皆無は男尊女卑の意識が薄い。が、そうは言っても女に泣かされるなどは日本男児サムライの恥、という感覚が皆無にはある。ただでさえ精神的に苦しいのに、急激に体内のヱーテル量が上昇したことによる酔いで、目に映る光景がグルグルと回り始める。「おぇっ……」


「吐くな吐くなもったいない」璃々栖の唇で口を塞がれ、無理やりえんさせられる。「さっさと慣れよ。そんな調子では悪魔化デビラヰズもままならぬ」


「うっぷ……鬼ぃ、悪魔ぁ……」果たして、皆無の体を角、爪、翼、尾といった悪魔デビル部位パーツが覆う。が、それらはいずれも半透明――受肉マテリアラヰズ未満の状態である。


「悪魔じゃからのぅ!」璃々栖が皆無の角に息を吹きかけ、「やはり悪霊化デモナヰズ留まりか」


「デモナヰズ?」知らない単語が出てきた。


受肉マテリアラヰズ未満を悪霊化デモナヰズ受肉マテリアラヰズ状態を悪魔化デビラヰズと言う。悪霊化デモナヰズでも十分強い。地獄級魔術が使えるくらいにはな。じゃが悪魔化デビラヰズは、悪霊化デモナヰズのさらに六百六十六倍強い」


「ろっぴゃく……」卒倒しそうになりながらも、皆無は丹田へと意識を集中する。「【しや如来が脇侍・星宿光しようしゆくこう長者の薬壷・オン・ビセイシャラ・ジャヤ・ソワカ――治癒ヒール】」


 両手を璃々栖の右肩にかざすと、果たして傷はみるみるうちに塞がった。更には、他の切り傷や打撲傷まで綺麗さっぱり治ってしまった。


「え、えぇぇ……」想像の斜め上を行っていた効果のほどに、頬が引きつる。今の口付けで渡されたヱーテル量は如何いかほどなのやら。


「うむ。やはりそなた、才能があるな。そなたならば、魔王化サタナヰズにも至れるやもしれぬ」


「さ、サタナヰズ……?」また、何やら悪魔的な単語が出てきた。


「己のアストラル体を変幻自在にできる秘術じゃァ。魔王化サタナヰズに至りし悪魔デビルは寿命から解放される。人の子でその域に達した例を予は知らぬが……否、おったな、すぐそばに」


「もしかして――ダディ!?」鳥にも霧にも変化することができる、悠久の時を生きる父。


「左様。ところで」璃々栖が、手袋を脱いだ皆無の左手を見て、「そなた、その手――」


「あぁ、コレ?」皆無は左手の平と甲を璃々栖に見せる。手の平を貫く、大きな傷痕があるのだ。「小さいころ、おさなじみの家で拳銃いじっとったときに、暴発させてもて」


「そなたの父――あの優秀な術師殿なら、綺麗さっぱり癒やしてしまいそうなものじゃが」


「そんとき父は出張で。止血は兎も角、傷痕ひとつ残さずに癒やせるほどの術師は、父以外におらんから。あと、『定着してしまっては、さしもの私でも治せない』とは父の言や」


 璃々栖の瞳がヱーテル光を帯び、「なるほど。アストラル体が、手の平と甲がやや欠けた状態で安定しておるな。この状態を望んだ、ということなのか? 何故なぜじゃ?」


「痛かったし怖かったけど、ちょっとうれしかってん。真里亜マリアがすごく心配して、僕に付きっきりになってれて。真里亜を独占できる気がして。――でも」うじにたかられた真里亜の顔を、思い出す。「真里亜は、悪霊デーモンに憑り殺されて――…僕に、もっと力があれば」


 不意に、璃々栖が体を押し付けてきた――まるで抱き締めようとでもするかのように。皆無の顔が、璃々栖の豊満な乳房に埋まる。


「何やねん。元気付けようとでも?」


「男はこういうのが好きなのじゃろう?」頭上から、麗しの主の、たまらなく耳心地のよい声。「そなたの涙も、もはや予の所有物。勝手に泣くな。泣くなら予の胸の中で泣け」


 皆無は悲しみと性欲のはざで、精神がぐちゃぐちゃになっている。しばし、されるがまま乳房の感触を堪能していたが、急に恥ずかしくなって退いた。「や、やめろや!」


「あはァッ! ほれ、皆無よ。早う予の体を洗え」ぐいっと胸を張ってみせる璃々栖。「実は沙不啼サブナツケめに辱めを受けてな――あぁ、沙不啼サブナツケというのは、予らを裏切り、予の父たる魔王阿栖魔台アスモデウスを暗殺し、予の腕を斬り落とした憎きはんぎやくしやの名なのじゃが」

「え…………」とんでもない内容の話をあっけらかんとした口調で言ってのける璃々栖に対し、皆無は言葉が出ない。


「何とか処女は守った。じゃからそんな、あわれむような目で見んでもよい。ほれ、早う」


「う、うん」璃々栖の腰まである長い髪を苦労して結い上げ、肩から湯を掛ける。手拭いを持ち出そうとすると、


「手で直接洗うのじゃ」にやにや笑いながら、璃々栖。「乙女の柔肌じゃ。大事に扱え」


「――――……」皆無は卒倒しそうになりながら花王シャボンを手に取り、泡立て、璃々栖の体を磨いていく。高級品たるせつけんが、花畑のような優雅な香りを浴室にもたらす。


「ん…あっ…ふぅぅっ……もうちょっと優しくできんのか?」半笑いの璃々栖の挑発に、


「そ、そ、そんなん言われても……ッ!!」皆無は卒倒寸前である。


「いやぁ、心地よい。本当に不快だったのじゃ……沙不啼サブナツケ糞爺くそじじぃに右腕を斬り落とされて、台に縛り付けられてじゃな、乳房をみしだかれるわ脚をまわされるわ……そうそう、そこじゃ。乳の下もちゃんと洗え」


「ひぃっ……」璃々栖からのちやな注文に、皆無はまえかがみになりながら応じる。


「脚を思いきり開かされ縛り上げられ、あやつの粗末なナニを見せられたときにはもう駄目かと思ったものじゃが、あわやというところで父上と聖霊セアルが駆けつけて呉れてのぉ!」


「――――……」皆無はこの気高い姫君がやけに早口で、そして涙をこらえるような表情をしていることに気が付いたが、気付いていない振りをしながら璃々栖の体を洗い続ける。


「父上は……予と聖霊セアルが逃げる隙を作るために、死んでしもうた。『神戸へ行け。そこで腕が待っている』――それが、父上の遺言じゃ」


「――ッ!?」璃々栖が核心を話している。この姫君が神戸に現れた理由の核心を。


「湯を掛けて給れ」


 皆無は言われるがまま、璃々栖に湯を掛ける。


阿栖魔台アスモデウス家の者はな、大印章グランドシジルの刻まれた左腕を代々受け継ぐのじゃ」ゆっくりと湯船にかりながら、璃々栖が言う。「そして、腕に選ばれる者は、生まれつき左腕を持たぬ」


(なるほど)璃々栖の左の肩口がやけにれいなのは、生まれつき左腕がないからなのだ。


毘比白ベヒヰモスが、叛逆者を使ってまで欲しがったのもまた、その大印章グランドシジルであろう。彼の悪魔は、他者の印章シジルらうことのできる『暴食』の力を持つ。毘比白ベヒヰモスは数々の国を陥とし、その主たる大悪魔たちの力を取り込んでおるのじゃ」璃々栖がうつむく。「そして、父上は――…父上が賊共と戦うところを見て、父上が、を逃がすために賊共にとつかんし、……殺され、その左腕が何の魔術も発しなかったのを見て予は、予は初めて、父上が大印章グランド・シジルを持っていなかったことを、持っているかのように振る舞っていたことを、知ったのじゃ」


 璃々栖が勢いよく湯船に顔を沈め、数秒してから顔を上げ、

「この街にあるという、予の左腕を探し出す。そして、その力をもつ沙不啼サブナツケめをくびり殺し、毘比白ベヒヰモスの軍勢を予の領土から追い出し、土地と民を取り戻す。それが、予がこの街に来た理由じゃ」璃々栖がその、無限の意志力を秘めた赤い瞳で皆無を射抜いてくる。「頼りにしておるぞ、我が使い魔よ」


 その顔にあるのは、泰然とした笑みだ。


(――――……強い)皆無はこの少女に心酔しそうになる。これほどに怖く辛い体験を思い出し、語ったというのに、ものの数秒で持ち直すとは!


「さて、次は髪を洗え」璃々栖が湯船から出てきて、風呂椅子に座る。


「――仰せのままに」


「何じゃ、随分と素直になったのぅ」


「別に」ただ、この姫君のために働くのも悪くないかもしれないと、そう思ったのだ。


「何の話じゃったかのぅ。そう、あの沙不啼サブナツケの糞爺ぃのことじゃ!」璃々栖は皆無に髪を解かれ、「思えばあの糞爺ぃの予を見る目は、昔っからいやらしかったのじゃ。毘比白ベヒヰモスとは前々から内通しておったのであろうが――わぷっ」頭から湯を掛けられ、「ぷはっ。あやつ、予をめにしたいがために、叛逆に踏み切ったようなところがある。あろうことか、あのような粗末なものを予に見せつけてくるとは! 今度会うことがあれば、あの粗末なナニを先端から少しずつ少しずつ切り刻んで呉れようぞ」


「ヒッ……」まさに悪魔としか言いようがないその発想に、皆無は息をむ。


「つまりは、予が美し過ぎるのがいけなかったのじゃな!」


 そう言って高笑いする璃々栖に、皆無は引きつり笑いをするしかなかった。



「コラッ、髪をそう乱暴にくでない!」


「はいはい分かりました」


 璃々栖の髪と体を拭き、父が準備良く脱衣室に用意して呉れた璃々栖の着替え――洋風の下着と和服――を璃々栖に着せ、自室に戻って璃々栖の髪を梳いていると、


「お話、ありがとうございました」父が部屋に入ってきた。洋食――文明開化日本におけるごそう・カツレツを台車に載せている。焼けた牛肉の香ばしい匂いが広がる。


「あはァッ! 【悟りニルヴアーナ】を持つそなたのことじゃ。盗み聞きなどお手の物じゃろう?」


「この話は上に報告させていただきます。しばし、この屋敷でおくつろぎください」


「よかろう。時に」璃々栖が、父が配膳する皿を眺めつつ、「その汁物は何じゃ?」

しるやな」「味噌汁スープです」息ぴったりの息子と父。


「味噌?」璃々栖が魔術で知識を引き出してきて、「うえぇっ、腐った豆!?」


「発酵ですよ。麺麭パンと同じことです」


「う、うぅぅ……そう言われれば確かに。じゃが……」


いんやで?」皆無は日本の食事をにされたような気分になり、璃々栖の分の味噌汁を彼女の口に近づける。「まずは飲んでみぃ。『ごうに入っては郷に従え』や」


郷に入ってBuvez ou は郷に従えallez-vons-en……よ、よし! 皆無、飲ませよ! んむっ――ん、んんん? おおおっ、美味いな! 塩味ともあまとも違うこの感覚は何じゃ!?」


「旨味や」「旨味です」


「う、旨味……じゃと!? 旨味とは何じゃ!?」


、やな」自分が調理したわけでもないのに、自信満々に胸を張る皆無。「美味いやろ? 日本人は、白米と味噌汁だけはぇッたいに欠かさへんねん」


「白米――あぁ、精製したライスか。カツレツをライスで食すのか、日本人は……?」


「大概そうやで」「そうですね。洋食にも白米と味噌汁は欠かせません」


「なんと面妖な……我が祖国の食と、極東の食が調和するとは思えぬのじゃが」


「和洋折衷やな」「和洋折衷です」


「な、何じゃよ『ワヨウセッチュウ』って……」



「寛げ、と言われてものぅ」皆無の体を操ってちやわんを傾けさせながら、璃々栖がつぶやく。「まァ、『上』とやらの方針が出るまでは、ここでおとなしくするしかないかのぅ」


「やから、いちいち僕の体を操んなや!」皆無は抗議しつつも首をかしげ、「――って、アレ? 何や、璃々栖にしちゃ聞き分けが良過ぎるような……?」


「なァんてな!」璃々栖が勢いよく立ち上がる。「くぞ、皆無――我が子よ!」


「い、征くって何処どこへ……?」


「探検、もとい」璃々栖が、悪戯いたずら好きなねこのような笑みを浮かべる。「脱走じゃァ」



 ような、ではなかった。まさしく悪戯好きな仔猫そのものであった。璃々栖は屋敷内を歩き回り、扉と見れば蹴破り、床下と見れば皆無に開けさせ、隠し通路などがないか――結界による封鎖漏れがないかを探させた。そして、度々脱線した。面白そうなものを見つけては一心不乱に突進していって、『アレは何じゃ』『コレは何じゃ』と皆無に問うた。


「あぁ、それは試製参拾伍さんじゆうご年式村田自動小銃改やな」


 とある佐官の私室に勝手に上がり込んだ璃々栖に付き従いながら、皆無は答える。屋敷には自分と璃々栖と愛蘭アヰラムしかいないとはいえ、内心ヒヤヒヤである。


「そなたが振り回しておった長銃に比べると銃身が短い……というか普通の長さじゃな。そなたの銃、そなたの身長よりもなお長くなかったか? そなたの背が低いのは別にして」


「ひ、低いって言うな! 伸びとる最中や!」


「んっふっふっ」璃々栖がぐいっと胸を張る。豊満な乳房が強調され、背筋が伸びた璃々栖に、皆無は見下ろされる形となる。「いのぅ。実に愛い」


五月蠅うつさいねん」皆無はほおを染めて目をらす。「こっちは改弐、僕のは改壱いちやから」


「ムラタ、とは社名か何かかのぅ?」


村田むらた少将閣下。十三聖人のお一人で、第七旅団が誇る最高の技師ヱンジニアアツシヤー向きの銃砲開発は有坂ありさか大佐殿に引き継いで、ご自身はアストラル向きの兵器開発にご尽力なさっとる」


「ふぅん」璃々栖はの爪先で小銃をコツンと蹴り、「さて、次に征くぞ!」


「あっはっはっ! 駄目じゃな。諦めよう!」


 それからしばらく、【万物解析アナラヰズ】を瞳にまとわせてあちらこちらを歩き回っていた璃々栖であったが、やがて遊び疲れた仔猫のごとき唐突さでその場に座り込み、そう言い放った。


「えええッ!?」皆無は仰天する。璃々栖の口から、彼女らしからぬ言葉が出てきたからだ。


「作戦変更じゃァ。この結界内から出られぬ以上は、結界内でできることに注力するほかあるまい。できぬことを『できぬできぬ』と嘆くなど時間の無駄。ほうのすることじゃ」


「できることって……何するん?」一体全体、次は何をやらされるのやら。


「決まっておろう?」璃々栖がニタリと微笑み、「昼寝じゃァ。ほれ、立たせてたもれ」


「ひ、昼寝……?」皆無は白目をきながら、璃々栖の両脇に手を入れ、立たせる。


「あンッ――…そなた今、予の乳に触れたな? 王の乳じゃ。気軽に触れるでない」


「さ、触ってへんわ! だいたいお前、さっきはあんなにもしつように洗わせたクセに!」


「あれだけ触っておいてなお、触り足りないとな? すけ小童こわつぱじゃのう」



「ふわぁ~。では、予は寝る」悪魔デビルが、傍若無人にも皆無のベッドを占領せしめる。


「ちょっ……僕は何処で寝たらええねん」


「床で寝ればよかろう。それとも」璃々栖がにやりとわらい、「一緒に寝るか?」


「誰が一緒に寝るか!」皆無は顔を真っ赤にして叫んだ。



◇同日二十時三分フタマルマルサンパリ外国宣教会MEP屋敷・自室/阿ノ玖多羅皆無単騎少佐


「んぅ……」目覚めると、窓の外は暗くなっていた。「……厠」


 慣れ親しんだ洋式の厠で用を足し、部屋に戻る。ふとベッドの方を見ると、璃々栖が無防備な様子で眠っている。璃々栖と花王シャボンの混じり合った甘い香りがこうをくすぐる。璃々栖の寝顔は美しくもあり、愛らしくもある。これほどの美少女と何度も口付けをし、肌を見て、あまつさえ風呂に入れたという事実に、皆無は全く実感が湧かない。


「表紙画みだれ髪の輪郭は恋愛の矢のハートを射たるにて、矢の根より吹きでたる花は詩を意味せるなり」三莫迦ぶかたちに読まされた、詩集『みだれ髪』の一説を口する。月明かりの中、璃々栖の、ベッドからこぼれている美しい金髪ブロンドに触れようとした、そのとき、

 ヴウゥゥゥゥウウウウウウウウウゥゥゥウウウウゥゥゥゥゥゥゥ…………

 外から、妖魔出現を告げる手回しサイレンの音。


「うぉっ、何じゃ何じゃ!?」璃々栖が飛び起き、ベッドの方に手を伸ばしかけていた皆無と目が合って、「……何じゃ、いか?」


「ちゃ、ちやうわボケけぇ!!」


けはそなたの方じゃろう。で、この音は何じゃ?」


「――妖魔警報や。もしかしたら、昨日みたいな百鬼夜行がまた来るのかも……」


「ふむ……おや?」璃々栖がドアの方を見ると同時、

 コン、コンコン――

 軍衣と、悪魔祓師ヱクソシストの証たる紫色のストールを身に着けた完全武装の父が入ってきて、


「仕事の時間だよ、皆無」にっこりと微笑みながら、そう言った。



「レディ・璃々栖」けたたましいサイレン音の中で、父・正覚が璃々栖に西洋風の礼を取る。「ひとまず貴女あなたと皆無の身柄は、私がお預かりすることとなりました。そして、こう言っては何ですが……貴女が神戸に現れたがために、結果として【神戸港結界こうべこうけつかい】が破られてしまい、こうして今まさに、大量の西洋妖魔が神戸港を襲わんとしています。よって、そのてんとして」父が皆無の肩をたたき、「貴女の使い魔と貴女のヱーテルを、港の防衛のために使わせていただきます。よろしいですね?」


「仕方あるまい」むらくも模様の着物と、えん紫色のはかま、編み上げの革靴という衣装を皆無に着せられながら、璃々栖がうなずく。「断れば、またぞろ皆無を人質に取るのじゃろう?」


「はい」


「えぇぇ……」うめく皆無。全ては己の手の届かないところで決定されてしまうらしい。


「皆無」


なんよ」父の呼びかけに、ぞんざいに返事をする皆無。


「お前は、お前が人間に対して安全な存在であり、かつ日本国にとって有益な存在であることを示せ。それだけが、お前が第七旅団に討伐されずに済む、唯一の道だ」


「……わ、分かった」


「よし、行け!」


 皆無は璃々栖からの口付けでもつて悪魔の体と成り、彼の姫を抱いて夜空に舞い上がる。



「さぁ我が子よ、腕探しに行くぞ」空に上がるやいやや、璃々栖が言った。


「えええッ!?」皆無は仰天する。抗命は最悪、極刑。それに――「あ、嗚呼ああ……」


 鋭敏になった【文殊慧眼もんじゆけいがん】からは、海の方から昨夜に倍する量の百鬼夜行が襲来する様子が伝えられてくる。早くも戦闘に巻き込まれ、死にひんする下士官たちの様子もえる。


「お願いや、璃々栖!」腕の中の璃々栖を見つめると、

「はぁ~……」果たして璃々栖が肩をすくめて、「可愛かわいい我が子の願いじゃからのぅ。所為せいで人の子らが死ぬのも寝覚めが悪いし……さっさと行って、蹴散らしてしまえ!」



 がいしゆういつしよく、とはまさにこのことであった。今や悪魔デビルの力を使いこなす皆無は、空に竜と見れば村田で叩き落とし、陸に小鬼ゴブリンの大軍と見れば【第七地獄火炎プレゲトン】でほふらした。

 そうして、今。皆無は璃々栖を腕に抱きながら、悪魔デビルの翼で以てふわふわと夜空を漂っている。半透明の翼では自由に飛び回ることはできないが、こうして滞空はできるのだ。


「ほれ、【万物解析アナラヰズ】で以てグランドシジルの反応を探すのじゃァ」


「あぁ、ナルホド……」敵主力との戦闘終了後、璃々栖が自ら上空警戒を志願したときには何が目的かと思ったが、こういう魂胆であった。皆無は璃々栖からの口付けを受け、「【赤き蛇・神の悪意サマヱルが植えしどうつた・アダムのりん――万物解析アナラヰズ】ッ!」


 次の瞬間、血よりも赤い幾何学模様が、神戸一円の空を覆い尽くす魔法陣が現れた!


「わ、わわわッ!?」仰天する皆無と、

「あー……やってしもぅた。ヱーテルを渡し過ぎたな」ためいきをつく璃々栖。


「れ、れれれレディ・璃々栖!?」何処どこからともなく父が現れて、「住民や軍が驚いております! すぐにこの魔法陣をお消しください!」


「うむ!」皆無の唇に吸い付き、ヱーテルを吸い出す璃々栖。途端、魔法陣が消える。


「はぁ……上空警戒にしては随分と力が入っていたように見受けられるのですが?」


「いやぁ、ソンナコトハナイゾ?」「せ、セヤデ、ダディ!」


 ……結局、【万物解析アナラヰズ】の使用は禁止されてしまった。


「【万物解析アナラヰズ】で得た情報は、忘れぬうちに紙に起こしておくのじゃぞ」転んでもただでは起きない姫君が、皆無に命じてくる。「しかし、こうも監視の目が厳しいとなるとなァ」


 父が現れ、またすぐに消えたことを思うと、とても好き勝手には行動できそうにない。


「結局、信用を積んでいくのが近道か。よし皆無、将兵たちのまりへ降りよ」


「次は何をするつもりなん?」皆無は、何処までも前向きな璃々栖がまぶしい。


「負傷者の治療と、親睦じゃな。目指せ、神戸の悪魔的偶像アヰドル・璃々栖チャンじゃァ」



「璃々栖病院~! 璃々栖病院じゃァ!」海岸通りに降り立った璃々栖が、怪しげな客寄せ口上を述べる。「今なら先着十名様を無料で治癒してやろうぞ!」


 戦闘の後始末や人の世話をしていた第七旅団員たちがぎょっとするが、銃を手に取るような者はいない。璃々栖と皆無のことは、どうやら全員に通達されているらしい。

 簡易ベッドに寝かされて治療を受けている者たちが顔を上げるが、名乗りを上げるような勇気ある者はいない。何百もの視線が璃々栖と、その隣に立つ皆無に突き刺さる。

 皆無は、心細い。こういうとき、隣にはいつも三莫迦ぶかがいて、間を取り持ってれた。三莫迦ぶかがいなかったころは、いつだって一人だった。誰もが皆無のことを日本一の退魔師たる父の息子として腫物のように扱い、遠巻きに見ているか、父に取り入ろうとして露骨にすり寄ってくるか、親の七光りだ何だと陰口を言うかのいずれかであった。


(同じや。悪魔デビルになろうがなるまいが)皆無が自身の闇の中に沈み込もうとしていると、

「あはァッ! 犬っころじゃァ。可愛いのぅ!」場違いに明るい声がした。驚いて顔を上げると、璃々栖が英吉利犬ポメラニアンのそばにしゃがみ込むところであった。「じゃが……嗚呼、可哀かわいそうに。こやつ、怪我をしておるな。皆無! か~い~な! こやつをやして給れ」


「はァ」場違いに場違いを重ねる璃々栖の言動に、皆無は落ち込んでいるのが莫迦らしくなってしまう。「術式治癒って本来はめっちゃ高価やねんで。それをカメに使うって?」


「じゃが、可哀そうであろう?」璃々栖が上目遣いに見つめてくる。


「うっ」皆無は、たまらない。「【オン・ビセイシャラ・ジャヤ・ソワカ――治癒ヒール】」


 瞬く間に快癒し、皆無と璃々栖の周りを元気に跳び回る英吉利犬ポメラニアン

 璃々栖がやおら立ち上がり、旅団員たちに微笑みかけ、「――さて。先着十名じゃぞ?」


 にんたちが、殺到した。



「傷が完全に塞がった!」「全く痛くない!」「こんな高度な治癒術式見たことないぜ!」


 皆無は戸惑う。皆無は目の前に広がる光景が――同僚たちが自分に笑いかけてくるという光景が、信じられない。皆無の知る第七旅団は、もっと殺伐とした組織のはずであった。

 父の名に泥を塗るわけにはいかない。父の名に恥じぬ戦果を挙げ続けなければならない……常に己にそう強いてきた皆無にとり、三莫迦ぶか以外の旅団員は戦果を奪い合う相手――敵か味方かで言えば敵と言うべき存在であった。そのはずだったのだ。なのに、

「すげえな、阿ノ玖多羅少佐」治療を受けていた単騎少佐――二十代半ばの男性が皆無の肩をバンバンと叩いてきた。「戦いぶりも見事だったし、まさにはちめんろつの活躍だな!」


 皆無は心底ビビる。璃々栖と遭遇したときですら、ここまで驚かなかった。だが思えばこの気の良い同輩は、今まで何度か自分に声を掛けてきたり、飯に誘って呉れたことがあった。が、その都度自分は要らぬ警戒をして誘いを断り、逃げ回ってきたのだ。



 小一時間後。

 結局皆無は、十人と言わず全員を治療して回った。自ら立てないほどの重傷者も少数いたが、幸いにして――本当に幸いにして、死者はいなかった。

 治療を受けた将兵たちが、お礼と称して煙草たばこや茶葉や菓子などを押し付けていく。璃々栖が皆無にそれらを開封させ、水と火の魔術で湯を沸かさせて茶とともに振る舞うと、どんどん人が集まって瞬く間に茶会になり、いつの間にやら酒が混じって酒宴になった。

 野戦将校というのはみな基本的に、強い者を好む。だから彼ら彼女らは圧倒的強さで悪魔悪霊をはらってみせた皆無を愛したし、皆無を強者たらしめる璃々栖を愛した。


「ほら阿ノ玖多羅、お前も飲め。本場シャンパーニュから取り寄せた三鞭酒シヤンパンだぞ」「ちょっと少佐殿、子供にお酒すゝめちゃ駄目ですよ!」「こぉら男ども! 女子供がいる前で煙草をバカスカ呑むんじゃァないよ!」「阿ノ玖多羅少佐殿、甘い真珠麿マシユマロはいかがですか?」


 上は大佐、下は下士官。老若男女様々な同僚たちが、皆無をもみくちゃにする。


「あはは!」皆無は、しい。自分を甘やかして呉れるこの大人たちのことを、自分はつい先刻まで『敵』だと思っていたのだ。一年以上もの間、そう思い込んでいたのだ。


「あ、今、笑った?」「きゃぁ、可愛い!」「お前、そんな顔もできたんだなぁ」


 皆無はなんだか、第七旅団に溶け込みつつある。きっかけを作って呉れたのは璃々栖だ。当の璃々栖はといえば、皆無が同僚たちとの歓談を楽しんでいるのを見て皆無のことは同僚たちに任せるのが吉と判断したのか、自分は別の輪の中に飛び込んでいってしまった。


「そなたの髪、良い匂いがするのぅ」「分かりますか? 花王シャボンで毎日洗ってるんですよ」「あのせつけんは予も気に入った」「璃々栖様のぐし、本当に綺麗……」「ふふん、自慢の髪じゃァ。ただ、寝起きにぶわっとなるのが悩みの種でのぅ」「でしたら良い香油が!」


 早々に女性下士官などを垂らし込み、食事の世話をさせている璃々栖である。

 たった一晩である。たったの一晩で、皆無が一年以上もの間できずにいたことを、璃々栖は実現してしまった。屈強な男どもや男勝りな女どもの心をろうらくし掌握し、今やこうして酒を酌み交わしているのだ。文化も価値観も異なる地から来た、人間ですらない少女が!


「璃々栖は何で、こんなことができるん?」皆無は今や明確に、璃々栖に心底む。


「何を言う」璃々栖が晴れやかに笑っている。「予は一人では何もできぬ。このとおり腕はなく、印章シジルも失くしてしもぅた。じゃが、腕がなくともできることはある」


「うん」たった今、見せてもらったばかりである。


「そも、予は阿栖魔台アスモデウスの名を襲い、王となるべき女じゃ。王は自分一人では何もできぬ。臣あっての王、民あっての王なのじゃから」


「璃々栖は何で、そんなにも強いん? 悩んだりせぇへんの? 怖くはないん?」


「王は、悩まぬ」璃々栖が泰然と微笑ほほえむ。皆無の目には、璃々栖がまるで巨人のように大きく見える。「王がクヨクヨ、メソメソしておっては、民が動揺するであろう? しかし皆無、何故なぜにそのようなことを聞く? 何ぞ悩みでもあるのか?」


 ないわけが、ない。悪魔デビルとなってしまった我が身。明日をも知れぬ身の上である。

 が、

「思索し検討するのは良い。が、悩みはいかん」璃々栖が、笑う。「思い悩むだけでは答えは出ぬからのぅ。悩む暇があったら、今できることを全力でせ」


 そうして璃々栖は今、それを有言実行しているわけである。昼間は寝るしか方法がなかったから、少しでも体力を回復・温存させるために潔く寝た。そして自由になるや腕探しに出ようとし、それが叶わぬと分かると早々に作戦を変更して、こうして今、彼女が自由に活動するための土壌を耕し、彼女を応援して呉れる臣民を増やしつつあるわけだ。

『拙速』と見えるかもしれない。『節操なし』とわらう者もいるだろう。だが、九歳のあの日から一歩も進めずにいた皆無にとって、璃々栖の行動は途方もない偉業に見えた。


「悩むな、とは手厳しい姫君だが」先ほどの少佐が話しかけてきた。「俺で良ければ話を聞くぜ、阿ノ玖多羅少佐。そりゃそうだよな、天才少佐殿にだって悩みはあるよなぁ」


「そうじゃぞ、人の子よ」璃々栖が皆無の肩に顎を乗せ、嗤う。「こやつ、たったの十三で国のために戦っておるのじゃ。予が十三のころなど、遊びほうけておったものじゃァ」


「そうだった。まだ十三なんだよな」「言われてみれば」「苦労してたんだなぁ、お前も」


 気が付けば、大人たちが皆無を取り囲み、ねぎらって呉れている。


「本当はもっと、お前と仲良くしたかったんだよ」先ほどの少佐が言う。「けどお前、いっつもピリピリしててさ。――って、おいおいどうした!?」


 気が付けば、皆無は泣いていた。自分はようやく、第七旅団の一員になれたのだ。


◇  ◆  ◇  ◆


 そんな風にして、一週間が過ぎた。

 夜は父に見守られ――もとい督戦されながら西洋妖魔の百鬼夜行を相手に戦い、父の目を盗んではグランドシジルを探し、戦の後は璃々栖を風呂に入れ、昼まで同じ部屋で眠り、起きたら父が出して呉れる食事をり、今や皆無と璃々栖がする城――もしくは監獄――となったパリ外国宣教会MEP屋敷で、璃々栖から魔術の数々を学んだ。

 将来に対する不安はあったが、楽しくもあった。悪魔化デビラヰズはできないまでも徐々に悪霊化デモナヰズくなっていき、様々な魔術を修得していき、ぐんぐんと強くなっていった。

 そんな幸せな毎日の中で、皆無はどうしようもないほどに、璃々栖に溺れていった。璃々栖なしの生活が想像できなくなるほどに、璃々栖にかれ、璃々栖のとりこになった。

 幸せだった。幸せだったのだ。



 ――十一月十日の夜、人生の岐路に立たされることになる、その時までは。

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腕を失くした璃々栖 ~明治悪魔祓師異譚~ 明治サブ/角川スニーカー文庫 @sneaker

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