適合者
澄田ゆきこ
*
午前零時。
フロントガラスの外に、未だ動きなし。
少年は苛立った様子で携帯食料を詰め込む。市販のショートブレッドもどきは口の水分を容赦なく奪う。流し込むように含んだ水は、夏の夜気と同じ温度をしていた。
車内のエンジンは切りっぱなし。気だるい暑さはいたるところに充満していた。待ち時間の忙しなさと暑さに神経が毛羽立つ。鬱屈が最高潮に達した時、ようやく気配を捉えた。長身の女が呆れた様子でこちらを見ていた。
「遅えんだよ」
少年が吠えかかる。
「待てもろくにできないのか」
溜息とともに肩をすくめた女に、少年は食って掛かった。
「うるせえ。俺ぁお利口に待ってただろうが」
「ステイ。ほら、土産だ」
誰が犬だ、と毒づきながら、少年は押し付けられた袋を受け取る。ソーダ味の安いアイス。乱暴に封を破り、噛み砕くようにかじりついたとき、「そろそろだ」と女が言った。
「……ジジイはいたか。ブツの場所は」
「全て確認済だ。わかりきったことを訊くな」
少年は返事をせず、黙々とソーダアイスを咀嚼した。
「くれぐれも勝手なことをするなよ。お前は求められたことだけをすればいい」
「へいへい、わかってらあ」
瞬く間にアイスを平らげた少年は、棒を女のほうに放り投げ、助手席から飛び降りた。
「おい、どこに行く」
「うんこ」
途端、女は侮蔑でもされたように顔を紅潮させ、少年を睨んだ。
口は悪くとも、所詮は育ちのいい女だ。エリート意識の高さは鼻につくが、揶揄いやすい相手でもあった。
少年は後ろ手にドアを閉め、偵察用の乗用車から離れた。
狭い車内に押し込められていた身体を、うんと伸ばす。そろそろ座っているのにもうんざりしていたところだ。ちょうどいい。ついでにあの女の鼻を明かしてやれ。
辺りは川が近く、水音が絶えず鳴っていた。雑草が伸び放題の河川敷の向こうには、遠くからでも分かるほどの鉄くずの山がある。
廃工場跡。立ち入り禁止のロープの先には、赤々と錆びた車のフレーム、鉄骨、ドラム缶、剥き出しになった鉄筋コンクリートの欠片など、溢れんばかりのスクラップがひしめいている。随分前に工場火災に遭ってから放置されていた廃墟だ。それが奴らの根城になっていることは、わかりきっていた。
ご丁寧に橋を渡っては、今頃車内でやきもきしながら外を睨んでいるあいつに見つかる。少年は藪に潜り込むと、隠してあったバットを拾い上げた。とどめをさす時を除き、少年は拳銃よりも長物を振り回すことを好んだ。暴れているという実感は、少年にとって生の実感そのものだった。
河川敷を一気に駆け下りる。助走をつけ、地面を蹴る。浅い川のふちギリギリに着地し、生ぐさい水が頬に跳ねた。
そのままの勢いで川岸を駆け上がり、有刺鉄線の張られたフェンスを越える。ひらりと宙を舞い、廃車の天井へと降りた少年は、視線の先に人影を捉えた。
物音で、向こうもこちらに気付いたらしい。舌打ちが聞こえた。
視界にあるのは、屈強そうな男が二人。それとターゲットの中年男。だが、まだ数人の気配がする。
「久しぶりだなァ、ヤブ医者」
医者はおどおどした目でこちらを睨むばかり。代わりに隣の男が誰何した。
「誰だてめえ。協会の飼い犬か」
「残念。その下請けの下請けだ」
少年は演技がかった仕草でバットを肩に担いだ。
男の一人が鼻で笑った。
「こんなガキ一人とは、俺たちも舐められたもんだな」
「どうだろうな」
「ほざけクソガキ。俺たちは適合者だ。お前みたいな小僧一人なんぞ――」
「へえ」
それがなんだ。なんの脅しにもならない。
そう思って、はたと少年は気付いた。
「ああ――」
思わず口元が綻ぶ。
「じゃあ、容赦なくぶっ殺していいってことか」
少年は嬉々として地面を蹴った。
バットを振りかぶる。武器を抜く前に近づかれ、面食らった男の顔が見えた。バットが顔の中心をとらえ、鈍い痺れが甘美な震えをもたらした。血と歯が砂利の上に落ちる。
手加減は無用。飛ばせ。
いきり立って襲ってきたもう一人を回し蹴りでやり過ごし、続けざまに脳天に鉄芯をぶちこんだ。それでも彼らは立ち上がる。なるほど、適合者らしいタフさだ。
だからどうした。
先ほどの打撃で理性が吹き飛んだのか、適合者たちは本性を見せつつあった。夜の闇の中に、獣のように瞳が光っている。――いや、獣そのものか。
適合者の多くは、身体がパーツに耐えられたと言っても、結局は狂人の半歩手前にいる。
最初に倒れた男が、乱暴に拳を振り回す。拳は車に当たり、ボンネットがべこんと凹んだ。
馬鹿力だが、身体の脆弱な部分はさほど変わらない。まず顎に一発。それから背後に回って後頭部へ。頭蓋を砕く確かな手ごたえ。臓腑に甘い震えが響く。歯抜けになった口を開いたまま、一人目が倒れた。
二人目の拳が、慌てて避けた少年の頬を掠めた。ぐおお、と呻き声。血が上っているのか、顔には血管が浮かんでいた。
だが、我を失った相手ほど御しやすいものもない。車内に詰められて溜まった鬱憤を、思い切り胴にぶつけた。
場外ホームランだ。男の身体が吹っ飛ばされ、転がっていく。
いい汗をかいた、と少年は思った。さすがに少し息が切れている。本命を仕留める前に、ちょうどいい運動だった。
少年は高らかに笑い声をあげた。
「なんだ、この程度かよ」
「この程度、だと思うかね」
座り込んでいた小男――本命のヤブ医者は、声を震わせながらも、確かに笑っていた。
ふと我に返る。戦闘に夢中になっている間に、人影が周囲を囲んでいた。皆、眼光が夜闇に光っている。
二人だけなわけがなかった。このヤブ医者が、たったそれだけの狂人を生み出しているはずもない。
あの二人は比較的理性が残っていたから、門番にでもつかせていたのだろう。獲物を狩るという闘志しか感じない彼らを前に、少年は思った。
狩るのは俺だ。
この程度、危機でも何でもない。
心中で強がりながらも、手に力を込める。その瞬間、轟音が響いた。
鉛が空を裂いた。どさり、と人の倒れる音。
「無断の単独行動はルール違反だ、バカ野郎」
車内でのうのうと少年の用足しを待っていたはずの女が、銃を構えて立っていた。
邪魔しやがって。少年は不貞腐れたまま、返事をしなかった。代わりに尋ねた。
「掃討か?」
「無論」
この作戦ではそれ以外ありえない。
適合者とは、本来いてはならない存在だ。
「また効率の悪いことを」
少年のバットをひと睨みし、女が言う。
「こっちのほうが性に合ってんだ、よッ!」
一人に打撃を与え、少年は吠えた。
「野蛮だな、さすが適合者だ」
「なるほど、エリート様はこんなときにも上品ぶるらしいな」
少年の悪態は無視された。むしゃくしゃする気持ちを、そのまま目の前の敵にぶつけた。
時折口喧嘩を挟みながら、どうにか辺りが静かになった。残るは本命のみ。
「こいつはどうする? 吐かせるか?」
「吐かせたって、手に入れている以上の情報は出ないだろう」
目の前の小男は、今にも失禁しそうな勢いで足を震わせている。月光に蒼白の顔面が照らされていた。所詮は小者だ。
「じゃあこいつは俺にやらせろよ」
ふざけた調子はない、温度のない声音。
女は返事をしなかった。代わりに一つ鼻を鳴らし、「私は奥に回収に行く」と告げ、去って行った。女なりに空気を読んだのかもしれなかった。
「よお。やっと二人きりになれたな。俺を覚えてるか?」
しばらく虚を突いたような顔をしていた男は、合点がいったのか、みるみる目を見開いた。
少年が男に歩み寄ると、男は上ずった悲鳴をあげ、尻もちをついた姿勢のまま後ずさった。
少年は一歩一歩と男に近づく。彼は確か、最初は、ただの開業医だった。覚醒剤に手を出したことを機に、表の病院にかかれない人間への医療行為をしたり、薬物検査を前にしたジャンキーたちの血を入れ替えたりと、ちんけな闇営業に手を出した。その後、彼らに目をかけられ、パーツ移植に手を出したのが彼の運の尽きだった。
「わ、私を殺すのか」
「仇討ちってやつだよ。わかってんだろ」
少年が腰の銃に手をかける。女のもっていたものと同じ支給品。
「誰が、誰がその身体を与えてやったと思ってる! ただのチンピラ崩れだったお前に!」
「ああ。そして俺以外の全員が死んだ」
ほんの一年ほど前の話だ。
臓器移植の代替品として米国で開発されたパーツは、内臓機能および身体機能を高め、患者の脆弱な身体を補強しうるものと期待されていた。要はただの延命の道具だったパーツは、実験を重ねるにつれ、新たな可能性を見出した。健康体への移植は身体が負荷に耐えられないとされてきたが、中には超人的な身体能力に目覚める被検体も現れたのだ。しかし、彼らの多くは数日のうちに発狂に至り、実験に関わったものを襲い、死に至らしめた。だが、その中にごく少数、身体を強化されながらも、発狂に至らず、自我を保つものもいた。拒絶反応により死ぬことのなかった被検体、中でも理性を保っていた被験体は、適合者と呼ばれた。
医療行為が殺人モンスターを生み出したという事実は近年まれにみる不祥事だった。各国への輸送も始まっていたが、パーツの処分が要請された。被検体は抹消され、これで事実は闇に葬られる。
はずだった。
日本に停泊していた貨物船の一部が襲われ、パーツが流出するまでは。
「俺はあん時見た地獄をよおく覚えてるよ」
二月の寒い日。貧困街と名高い、かつて少年の住んでいた街で、身寄りのない少年少女たちの行方不明が相次いだ。全ては彼らを被検体にするための誘拐だった。そして少年も拉致され、意味不明な手術着を着せられ、麻酔を打たれた。
目が覚めた時には、倉庫のようながらんとした場所に、死体でも安置するように少年は寝かされていた。動いている人影はなかった。誰一人として。
かすかに呻き声がしたと思ったら、そいつはすぐに喉をかきむしり、血を吐いて息絶えた。つまらない言い合いをしては、よく一緒にバカをやっていた喧嘩友達だった。
「つまりは仲間を殺された復讐か? お優しいことだ」
男は精一杯強がって嘲笑した。
「違うね」少年は一蹴する。
「あの時俺は一度死んだ。だから俺は俺の仇を討つんだよ」
適合者は、世の中にいてはならない。あれの成功例はひとつとしてあってはならないのだから。
あの日、倉庫から保護された少年は、何度もそう聞かされた。パーツ自体をなかったことにするには、適合者の存在もまたなかったことにするしかない。少年には、もはや帰る場所などないに等しかった。
協会は、お上からの要請で、パーツの抹消を一手に担っていた。我々に手綱を握られ、任務を手伝う駒となるか、ここで死ぬか。お前にはその二つに一つだと言われた。我々に手を貸すなら、代わりに人並みの生活を用意してやる、とも。
人並みの生活などしたことのなかった少年は、彼らに尻尾を振ることにした。幸い、少年は喧嘩には慣れていた。どうせ地元に帰っても仲間はいないのだ。合法的に暴れさせてくれる場所があるのなら、まして自分の人生を狂わせた奴らに復讐ができるのなら、なんだってよかった。
バイク用のゴーグルを下ろすと、視界が薄く黄色に染まった。
少年は撃鉄を起こす。
「感謝してるぜ、開業医どの。あのままじゃ俺の未来は、族に上がって可愛がられるか、立派に更生して大人しくつまらねえ生活を送るか、どれかしかなかった。どれもクソくらえだった俺には、今の暮らしが楽しくてしょうがねえ」
「だ、だったら……」
「だが仕事は仕事だからな。うちはノルマが厳しいんだ」
男の額に銃口を当てた。
「あばよヤブ医者。地獄で会おうぜ」
銃声。
ゴーグルに血がびしゃりと跳ねた。
適合者 澄田ゆきこ @lakesnow
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