第8話 終章

五鳳ごほう三年(BC55)、丙吉は病に倒れ死の床にあった。恐らく70歳を過ぎていたと思われ、当時としては長生きした方であろう。36歳の宣帝は丙吉の家に見舞い、病床の丙吉と二人きりで後任人事を相談し、そして昔のことを懐かしく語った。


彼らの治世はどんなものだったのだろう。


宣帝は遊侠生活の経験から、武帝時代の失政により横行した盗賊に苦しめられた一般庶民は平和な世の中、つまり治安の維持を一番望んでいることを熟知していた。

それゆえ、王道(儒教)一辺倒ではなく覇道(法治主義)を取り入れ両立させる政治を行ない、形而上の形式にうるさい儒者よりも宦官であっても法律に詳しい者を起用し、《信賞必罰》をモットーとした。


宣帝のこの方針に関してはこんな話がある。

息子である皇太子・せきは幼い頃に母(許皇后)をうしなったせいか、優しいが繊細で感じやすい心の青年に成長し、儒教の理想主義に傾倒してしまい、現実主義者の宣帝から見ると頼りなく感じられていた。


あるとき皇太子は宣帝に進言した。

主上ちちうえ、もう少し儒学者を起用したほうが良いのではないでしょうか」


だが宣帝は、「我が漢では代々覇道と王道の良いところを用いて政治を行っているのだ。儒者どもは『昔は良かったが今は良くない』と理想論を言うばかりだ。理想と現実の区別もつかん奴らの言うことなど聞くだけ無駄だ」と一喝し、「お前が皇帝になったら我が国は衰退してしまうだろう」と嘆息した。


皇太子を長男の奭から次男で才気煥発さいきかんぱつきんに替えようかとまで考えたが、奭が最も愛した亡き許皇后の忘れ形見であることから悩んでいるうちに、奭に息子が、つまり宣帝の初孫が生まれた喜びから皇太子交代は思いとどまった。

渇望し続けた家族への愛ゆえ、冷徹に家族を切り捨て、国家を優先する機関システムに徹することはできなかったのだ。


余談だが、のちに皇太子・奭は即位し、後世元帝げんていと呼ばれる。残念ながら宣帝の予言は的中し、この元帝の儒教偏重政策により漢帝国は緩やかな下り坂をくだってゆくことになるが、それは宣帝や丙吉とかかわりない話であろう。


宣帝の治世の総括に話を戻す。


内政面では減税、食料価格の安定、功績を上げた国民への爵位授与、行政改革による中央と地方の風通し改善、犯罪取締の強化などの政策を行なった結果、武帝時代に疲弊した民力の回復に成功した。

とりわけ、監獄において獄吏が囚人を虐待することを禁止すること、政府専売の塩の価格を大幅に下げたことは、巫蠱の禍のなか監獄で養育され民間で成長した宣帝ならではの施策であろう。


外政面では、武帝時代の生き残りで対匈奴戦の専門家スペシャリストである老将・趙充国ちょうじゅうこくを信任し、大規模な外征ではなく烏孫うそん国との外交戦略により匈奴の内部分裂・弱体化を誘い、匈奴の王のひとりである呼韓邪単于こかんやぜんうを降伏させ西域を安定化させることに成功した。

これら内政外政両面の業績により、宣帝は後世『漢の中興ちゅうこう』とうたわれる程の名声を得ることになる。

派手さはないが人間臭く、熱い血潮と優しさを持つ宣帝を民衆は慕った。

家族との縁は薄かったが、養育者や友人、民衆から愛され、得られた愛の総量としては前漢歴代皇帝の中でも最も多かったと言えよう。



丙吉はというと、高潔で寛容な人柄により尊敬され、名宰相と謳われた。漢書に記録されたいくつかの逸話エピソードのうちのひとつを紹介しよう。


丙吉は、部下が過失を犯してもなるべくかばい、良いところを褒めることが常だった。

丞相専用車の馭者ぎょしゃ(運転手)は酒好きの男で、よりによって丙吉を乗せて運転中に二日酔いで敷物シートへ盛大に吐いてしまった。この大失態に、丞相府の人事担当者は馭者を解雇するよう丙吉に進言したが、丙吉は「酔っ払っての失敗で解雇されたら彼はどこへ行けば良いのだね。単に丞相わたしの敷物が汚れただけじゃないか。どうか我慢してくれないか」とかばい、解雇させなかった。


その馭者は北の辺境出身で、その土地の事情に詳しかった。

あるとき、北方から駅伝の使者が都に馬で駆け込んできたのを見て、持っている旗の色から異民族の侵攻があったことを悟った。

馭者は使者の後を追い、役所で聞き込み調査したのち、丞相府に帰り丙吉に報告し、

「どこそこの責任者の誰それは年老いていて、いざという時に対応が難しいでしょう。辺境の人事についてあらかじめ調べておくことをお勧めします」と進言した。

丙吉が馭者の進言に従い予習した結果、宣帝から緊急招集された際、他の大臣たちが答えられない中で丙吉のみが諮問にスラスラと答えたため、宣帝から褒められた。

あとで丞相府で下僚たちに経緯を話し、「許容できない人材などおらず誰しも長所があるものだ。丞相わたしが馭者を解雇したり、進言を聞かなければ主上へいかに褒めていただくこともなかったのだよ」と語り、人々は丙吉を賢者と讃えたという。



丙吉の死後の甘露かんろ三年(BC51)、宣帝はかつて自分を支えた名臣たちを懐かしみ、麒麟閣きりんかくという建物に11人の肖像画を掲げた。霍光、張安世、魏相、趙充国、蘇武そぶらのなかに丙吉も描かれた。彼らは後世「麒麟閣十一功臣」と呼ばれた。



最後に丙吉の死後ずっと後の逸話で閉じたい。

宣帝も亡くなり元帝の時代、丙吉の家督や爵位は息子の丙顕へいけんがあとを継いでいた。

丙吉が長い単身赴任で息子の教育に携われなかったせいかも知れないが(古代中国の官僚は基本的に単身赴任であった)、丙顕はあまり出来の良くない息子であり、公金横領事件で有罪となり領地と爵位を剥奪されることになった。そのとき、ひとりの年老いたそんという名の元役人が元帝に上書した。


わたくしはその昔、郡邸の小役人で、まだ幼少の先帝陛下が皇曾孫として監獄に収監されたところに立ち会いました。丙吉様は無実の皇曾孫を見て慈悲の心が動き、すすり泣いて傷み悲しみ、手厚く保護し養育しました」と述べてから、今まで明らかにされていなかった詳細な養育の仕方を語った。

そして「臣は年老いており、このまま誰にも語らず墓に入れば丙吉様の善行が世の中に知られずに終わってしまうと思い、言上いたしました。なにとぞご子息の罪を寛大にお許しくださり、丙吉様の家が断絶することのないようお願い致します」と懇願した。


今までこの話の中で語られた丙吉の善行は、実は尊老人の上書により初めてわかったことなのである。

元帝はこの訴えを聞いて涙を流し、「もと丞相の丙吉に我が家は旧恩があるゆえ、その息子を厳罰するには忍びない」と述べ、軽微な罰で済ませて家が断絶しないように取り計らった。


漢書「魏相丙吉伝」の人物評はこう締めくくられている。意訳を述べる。

「古くから国家の君主を元首、家臣を股肱ここうと呼び、名君と賢臣の両者はひとつの身体のように一体であるゆえ、国は栄える。彼らが作った太平の世は歴史に刻まれており、現在に繋がっている。その行ないは決して無駄ではなかったのだ」



《所謂天道是邪非邪》(いわゆる天道とは正しいのか、間違っているのか)

司馬遷の問いにはこう答えたい。


いつの時代、どこの国にでも善人もいれば悪人もいる。ときには悪が跋扈するときもあるだろう。その場合の方がはるかに多く長いかも知らない。

だが善は決して滅びることはなく、心ある人々の行先を照らす闇のなかの道標みちしるべとして歴史に燦然と輝いているのだ、と。〈了〉

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天道の涯 三好長慶 @miyoshinagayoshi

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