07『過去がよぎる休日』

 母は言った。

 お前はただの景品なのだと。

 母は言った。

 出産は貴重な経験だと。

 母は言った。

 一生、自分という枷から逃れることはできないのだと。


 ◇◆


 嫌な夢を見た。

 綺光きみつが起き上がったのは冷たい裸身のうえではなくて、やわらかい布団のうえだった。

 昨日は疲れていてすぐに眠ってしまった。それから肩に落ちる銀色の髪を撫でて、風呂に入っていないことを思い出す。重い体をひきずりながら綺光は備え付けの風呂に向かった。

 ちょうどよい温度に調整されたシャワーを頭から浴びながら、綺光は自身の立ち回りについて省みていた。


「……はあ」


 媒介なしでの<魔法>の展開は一日や二日の鍛錬で会得できるものではない。しばらくはマッドに頼らざるを得ない状況が続くが、いつかその状態を打破しないと今後に差し支えるだろう。

 思い起こす己の醜態に、綺光は穴があったら入りたいと思った。それに、


(……想像以上に動揺していた……)


 マッドであることを十分に理解したうえでも、だめだった。彼が違うだれかに微笑みかけるのを見ただけで、心に黒い感情が湧き上がる自覚があった。

 あのまま<魔法>を使っていたら絹夜たちを巻き込んでいたかもしれない。

 立ち回りを思い返せば返すほど、己の未熟さが身に染みた。


「……強くならなくては」


 綺光は鏡のなかの自分に向かって呟いた。

 瑠璃色の瞳に浮かんだ薔薇が、一層強く咲いた気がした。


「……珍しいな」


 額から真っ黒な角を生やした男は綺光を見てそう言った。

 おはようというよりも先にそう挨拶されたものだから、綺光はおかしくて微笑んだ。


「そうですか? 今日はすこし、体を動かそうと思って」


 綺光の格好はふだんのそれと違っていた。

 運動用にそろえた上下はシンプルなデザインだが、その分彼女の体の線をはっきりと浮かび上がらせていた。艶を取り戻した銀髪をひとつに高く結い上げている。

 ジョギングにでも出かける様相に、綺光の心を乱した張本人たる紅壽こうじゅは驚いたのである。


「体を動かす?」

「ええ。……鍛錬、というのでしょうか」

「……魔女の、か」

「……はい」


 弱々しく綺光が言うので、なにか思うことがあるのだろうと紅壽は黙った。

 綺光は母と同じになることを恐れている。母は偉大な魔女で、媒介なしにあらゆる<魔法>を展開していたと、聞いている。だからそうなることを拒んで、綺光はマッドという媒介を使用していた。

 マッドは悪友であり相棒だと彼女がいつの日かうれしそうに言っていたことを思い出した。


「……昨日のことで、思うことがあって」


 綺光は顔を伏せて言った。

 声に覇気がないことは、昨日の夜からわかっている。だから紅壽は黙っていた。


「……」

「いつまでも母をいとうてばかりもいられないなあ、と」

「……それは」

「媒介なしで<魔法>を発現できるよう鍛練いたします」

「……そうか」


 紅壽はそれだけ言って立ち上がり、近づいて触手ではないほうの手で綺光の頬に触れた。ぬくもりのほとんどない、冷たいてのひら。でも、なんだかじんわりとやさしさが染み入るように感じていた。


「……無理はするな」


 綺光が顔を上げると、そこにいる彼の顔はとてもやさしいものだった。


 ◇◆


『媒介なしでの<魔法>の発現は善き隣人との信頼関係により成り立ちます。今のあなたはマッドという緩衝材を用いて力を振るっている状態ですが、今後はあなたが直接対話しどのように顕現するかを瞬時に伝えなければなりません』


 鍛練場は『緋紅楼ひべにろう』を取りまとめる『桜雲館おううんかん』のなかにある。『桜雲館』には『紅姫べにひめ』という皆から慕われているお姫様がいる。綺光も彼女のことが大好きだった。

 閑話休題。

 申請すればだれでも利用可能であり、貸し切りもできる。綺光は力をうまく扱えなかったときの被害を抑えるため、貸し切り状態にしていた。

 板張りされた道場風のその場所で綺光は正座をして宙に浮かぶ十二単の佳人と向き合っていた。金色の髪が揺らめき、翡翠の目が真っ直ぐに己の目を射貫く。

 彼女はカグヤ。綺光を幼い頃から慈しんだ月の精霊である。


 精霊を操る術は後にも先にも『想像』、『想い』そのものだ。こうしたい、ああしたい、と精霊が汲み取り最適の形に顕現させる――それが<魔法>。意図しない現象を引き起こさせるので魔の法則、<魔法>と呼ばれるようになったそうである。

 だからよほど大きな力を発現しない場合、詠唱――即ち声で号令をかける必要はない。指を振るう、掌を掲げる、そうした動作ひとつで精霊たちは『魔女』のしたいことを理解するのだ。

 ゆえに信頼関係が<魔法>を使ううえで最も重要だった。マッドが間に入って発現に至っているが、彼がいないと精霊たちは、綺光の顕現させたい形を把握できない。

 意思疎通が図れないのである。つまるところ、現在マッドが綺光の気持ちを精霊に通訳している状態だった。

 カグヤは真剣な面持ちで座す綺光に向かって、緊張をほぐすように『私とはさほど苦労は致しませんよ』と笑った。


『私の力は〝浄化〟〝賢明〟。悪しきものを清め祓う、明るみに出す、そういった効果を持ちます。まずはあなたのやりたいことを想像して私に呼びかけてみてくださいまし』

「……わかりました」


 綺光は立ち上がり、月の光をいかに顕現させるか想像した。

 頭の真上で光り輝く淡い月。脳裏に描き、綺光はてのひらを天井に掲げた。なにかをすくいとるように、あるいはもぎとるように、手首を自分のほうに向けて。


 ――月の光

 ――まあるいお月さまのかたち

 ――やわらかな光

 ――カグヤ


 カグヤに呼びかけつつ想像を膨らませていくと、てのひらが熱くなるのを感じた。じわじわと熱が高まっていき、それが実体化するのがわかった。電球を覆ったようなほのあたたかさに綺光は上を向く。うまくいったのでは、と思い視線をうえに向けて、綺光は押し黙った。


『……すこしばかり、強すぎるようですね』


 カグヤの声がどこからか聞こえた。

 できあがっていたのはほのかな光で地上を照らす月――ではなく、特大の電球だった。

 てのひらがひどく熱かったので綺光は想像を解く。光が霧散して、それはカグヤに戻った。


『想像の強弱はそのまま発現させたときの力に反映します。想いが強すぎるようですね、愛しい子。そんなに想わなくてもだいじょうぶ、すこし肩の力を抜きましょう』


 カグヤが綺光の肩に触れながら言った。

 言われてほうと息をつくとともに、体に入っていた余計な力が抜けていく気がした。

 そしてふと思いついたことをそのまま口に出す。


「……絹夜さんは。……これが、できているということ……なのですよね」


 複雑な面持ちの綺光が訊ねると、問いかけの意図を汲み取ったカグヤは『ええ、そうですね』と言った。


『水の善き隣人が、その見目を寄せるくらいに絆が強い。けれどふたりの絆は他の介入を許さぬほど強いとも言えます。ですから、清き猫は水の善き隣人以外を扱うことはできません、反属性たる火の善き隣人とは共にはなれないでしょうね』


 それを成せるのが魔女なのですよ。

 カグヤがほんのすこし、誇らしげに言った。

 気を遣っているのがわかった綺光は緩く笑って、


「……がんばります」


 とカグヤの翡翠の目を見つめて言った。

 綺光の瑠璃の目に宿った決意に、カグヤは月明かりのようなやわらかな笑みを浮かべた。


 が、しかし。


『種火ちゃん、アンタ意外と激情型?』


 そう言うのは、いつの間にか現れた真っ赤な髪の毛をツインテールにした少女ホムラだった。彼女は火の精霊である。

 ホムラの言葉を背中に受けながら、綺光は十六回目の特大の電球を生み出していた。

 日の光ではないから、鍛練場になにか甚大な被害が及ぶことはなかったけれど、進歩がなかったことに関して綺光の精神状態が芳しくなかった。


『愛しい子、あなたはどうやら出力の調整が少々不得手のようでございますね……』


 カグヤが電球からひとに戻ってからそう分析した。


『想い』の強さこそ、<魔法>の強弱を決する。


 自分の『想い』をコントロールできないと、ほんのわずかに<魔法>を展開するだけでまわりに甚大な被害を及ぼす。火の魔法を行使しようとすれば、一面焼け野原にしてしまうだろう。とても危険だった。

 だから魔女になる者はいのいちばんに『感情のコントロール』を教えられる。綺光の母も人格は破綻していたものの、だからといってヒステリックに叫ぶようなことはなかった。いつも余裕ぶった笑みを浮かべてすべてのものを見下していた。


 ――君は僕の、


 不意に浮かんだ母の顔を打ち払うように、綺光は集中した。


「……そんなつもりは」


 ないと言いたかったが、ふとよぎったこれまでの記憶のなかで自分は。

 牢獄に閉じ込められたとき、ケルベロスに立ち塞がられたとき、ゴブリンのとき――


「……そのようでございます」


 大体、抜刀していた。

 一度誰かに脳筋なんて言ったことがあったけれど、案外自分もそうだったなと綺光は過去の発言を密かに悔いていた。


「入らねえのかよ」


 さまざまな気持ちが渦巻く鍛練場の入り口。木製の引き戸になっていてご丁寧に防音が施してある。その前に、背の高い男が佇んでいた。傍らの少年の問いかけに、男は無言を返した。

 長髪を赤い紐でひとまとめに結び、顔にはアンダーリムの眼鏡。黒のワイシャツと黒のスラックスのうえに白衣を羽織った、紅壽だった。白目はきちんと白いし、体は触手でもない。当然毒液は滴ってもいない。

 黒い髪で眼帯をした少年穂鬼ほぎが顔を覗き込むように、中腰になる。怪訝そうな視線を向けられた紅壽は、無言のまま一瞥を寄越し、それきりだった。元来口数のすくない男である。伴侶を前にしているから口を開いているだけであって、ふだんはほぼしゃべらないに等しい。

 穂鬼はそのことをよく知っているから、返事がなくても気にしなかった。でもなにかしら反応がないかと期待して問いかけを続けた。


「鍛練の邪魔したくねえって?」

「……」

「おい、聞こえてんのかよ」

「……」

「……はあ」


 無駄だった、と穂鬼は話しかけるのをやめた。

 彼の行動原理はほぼ伴侶の綺光に重きを置いている。だからこれもまた綺光を想ってのことなのだろうと考えていた。

 やれやれだぜ、とひとりごちて穂鬼が影に戻ろうとしたタイミングで紅壽が、


「……俺は彼女に生きてほしいと思っている」


 突如としてそう口を開いた。驚いた穂鬼は慌てて崩れかけていた実体を元に戻した。

 思考が読めないのは昔からだ。


「は? もうあいつは綺光として生きているだろ?」

「……いや」

「?」


 紅壽は背を向けた入り口を肩越しに視線を送った。なかでは綺光が必死になって鍛練している。

 激情型、たしかにそうだ。彼女はおしとやかに見えてその実、内面に激しい気性を隠していた。でなければマッド――〝狂気〟なぞ生み出すことはないだろう。


「……彼女はまだ、囚われている」

「はぁ?」


 意味がわからないと穂鬼が表情で訴えるものの、紅壽は口を噤んだ。そして音もなく歩き出した。説明する気なんてないのだろうと思った穂鬼は、今度こそ彼の影に戻ったのである。


 ◇◆


 今日はお休みです、と直々に綺光から連絡があった。

 なので、猫は『赤猫郵便局』の特等席でうたた寝していた。鱗模様の赤い体は郵便局の局長たる男のかいたあぐらのなかにおさまっている。

 男は膝のうえの恋人に頬を綻ばせながら、仕事をこなしていた。

 彼が向き合う文机には手紙が山積みになっている。それらはすべてだれかに充てられた『想い』。

『想い』が力を持つ『緋紅楼』では、『届け先』に悪い影響を与えないよう工夫する。その役目を〝玻璃はり零雨れいう〟が担っていた。淡々とさまざまな表情をした猫の判子を封筒の隅にしていく。消印のようなものだった。

 螺鈿らでんの髪と螺鈿の角、口元に笑ったようなひび割れのある涼やかな美貌。襟の折り返しがないシャツに端っこのほうに派手な格子柄の入ったベスト、あぐらをかく足はスラックスに包まれている。見た目は真面目な書生風だ。実のところ、そう真面目でもないのだけれど。

 零雨は凝り固まった筋肉をほぐすのに背伸びをした。羽織った夜明け色の着物がずり落ちてちいさく音を立てた。


「……ん。……んん」


 猫が零雨のかすかな振動を受け取って身じろぎをした。起こしてしまったかと心配になったが、眼下の猫の目が開く気配はなかった。


「……そろそろ行ってあげないと、かな」


 零雨は猫のやわい体をやさしく抱き上げると、膝のうえの次に好きな、ふかふかのクッションに移動させた。丸いクッションで真ん中に猫のためのくぼみがついているものだ。『外』に出かけたとき、猫が一目惚れしたものである。

 猫を乗せて起きないことを確認すると零雨は着物を肩にかけて、部屋を出た。

 配達員ならぬ、配達猫たちは配達に行っているので家のなかは静かだった。三和土を下りて磨かれた革靴を履く零雨の背中に、『行くのかい』と声がかかった。

 振り返ると縁側でくつろぐ長老と呼び慕われている、長毛種の猫がいた。

 盲目なので配達業務に関わっていないが、知識が豊富なことと聴覚がほかの猫より優れているのでここにいる。生きていたころは金持ちの道楽のために散々な扱われ方をしていたという。視力を失ったのも、そのせいだと聞いていた。


「……やあ長老」

『あの子のもとへ、行くのかい主』


 やわらかく、それでいて鋭い針の先でつつくみたいな物言いで長老は繰り返した。


「……さあね」

『気づかれんとは思わんことだ。赤猫くんはなかなかに敏い子だよ』

「……」


 零雨は答えなかった。

 あえて無視して玄関の引き戸を開けて出て行った。長老は『やれやれ』と言いながら、体を丸めた。


 小高い丘にある『赤猫郵便局』の、ずっとはずれのほう。

 ひとところに紫陽花が季節外れに咲いていた。天候も季節も気まぐれに変わる『緋紅楼』だからべつに珍しいことではないので、だれも気に留めていない。

 ぽつねんと置かれた紫陽花の塊のまえに、零雨は膝をついた。そのあたりの土だけ奇妙にぬかるんでいる。


「シグレ」


 紫陽花によびかけるとがさがさと音がした。しばらく続いたと思うと、紫陽花の陰からなにかが出てきた。それは影のような真っ黒な顔に勇ましい象の顔を象った仮面をつけたちいさな体のひとならざる者だった。がしゃがしゃと身を包む祭具が音を立てる。派手な羽やら金属の武具はシグレにはやや大きい。だからかシグレは歩き始めた幼児のような、とても頼りない足取りで零雨のもとへ近づいた。やってきたシグレは、蛍の光のような二対の目で彼を見上げた。


「……ほら、君の好きな金平糖だよ。お食べ」


 零雨は懐から取り出した包みをひっくり返し、てのひらに金平糖を転がした。そのまま差し出すと二対の目がほのかに光を増した。喜んでいるようだった。

 小さな手が金平糖をつかみ、顔へと運んだ。口がないので、食べる姿はさながらブラックホールに金平糖が消えていくようだ。シグレは『ほっぺが落ちそうになる』様を体現しながら、その場で蛙のように跳ねた。


「おいしい? そう、よかった。手作りなんだよ、俺の妹のね」


 喜ぶシグレに零雨は目を細めながら言った。

 シグレは『緋紅楼』で見つけた迷子だった。ここでは迷子は多いから、さして気にしていなかった。けれどいつまで経っても紫陽花から離れないし帰ろうとする様子もなかったので、零雨はシグレに声をかけた。

 彼の正体については、理解している。


「君は一体なんなんだろうね?」


 と気まぐれに訊ねたところシグレは、精一杯の身体言語とつたない『リ、ンジ』という単語で自身が隣人――即ち精霊であることを伝えた。

 驚いたが、猫に相談する気はならなかった。


「……声だけはね、ずっと聞こえていたんだよ」


 零雨はシグレの頭を撫でながらひとりごちた。

 シグレは猫のように目を細めて心地よさそうにした。


「……君たちの声は聞こえるようなんだ」


 そういえば昔、なんだか話し声がするなと思ってそちらを見ても、なにもなかった――なんてことが多かった。人を食らうという異常性ゆえの幻聴だろうと思っていたが、そうではなかったらしい。

 自分はもうその頃には、ひとらしさを捨てていたから、なにが正常で、そしてなにが異常かなどわからなかった。見えないものが視えようと聞こえない声が聞こえようと、ひとではないなら仕方がないと思っていたのだ。


「時折かすかに視えもするんだ、まあ……。ほんとうにわずかなのだけれどね」


 はっきりとは見えない。ぼんやりとした輪郭だけが浮かび上がる。

 だから綺光の傍らにいるであろう精霊はいつも重そうな着物を着ているから、目で追ってしまうことがあった。


『アィ』

「……きぬさやちゃんに言うつもりはないよ」


 猫が一言一言区切るように話す理由を知っている。きっかけについても。

 精霊との出会いは猫にとって悲劇的だった。だからこそ、お前と俺は同じだよ、なんて口が滑っても言えなかった。彼の傷に寄り添うその言葉が、きっと彼を傷つけてしまうだろうと思って。

 それに、


「……怪物になりそこなった怪物とその怪物を愛して食われた心優しいあの子とじゃ、まったくもって別物だよ。彼が自分を愛してくれたことでさえ奇跡のように思って、未だに信じられないことなのに」


 零雨は鬼になるまえも、ひとではなかった。何人も殺して食って、最終的には法の下、首を吊られて死んだ。零雨の愛するあの子は、最後まで笑っていた。彼の笑顔は、はかなくてこわれそうで、ガラス細工のようだった。今も思い出すと胸が苦しくなる。そして、あたたかくもなる。


「俺はあの子に笑っていてほしい。……これはわがままというのかな」

『ワガ マ マ ?』

「おや、ふふふ。覚えてしまったかな?」


 零雨はシグレの頬に触れた。ひんやりと冷たい感覚が革手袋越しに伝わってくる。


「……俺の独り言なんかに付き合わせてしまってすまないね」

『……』


 じっとシグレが零雨を見つめた。それから、


『アル ジ ヤ サシ ボク ウ レシ』


 と言った。なんだか笑っているように見えた。

 零雨も頬を綻ばせて、


「……ありがとう」


 と返した。

 零雨は立ち上がった。


「そろそろ戻るよ、じゃあねシグレ」

『アィ!』


 元気よく返事をしてシグレは紫陽花のなかに隠れてしまった。

 立ち上がってから零雨は気づく。また裾の端に泥汚れがついていることに。


「……また言われてしまうな」


 きっと彼は追及しないだろうけれど。

 いつかバレてしまうかもしれない。


 ――赤猫くんはなかなかに敏い子だよ


 長老の言葉が脳裏をかすめた。


「……そんなこと、わかっている」


 だれよりもずっと。

 零雨は口のなかだけで呟いて踵を返した。


 ◇◆


 鍛練は日が傾くまで続いた。

 しかし、いくらやっても巨大電球にしかならない。

 心が折れそうになりかけた綺光を見かねたのか、『種火ちゃん』とホムラが声をかけた。

 ホムラは鍛練中ずっと綺光のそばにいた。心を開いてくれたと思って綺光はうれしかった。


『種火ちゃん。アンタ、好きなひといる?』


 唐突に女子っぽい話題が出てきて綺光は目を丸くした。

 好きなひと、それが単なる親愛という意味ではないことはわかっている。綺光は「ええ、おりますよ」と答えた。

 脳裏に浮かぶ、表情の乏しい最愛のひと。でもほんとうは内側にめらめら燃える激情とほんのりあたたかいやさしさを秘めているひと。


(私のことを月明かりのようだというけれど……あなたのほうがずっとそう)


 いつもそう思うけれど、きっと否定されてしまうから言わなかった。

 彼のことを想うと自然と頬が緩んでしまう。相当惚れ込んでいる自覚はあった。


『それよ、種火ちゃん』


 ホムラがびしっと指をさして言った。けれど、『それ』がなにを示しているのかわからず、綺光は目をぱちくり、と瞬かせた。


「え?」

『それ。アンタ、そのひとのことを想うのに常に激しくは思わないでしょ』

「……それ、は」


 時々燃やされてしまいたい、溶かされてしまいたい、と思うことはあるけれども。

 常にそうでは――ない、はずだ。

 ホムラは感じ取ったのか、『まあいいわ、そういうことにしておいて』と言って話を続けた。


『あたしたちと仲良くなりたいっていうのなら、好きになるのが手っ取り早いって話よ。好きって激しいときもあるけれどそうじゃないときもあるでしょ。そういう感じよ。アンタは難しく考えすぎだわ』

「……」


 カグヤがホムラを見て唖然としていた。意表を突かれた顔である。


『……お前、そんな立派なことが言えたのでございますね?』

『あたしは長から分かたれているのよ、当然でしょ!』


 誇らしげに胸を張るホムラに、カグヤはなおも驚きを隠せていなかった。


 ホムラに言われて、綺光は思い出す。

 猫が手伝うと言ってくれたときにこみ上げてきた感情を。

 ずっと隠していたことを明かしても、変わらなかった愛情を。


「……カグヤ」

『――ええ』


 カグヤを呼んで、想う。

 それはだれかの心に寄り添う光。

 それはだれかを照らすやさしい導。


 ――それは、やわらかな月明かり。


 そう思うと同時に綺光の胸のうちからこぼれる光があった。落っことしてしまわないようにそこに手を当てる。

 蛍の光のようなちいさなものだったが、たしかにあたたかさを感じるものだった。


「……あ」

『できましたね』


 てのひらのなかに、満月が生まれていた。

 そのあまりにやさしい輝きに、綺光の視界がうっすらとぼやけた。


(想うほどに、強くなる……これが<魔法>)


 綺光はそれが扱える存在であることを、ちょっとだけ誇らしく感じていた。


 ところかわって、『赤猫郵便局』。

 寝床の主がいなくなったことに気づいた猫は、一階に降りていた。ちょうど主の帰宅を重なったので、猫の姿から青年の姿に戻る。大ぶりの鈴を首につけた白い装束の青年。あちこちずるずると引きずっている上着に、下はぴったりとした履物。常に裸足だから足音は静かだ。


「……零雨」


 名を呼ぶと、螺鈿の角と髪をした薄氷色の目をした男が薄く笑った。

 男はいつだって笑っている。その笑みがひとらしくあろうとするためのものであることを、青年は知っていた。


「やあ、目が覚めたんだね絹夜きぬや

「……」


 絹夜は視線を落とした。羽織っている着物の裾が泥に汚れていた。視線に気づき、零雨が「ああ」と声を漏らす。


「大丈夫さ、洗えば落ちるから」

「……どこに」

「ん?」

「……なんでも。……ない」


 絹夜は言いかけて、首を横に振った。りりん、と鈴が唄う。

 どこに行っていたのか、問えば零雨はきっと答えてくれるだろう。でも彼はそれを隠している。

 それはやましいことではなくて、ひとえに彼が自分を想ってのことである。


『紫陽花のたもとに、チャクがいるんだヨ』


 そう教えてくれたのはコハクだった。

 水の精霊の眷属だから、すぐわかったそうだ。

 チャク。古代マヤ文明で信仰されていたとされる雨の神様である。

 どうやら信仰されていた当時の力は持っていないそうだけれど。


『彼は〝見えざる者〟だネ。稀にいるんだ。ワガハイたちの姿は見えなくても、声が聞こえるだけの人間が。キミの想い人はどうやらそうらしい……けれど、隠しているようダ。なぜだろうネ?』

「……」


 絹夜はその理由を知っている。

 零雨がやさしいから。

 その一言に尽きるだろう。


 絹夜が精霊と出会う契機になったのは、自分自身が持つ<言霊>のせいだ。

 感情の制御ができなかった絹夜が実弟に使って、存在を抹消してしまったことがあった。


(ありきたりな話だ)


 期待をかけられてプレッシャーに耐えきれず成果の出なかった兄と病弱だったが才能があって優れた弟。

 弟が愛されて、兄は放っておかれて。暴走した嫉妬心が、<言霊>を生んだ。


 ――あんたなんかいなければいいのに


 それがほんとうになった。次の日、弟は消えていた。でもだれもそれをふしぎに思わず、いつもと変わらぬ日常がやってきて、絹夜は恐ろしくなった。こわくて引きこもっているときに声をかけてきたのがコハクだった。

 それが、自分の言葉が<魔法>になるということと、精霊と交流がはかれる稀有な存在であることを自覚するきっかけだった。


「……きぬさやちゃん?」


 彼だけに許され、そして許している愛称で呼ばれて絹夜は顔を上げた。

 愛しいひとの顔がすぐそこにあった。整った顔立ちには一筋の亀裂が入っている。笑ったような口角から伸びるそれ。玉に瑕とはまさにこういうことだろう、と絹夜は思った。


 ――このひとは言う。俺は怪物になりそこなったひとでなしだ、と。

 その手が常に手袋に覆われているのは、彼が彼自身を汚いと思っているから。

 人を食って生きていた殺人鬼。人間を『肉の塊』としか認識できなかった彼は、最後は絹夜を食って死刑台に自らのぼった。

 首を吊る寸前、彼は笑っていたという。その笑みを象ったような亀裂だった。


「……」

「どうしたの? 俺の着物のことなら心配しなくていいよ、そんな高価なものではないから」


 愛しいひとはやっぱり笑う。やさしく、やわらかく、ぎこちない笑みだった。

 その笑みを見て、ふっとこみ上げる感情に絹夜は従った。

 倒れるようにして、零雨の懐に飛び込む。突然のことで零雨の体がかすかに強張ったのがわかった。けれどすぐに背中に手が回った。


「ふふふ、甘えん坊だね。よしよし」


 絹夜はときどきこうして、零雨に甘えるときがある。子どものころ、そういう機会に恵まれなかったせいだ。零雨は彼のそういうところをわかっているから、今回も同じだろうと零雨は慣れた手つきで何度も絹夜の頭を撫でた。


「……だ」

「うん?」

「……すき。……だ」


 こぼれた言葉に零雨は面食らった。

 <言霊>のことがあるから、絹夜は自分の気持ちをあまり言葉にして言わない。強制的にそうさせるのがいやだからだ。だから絹夜のほうから「好き」と口にするのはとても珍しいことだった。


「……絹夜……っ!」


 理性が飛びかけたので必死にこらえ、零雨は力いっぱい抱き締めた。

 ぎゅうぎゅうと抱き締められて絹夜はちょっと苦しかったが、それよりもうれしさが勝った。絹夜もお返しとばかりに抱き締め返した。


『――やいやい、赤坊主!! 俺様の目が黒いうちは独り占めなんか許さねえぞ!!』


 零雨に恋慕するトラ柄の大きな猫トラに、そう茶々を入れられるまでふたりはずっと抱擁していた。

 絹夜は真っ赤になって、零雨はそんな彼の姿を見ておかしそうに笑った。

 長老がその後ろでからかうように、『にゃあ』と鳴いた。


 ◇◆


 住まいに戻ると水たまりのへりに立っている人影があって、綺光は仰天した。

 姿かたちが違ったからだ。ふだんの触手の鬼ではない、ひとの形をしている。


「こ、……紅壽、その……姿は?」


 動揺に声が上擦った。対する彼はなんともないような顔で、


「……ん?」


 と首を傾げた。

 それから一拍置いてから、紅壽が「……ああ、これか?」と己を指さして言った。


「……紗々羅ささらさんによれば『試作品』、だそうだ」

「……しさくひん」

「この姿で触手を伸ばしても衣服は溶けない仕様らしい。……が、反対に服を完全に脱ぐことができないそうだ」


 襟首をつかんでそう説明する紅壽に、綺光は「……はあ」と気の抜けた返事をするばかりだった。

 はじめて出会ったそのときそのままの姿だったから。


 ――ひさしぶりに見たせいだろうか、彼を想って鍛練したからだろうか。

 そのときの思い出が心の底から泡のように浮かび上がってきた。


 ――やっと捕まえた


 そう嗤った顔は間違いなく鬼だった。

 違う人生を歩む綺光を人生丸ごと捕まえて、離すまいと身の内に深く刻み込まれた。

 ぐちゃぐちゃな執着と滅茶苦茶な愛情のなかに突き落とされた。そして、もう二度と上がってこられない底まで沈められた。それが恐ろしくて逃げたのに、結局逃げ切れなかった。いまはもう心地よいと思っている。

 さまざまな感情が湧き上がって熱く苦しい。綺光は自然と拳を当てて俯いた。


「……綺光? 大丈夫か?」


 綺光の様子が心配になった紅壽が呼びかけた。

 しかし綺光は、


「……姫綺ひめあや……と」

「え?」

「……姫綺、と呼んでくださいませんか?」


 と乞うていた。自然にこぼれていた。

 それは綺光が綺光でなかったときに名乗っていた名前だった。

 カグヤが『あなたは私のお姫様ですよ』といって名付けたものである。奇しくもそれが身を隠すために役立ったのだけれど。

 偽名ということにはなるものの、綺光にはとても意味のある名前だった。

 名乗らなくなったからこそ、一層大切な名前だった。

 だからこそ、


「……姫綺」


 自分を呼ぶ声は、穏やかな湖畔にわずかに立った波紋のように、静かで。

 高すぎず低すぎない、それでいてしっかりとしている。

 このひとは声まで愛おしい。


「……はい、紅壽」


 あなたに呼ばれたいと思う。

 綺光は――いや、姫綺は一歩ずつ近づいた。

 そっと手を伸ばし、目を覆う眼鏡を外す。そしてそのまま頬を撫でた。


「……どうした?」


 さきほどよりもずっと甘くとろけるような声だった。


「……私は、ずっとあなたのことが」


 好き、と言うまえに言葉ごと食われてしまった。

 ん、ん、と吐息がもれて、お互いの顔が離れたときには姫綺は頭がくらくらしていた。

 酸欠もある。それもあるけれど、それ以上に。

 深い愛情が媚薬のように体を満たしていた。


「……っ……こう、じゅ……」

「……」


 紅壽は耳元に唇を寄せた。

 それから、


「――俺もだ」


 と言った。

 姫綺はしあわせで、もうなにも考えられなかった。

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