06『悪魔の鏡』

 ※作中引用文章⇒『青空文庫』雪の女王

 ハンス・クリスチャン・アンデルセン Hans Christian Andersen

 矢崎源九郎訳


 ――あるところに、ひとりのわるいこびとの妖魔がいました。それは妖魔の中でも、いちばんわるいほうのひとりでした。つまり、「悪魔」です。ある日のこと、悪魔は、たいそういいごきげんになっていました。というのは、この悪魔は、まことにふしぎな力をもつ、一枚の鏡をつくったからでした。つまり、その鏡に、よいものや、美しいものがうつると、たちまち、それが小さくなり、ほとんどなんにも見えなくなってしまうのです。ところが、その反対に、役に立たないものとか、みにくいものなどは、はっきりと大きくうつって、しかもそれが、いっそうひどくなるというわけです。


 ◇


「……これは」


 綺光きみつが手に取ったのはとりたてて特徴のない鏡だった。縁になにか特別な意匠が彫られているわけでもないそれを綺光が覗く。綺光の鎖骨あたりまでが映った。さほど大きくはない。なんて考えているとみるみるうちに顔の輪郭が崩れ始めて、世にも恐ろしい形相へと変貌した。あまりに突然のことだったから思わず綺光が「あ」と声を上げて驚いて、すこしだけ顔を後ろへ引っ込めた。その背後でカグヤが「ああ、これは」と溜息を漏らした。


『……<悪魔の鏡>、でございますね』

「……あくま?」


 今までユニコーンだとかサラマンダーだとか固有名詞がついていたのに、いきなりざっくらばんとした名称になった。だから赤い鱗模様の猫はふしぎに思って、首の鈴をりりんと唄わせながらカグヤを見た。カグヤは猫の視線に気付いたのか、『〝人想属〟のひとつでございます』と話し始めた。


『おふたりは〝雪の女王〟をご存じでしょうか』

「……雪の、女王」


 猫の頭のなかに、楽しげに己がままで構わない、と歌う白い髪の女が浮かんだ。猫の顔を見てなにを考えているのかわかったのか――代わりに綺光が「童話でございますね」と答えた。

 猫は綺光を見る。どうやら猫は知らないらしい。


「ハンス・クリスチャン・アンデルセンが書いた童話でございますよ、絹夜きぬやさん」

「……アンデルセン。……聞いた、こと。……ある」

「ええ、有名な方ですね」


 綺光が猫の目を見ながら続けた。


「――たしか、『雪の女王』の冒頭で悪魔が作った、ひとの悪いところが特によく見えるようになってしまう鏡が割れて飛び散ってしまってさまざまな方の目や心に入り込んでしまう……だったでしょうか」


 言葉にカグヤがこくりと頷いた。


『ええ、ひとの子が紡ぎ長く語り継がれる童話は〝人想属じんそうぞく〟の最たる形でございます。彼らはひとの語りと共に生きてそして語りが途絶えて失われるのでございます』

「……そう、いう。……のも。……精霊に。……なるん、……だな」

『そう。ですから魔女や資格持ちなど、善き隣人たちと交流できるものが必要になるのでございます。無限に増えてしまうから』


 至るところに存在するがゆえに、僅かな綻びさえも重大な欠損になってしまうのです。

 カグヤが嘆くように言った。彼女は口に出していないがそれを怠って重大な欠損を生んだのが綺光の母である。本来魔女とは精霊とのつながりを経て、それらを管理する役目のため神が創ったのだが、ひとの姿を模したゆえか、うまくいかなかった。

 うまくいかなかった結果がこれ、だ。〝景品〟と称された綺光が現在母の借りを返している。


「でも童話の世界に飛び込めるなんて、すこしだけわくわく致しますね」


 綺光はカグヤの纏う重い空気を払うように笑った。やさしい笑みを向けられたカグヤは小声で『……さすが私のお姫様』と言った。しかしその言葉は綺光にも猫にも聞こえていなかった。


『でもお気をつけなさい。童話の住人といえど善き隣人……どんなことが起こるかわかりませんから』

「ええ、よく心得ておりますよ」


 綺光は数々の出来事を思い出しながら力強く答えた。猫も同じだった。

 鏡を光の球体に変えて、トランクのなかにしまう。マッドが「んご?」と妙ないびきをかいたが、いつものことなので気にしなかった。トランクを体のまえに掲げて<精霊の戸>を開く。


『――導け、あるべきところへ。――開け、善き隣人の深き戸を』


 虚空に突然木製の古めかしい扉が現れた。金属の剥げたドアノブを握って綺光は思わず手を引いた。氷の塊のように冷たかったからである。


「……綺光?」

「……『雪の女王』だからでございましょうね」


 呟いてから再び握り、回した。がちゃりと音がして、扉が開いた。


「……に゛!」

「んんっ、やはり……!!」


 ふたりとも目が開けていられなかった。

 扉の向こうは猛吹雪だった。


 ◇


 完全にホワイトアウト状態で、前も後ろもわからなかった。

 綺光はこのままだといずれ凍え死ぬと考えて、胸元の赤いブローチに触れた。途端綺光の体が赤い光の膜に包まれて、寒さが遠退いていく。ブローチから光がこぼれて、それはひとの形になった。

 髪の毛をふたつに分けて結った、いわゆるツインテールの髪型に、セーラー服を模したワンピーを着た少女が現れた。彼女は腰に手を当ててむすっとした表情で綺光を見ている。


『……種火たねびちゃん』

「ごきげんよう、ホムラ。ああ、そうでした。絹夜さん、こちら火の精霊サラマンダーのホムラでございます」


 少女ホムラの不機嫌さには敢えて触れず、綺光は猫に彼女を紹介した。猫は雪に埋まりそうだったので扉を出てすぐ綺光に抱きかかえあげられている。腕のなかでじっとホムラを見た。

 猫の目も、夕焼け空をそのまま写したような色をしているのだが、ホムラはそれよりずっと真っ赤な色をしていた。燃え盛る炎を全身に宿した火の精霊は不機嫌さを隠すことなく言った。


『あたしは戦うことが好きなのよ。おさから分かたれた分霊だからその気が強いの、わかる?』

「ええ、存じております」

『だからね、あたしを使って暖を取ろうっていうのがなかなかどうにも……理解できないのよね』

「申し訳ございません、どうぞご理解くださいまし」

『理解できないって言ってるんだけど?』

「どうぞ、ご理解くださいまし」


 綺光は笑顔だった。笑顔だったがその目が笑っていないことを間近で見ていた猫だけはわかっていた。

 あたたかいはずなのに背中に寒気がしている猫が、がたがた震え出すと「ほらごらんなさい」と綺光が言う。


「絹夜さんが寒そうでございますよ、可哀想に……」

『知らないわよ、だってその子ウンディーネと共にあるのでしょう。だったら自業自得だわ』

「薄情でございますね、長から分かたれたというのに」

『は』

「長たるランダとはやはり違うのでございましょうか……」


 しょんぼりと項垂れみせればホムラは明らかに動揺していた。

 分霊は長から分かれるものと、そうでないものがいる。長から直接分かたれた分霊には強い力が宿るがその分性格も似るし少々傲慢になる。ほかの個体と大きく異なる、という自負があるゆえらしい。カグヤは説明するとき深いため息をついていた。

 だから、


「ランダはたしかに戦闘を好んでいらっしゃいましたが、対応には非常に柔軟性がおありでした。あなたも状況に応じて柔軟に対応できる……と思っていたのですが」


 これ見よがしに部分を突っついてみるとホムラはぐっと押し黙った。

 一文字に結んだ唇をわずかに震わせながら、ふうと息を吐き、それから言った。


『――構わないわ、種火ちゃん。あたしはなんだってあの長の分霊だもの』


 ふん、と鼻を鳴らしてホムラはブローチのなかに戻った。

 相変わらず体中はぽかぽかと暖かいままである。暖を取ることを許したらしい。

 猫が綺光を見ると、彼女はいたずらっぽくウインクした。


「さて、と。凍死は免れたとして……雪の女王さまはいずこにいらっしゃるのでしょうか」


 体に雪が積もる心配はもうないが、視界が開けているわけではない。周囲は変わらず猛吹雪で真っ白だった。


『歩けば視界が開けるようなので歩くしかなさそうでございますね』


 カグヤは白に覆われた視界を見つめながら言った。

 猫はもうぬくいので下に降りてもよかったが、降りると体の半分が雪でなくなってしまったのでやめることにした。


 ◇◆


 当てもなく歩いていくうち、それは突然現れた。

 真っ白な雪の渦の真ん中に、城が建っていた。雪で出来たような、純白の城だった。

 綺光が近づくと、大きな扉が勝手に内側に開いた。まるで招き入れるような動きに三人とも戸惑ったが、変に攻撃的な態度をとられるよりずっといいだろうと思い、大人しく城のなかへ入った。

 なかに入ってすぐ、綺光が足を止めた。


 そこは教会だった。


 中央に白い絨毯が敷かれていて、両脇に長椅子が並べられている。煌びやかな装飾のすべては雪でできていて、きらきらと輝いていた。

 綺光はこの光景を見たことがある。参加した経験はないけれど、思いつく限りこれは結婚式場だ。

 一旦体を引いて外観を見遣る。間違いなく城だった。もう一度なかに入ればそこはやはり結婚式場。綺光はだまし絵に入り込んだような不可思議な感覚になって、首を捻った。


「……これは?」

「……ん?」

『雪の女王に婚礼の場面などなかったはずでございますが……』


 カグヤも困惑している。そのときだった。

 ばたんと大きな音を立てて後ろの扉が閉まった。風圧で綺光がニ、三歩前によろめいた。片手で持っていたトランクを取り落とし、落ちた弾みでそれが開く。開いたそこから眠っているマッドが転げ落ちた。


『運命のひと』


 声がした。

 教会全体に響く透き通る少女の声だった。

 装飾を担っていた雪の結晶たちがひとところに集う。眩い煌きのなかからひとりの女が現れた。年の若い娘で、じっと見据える瞳もまた一面に降り積もった新雪が太陽に反射するように輝いていた。


『やっと会いに来てくれたのね、カイ』


 娘は背筋の凍るような笑みを浮かべた。彼女が雪の女王だと綺光は直感した。


 雪の女王は未だ眠っているツギハギ猫のぬいぐるみを抱き上げて愛おしそうに頬擦りをした。呆けていた綺光は我に返って雪の女王に言った。


「ごきげんよう、雪の女王。あなたにお返しするものがあって、」

『カイ、私はずっとあなたを待っていたのよ』

「あの?」

『私のことを放ってどこかに行ってしまうんですもの……とても寂しかったわ。でも、またこうやって出会えた……。また一緒に暮らしましょう?』


 寝ているマッドを抱き締めて雪の女王は言う。あのままではマッドの腹のなかから<悪魔の鏡>を取り出すことができない。だから雪の女王からマッドを引き離さねばならなかった。


「雪の女王! 私はあなたに鏡をお返しに参りました。鏡はそのマッドの腹のなかにあります。ですから」

『これはカイよ』

「は?」

『これはカイ。私がずっと待っていた愛しいひと……』

「え? いえ、それはマッドと申しまして……」

『あなたは、ゲルダ?』

「へ?」


 矢継ぎ早に知らぬことを問われるので綺光は素っ頓狂な声を出してしまった。

 カイ、ゲルダ――それらは雪の女王に出てくる登場人物の名前だ。カイは<悪魔の鏡>の欠片が眼と心臓に刺さって性格が変貌してしまう少年で、ゲルダはそんなカイを探す仲良しの少女である。

 綺光は思いついた予想が半ば正しいことを確信して叫んだ。


「違う、私は……ゲルダではっ」

。このお話は、私が幸せになって終わるのよ』


 雪の女王が手を伸ばすと同時に雪を含んだ突風が一同を直撃した。

 後ろに押されるのに抗えず、綺光の足が地面から離れた。ついで猫も空中に浮かぶ。まともに<魔法>を展開することもできず、彼らは城の外に放り出された。


「ッ!」

「……に゛!」


 綺光が柔らかい雪のうえに尻餅をつき、猫の上半身が見事に白い地面に突き刺さった。それを見て慌てて綺光が引っこ抜いた。猫はあまりの冷たさに若干涙目だった。

 ふるふると震えながらまだホムラの効果が切れていない綺光の腕のなかにしまわれる。猫はほう、と息をついた。

 空っぽになったトランクが扉の近くに落ちていた。拾うついでに扉を叩いたが、扉の向こう側からはなんの返事もなかった。


「……マッドが婿入りいたしました……」


 言いながら自分でも信じられなかったが、残念なことに現実だった。


 ◇◆


「ホムラ」


 綺光が呼びかけるとホムラは呆れた顔で出てきた。

 真っ赤な目でじろりと綺光を見遣ると、大仰に溜息をした。


『種火ちゃん。まさかあなた、あれがいないとなにもできないなんて言わないでしょうね』

「申し上げようとしたところです、察していただきありがとうございます」


 恭しく綺光がお辞儀をすると、ホムラはいやな顔をした。


『……ふつう、魔女っていうのは媒体なんかいらないのよ』

「私はふつうの魔女ではないもので」

『……』


 魔女には杖がつきものと思われるが、綺光の育った家では己が身ひとつであらゆることをこなすのがふつうだった。指を振れば火が付き、息を吹きかければ消える。拳を握って開けば水が湧き出でて、拳を閉じれば水が止まる。そんな家系だった。綺光もその手ほどきを幼少期から教わるはずだったが、彼女の母は教育を怠ったので、綺光はマッドを介することでしか<魔法>を発現できなかった。

 ホムラを呼び寄せることができても、彼女の力を発揮して城の扉を溶かすことができないのである。


『……あんた、よくそれで本霊ほんれいに勝ったわね』

「ええ、辛勝でございました」

『……』


 ホムラは溜息をつく。カグヤがそんな彼女の真っ赤な頭をつついた。


『っ、なにすんのよ!』

『物言いに関する指摘はしないつもりでおりましたが、一言だけ』

『はあ? なによ、あたしたちは――』

『私の姫を侮辱するような言動は許さぬぞ、たかだが蜥蜴とかげの分際で』

『……なっ』


 カグヤの翡翠の目には、明確に怒りが宿っていた。

 そんな表情を見るのは綺光も猫もはじめてだったので、驚いて言葉を失った。


『私たちは<天空属てんくうぞく>。――お前たちとどれほどの差があるか、よもやわかっていないわけではあるまい?』


 威圧する口調だった。滅多に言葉を崩さないカグヤの物言いに、綺光は彼女が本気で怒っていることを悟った。己のことを慮ってだろう。やさしさゆえだ。

 ホムラのほうは青褪めて、呆然とカグヤを見つめているだけだった。


『あ、あたしはべつに……そんな、……つもりじゃ……』


 ホムラの言葉は尻すぼみになっていく。カグヤの射抜くような視線は変わらない。


『では今後はよくよく気を付けるように。……良いな?』


 ホムラは怯えながらこくりと頷いた。親に説教されている子どものようだった。

 綺光はすこしだけホムラが不憫に思えたので、ホムラとカグヤの間に割って入った。


「カグヤ、そのあたりにしてくださいまし。ホムラだって叱咤激励をしようとなさっているわけですから。侮辱の意思なんてございませんよ」

『……愛しい子』

「ね、ホムラ? 私のことを考えて厳しく言ってくださったのですよね?」


 泣き出しそうな顔のまま、ホムラは再び首肯した。

 カグヤは『――ならいいですけれど』と言ってふいとそっぽを向いた。

 ホムラが涙目で綺光を見上げる。


『……た、種火ちゃん~!!』

「へ? あ、あぁ……怖かったのでございますね、よしよし」

『あんなに怒らなくたっていいじゃない~!! うええーん!』


 ホムラは綺光に縋って泣き出した。これではカグヤのほうが悪者である。

 カグヤは心外だと言うように目を見開いて振り返った。


『な! 火の善き隣人たるものがこの程度で泣くんではありません!』

『うええん! こわかったよう~!』

『ちょっと! まるで私がいじめたみたいに……な、泣きやみなさい!』

『ふえええん!』

『そ、そんなに言ってませんでしょう!』


 あたふたと焦るカグヤにホムラの頭を撫でる綺光。そして大泣きするホムラ。

 なんとなく喜劇のような光景が出来上がった。そこに、


『ワガハイたちはなにをしにきたんだったっけ』


 というひどく冷静な声がかかった。

 それは猫の〝友人〟である水の精霊のコハクだった。シャイな彼はふだん表に出てこない。その声は猫の後ろ脚をぐるりと一周する形で施されている刺青から発せられていた。刺青の状態でしゃべることはほとんどないけれど、今回は目に余ったのだろう。

 三人の姿を見ながら、猫はくしゅんっとくしゃみをした。


 ◇◆


 ホムラはなんとか泣きやんだ。怪我の功名か、根気よく綺光がホムラを慰めたことで、最終的にホムラは綺光のことをとても信頼するようになっていた。カグヤは不本意そうだったが、精霊が魔女を信頼することはより強い力を発揮する絶対条件である。悪いことではないので、なにも言わなかった。


「……とりあえず。……どう、する」


 猫はまた、綺光の腕のなかにいた。機嫌を良くしたホムラが綺光をあたたかくしてくれているので、そのおこぼれを預かっていた。コハクは少々不満そうに『……ワガハイ、熱いのきらい』とこぼした。


「雪の女王は言っておりました。――〝お前の出番はもうない〟と。しかしながら語り継がれている物語はそうは終わりません。アンデルセンが描いた物語はカイの凍り付いた心をゲルダの涙が溶かして大団円……。この流れに沿うのであれば私はマッドを想って涙を流さねばならない」


 眉間に皺を寄せながら言う綺光に、猫がなんとなく心情を察して訊ねた。


「……流せる、……のか?」


 綺光は数分の沈黙ののち、


「……正直、そこがいちばん難しい……」


 と答え、頭を抱えた。

 マッドのことを想うにしても、彼との思い出は常に下品な言動と底抜けた狂気に満ち溢れている。くわえて、離れ離れになったこともないのでなにを想って泣けばよいのかわからない。

 しかし<悪魔の鏡>を抱えているマッドを取り戻さないとここから出ることはできない。


「……マッド……」


 孤独だった幼少期、カグヤが命を吹き込んで動き出したたったひとりの友だち。

 なぜあんな風になってしまったかはわからない。わからないけれど常に明るく寂しい自分を慰めてくれた。最後まで隣にいてくれた愛すべき相棒。不器用なやさしさで自分を支えてくれていた大切な存在――。

 じわじわとせり上がってくるなにかを感じて、綺光は


(あ、うまくいきそう……)


 と思ったのだが。


 ――キャハヒヒヒッ、ナニが!? うまく!? イキそう!? だってェ!? ヒヒッ!!


 よく知る思い出のマッドが切ない気分をぶち壊してきた。

 綺光は真顔に戻る。それから、


「……ふだんの行いって大切でございますねえ」


 としみじみ呟いた。


 ◇◆


 綺光は本物のカイを差し出せばマッドを手放してくれるのではないか、という考えに至った。

 悪役のような発想だと思ったが、それくらいしか解決策がなかった。

 一同は城を離れて、町に出向くことにした。カイとゲルダのいる町だ。町のひとたちにふたりの居所を訊ねると、ふたりはここにはいないと言われた。


「え? どちらに……?」


 果物を売っている店の店主は顎髭をさすりながら言った。

 ふくよかな体格で見るからにお人好しの風貌だった。突然現れた綺光と猫に対して特に警戒心を抱いていなかった。


「ふたりとも結婚してね、隣町に引っ越したよ」

「け、結婚?」


 思わぬ単語に綺光は目を見開いた。


「ああ、去年くらいだったかなあ……まあずいぶん仲が良かったし、町中みんなでお祝いしたよ」


 なあ、と隣にいた妻に声をかけた。妻は「ええ、それはもう盛大に」とうれしそうに言った。

 綺光はカグヤを振り返った。カグヤは厳しい表情のまま言った。


『……物語を基盤とする<異世界>の<宝物>というのは所謂〝時間の守り人〟。進む時間を御するようできています。しかしながらそれが奪われれば、物語は自由に進んでいく……本来であれば同じところをぐるぐると回るはずだった時間は、<宝物>を失ったことで進んでしまい結末が変わってしまっているのです』

「……周回を止めて、先に進みだしているというのですか?」

『ええ。だからこそ、婚礼の準備などということが実在しているのです』

「……」


 カイとゲルダは結婚している。マッドを返してもらうためにカイが必要。

 ――つまり、夫婦を一時的に引き離さねばならない。

 物語の上では心の凍り付いたカイをゲルダは捜しに出かけるが、その途中で魔法使いのおばあさんに出会って探していたことを忘れてしまう。ゲルダは薔薇の花を見つけて自身の目的を思い出して再び旅へと戻り、道中王子と王女から馬車をもらい受け、山賊の娘と出会って……と途方もない話だ。案外長いお話である。つまりそれは長期間、カイとゲルダは離れ離れということを意味した。

 会えない苦しみがいかなものか、綺光は理解している。置いていかれるのはどうしようもなく寂しくて苦しい。


「……仕方がありません」


 綺光は腹を括ることにした。


「私がゲルダになりましょう」


 ◇◆


 目が覚めて懐かしい感覚にマッドは目を細めた。

 瞼の感覚と手足の感覚。骨と筋肉、それから空っぽの体。

 マッドは腕を伸ばした。その先には、指が五本ついている。


「……ア? アァ……こいつァ」


 マッドは体を持ちあげて、今自分がぬいぐるみの姿ではないことを確認した。見目は彼――地下の鍾乳洞で帰りを待つ触手の鬼――にそっくりだった。違うところは髪の色と右目を覆う首だけうさぎの眼帯。あとは上半身の中央を横断する縫い目と腹のなかに満ちる<宝物>の気配だろうか。

 マッドはひとの姿になっていた。もとがぬいぐるみなのでここが寒いのか暑いのかわからない。体温を感じないからである。


「……ンでぇ? こりゃアなんだ?」


 マッドは自分が起き上がった場所を振り返った。

 そこはベッドで、隣には穏やかな表情で眠る娘がいた。娘は服を着ていたが、それなりに薄着だった。体の線がしっかりと出ている。けれどマッドはなんとも思わなかった。


「……ヒヒッ、しっかしひっさしぶりだなァこれは……」


 マッドがひとの姿になるのは、霊力を分け与えられたときと主の緊急事態のときのみだ。最近の主は早々緊急事態にならないので、今回の変身は前者だろう。


「あ~……調子出ねェなァ……俺ァ、ひとの姿キライなんだぜぇ?」


 主の想い人とそっくりになった自分が苦手だった。そしてはたとマッドは気付く。

 主がいない。ということは、現在主は丸腰である。これはいけない、とベッドから腰を上げたところで、


『どうしたの、カイ』


 冷ややかでありながらも凛とした声がした。

 マッドがそちらへ視線を向けると、少女が起きたところだった。真っ直ぐに自分を見つめる瞳には恋慕の情が見て取れた。なにゆえかは知れないが。

 真っ白な長い髪に白い瞳。全身に白を纏った美少女だった。

 マッドは眉間に思いっきり皺を寄せて、


「カイってのはダレだ」


 と問う。すると少女、雪の女王は首を傾げたままマッドを指さした。


『なにを言ってるの? あなたのことよカイ。私の愛しいひと』

「カイ? オレサマはそんなギョカイルイみてぇな名前じゃねェよ。オレサマはマッド。ディヴィル=サー=マッドだ」


 マッドが言うが、雪の女王は合点がいっていないようだった。首を傾げて頭上に疑問符を浮かべている。


『カイ……? 私のことを忘れてしまったの?』


 雪の女王の瞳が悲しげに揺れた。

 マッドは意味不明だったので、頭を掻きむしりながら言う。


「そもそも出会ってすらねーダロ、テメエのカオなんざオレサマ一回だって見たコトねーぞ」

『……そ、そんな……』


 雪の女王が口を覆って震え始めた。みるみるうちに涙が溜まっていき、ほろりと溢れた一粒が頬を流れた。

 マッドにはそれが悲しみだとわかったが、謝罪する気にはならなかった。仮に忘れていたとしても忘れるくらいどうでもよい人物だったのだろう。だとすれば心を砕く必要がなかった。


『う、うぅ……ひどい……! 私はずっと待っていたのに……!』


 彼女の落とした涙の雫がベッドにぶつかるたびに凍り付いた。マッドはぎょっとしてベッドから飛び退った。


『カイ、私よ。私なのよ……? どうしてわかってくれないの? ゲルダのせいで、私とあなたの幸せな物語はいつでも終わってしまう……だから、だから私は〝時のり人〟を渡したのに……!!』

「〝時の守り人〟ぉ?」


 洟を啜り上げながら雪の女王は言った。


『ま、魔女が……魔女が言ったのよ……? それ、っさえ……っ、な、くなれば……っ、彼は……ッ、カイは……私の一緒に……、なって……ひっ、ぅぅ……くれる、……って』

「……」


 その魔女がだれなのかマッドには見当がついていた。


(あンのクソババア……)


 脳裏で女が笑った。

 その女はこの世のものとは思えぬほど美しい。

 その女は銀色の髪をしている。

 その女の瑠璃色の瞳には赤い薔薇が浮かんでいた。

 マッドは頭を振って幻影を追い払った。


「っは……要するにテメエは、クソババアにダマされたアタマのカワイソーな子ってことね、りょーかいりょーかい。ンで、オレサマひとりじゃここ来られねェハズだからよ、連れてきたデケェチチの女ふたりとにゃんこチャンがいたと思うンだけど」

『……で……? カイがなにを言っているのかわからないけれど、ゲルダなら追い払ったわ』

「ゲルダってダレだよ、ハヤオか?」

『ゲルダはゲルダよ』

「ゲルダなんてナマエのやつはオレサマは知らねェ。知っているナマエは、キミツとカグヤとキヌヤだけだ」

『……さあ。……知らないわ。そんなひと来ていない』


 雪の女王はべそをかいたまま顔を背けた。嘘をついているようには見えなかった。

 けれどマッドの単独行動は不可能だ。なにせふだん寝ているから。マッドの寝床を運ぶ綺光は必ずここに来ているはずだった。

 事実というピースをはめていき、マッドは状況を整理した。


(つまりこいつの言うゲルダってのがキミツってことかァ……? ンだよチクショウ、なンでオレサマ置いてってんだヨ。アイツひとりじゃなんにもできねェってのに)


 媒介となるものがなければ主は持ち得る力を発揮できない。

 訓練すればいずれマッドは不要になるが、主は頑なにそれを拒んでいた。

 その理由は単純で、マッドを捨てたくないという情である。


 ――あの子はやさしいね

 ――この先冷酷になれない子は

 ――死ぬことになるよ


(うるせェ、クソババア。死にぞこないは黙ってロ)


 再び笑い出した幻影を髪の毛をめちゃくちゃに掻き回して追い払った。

 マッドの奇行に雪の女王ははっとなる。それからずいと身を乗りだしてマッドの頬を両手で覆った。


『カイ! もしかしてゲルダになにか呪いをかけられたの!? だったら大変だわ、すぐに私が解いてあげる!』


 雪の女王は人差し指を天に向けて立てた。ほどなくしてきらめきを内包した白い煙のようなものが彼女の指先に集った。それが大きな丸い形になると形が緩く解けて花になった。雪の女王は指を唇に寄せて、ふっと息を吹きかける。白い花弁がマッドの顔面に降り注いだ。


「ぶっ! なんじゃこりゃァ! ナニすんダヨ!?」


 マッドはほこりを払うように手を振った。


『あ……あれ? どうして? 呪いが……解けない?』

「呪いもクソもあるか。オレサマはカイじゃねェって言ってンだロ。それで? テメエが追い返したゲルダは……」


 どこだ、と言葉を紡ぐ前にマッドは閉口した。

 雪の女王の瞳から光がなくなっていたからだ。冷えた感情がマッドにも読み取れた。泣くでもなく怒るでもない表情だった。


『……カイ、やっぱり私たちは婚礼の儀を進めるべきね』


 彼女は立ち上がった。

 それから背中を向けたまま続ける。


「あ? コンレー?」

『私とあなたが結婚して幸せになるの。それがこの物語のほんとうの最後なの』

「ハァ!? イミわかンねェこと言うンじゃねェ!」

『どうして、幸せになってはいけないの』


 雪の女王が言う。

 マッドは答えに窮した。


『私は悪役かもしれないわ。でも、だからといって幸せになる権利が、ほんとうに愛するひとと結ばれる権利があっていいはずでしょう?』

「……」

『私は幸せになる。そのために魔女に渡したの、〝時の守り人〟――<悪魔の鏡>を』


 彼女の目は真剣そのものだった。

 幸せになるためになにかしらの犠牲は必要である。マッドはそのことを知っていた。

 でもわかっていても少女の言う婚礼とやらを執り行う気にはなれなかった。

 元がぬいぐるみだから――ではない。


(オレサマはアイとかそういうの、わかンねェんダヨ)


 ただ愛なるものがあたたかくて苦しいもので、ときに泣きたくなるものであることは十二分にわかっていた。

 主がそうだったから。

 ――でもそれをどうやって差し出すのかは知らない。


「……オレサマはテメエのこと、さっぱり知らねェし好きでもねェ。だからケッコンはでき」

『もういいわ、黙ってカイ』


 雪の女王はマッドの唇に触れた。その瞬間、ぱきんと頭の奥でなった気がした。

 視界が白くけぶる。


『……私は、幸せになるの』


 最後に、少女の振り絞るような声だけが聞こえた。


 ◇◆


 散々だった。綺光はほとんど満身創痍のていであった。猫も話す気力もないのか、黙っていた。カグヤが心配そうにふたりを見守っている。

 ゲルダの役目を果たすため、綺光は彼女の物語に沿って行動をした。――とはいえ、カイ役がもういないので捜すことからだったけれど。


 まずは魔女のおばあさん。ここでゲルダは一時的に記憶を封じられるが、薔薇の花を見て自分の役目を思い出す。という筋書きであるが、この魔女のおばあさんの癖が強かった。

 どことなく人の好さそうな見た目の老婆だろうと想像していたが、まったく違った。若返りに命をかけているマッドサイエンティストで、綺光を見て「血と記憶をまるっと寄越せ」と言ってきた。そんなわけにはいくまい、となんとかすったもんだで抵抗したところ、魔女のおばあさんが机の角で記憶を喪失し、童話に出てくるやさしいおばあさんになって問題は解決した。ここですでにだいぶ消耗した。


 次に馬車を譲ってくれる王子と王女。

 このふたりのもとへは、親切なカラスが案内をしてくれる。しかしこの案内役のカラスはひどい老いぼれだった。道をことごとく間違えた。扉を開けると情交にふける不倫中のふたりに遭遇し、そこにやってきた妻が、夫に愛人がふたりもいることにさらに激情。ここでもまただった。

 なんとか抜けてカラスを追えば、今度は治安の悪い場所で犬に追いかけられる羽目になった。我慢できなくなった猫が牙を見せてカラスを脅して、なんとか王子と王女のところへたどり着いた。ここでひと悶着あったらいやだなと思っていたら予感が的中していた。


 王子と王女は離婚寸前だった。仲違いの真っただ中に客人が来たことで、一応取り繕って挨拶はしてくれたが、ぎすぎすした空気をごまかすことはできていなかった。外面が気に食わぬと王子がぼそっと言えば、王女が反応して文句を言い、それに応戦してという状態ではあったが馬車は貸してくれた。城の外まで喧嘩をする声は聞こえていた。


 それからおいはぎの娘。彼女は無類の女好きだった。一晩面倒を見ると言われて、それに従うと綺光はその晩襲われかけた。すぐに気づいて追い払ったが「そういうおいはぎなのよ?」と開き直られた。綺光は一睡もできなかった。娘は寒くないように防寒着をさまざまにくれた。移動用にトナカイも寄越してくれたが、「対価にあたしと……一晩どう?」と誘ってきたのでトナカイは断った。

 生娘なの、と問われたが逆です、と答えると娘は目を見開いて驚いていた。


「せっかく長い時間をかけて自分の手垢を染み込ませたというのに、他人の手垢がついたと知られたら怒られてしまいますもの」


 明け透けな物言いに赤面したのは寧ろ娘のほうだった。

 娘はすこし考えたあとに対価なしでトナカイを差し出してくれた。なぜ、と問うたが答えなかった。

 おいはぎの娘はどうやら処女らしかった。どうでもよいので綺光はすぐ忘れた。


 そうこうしてやっと城へ舞い戻ってきた。

 城を見上げて、綺光は息を吞んだ。明らかに最初にやってきたときと様子が違った。

 装飾が外装にまで及んでいる。盛大に結婚式を執り行っている風に見えた。


「まさか、もう? けれどマッドが了承するはずが」

『気を付けて愛しい子……力の高まりを感じます』


 綺光が警戒すると猫も目を細めて城を睨んだ。

 なかへ入らねばと綺光が正門へ向かうと、扉が勢いよく開いた。猛吹雪のなか現れたのは二頭の真っ白なホッキョクグマがひくそりに乗った新郎新婦だった。

 純白の花嫁衣装に身を包んだ雪の女王とその傍らで笑い合う白いスーツの男。男の顔は黒い角の彼にそっくりだった。子どもっぽい柄の眼帯と棘のついた首輪はその様相には不釣り合いだった。


「……マッド……!!」


 綺光は愕然とした。マッドがひとの姿を成しているということは雪の女王の力を分け与えられているということ。即ち雪の女王の手中に収まりやすい状態だった。

 マッドが見たことのない薄ら笑いを浮かべて、雪の女王の細い腰に手を回していた。明らかにふつうではなかった。操られているのは明白だった。

 雪の女王が綺光に気づき、勝ち誇ったような顔で笑った。


『カイは私のものになった。誓いの言葉も交わした。だから、これでほんとうのね』

「……!!」


 ふふ、と笑う少女に綺光は言葉が出なかった。それは〝言葉による契約〟を意味する。

 今のマッドは正式にこの<異世界>における登場人物になってしまったというわけだ。


 マッドがいなければ綺光は<魔法>が使えない。

 それに<悪魔の鏡>は彼の腹の中だ。


(どうすれば……)


 呆然とする綺光の前をホッキョクグマが通り過ぎようとした。しかし、


『きゃああ!!』


 雪の女王の悲鳴が響き渡った。乗っていたそりが横転していた。投げ出された雪の女王をマッドが横抱きに救出していた。見ればそりの一部が凍りついて地面と張りついていた。ホッキョクグマたちは気づいていなかったから、そのまま前に進もうとして横転したようである。


「……絹夜さん!」


 いつの間にか猫だった絹夜がひとの姿になって、その足元にはコハクがいた。コハクの姿はすらりとした猫のそれであるが、その体はあちこち金魚の鱗が浮かんでいる。尻尾は金魚と同じで、靡くたびに金と赤が混ざり合い、美しい色彩変化グラデーションを見せていた。それは絹夜の肌に浮かんだ鱗とまったく同じ色である。

 これは絹夜がコハクの影響でこうなっているわけではない。逆だ。コハクが絹夜のことを気に入って同じような見目を成している。それほどまでにふたりの絆は固いのである。


『この寒さだからネ、水まけばすぐ凍ってくれるヨ』


 コハクが言った。どうやら絹夜が<魔法>を使ったらしい。


『……だれ、あなた』

『やあ、こんにちは。お日柄もよく結婚日和だネ。でもそのコは君の捜しているコではないし、そもそも君は幸せにはなれないんダヨ。物語を勝手に変えるナ、語られたるモノ』


 コハクの声はおどけているようで真剣だった。

 彼は水の精霊ウンディーネ。四属精霊と呼ばれる精霊のなかでも代表的で、そして強大な力を持つ存在だ。しかも彼はホムラと同じ――長の分霊である。古き約定を守ろうとする意志は強い。


『幸せになれない……? でもカイは誓ってくれたわ、私に! 愛を!』

『君が心を凍らせたせいだろう』


 コハクが言うが雪の女王は素知らぬ顔だった。

 マッドに寄り添ってぎっと絹夜を睨みつけている。


「……マッド」


 絹夜の声に彼は反応しない。虚ろな目をして雪の女王に微笑んでいた。

 その姿はほんとうにそっくりだった。だから気味が悪かった。


「……取り、戻す」


 絹夜は足に力を込めた。コハクの姿が呼応するように光を纏い、刺青が熱を持った。

 ほのかなあたたかさが集うと足首の周囲に小さな水流が生まれる。絹夜は地面を蹴り上げて空中へ飛び上がると、水流の軌道を想像する。それから、


『――<群衆ぐんしゅう鉄砲魚てっぽううお>』


 一粒の水流が百、千と分かれていき魚の幻影が励起する。鉄砲魚とは実在する魚でその姿を模倣している。鉄砲魚の名の由来は、口から水を噴き出す様をいう。しかし<魔法>の形を決するのは使用者の想像であり創造だ。絹夜は昔名前だけを聞いたとき、名の通りのものを起草した。自らの体で敵を貫く鉄砲のような魚――それらが群れを成して雪の女王へ向かった。


「――<>」


 素早く絹夜が言葉を紡ぐ。それは彼がもともと持ち得ていた力だった。

 <言霊>。精霊を強制的に従わせる言葉の<魔法>だった。この力はちょっとした感情――苛立ちや悲しみなど、ほんとうにわずかな――に左右される。絹夜が単語を区切るようにして話すのは、この<言霊>が発言しないようにするためだった。だれかの心を意図せず操らないように。

 でも戦いにおいてそのような気遣いは不要である。だから絹夜は容赦なくその<言霊>で雪の女王を庇おうとするマッドの行動を制限した。

 見たくなかったのだ。


(紅壽こうじゅと同じ顔……)


 絹夜と紅壽はゲームを通じて仲良くなった。二回目の人生でのことだ。

 彼もまた言葉少なであるけれど、絹夜のことをなんとなくわかってくれて一緒に楽しんでくれる。そして、綺光を心から愛している。

 そんな彼のことを絹夜は慕っていた。まるで兄のようだと思っていた。

 そういう紅壽の面影を纏うマッドが綺光以外を想っている状況が、いやだった。心がむかむかするし気持ちが悪い。

 雪の女王の体が雪の塊のようにぼろぼろと崩れた。彼女は身を守ろうとしなかった。

 その様子に不信感を抱き、絹夜は眉間に皺を寄せた。あまりにも呆気なさすぎると思ったのだ。


「……なに?」

『マッドはカグヤが力を与えた存在ダヨ。ひとの姿に戻すのに相当力を使ったハズだ。加えて心を凍らせたから、彼女に力なんてほとんど残っていないヨ』


 コハクが説明した。

 崩れていく雪の女王を無視して絹夜はマッドのほうを見た。マッドは雪の女王に駆け寄った。なぜだ、と思ったが彼の目は正気だった。雪の解け残りのような彼女の前に跪く。


『……な……ん、で……わた……し、……しあ、わ、せ……』

「――悪ィが、語り草に意思なんざいらねェんだよ。舞台装置が勝手に動いちゃ困るダロ」


 マッドがそう言って、自らの人型を解いた。見慣れたツギハギ人形になったのを見て絹夜はほっと胸を撫で下ろした。それから、


「……綺光」


 綺光はトランクを抱えて座り込んでいた。

 マッドのいない彼女は<魔法>が使えない。言ってしまえば、無能になる。だから邪魔にならないところで戦闘が終わるのを待っていたようだった。

 彼女の目には複雑な感情が浮かんでいた。


「……絹夜さん、申し訳ございません。……あなたに、お任せっぱなしで」

「……ん」


 絹夜は首を左右に振った。


「……手伝う。……と、言った。……のは、俺。……役に。……立てて、よかった」

「……ありがとう」


 綺光が薄く笑ったので、絹夜もぎこちなく微笑んだ。

 マッドが雪の塊になった女王を無言のまま見下ろしていた。


 ◇◆


『マッドを想って泣かずに済んで、よかったですね愛しい子』


 カグヤの言葉に綺光は頷けなかった。カグヤの声もすこしだけ、元気づけるようにわざとらしく上ずっていた。マッドはトランクのなかで静かだ。眠っているからだろうけれど。

 猫が心配そうに彼女を見上げていた。


「……私は母と違うことを……媒介なしで<魔法>を発現できることを、己の美点のように思っておりました」

「……」

「でも……」


 綺光はそこで一呼吸置いた。


「私が『魔女』として生きている以上、避けては通れないのかもしれません。今回のことで痛感致しました」

「……綺光」

『愛しい子……』


 カグヤと猫の声が重なった。

 綺光はふたりのほうに顔を向けて、それからやっぱり、笑った。


 住まいに戻ると、紅壽が開口一番に、「疲れたのか」と訊いてきた。

 なぜわかるのかという問いかけはしない。彼には全部わかってしまうのだと綺光は思った。


「……ええ、疲れてしまいました」

「……休むといい」

「ありがとうございます」


 そういって自室に向かう綺光のトランクのなかからマッドが飛び出す。「マッド?」と綺光が呼び止めるのも構わず、マッドは紅壽のほうへ向かっていく。なにか話すことがあるのだろうとさして気にせず、綺光は自室の襖を開いて部屋のなかに入っていく。

 綺光がいなくなったことを確認してからマッドがにんまりと口角を吊り上げた。


『キャハヒヒヒッ! オマエよぉ……聞こえてるンだろ?』

「……なにがだ」

『ヒヒッ精霊の声だよ、クソイカレ触手野郎。〝見えざる者〟カ……なかなかお目にかかる機会がねェもんだからヨ、オレサマもビックリだゼ』

「……なんの話かわからない」

『キャハヒヒヒッ! いいぜェ、テメエがなァんでヒミツにしてンのかはだいたいソーゾーがついちゃうモンだカラ、言わないでいてやるヨ。でも、バレるぜ? そのうちサ』

「……」


 紅壽は答えなかった。

 マッドは甲高い声で笑いながら飛び去って行く。紅壽は視線を水面に向けた。

 その背後に眼帯の少年穂鬼ほぎが現れた。


「……だそうだぜ、旦那」

「……」


 紅壽はすこしだけ考えてから、無言のまま目を閉じた。

 穂鬼が溜息をつくのが静かに空気に溶けて消えていった。

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