08「セイレーンの竪琴」
目覚めてすぐ、
せっかくだからこのまま一緒に寝ようか、と提案されて昨夜は添い寝した。そうなったのは自分が、と己の行動が順々に思い出して、綺光は火照った頬に手をやった。
最初に出会った頃はひねくれたことばかり言って素直でなかったし、最後に彼に「君の笑顔が見たい」と言われたのだって叶えてやれなかった。可愛くない顔のまま、ぐしゃぐしゃに泣いてお別れをしたことを綺光は時折思い出しては悔いていた。
だからあの頃に戻った気分になって、高ぶった思いがそのまま口から滑り落ちた。
あなたのことが好き。
そんな戯れみたいな拙い告白に彼はしっかりと返してくれた。返されてそれがうれしくって泣きそうでそれから――
「……うぅ」
まるで子どものようだ、と綺光は思い返す。
一緒に寝たい、添い寝してほしい、と懇願したのはほかでもない綺光である。駄々をこねる自分に彼は面食らっていたけれど、いやな顔など決してせず、やさしく受け止めてくれた。
『――愛しい子』
呼ばれてはっと我に返った綺光は、空中に浮かぶ花のかんばせを見遣った。
綺光とそっくりな顔立ちの着物を羽織った美人だった。綺光と違うのは金髪で、翡翠のような目をしているところだろう。彼女は月の精霊でカグヤだ。綺光にとっては親以上の存在である。
傍らでなおも眠る男を見て『あらまあ』と嘆いた。
『意外にお寝坊さんなのですね?』
「え? ……ああ」
すやすやと眠る男の名は
「紅壽はもともと夜型なので。朝はとても弱いのでございます」
綺光が眠る紅壽の頬にやさしく触れると彼は身じろぎしたものの、瞼を開く様子はなかった。
彼はすこぶる朝に弱い。一度寝入ってしまうとなかなか起きなくて、だから起こすのが大変だったのだと彼の母親が言っていた。
『うふふ』
カグヤが突然笑ったので、綺光は目を丸くした。袖で口元を覆いながらカグヤは言う。
『あら、ごめんなさいまし。――そんなに弱いというのに、あなたの朝の見送りをしたいと早起きなさるなんて健気だなあと思っただけでございますよ。あなたはほんとうに愛されていますね』
カグヤの言葉がくすぐったくて、綺光は破顔した。
――そう、愛されている。
考えると、心のなかに昨日生み出した月の光が生まれてくるようだった。
「……私もそう思います」
綺光は安らかな寝顔を見ながら呟いた。
◇◆
綺光は着替えて自室を後にした。やはり紅壽は起きる気配はなかった。
きっと起きたら寂しがるだろうと思って、すこしだけ申し訳ない気持ちになったけれど、でも仕事なのだしわかってくれる――と綺光はそれ以上考えないことにした。
『赤猫郵便局』まで出向くと、玄関の引き戸を開けて出てきたのは着替え途中の
「徹夜されたのですか?」
これはちょっとした意地悪な質問だった。なぜ寝不足かなんて頭をはたかせなくたってわかる。けれどなんとなくそういう気分になったから、いやな聞き方をした。
零雨は眉をひそめて、「……それはどういう類の嫌味かな」と返した。
綺光は「失礼しました」と詫びてから、「
「大丈夫だよ、動ける……ふあ、起こしてくるよ」
零雨がくるりと背を向ける。その背中に綺光が咎める風に言った。
「あまり無理させないでくださいましね、
「……」
零雨が肩越しにじろりと綺光を見遣る。なにか言いたそうだったが結局なにも言わずに二階へ上がっていった。
しばらくして見慣れた赤い髪に赤い猫の耳を生やした青年が顔を出した。首には大ぶりな鈴のついた青の組み紐が、うなじのあたりで蝶の形を作っていた。長い袖の中の手を振って「……おはよう」とちいさく挨拶した。上下白の格好、星と魚を象った刺青が、ぐるりと一周覗く足首に施されているのも、まったくいつも通りである。
「おからだは平気ですか?」
綺光が問うと、星の宿った瞳をぱちくりさせて青年絹夜は「……ん」と首肯した。どうやらさほど激しくされていないようだった。
綺光は背後で控えている零雨をちらっと見た。零雨はその行動の意図がわかったようで、「俺だって加減は知っているよ」と不満そうに言った。
「あら、そうだったのですか」
「そうだったのですか、ってなにかな。俺が暴走機関車並みの荒くれものだって言いたいのか?」
「違うのでございますか?」
「違うよ」
零雨の即答に、勢いよく振り返ったのは絹夜だった。ふたりの目がかち合う。
ほのかに見開かれた瞳に、零雨はあえて笑ったまま訊ねた。
「うん? なあに、きぬさやちゃん?」
「……ん。……いや。……なん、でも」
「そう? いいんだよ、言いたいことがあるのなら……言ってごらん?」
「……いい」
絹夜は零雨の視線から逃れるように前を向き、そして猫の姿になった。
ところどころに鱗模様のある赤い猫だ。猫は三和土を下りると素早く綺光の後ろに回った。
「きぬさやちゃん」
「……に゛」
猫は下手くそに鳴いた。
「……違わないようでございますね?」
綺光の断言を、零雨は否定しなかった。
『昨日、主が〝好き〟ってぽろっと言ったら想い人が暴走して大変だったんだヨ。まあ、加減したのはホントウみたいだけれど、ふだんよりちょっとマシってくらいカナ? キミの声、ちょっと控えめだったしネ~』
「っ!? ……!!??」
トランクのなかに広がる亜空間<
「こ、ココココ、……コハク……!!」
『ワガハイは常にシンパイなんだヨ。あの鬼いっつもキミのこと可愛がるじゃないカ。毎日じゃないにしたっテ、そろそろキミのカラダに差し障ると思うけれど』
コハクはなんともない風にしゃべり続ける。対する猫は自分の足だからどうこうできずに奇妙な踊りをしていた。後ろ足をばたつかせながら尻尾を振り回して、ひとりですったもんだしている。
「コハク、あまり言うとその……、絹夜さんが」
すでに大変なことになっている猫を見ながら、綺光がなだめる。
コハクは『ふん』と見えない鼻を鳴らした。
『愛を深めるのは悪いことじゃないケド。ワガハイとしてほっぽかれるのはイヤだな』
どうやら言いたいことはそこらしい。
コハクは恥ずかしがり屋だから滅多に外に出てこないけれど、だからといってまったく構われないのはいやなのである。
「……コハク」
猫が踊りをやめた。
『ワガハイもキミと添い寝したい』
それを言ったっきりコハクは黙ってしまった。
猫は尻尾を立てて、後ろ足で自分の耳の裏を掻いた。
とても微笑ましいふたりのやりとりに、綺光とカグヤはお互いに顔を見合わせて、笑っていた。
『今日はなにに致しましょうか』
雑多と置かれた物品はすべて精霊の夢から綺光の母が奪った<宝物>だ。
精霊の夢を<異世界>と呼び、その<異世界>の秩序を保つものが<宝物>である。これがなくなると<異世界>の――たとえばユニコーンの守る国が魔物に襲われたり、進むはずのない物語の時間が進んでしまったり――そういう具合の悪いことが起きる。だから返さねばならない。
進むはずのない、と綺光ははたと思い出す。それと一緒に自分の醜態を思い返すことになってしまったけれど、綺光はぐっとこらえた。
「……そういえばカグヤ。私たちが元に戻した『雪の女王』は」
『ああ、だいじょうぶ。あれはもとある結末へ還りましたよ』
あの時は、気落ちしていたからどうなったか聞いていなかった。
綺光は返答に「さようでございますか、よかった」と安堵した。一瞬だけ複雑な面持ちになったが、気を取り直して物品を見遣る。
「今日はえっと……あれにしましょうか」
綺光が指さしたのはほどよい大きさの竪琴だった。金色に輝くそれには雄々しい海神の彫刻が成されていて、重さから察するに本物の金でできている。人間の世界での価値で言えば、たぶん相当な値打ちものだろう。
手に取りまじまじと見ている綺光の後ろからカグヤが、
『それは<セイレーンの竪琴>でございます』
と説明した。
セイレーンは、歌声で船乗りたちを骨抜きにして海に引きずり込む美しくも恐ろしい精霊である。
「まあ、セイレーンの」
『――あいつら人好きだからナ。好みのやつがいると大体手を出すんだヨ』
コハクが言った。コハクがこんなにしゃべるのは珍しいことだった。カグヤもそう思ったのだろう、物珍しそうな顔をしてコハクを――正確には猫の後ろ脚を見た。
『水の善き隣人。あなた……今日はとてもよくお話しになるのですね?』
『……しゃべらないとワガハイのこと忘れられそうだロ。それこそセイレーンみたく愛を囁いて骨抜きにしてやろうってやつがいるんだカラ』
猫がぎょっとして自分の後ろ脚を見る。コハクはへそを曲げているようだった。
『そんなわけがないでしょうに』
『わからないゾ、相手は鬼だからナ』
『まあ』
猫がはらはらし始めたので、綺光が話をそらすために「お詳しいのですね」とコハクに言った。
言う相手は刺青のままだから、視線は猫の後ろ脚に注がれている。奇妙な図だった。
『セイレーンは海に属するモノ。海はワガハイたちの還る場所だからナ。いちおうワガハイにとってはセイレーンは眷属ダ』
「なるほど……どういう方々なんですか?」
『どういう? そうダナ』
言ってコハクは刺青から猫と魚が合体した生物へと形を変えた。
猫の顔も体もしているが、四つ足の随所に鱗が生えていて尻尾も魚のそれである。
『セイレーンは人好きだ。船乗りは大体筋肉質なヤツが多いダロ、そういうのが好み。あと男気溢れるのとか好きだゾ。そういう意味じゃキミの想い人……黒い角の鬼なんかは格好の餌食だナ』
「あら、それは困ってしまいますね」
『でも単に男好きというワケじゃないから注意しろヨ。人好きだから人でさえあればなんでもイイ』
「そんな方々の竪琴……」
『竪琴はあいつらの歌声を調整する――いわば、指揮者だ。それがないんじゃ、今頃海は大荒れだろうナ』
コハクの説明に綺光はいやな予感がしていた。
「……大荒れ、でございますか」
『そうだナ、大荒れだと思うゾ』
綺光はカグヤを振り返って、それから溜息をついた。
◇◆
『――導け、あるべき場所へ。――開け、善き隣人の深き戸を』
トランクで眠るツギハギ猫のぬいぐるみの腹に<竪琴>をしまい、綺光は<精霊の戸>を開いた。
開いた瞬間半ば風圧に背中を押されるようにして、綺光は<異世界>に入った。
「わっ、ちょ……きゃっ!」
綺光は態勢を崩してその場に倒れこむ。『愛しい子ッ!』とカグヤが叫ぶのが聞こえた。
立ち上がろうとするが、倒れこんだ場所も揺れているのでうまく立てなかった。
「こ、ここは……う、塩辛いっ」
綺光がぺ、ぺ、と舌を出して口のなかの塩辛さを追い払う。
それから自分の立っている場所を確認した。小舟のうえだった。それも木製で、かなり心もとない御供である。
前方を見ると水平線が大きく乱れていた。波は逆立ち、空には暗雲が立ち込め、雨がざーざーと降っている。あっという間に綺光はずぶ濡れで、あちこちが透けていた。猫が慌てて視線を逸らすとそれに気づいた綺光が笑って、
「大丈夫でございますよ絹夜さん。こんなこともあろうかと常に下着は黒でそろえておりますゆえ」
綺光が自慢げに言ったが、猫はどうしても「そうか、それなら安心だな」とは言えなかった。
小舟には木製のオールが取り付けられていた。綺光が漕ごうと思ったけれど猫がその役を買って出てくれたので任せることにした。
ぎいぎいと恐ろしい鳴き声を上げながら小舟は荒波のなかをゆく。ひとの姿になった絹夜もずぶ濡れだったけれど生地がしっかりとしているのか、白くても透けることはなかった。
セイレーンの居所は、綺光は昨日の鍛錬で身に着けた<魔法>で知ることができた。
蛍のような淡い光を灯すあの<魔法>である。ほんとうにすこしの力でよいから、詠唱は不要だった。思うだけでその通りになった。
光が灯ってすぐ、真っ直ぐに光線が伸びた。その先にセイレーンがいるという。
さしずめ、『月の方位磁針』といった感じである。セイレーンだけではなく、ほかの精霊の居場所を突き止めるのにも使えるという。
『月の光は万物を照らす……ゆえに、あらゆるものを見つけることができるのでございます』
カグヤが誇らしげに説明した。
光の差し示す方角へ件名に向かおうとするものの、逆巻く波が行く手を阻みうまくいかなかった。不意にオールを持っていた絹夜が立ち上がり、綺光に並んだ。それから足を引いた。
「……絹夜さん?」
「……水、だから」
引いた足を戻すのと同時に、彼は叫んだ。
「――<
足を高く上げ、それから素早く海面へと振り下ろす。海面すれすれで静止した踵の、その部分からざざあ、と音を立てて海が割れた。小舟が一瞬滞空して、そして一瞬にして落下した。強い衝撃がかかったものの、さしたる怪我もなくふたりとも無事であった。海の割れた底の部分は白い砂が敷き詰められていた。
あっという間のことでリアクションのとれなかった綺光が遅れて驚く。
「え? ええっ!?」
「……に゛」
得意げな鳴き声がしたので振り向くとそこにいたのは猫だった。
自慢気に尻尾が揺れているが、足ががくがくと震えている。綺光は「あ」と思い立ち、その体を抱き上げた。抱きあげられた腕のなかで、猫はぐったりと脱力した。
「絹夜さん、無理は禁物でございますよ」
「……に゛」
『無茶するなア』
コハクが言う。そう、猫は無茶をしたのだ。
確かに大荒れの海で何時間も頼りない小舟に揺られるよりかはマシだろうが、それにしたって跳ね返ってくる代償が大きすぎる。綺光は猫の体を何度も何度も撫でて労わった。猫はとてもうれしそうに目を細め、やがて安心したように寝入った。
「絹夜さんが道を切り開いてくださいましたし、参りましょうか」
綺光はカグヤと頷き合い、光の指し示す方へと歩いた。
見れば割れた海が上空を覆い、雨を吸収してくれていた。突然晴れたような感覚だった。
さくさくと小気味よい音が響く。両サイドを波の壁に覆われた空間はなんとなくトンネル型の水槽を起草させた。波のなかには異変を物ともせず泳ぐ魚たちの姿があった。
「コハクはいつごろから絹夜さんのそばにいらしたんですか」
綺光がそう話しかけるとコハクは刺青の姿のまま、『……生まれた時からサ』と答えた。
「まあ。……ずっと、見守っていらしたんですね」
『一目ボレってやつサ。だからワガハイのほうがずっとこの子を愛しているんだヨ』
ふん、と鼻を鳴らしてコハクが言う。鼻を鳴らすのは、たぶん怒っているときの彼の癖だ。
ずっとそばにいたのに、横恋慕されたうえに放っておかれているからいやなのだろうな、と綺光は思ったけれど、口にしなかった。
『ずっと一緒にいるし、ずっとずっと守ってきたんだヨ。そりゃあニンゲンの言うスキとワガハイたちのいうスキは違うかもしれないケド……それでもスキはスキなんダ』
猫が寝ているからか、コハクはいつにも増して饒舌だった。
猫をどれほど愛しているかを声高に語っている。その様子は微笑ましくて綺光もついつい話を膨らませていた。
「ふふふ、ほんとうに絹夜さんのことを大切に思ってらっしゃるんですね」
『トーゼンだヨ! ワガハイが人間体であったナラ、思いっきりこの子を抱き締めているトコロだ。……それに』
「それに?」
『――名を呼ぶことだって辞さないヨ』
「……!」
綺光は驚いたし、カグヤも驚いていた。
精霊が契約している者の名を呼ぶことは、還る場所を失うことと同じ意味だ。<宿り木>が契約者に変わってしまうから、よっぽどのことがないと名を呼ぶなんてことはしない。
裏を返せば。――それくらいコハクは絹夜のことが好きなのである。
『でも、それはこの子を悲しいキモチにさせるカラ……しないヨ』
コハクはそれきり黙った。
綺光はコハクの『想い』に触れて、なんだか胸の奥があたたかくなった。
◇◆
海の底をどれくらい歩いたろうか。
しばらくするとなにか話し声が聞こえてきた。もう必要ないだろうと綺光は<魔法>をしまった。
岩場には男女がひしめきあっていた。遠くからでも仲睦まじいのが確認できた。近づくと猫の<魔法>が切れたのか、波が綺光たちめがけて落ちてくる。そしてその時気づいた。
小舟は捨ててきたことに。
「あ、舟置いてきてしま……!!」
『もう、ばっかじゃないの!』
言ったのはブローチのなかのホムラだった。真っ赤な髪のツインテール姿の少女が素早く現れる。彼女が綺光の前に立ちはだかり、炎の柱を生み出した。
ごお、と音を立て炎が噴き上がる。ほのかにあたたかい風と共に視界が朱色の壁に隠された。先ほどとは正反対の光景である。
気が付くと綺光たちは岩場にいた。上空で『キャッキャ』する声が聞こえた。
「ありがとうございます、ホムラ」
『……ふん、べつにあんたのためじゃないんだからねっ』
照れ隠ししてホムラはブローチのなかに戻った。
綺光が立ち上がる頃には、猫も目が覚めていた。ふわあ、と大きくあくびをしてから星の目をしょぼつかせていた。
「あら、おはようございます絹夜さん」
「……に゛」
猫が返事をして、大丈夫になったのを確認してから岩場にいるカップルたちを見た。
周囲にピンク色のハートが乱舞していそうな雰囲気の、女と男。
女の下半身は鳥のような者もいれば、魚のようになっている者もいた。いずれも上半身は羽毛や鱗だけで見えてはいけないところを、なんとか覆っているだけだった。男といえば筋肉の鎧をまとった屈強なものばかりだった。黒く日焼けした体はバケツをひっくり返したような雨に打たれて、てかてかと輝いていた。
――そう、外は大荒れである。
波も雨も容赦なく叩きつけているのに、だれも頓着していなかった。
「もぉ~やだぁ~♡ どこさわってんのよぉ~♡ 私もさわっちゃうよ、あなたの上腕二頭筋♡」
甘い声に野太い声が、
「いいぜ、俺の自慢のかわいこちゃん♡」
と答えている。
そんな二人組が岩場に所狭し、といた。綺光はすでに胸焼けがしていた。
「……あ、あの……」
「あら?」
セイレーンが気付いた。ついでにマッチョな男のほうも気づいた。
ふたつの視線に晒されながら、綺光はなんとか「ごきげんよう」とあいさつを口にした。
「あの、こちらをお返しに参りました」
綺光はトランクから<竪琴>を取り出して見せた。
セイレーンが、「ああ、それね」と言った。
『――壊しちゃったのよね』
綺光の思考がぴたり、と止まった。
今、セイレーンはなんといった?
「へ? こわ……えっ!?」
綺光は急いで<竪琴>を見遣る。よくよく見れば細く透明に近い弦が一本ぷっつりと切れているのがわかった。
「あ……」
『だから直してって魔女にお願いしたの。――でもそれ、直ってないわねえ』
「……預けた魔女が修繕を怠りましたゆえ……そして私も……気づきませんでしたゆえ……」
綺光は恥ずかしくって穴があったら入りたい気持ちだった。昨日からずっと恥ずかしい心地である。朝はあんなにほかほかしていた気持ちも鳴りを潜めていた。けれどセイレーンの言葉が強くなることはなかった。あっけらかんと、
『そう、残念ね。まあべつにいいのだけれど』
と言った。しかし、よくはないだろう。こんなに大荒れであるのに。
「い、いえどうにか直しますので」
『いいわよ、べつに。あたしたち、今サイコーに幸せだし』
言ってセイレーンは傍らにいる男に寄り添った。およそ船乗りであろう。でれでれだった。しかし視線の先がセイレーンではなかった。明らかに――
『……ちょっと?』
セイレーンが気付いた。
船乗りが綺光のふくよかな部分にくぎ付けであることに。
綺光としては気にならないことだったが、セイレーンの心証はよくないだろう。
それを表すように波が先ほどより荒れてきたし、雨も強くなってきた。
「あ……! い、いやなんでもないんだ! ああ、でもお嬢さん、それを直したいのかい?」
「へ?」
呼びかけに一拍遅れて綺光が「ええ、そうでございます」と答える。すると船乗りの目がきらりと光った。純粋なそれではない、邪な気持ちがにじみ出るものだった。
「なら、俺たちの港に来るといい。釣り糸が代用になるかもしれない」
「あら、それでは……」
『ちょっとぉ!!』
セイレーンの声に呼応するように、ざばあんと波が砕けた。もろにそのしぶきをかぶる。塩辛くってたまらず、綺光も猫もぺっぺっと吐き出した。
「に゛……っ」
「あなたの竪琴を直してくださるというお話でございます! それ以上はなにも……」
『それ以上なにもないなんてことあるわけないでしょ、そんなに鼻の下を伸ばして!!』
セイレーンが船乗りの下心を指摘した。船乗りが顔を真っ赤にする。図星なのだろう。
綺光も気づいていたし、猫だって気がついていた。けれどそれよりも現状の回復が先決だったからなにも言わなかった。しかしながら恋人が他人に下心をのぞかせていたら、いやだろう。セイレーンの気持ちがわかるふたりは、どう仲裁するべきか悩んでいた。
「は、鼻の下なんて伸ばしてない!」
『じゃあどうしてその子の胸ばっかり見ているのよ!! あたしのほうがおっきぃでしょお!?』
セイレーンが自らの胸を突き出して言う。ふるりとやわらかく揺れたそれに船乗りはさらに顔を赤くさせた。耳のふちまで真っ赤である。まるでタコのようだ。
『仲が良いのかなんなのかよくわかりませんね』
カグヤは呆れていたし、コハクに至ってはもうしゃべることすらしていない。
痴話喧嘩か、と綺光は収まるまで待とうと思った。
「君だってあっちの船乗りの太もものほうが立派でいいなあ、とか呟いていたじゃないか!」
『いつの話よ、昔の話を掘り返さないで!』
「いつたって……ついさっきだよ!!」
『意味がわからないわ、だからさっきっていつ!!』
そんな応酬をするたびに波が岩場に当たり、砕け、しぶきが降る。
喧嘩の中身は空っぽだった。聞いていてあくびが出そうなほどにくだらないことである。
しかし、セイレーンが激情に駆られるたび、海面が大きくうねり雨の降り方も増すので迷惑千万極まりなかった。
「……あの」
『だいたいあなたはいつも――』
「そういうなら君こそ――」
「あの!! ちょっとよろしゅうございますか!!」
綺光はありったけの大声で叫んだ。ふだんこんなに叫ぶことはない。言い合いをしているふたり以外も振り返ってなにごとかと目を丸くしている。
一身に注目を浴びた綺光だが、もはや恥ずかしいと思わなかった。
「収拾がつきません。私は<竪琴>をお返ししたくてこちらに参ったのでございます。釣り糸によって修繕できるのであれば港へご案内くださいまし。不安なのであればセイレーン、あなたもついてくればよろしゅうございます」
ふたりともぽかんとしていたが、綺光の形相に気圧されたのか最終的には彼女の提案に同意した。
海は変わらず荒れたままだった。
◇◆
船乗りの港へは呼んだ漁船で向かった。セイレーンは海中を泳いでついていく。
<異世界>における住人はすべて泡沫の存在である。精霊たちが昔に出会った者たちを、彼らが思う風に再現している。船乗りたちも過去にセイレーンが陥れた者を象っているのだろう。
船乗りの港につくとこれだよ、と彼は釣り糸を寄越した。白い石でできた小さな港であった。港以外に国や町はなく、ぽつんと港だけがある奇妙な光景だった。セイレーンは陸には上がらないから、である。
寄越された釣り糸は確かに<竪琴>を修繕するのによさそうな細さと強度であった。しかし直し方がわからない。綺光は桟橋で睨みを利かせているセイレーンのもとへ行き、教えを乞うことにした。だが、セイレーンはかぶりを振った。
『知らないわ』
「は?」
『私は知らないの、直し方なんて。奏で方しか教えてもらっていないもの』
しれっと言ったセイレーンに綺光は閉口した。
<竪琴>に視線をやる。綺光は楽器に明るくない。無理矢理切れた弦を外したら壊してしまうだろうか、とまた乱暴な思考に耽った。
『ふつうの楽器じゃないんだから、ふつうに直そうとしたってだめよ種火ちゃん』
ホムラがブローチのなかから助言した。
『セイレーンのものでしょう、だったらそこにいるウンディーネが詳しいはずだわ』
綺光が猫を――今日一番注目の的である後ろ足の刺青を見た。
コハクは黙っていたが、『そうだネ』としゃべりだし、刺青から猫と魚の混合獣に変わった。
『直すなら<魔法>を使えばいい。弦の一本だけだからキミでもいけるはずダヨ』
コハクが猫を見た。
『でも、さっき
コハクは意地悪を言っているわけではない。猫の体を慮っているのだ。
綺光もわかっているから、もちろんでございます、と快諾した。
『美しき調べを、月の光で見事直してみせましょう』
カグヤも鼻高々といった風である。
綺光はもらった釣り糸と<竪琴>とを手に持ち、心を穏やかにした。
雑念を払い、心の奥底でカグヤの想いを感じる。
湧き上がるそれを、言葉にした。
「<光を紡ぐ指先よ。もとある形へ、もとある姿へ――還れ>
綺光が唱えると、光を纏って釣り糸と<竪琴>がふわりと宙に浮いた。切れた弦がするりと外れて、代わりに釣り糸が吸い寄せられるように<竪琴>に巻き付いた。再び綺光の手に戻る頃には<竪琴>はすっかりもとに戻っていた。
『お見事』
カグヤがやさしく称賛した。猫も目を輝かせて見ている。船乗りは驚愕し、セイレーンは『ふうん』と興味なさげに反応した。
「直りました!」
綺光も子どものようにはしゃいだ。
セイレーンにそれを見せると彼女は退屈そうに大あくびをしていた。
『そう。よかったわね』
「ではどうぞ奏でてくださいまし」
『なんで?』
「え?」
『だからなんで?』
「……大荒れでございますし」
『べつに、ちょっと荒れていたほうがいいのよ』
「……よくないでしょう」
『あたしたちは苦労しないわ』
「さようでございますか……」
奏でる気がないことがわかった綺光は、セイレーンに修繕された<竪琴>を渡した。
セイレーンは直った<竪琴>をまじまじと見ながら、気だるげに言った。
『魔女というのはね、あたしたちと仲良しこよしじゃだめなのよ』
「……」
『時には強引に……情熱的に。まあ、あなたって初々しいっていうか、小娘って感じするし……難しいかもね』
ばいばあいと、セイレーンが立ち去ろう――とするのを綺光が引き留めた。セイレーンの羽毛の生えた腕を捕まえている。
猫が綺光の顔を見てぎょっとした。
「……あら、心外でございますね」
セイレーンを引き寄せて鼻がぶつかるほどに顔を近づける。セイレーンの頬がぱっと赤くなった。
「私が初々しいだなんて……面白い冗談だ」
「……!」
「ふふふ、小娘か。小娘はどちらだろうな――この程度でそんなに顔を真っ赤にさせて」
「な……」
綺光はセイレーンの耳元に唇を寄せる。吐息にセイレーンがぶるっと体を震わせた。
「――あちこちまさぐられて、あられもない場所を暴かれたら……お前はどうなってしまうんだろうな?」
艶っぽく囁いて、にやり、と綺光が笑った。
さながらおとぎ話に出てくる悪い魔女の笑みである。
セイレーンが目を大きく見開いて硬直していた。
「……侮られては困ります」
澄ました顔に戻った綺光がセイレーンの腕を離した。
セイレーンの顔はなおも真っ赤だった。
『……あ……あぁ……』
「戸を開けてくださいますか? もう帰りますので」
『え、えぇ……』
惚けたセイレーンがなにもない場所に<精霊の戸>を生みだした。
いつの間にか荒れていたはずの海が大人しくなっていた。
奏でてもいないのにふしぎだなと思った綺光だったが、すべきことがもう終えたので気にせずさっさと帰ることにした。
綺光は気づいていなかったが、猫は気づいていた。
船乗りの姿がもうなくなっていて、もうひとりの綺光がいたことに。そしてセイレーンが恍惚としながらその身を寄せていたことに。
『魔女に男気を感じたらしいナ』
コハクが猫にしか聞こえない声でため息まじりに言った。
◇◆
住まいに帰ると泉のへりで天を仰ぐ紅壽の姿があった。
もう白衣は纏っておらず、裸身を横たえていた。
綺光の帰宅に気づくとむくりと体を持ち上げて、「……機嫌がよさそうだな」と見透かしたことを言った。
「ええ、ちょっとだけ。新しい<魔法>を編み出すことに成功したものですから」
「……そうか」
彼の首のあたりからにゅるりと黒い触手が現れる。それが伸びて、綺光の頬に触れた。冷たくて湿ったそれはぺちぺちと二、三度頬を叩いたのち、首筋を伝った。びっくりして「ひゃっ」と綺光は声を漏らした。
「……っ、な、なんですか?」
「……いや、なんでもない。……すこし、いじめてみたくなっただけだ」
物言いがわずかにすねているようだったから、綺光は寝たのを放ったままにしたことを不満に思っているのだと思った。
「あら、すねていらっしゃるのですか? うふふ、可愛いひと」
「……すねてなどいない」
「はいはい」
綺光はそばに寄って、顔を覗こうとした。けれど紅壽はふいっと顔をそらしてしまうから表情が見ることはできなかった。
「だってとても気持ちよさそうに寝ていらっしゃるのですもの。起こすのも悪いと思って」
「……」
「紅壽」
「……朝起きて、いないのは存外寂しいものだ」
触手が無数に伸びてくるから、綺光は仰け反った。
皮膚がいいけれども、衣服が溶けてしまうのである。
「こ、紅壽っ、まって! 待ってくださいな、服を脱ぎますから」
「……」
待てと言われて不服そうだったが、紅壽は渋々触手をひっこめた。
「……ほんとうに寂しがり屋の甘えん坊さん」
「……君がそうしたんだ」
「あら、それじゃあ責任を取らないと――いい子で待っていくださいな」
綺光が紅壽の唇に人差し指を当てた。紅壽は瞠目する。
花のように微笑んで彼女は自室へ歩いていく。その背を見ながら、
「……ああいうところが恐ろしいと思う」
と紅壽はひとりごちた。
一方その頃、『赤猫郵便局』では。
「これでいい? きぬさやちゃん」
「……ん」
いつもは枕を並べて寝るのに、絹夜はひとりで寝ると言い出した。
べつに寝室でなくても縁側で構わないから、と絹夜は言ったが、さすがに外に放ってはおかれぬと零雨は自分の布団を仕事部屋のほうに移した。
「お前がひとりで寝たいなんて言い出す日が来るとはね」
「……すまない」
「謝る必要なんてないよ。そうしたいんだろう、だったら俺はそれに従うだけさ」
「……ん。……ありが、とう」
「どういたしまして」
それじゃあ、なにかあったら呼ぶんだよ。
零雨はその言葉を最後にして襖をしめた。布団にもぐる音がして、静かになったところで絹夜はコハクを呼び出した。
『なんだヨ』
「……一緒に。……寝たい、んだろう」
『……まア、そうダネ』
「……愛して、……くれて。……ありがとう、コハク」
『!? キミ、まさか起きて……!?』
「……」
じたばたと暴れ出すコハクを力いっぱい抱き締めて絹夜も布団に入った。
コハクは頭から煙が出そうなくらい恥ずかしかったが、抱き締められてそんなのはどこかにいってしまった。
『……にぃ』
コハクは猫のように鳴いて、それから瞼を閉じた。
幸せな夜がやってくる。
魔女は精霊の戸を開く 可燃性 @nekotea_tsk
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