現代教育の治水

現代教育の批判文は見飽きるほど見てきた。教科書の中で。模試の中で。過去問の中で。面白いものもあればつまらないものもあった。それはトピックに関わらずいつものことだが、このような意見文を読みながら、ただ文章の善し悪しでは語れない澱みのような疑念が頭をもたげ始めた。

現代教育(もちろん正しくは、寺子屋以前の教育を含まない「近代」教育であるが)とは、出題側の彼らが実際行っているものである。それなのになぜ、それ自体への批判文を載せるのだろうか。

彼ら自身が「青年たちよこうあれ」と呼びかけているのであればこれほど滑稽なことはない。確かに学業の成就は青年たちの努力量に委ねられるところが大いにある。しかしそれはあくまでも現代教育の枠組みの内での話だ。青年たちは与えられた枠組みの中でしか活動することができず、またその外に出ることを考えない。なぜならその枠組みから外に出た者は「落第」だからだ。

明治の人間と令和の人間では、明らかに令和のほうが「近代的自我」に目覚めているといえるだろう。しかし「近代的自我」の問題についてはるか昔に解決できたものだと盲信し、これ以上の変革は無用だと割り切ってしまうのはいささか愚かなことだと考える。

教育とは川の治水のようなものではないだろうか。川の水が青年で、教育方法が川の形である。川の形を整え、思うように水が流れるように工事するのが教育者の役目である。しかし今、彼らは治水工事をしないまま、川の水が思う方向に流れないことを川の水自身に嘆いている。どうかこの方向に流れてはくれないか、と言うけれども、水のほうはそちらに行けば涸れてしまうので進めない。

川の流れは上流からの傾斜と水量、川のカーブ、土の質によって、おおかたの物理的運動は決められてしまっている。あとはそれにどのようなコースを与えるかが問題なのである。深さを変えたりカーブを緩めたりして初めて流れは思い通り制御できるのである。

欲しい流れを涸らしているのは治水者のほうであるのに、てんで的外れのほうを掘り進めて、さらに乱れた流れを呼ぶのは見るに堪えない。治水者の苦しみもよくわかる。しかし流れる水の心にも、寄り添ってみていただきたい。

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中途抄 月雨新 @nomoon_Arata

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