第7話 敬天愛人

元々身体があまり丈夫でなかった昭帝だが、ひと月ほど病床に着いたのちあっけなく亡くなった。名君の片鱗を見せていたが、その資質は開花することなく蕾のまま逝去したのは惜しいことだった。

昭帝12年の治世中、霍光がほぼ政治を代行していたので政権運営に直ちには影響なかったが、問題は子を成さずに亡くなったことである。


後継者候補は少なく、重臣会議の結果、昭帝の甥にあたる昌邑王しょうゆうおう劉賀りゅうがが後継に選ばれ、朝廷の使者として丙吉が派遣され、劉賀は長安へ迎えられた。

しかし、この劉賀はとんでもない不良少年で、次期皇帝指名に舞い上がってしまい、まだ昭帝の喪も明けていないのに女性を攫って乱痴気騒ぎを始める始末だった。


さらに悪いことに、昌邑から200人もの家臣を連れて都に乗り込んでおり、これらが霍光ら重臣を排除するクーデター要員なのは明らかだった。こんな危険人物を皇帝にする訳にはいかない。だが代わりの候補もおらず、霍光は頭を抱えてしまった。


その様子を見て丙吉は思った。

天が自分に与えた役割の真の意味はこの日のためだったのだ、と。


丙吉は霍光に面会し、実は故皇太子劉拠の孫が生きており、民間で育ち18歳になっていること、立派な才能と行いで良い評判を得ていることを伝え、昌邑王を廃し病已を次期皇帝に指名すべきだと進言した。


霍光が慎重に調査した結果、丙吉の進言が裏付けられたため、6月、皇太后(昭帝の皇后・上官氏)の名義で劉賀の家臣団を全員逮捕し処刑、劉賀は昌邑に送還された。

そして入れ替わりに病已は宮中に迎え入れられ、皇太子指名を経て名前を病已からじゅんと改めたうえ、皇帝に即位した。中華では古来より皇帝のいみな(下の名前のこと)の文字を使うのは不敬にあたり、文書に使えなくなる習慣があったため、民衆が困らないよう常用外の文字に改名したのだ。

後世、宣帝せんていと呼ばれることになる皇帝の誕生だ。以降、便宜上この話でも宣帝と呼ぶ。


庶民から皇帝へ、あまりにも突然のできごとであった。生々流転せいせいるてんとはこのことであろう。


宣帝即位に際し、霍光は一旦政権を返上しようと申し出たが、実際にそうするつもりはなく表向きそういう体面ポーズを取ったにすぎない。

今まで庶民だった宣帝に譜代の家臣は1人もいない。いわば皇帝見習いに過ぎず、政権を運営できるはずもないのだ。

下手をすると、いや下手をしなくても現行の政権運営者である霍光の権力を削るような素振りを見せただけで、昌邑王のように廃位されてしまう可能性もある。

政治権力とは、肩書があるから握れるものではない。実力を証明し他者から認められたときに初めて肩書が効力を発揮するのだ。

宣帝は皇帝の名を得たものの未だ実を得ていない。これまで通り皇帝への上書は全て霍光を通す、つまり霍光に政権運営を委ねることになった。


余談だが、このとき宣帝が述べた「上奏は全て霍光があずかりもうすように」という言葉が、本邦わがくにの"関白"という官職の語源となったことを付け加えておこう。


にもかくにも新体制が発足し、朝廷は落ち着きを取り戻した。

次は論功行賞ろんこうこうしょうだ。

宣帝即位を支持した功臣たちに報奨が与えられた。

その何十人かの中に丙吉も含まれていた。成長した病已、いまは今上きんじょう陛下に拝謁した丙吉は人知れず胸を熱くした。

しかし、宣帝は自分を推薦したのが丙吉であることを霍光から聞いてはいたが、それ以外のことは知らず、宣帝から見た丙吉は群臣の1人に過ぎなかった。


さて、見習いながらも皇帝に即位した宣帝の目から見て、霍光自身は謹厳実直で信頼できる人物と見えたが、取り巻きの霍一族が権力を笠に着て横暴を振るうのを民間人の頃から快く思っていなかった。強きをくじき弱きを助く遊侠の徒であったのだから当然である。

だが、庶民として様々な経験を積み、物事の道理をよく理解していた宣帝は昌邑王のように無理はせず、時期を待つことにした。


その準備として、また個人的感情としてもやるべきことがあった。離散した近親者を探しだして将来のため与党を形成することであった。なにより、家族の愛に飢えていたのだ。


まず手始めに、民間時代からの最愛の妻・平君を皇后に冊立さくりつした。許皇后である。さらに妻の実家の許一族と祖母の実家の史一族の若者たち、民間時代の遊侠仲間たちを側近に取り立てた。

だが、亡き母である王夫人の親族だけはなかなか見つけることができなかった。


さて、後宮に入った許皇后であるが、民間育ちのうえダメおやじである許広漢の娘として苦労しただけあって、よくできた女性だった。

質素で慎み深く、自分と同世代である皇太后にも献身的に仕え、皇太后や後宮の女性たちの評判は上々だった。だが、これを面白く思わなかった女がいる。霍光夫人のけんだ。


霍光の人生で唯一かつ最大の汚点は、この顕という女を妻にしたということだろう。顕は権力欲の権化ごんげのような女で、現在の一族隆盛に飽き足らず、自分の末娘を宣帝の皇后にして将来の皇太子を産ませることを熱望していた。

しかし宣帝は先手を打ち、平君を皇后に立てた。自分の娘が下賤な宦官の娘の下風に立つなど到底我慢ならず、ヒステリーを起こした。

そして悲劇が宣帝を襲うことになる。


宣帝が即位して3年後の本始ほんし三年(BC71)、平君は第二子を出産した際、急死してしまったのだ。出産の喜びも束の間、直後の悲報に宣帝は呆然とした。またも愛する人がそのてのひらから砂のようにこぼれ落ちてしまった。よくよく家族との縁の薄い男である。

さすがの宣帝もまだ21歳の若者である。悲しみに打ちのめされたせいか、この悲劇の裏に隠された真実に思い至らなかった。


だが、平君の死の状況に疑問を持ったある人が「皇后急死の状況には不審な点がある」と捜査機関に告訴したため、捜査が開始され関係者は拘禁された。

その日の晩、帰宅した霍光は焦った様子の妻からとんでもないことを告白され、卒倒しそうになった。

なんと、妻が女医を使って許皇后を毒殺したというのだ。このまま捜査が進み真相が露見すれば、妻だけでなく霍光も一族も生命はない。とんでもないことをしてくれた。だがあとの祭である。悩んだ末、半狂乱の妻からの捜査を止めてほしいという嘆願に黙って頷くしかなく、大将軍権限で捜査は差し止められ迷宮入りコールドケースとなった。

こうして事件は闇に葬られた。この時点では、だが。



翌年、霍光の末娘・成君せいくん入内じゅだいし、新たな皇后となった。傷心の宣帝は心の傷を埋めるように霍皇后を寵愛したが、子供はできなかった。

霍皇后は贅沢なお嬢様育ちだったため、後宮にあっても服装や車馬を豪勢に飾り、勝手気ままに振る舞った。質素で気遣いの人だった許皇后との違いに、皇太后も後宮の女性たちも落胆したという。


そして3年が過ぎた。地節ちせつ二年(BC68)、絶大な権力者であった霍光が死去し、盛大に葬儀が営まれた。

ついに24歳の宣帝は親政を開始した。即位して6年、側近を育成し、宮中で誰が信頼に値するかよく観察し、準備は万端整っていた。

自分を皇帝に迎えてくれた霍光には感謝していた宣帝だが、彼が死んだ今、横暴な霍一族を野放しにしておくつもりはなかった。


現実主義者の宣帝は、詰将棋のように一手ずつ、着実に霍一族を追い詰めていった。作戦立案を担当したのは、カミソリのように鋭い頭脳の持ち主でありながら、優秀なあまり他人と衝突しがちで地方へ左遷されていたが、宣帝に抜擢され中央に返り咲いた魏相ぎしょうだ。


まず許皇后の忘れ形見である8歳になる長男・せきを皇太子に指名した。霍皇后に子が生まれる前に先手を打った、霍一族への挑戦状であった。

この知らせを聞いた霍光未亡人の顕は怒りの余り血を吐き、娘の霍皇后に皇太子を毒殺するよう指示したが、警戒した宣帝は毒見役に皇太子を厳重に守らせていたため、霍皇后は毒を盛ることができなかった。


次の手は、臣下であれば誰でも霍一族の手を経ずに直接皇帝に上奏できるよう法改正したことで、霍一族は都合の悪い意見を握りつぶせなくなった。


そして第三の手は霍一族から兵権を奪い、許氏や史氏、故張賀の弟で車騎将軍である張安世が軍の指揮権を握るようにしたことだ。


この張安世、かつて民間時代の宣帝(当時は病已)に入れ込んで孫娘を嫁がせようとした兄張賀をたしなめたこともあったが、宣帝は即位後この話を聞き「あのとき将軍張安世掖庭令張賀を止めたのは正しかった」と笑った。張安世が私情に流されず、主君(昭帝)への忠誠のためにそうしたことをよく理解していたのだ。

滅私奉公の権化のような張安世の人柄を宣帝は信頼し、霍光と車に同乗するときは緊張して表情が強張っていたが、張安世と同乗するときは緊張がほぐれ表情も柔らかだったという。


地節三年(BC67)、この頃には密かに調査した報告を受けて、宣帝は許皇后の死の真相を掴んでいた。

政治権力と軍権を奪われ追い詰められた霍一族は、クーデターにより宣帝を廃し、皇帝の座を乗っ取る計画を立てた。

だが、それこそ飛んで火に入る夏の虫であった。

魏相の張り巡らした諜報網に捕捉されクーデター計画は露見し、顕を始め霍一族は全て誅殺され、その首は晒された。

霍皇后は皇太子暗殺を謀った罪を弾劾され、処刑は免れたものの皇后の座から廃され離宮に幽閉、12年後に自害した。ついに平君のかたきを討ったのである。

なお、宣帝の庶民時代に遊侠仲間だった王奉光おうほうこうの娘・王夫人が代わりに皇后となり、皇太子の養育にあたった。


こうして宣帝はついに政敵を排除し、自分のやりたい政治を実行できるようになった。霍一族粛清の立役者である魏相を丞相に、丙吉を御史大夫に就け、宣帝の政治を支える陣容が整った。なお、魏相と丙吉は古くからの親友でもあり、切れ者の魏相と人格者の丙吉は互いを補った。

良いことは続くものである。宣帝の念願であった家族のことがわかったのだ。


宣帝の産みの母である王夫人の母、つまり宣帝の母方の祖母である王媼おうおん(王さんちのばばさま)と、王夫人の兄弟である王無故おうむこ王武おうぶが発見されたのである。関係者数十人への聞き取り調査の結果わかったのは、次のような悲しい事情であった。


王夫人は本名を翁須おうしゅといい、8,9歳の頃から地元の名士である劉仲卿りゅうちゅうけい(武帝の兄である中山靖王・劉勝りゅうしょうの孫)の屋敷に歌舞を習いに住み込んでいたが、13歳になった頃、劉仲卿に騙されて他所よそへ歌舞奴隷として売られてしまったのだ。

売られてゆく翁須を載せた車がたまたま実家の前を通った際、少女は父母へ助けを求めて叫び声を上げた。その悲痛な声を聞いて驚いた王媼夫婦は、娘を取り返すため私財を売り旅費に替えながら後を追い続けたが、とうとう旅費が尽きてしまった。

夫婦が娘と会えた最後の晩、官憲おかみに訴え出てでも必ず取り戻すと言う両親に対し、翁須は「父様母様、それはいけません。劉仲卿様は仮にも皇族、訴え出ても握りつぶされるどころか家族にも害が及ぶでしょう。わたくしのことはお諦めください」と涙ながらに別れを告げ、翌朝連れられて行ってしまった。

両親は家に戻り家財を売り払い、再度手を尽くして探し続けたが、見失った娘の行方はようとして知れず二十数年が過ぎ、夫は3年前に既に亡くなっていた。


翁須の言うとおり、官憲おかみに訴えても到底勝ち目はなかった。実際、権力を笠に着てやりたい放題だったのだろう、村の人々は皆この事情を知って気の毒に思っていたが、どうしてやることもできなかったのだ。

武帝時代の腐敗した貴族の悪辣さをあらわす話である。


売られた翁須は皇太子の舎人けらいに歌舞奴隷として転売され、そこで皇太子の息子である劉進に見初められ妻となり、宣帝を産んだのだ。だが、事態が好転しかけた矢先、巫蠱の禍により内戦が勃発し謀反人の一族として処刑されてしまった。

薄幸の人であった。


宣帝は祖母の王媼、叔父の王無故・王武を都へ招き、親しく話を聞き、共に泣いた。

そしてそれぞれに多大な恩賞を与え、無故と武の息子たちを側近とした。

王媼はその翌年亡くなったが、生きて娘の顛末を知り、皇帝となった孫に会えて静かに余生を過ごせたことは、せめてもの慰めであったろう。


そして、宣帝がずっと知りたかった、自身の幼少期の謎がついに明らかとなる時が来た。

きっかけは元康げんこう三年(BC63)、そくという後宮の(奴隷女)が「自分は皇帝陛下が幼いとき、養育した功があります」と褒美を求めて上書したことだった。


掖庭令による取り調べに対し「当時のことは丙吉様がよく知っています」と則が供述したため、掖庭令が則を連れて御史府ぎょしふを訪問したところ、丙吉は「お前のことはよく覚えている。皇曾孫の養育を早々に放り出して罰を受けた者で、功などないではないか。渭城いじょう胡組こそ淮陽わいよう郭徴卿かくちょうけいに恩があるだけだ」と、にべもなかった。


掖庭令から報告を受けた宣帝は、胡組と郭徴卿の捜索を命令すると同時に則の身分を奴隷から解放し自由民とし報奨金を与え、直接面会した。とにかく少しでも自分の幼少時のことを知りたかったのだ。

なお後日談になるが、乳母だった胡組と郭徴卿は既に亡くなっていたが、遺族に多大な報奨が与えられることになる。


則と面談した宣帝はそこで初めて、丙吉が生後間もない自分を保護し5年にも渡り手厚く養育したこと、己の生命を賭けて処刑命令から守ったこと、そしてそれを決して口外しなかったことを知り、強い衝撃を受けた。

丙吉は自分に仕えて既に11年、自分が育てたとはおくびにも出さなかった。おもえば、丙吉が己の善行を誇ったことが、ただの一度たりともあったであろうか。


――なんという男だ。いにしえの賢人のようだ。

あなたがおれ父亲とうさんだったのか――


宣帝の胸に熱いものがこみ上げた。涙がこぼれるのを抑え、朝議を招集し丞相の魏相に対し、

わたしの幼い頃、御史大夫丙吉から多大な恩を受けたことがわかった。その恩に報いたい。丙吉を博陽侯はくようこうに封じ1300戸の領地を与える。丙吉をここへ呼ぶように」と命じた。

だが、顔を曇らせた魏相から帰ってきた言葉に宣帝は蒼ざめた。

「御史大夫は現在重病で臥せっており、出仕を控えております」


――またも自分の大切な者が掌から零れ落ちるのか。何としても恩に報いなければ。


慌てた宣帝は「今すぐ博陽侯の印綬を持って丙吉の家に行き、存命のうちに首に掛けてくるのだ!」と大急ぎで勅使を向かわせた。丙吉が病で亡くなるかも知れないと気が気ではなかった。


そんな宣帝に、硬骨漢で知られた太子太傅たいしたいふ(皇太子の傅役もりやく)の夏侯勝かこうしょうは言った。

「陛下、心配には及びません。これは死ぬ病ではありません」

宣帝はおもわずカッとして叫んだ。

「なぜそう言い切れる、お前は医者なのか!」

だが夏侯勝は「わたくしは『陰徳(人知れず行った善行)ある者は必ず報いを受け子孫は栄える』と聞いております。報いを受けずに病であるなら死ぬことはないでしょう」と諭し、ようやく宣帝は落ち着きを取り戻した。


夏侯勝の言葉通り、丙吉の病は癒え回復した。しかし、丙吉は宣帝からの報奨を固辞しようとした。

「臣は天命に従ったに過ぎません。虚名を受けるべきではありません」と。


だが宣帝は「朕があなたに報いることは決して虚名などではない。君に固辞されてしまっては朕の不徳となる。今はもう世の中は落ち着いていて、過去にしたことで恐れる必要はないのだ。あれこれ余計なことを考えず、身体を大事にして長生きして朕を支えてほしい」と諭したため、丙吉はあきらめて報奨を受け入れた。


4年後の神爵しんしゃく三年(BC59)、魏相の死去に伴い丙吉は丞相となり、宣帝の治世を支え続けた。

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