中途抄

月雨新

「厭世」とか「厭人」とか、「厭」のつく言葉は一部の若者の心に深く突き刺さるらしく、お恥ずかしながら自分もその一人なのであった。

江戸川乱歩の『陰獣』に「厭人癖」という言葉を認めたゆえに筆をとった。忌まわしき精神状態と飽き性とのおかげで、最後まで書き切る自信はない。ゆえの『中途抄』なのであって、ご容赦いただきたい。

さてなぜこの「厭人癖」に目が留まったのか、考えてみれば自己満足な理由だった。『陰獣』にてこれを発するのは疚しいところを持つ小説家。自分が抱える中でいちばんのお気に入りの登場人物も、後ろ暗いところのある小説家。たったそれだけだ。

たったそれだけ、だと自分では思っているが、実のところそれは体のいい隠れ蓑であって、本当は自分自身が「疚しいところのある小説家」なのではないか。厳しい指摘が内から飛んでくる。反論の余地はほとんどない。

仕方ない人生のミスであった。肥大した杞憂がいつの間にか自我を持ち始めた。私の心の中にあった一機関が、私の代わりに操縦桿を握り、私を一機関に貶めようとしている。単純化すればそういうことになる。そのせいで時として、死にたくもないのに歩道橋の柵を超えそうになる。

熱暴走を起こした人間のCPUが赤信号を渡らせる。オーバーヒートした北村透谷と芥川龍之介が縊死して中毒死する。三角比を求めながら目を開けると中空にいる。そうした恐ろしい想像が、半分は未来に存在を預けてしまっていると思うと、人間は聡明でありかつ馬鹿でなければならないと実感する。デカルトは発禁にしよう。

疚しき小説家、その「疚しさ」は前者二人については司法の元にも明らかな悪徳であり、後者二人については行き場をなくした倫理道徳、世界のもっと曖昧なレベルにあるものである。ベン図を描きまして、私は裁かれることはない。裁きは適切な対処ではない。当たり前だ。周囲のなにが悪かったわけでもない。私が悪かったとだけはいえる。

『陰獣』において「厭人癖」と並べられているものに「秘密主義」がある。どちらも痛い言葉であった。これは私が二年間守り通してきた詩美の矜恃そのものであって、また私を苦しめるなにかの住まうところでもあった。消化と同じで、堕落にも段階があり、それを律儀に踏まなければ人間は生き残れないのだと思う。逆説的に、生き残れば人間は正しく堕落できる。律儀に踏めました、ということになる。順番が間違っていても生き残ればよい。つまり私の目下の敵は厭人癖であり、秘密主義である。

厭世も厭人も馬鹿にされがちであるが、それはこれらの言葉をスローガンにしている目立った人間がことごとく馬鹿であるからだろう。いわば思考の袋小路のようなもので、短絡的なエゴイストをすぽっと飲み込む形で人口を増やしている。しっかりと自らの座標を考えたこともないような人がひしめいている。総じて自らを信用せず、自らの生み出した都合の良い宇宙に閉じこもっている。弱者の怨恨も並々ならぬ濃度で漂っている。

手酷い内罰であることを耐えて耐えて書いている。自分こそがその馬鹿であることは言うまでもない。しかし私は、そうではない健康的な思考も持ち合わせているという点において、多少なりとも彼らとは違う、と思っている。

ニーチェの解説書を読みながら、案外世界は暗いものではないな、と思った。享楽に浸りつつ、これなら生きていてもいいや、と思った。前を向いて歩くことの透き通るような風の味も、しめたと思って駆け出す気持ちも、持っている。持っているし信じている。今、自分は別段(厭人ではあっても)厭世は謳っていない。

しかし己の薄志弱行ゆえに、頭に串が刺さっているような感覚になり、突然諦めに囚われたり、面白さを見失ったりする。これは今このときだけの悩みではなく、今後一生の苦しみであるとみえる。なににおいてもこれに苦しむ。偏頭痛として、熱として、過呼吸として、不整脈として、あらゆる病の姿をとって私に同化してしまっている。サナトリウムに行きたいと思う。今後一生をいたわって、できる範囲に生きていたいと思う。しつこい人は本の中で、かぐや姫のように無理難題をふっかけて殺してしまいたいと思う。今後どれほど生まれ変わらなくては手に入らないかわからない美しい人生を、できる範囲に全うしたいと思う。

そのために、つまらない病に殺されることだけは避けなくてはならない。寄生されているのである。無理に引っこ抜けばこちらも死んでしまう。どこかで必ず私の身体を割り、出てこようとする。それが今夜なのかも、明日なのかも、何十年も先のことなのかもわからない。病が人の姿をしていたら、それはそれは美しいことだろう。美しいと思っているからだめなのかもしれない。彼をつまらない殺人者ではなく、美しい武器とするほか道は残されていない。のらりくらりかわし続けていくしかない。春まで生きていられたら乾杯をしよう。春まで生きてしまったらそのときは身の振り方を考えよう。

春になって、私が悔しくも殺されてしまっていたとしたら、それは誰が悔いることでもないとしっかり書き記しておく。誰への恨みももはや持ち合わせていない。強いていえば一人、呪いを残してやりたい人間がいなくもないが、その人のために死んだわけではないとここにはっきりさせておきたい。反省を禁止するわけではないが、別段「しろよ」と死んだわけではない。自らに成り代わった自らに殺された。それだけでいい。その証明に値する文書がここに残っている。

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