幽霊提灯 裏

 その場所に裂け目が表れる前にも、彼らはこちらの世界へと足を伸ばすことがあった。

 世界と世界を繋ぐ綻びの間から、自分たちが作ったものを投げ落としたり、中には人と同じ姿を取って人に紛れる者もいた。

 彼らのような存在を何と呼ぶのか、誰も答えは知らなかった。

 根が悪戯好きなのだろう。ひっそりと、彼らは人の世界に干渉してきた。誰も気がつかなかった。人は長い時間が経った後に、彼らが残した奇妙な遺物や、不可思議な歴史のうねりに気がつき、首を傾げるばかりだった。

 だが、あちらの世界とをつなぐ時空の裂け目と言うべきものが極東の小さな島国に現れても、人は彼らがそれまでなしてきた大小さまざまないたずらが誰のせいかには気が付くことはなかった。

 後に周という識別名を与えられることになるので、彼の名前は周と呼ぶ。

 彼は――周の取った外見が人の青年のものに似ているため、彼と呼ぶ――、仲間たちよりも大人しい個体だった。

 周と同じ存在の中には、裂け目の開くずっと前から人に干渉し、人間に取り入って歴史の流れを変えることを楽しんだり、神と崇められることを面白がるようなものがたくさんいた。そうでなければ、自分たちの世界から出てくる理由などないのだった。彼らの世界は満ち足りていた。

 周は大人しく、人の言葉でいえば内向的な個体だった。

 好きなのは器物を作ることで、それも外の世界と嚙み合って始めて動くような絡繰りを使ったものを作ることに長けていた。

 周のいる世界に、ふとした時に幽霊が迷い込むことがあった。周は幽霊が好きで、幽霊を構成する記憶をいつまでも眺めていたかったから、それを奏でる機械を作った。

 それは後に幽霊提灯と名付けられる。

 幽霊を通して、周はあちらの世界を見ていた。

 幽霊提灯を回すと流れ込んでくるものがあった。それは色彩であり、空気の流れであり、香りであり、それから、周にはない何かを揺らす振動のようなものだった。周には善悪の区別はなかったから、どんな幽霊の記憶も全て心地よかった。

 母に殺された幼子の記憶も、天寿を全うし愛する人に看取られた幽霊の記憶も全て同じく、心地よかった。だが、どの幽霊も、その奇妙な振動を持っていて、周はそれが何なのか知りたかった。

 そうして周は彼の故郷を離れ、人の世界へとやってきた。

 周の抜けてきた裂け目は、ビルとビルの間にある細い小道に通じていた。

 裂け目を抜けるときに、周は人に似た姿を取った。

 多くのものがそうしていて、そうでない者は獣の姿を好んだ。そして、獣の姿を選んだ者の多くは山に潜んで人を脅かすことを好んでいた。

 周たちが何かの姿を真似るときに、髪や瞳の色だけは擬態しきることができなかった。それがあちらとこちらが混ざり合わないことの証明のように感じ、周は体の中心に冷たい風が吹き抜けていくような感覚を覚えていた。それは、幽霊の奏でる奇妙な振動に似ていた。

 周が裂け目を抜けて見た世界には、たくさんの幽霊がいた。

 周が感じたのは落胆だった。

 落胆という感覚を周は知らなかったが、その時に確かにそれを感じた。

 周は幽霊を何か貴重なもののように感じていた。稀に裂け目を抜けてくる貴重なもののように感じていた。だが、それがあちこちにうろうろしている。

 仕方がなく、周はあちこちを歩いた。

 人はみな振り返った。周は美しかった。黒に見える長い髪が光を跳ね返して色を変える様はもちろん、顔の造形もきわめて美しかった。

 だが周はそんなことはどうでもよかったし、同族はみな一様に美しかった。

 目的もなく歩き回るうちに、周はこの世界の言葉と文字を学習した。造作もないことだった。そうして、彼は同族と出会った。

 見目麗しい栄は店内の視線を集めていた。

 真珠の髪の同族はさかえという名前をもらっていた。

 彼は人紛れてカフェのオープン席に腰掛けていて、人間の女を連れていた。

「よお。お前も来たのか」

 周は女の顔を見てすぐに気が付いた。

「死んでいる」

 周は見たままを言ったのだが、しっと栄は人差し指を立てた。

 それが「黙れ」という仕草であると瞬時に理解し、周はそっと栄の横に座った。

「俺の作品だ。必要になったら連絡してくれ」

 栄の目が、虹の色に光った。

 向かいに座る、死んでいるはずの女が、にこりと笑う。造花みたいな笑顔だった。

 栄は名刺を差し出した。

「長居するなら役所に行って住民登録をしてこいよ。名前がないと何かと不便だから。登録してあればこんな風に店も開ける」

 名刺には、電話番号と店名だろう「ヨスガ」という文字が宵闇のような灰青のインクで書かれていた。


 それからまた街を歩いた。生きている人間がいた。同じくらいたくさんの幽霊がいた。栄がつれていた女の他に、死んでいるのに生きているように動くものはいなかった。

 大通りからまた小道に入り、細い通りを歩き回ってその店を見つけた。

 ガラス越しに、狭い店内が見えた。

 若い男が客に何か話している。

 不動産と看板が出ていた。建物を人に商う店のようだった。

 そこにも幽霊が漂っていたので、周はその中のひとつをほんの少し折り取って、幽霊提灯に入れてみた。どうしてそうしたのかというと、幽霊の色合いがあまりに綺麗だったからだ。そして、あの、か細い震えのようなものが満ちていたから。

 少し離れたところの塀にもたれて、周は幽霊提灯を奏でた。その時はまだ幽霊提灯という名前はついていなかった。

 周が折り取った幽霊の欠片は薄荷味の飴玉のような白と透明の間の色をしていた。

 映しだされた映像は細切れで、そのどれもが、まなざしの先にいる者へと深い愛情と幸福な未来を案じる祈りを捧げ、あの奇妙な振動をはっきりと持っていた。

 幽霊の映像の先で、最初小さは小さく、徐々に大きくなり、犬と呼ばれている黒くて足先が白い獣――タビというのがその獣を他と識別する記号のようだった――と戯れるようになり、制服を着るようになり、スーツを着るようになり、なぜか最後は泣いていた。泣いている顔は、あの店で接客をしていた青年のものだった。これはあの人の親の幽霊なのかとそこで気が付いた。幽霊の残した震えがまだ耳の奥に残っている。

 青年の周りにはまだ他の幽霊が漂っていて、そちらも折り取って幽霊提灯に入れた。

 やはり青年の顔が成長と共に映し出され、無事な成長を願う祈りと愛情とが細やかに展開した。こちらは最後、何かがぶつかるような衝撃音がして、急に映像が消えてしまった。事故だと周はわかった。突然に命が終わってしまった幽霊はこんな風に死の直前の記憶が混入してしまう。幽霊提灯が奏でるのをやめた後も、まだあの正体不明の震えが残った。さっきよりもずっと長く。

 周は思った。これほどまでに愛されて、その先の幸福を祈られた青年はどんな生き物なのだろうか。親というものを持たない周には、彼が特別なのかわからなかった。

 話してみたい。周の中にそういった欲求がわくのは滅多にないことだった。

 会うからにはちゃんとしたほうがいいだろうかと周は思った。

 だから名前をもらってきた。

 役所で漢字の並んだ表を見せられ、どの字がいいかと訊かれた。

 これをと見た目で選んだ文字は「周」で、良い字ですよと絶賛されたが、どの山人にも同じことを言っているのが目に見えた。

 山人というのが周たちの種族を指すことに、周はまた体に穴が開いて冷たい風があの奇妙な振動を伴って吹き抜けるのを感じた。


 そうして周が青年の営む不動産屋を訪れた時、その町には雪が降っていた。

 周は何か用がなければ店に行ってはいけない気がして、理由を探した。

 周はこの姿になったときに選んだ白いシャツに黒いスラックス、それから周りの人間を観察して追加した黒いコートを身につけていたが、そのポケットに栄からもらった名刺が入れてあった。

 店だ。店を持つと言おう。

 周は不動産屋の軒先に張られた物件案内を眺めた。

 町を歩き回っている間に地図は頭に入っていた。周たちにはこの程度は造作もない。それと紙の上に地図を照らし合わせた。

 幽霊提灯が最も色濃く映像を映す場所に近い物件を見つけ、どうしたものかと思案する。一つの建物にたくさんの人が住んでいるところは避けたい。

 沢山の人がいればたくさんの幽霊が表れる。

 そうすると幽霊提灯の音も映像も悪くなる。

 どうやって声をかけようかと思案して、気が付いたら地面にはもう雪が積もっていた。そうか、こちらには時間の流れがあるのだなと思い当たった。

 それに思い当たって、さっき見た徐々に大きくなって最後は青年になったあの幽霊提灯の映像が「成長」という言葉にぴたりと当てはまった。

 この世界の人は、時間と共に姿を変えるのかと腑に落ちた時に、再びあの時に感じた微かな振動が蘇った。

 そうして声をかけたのはそこから半刻も経った頃だった。

「こちらの文字にまだ馴染んでいない。読めないんだ」

 どうして嘘をついたのかわからない。同時になぜかとても嫌な感覚になった。

 嘘をつくということが周を形作る物質すべてに拒否されているような感覚だった。

 二度とやるまいとその時には誓った。

 青年はにこやかに周を招き入れた。

 周たちは人の定めた領域に招かれなければ入れない。

 なぜかその奇妙なルールが定まっていた。

 世界の行き来は容易だというのに、おかしな話だ。


 青年にはもちろん名前があったが、周はその名前を同族の誰にも伝えなかった。

 だからここにも記さない。「彼」と呼ぶことにする。

 彼はおせっかいなのではないというくらいに人の世話を焼いてくれる人間だった。

 周はそれが心地よかった。

 彼が店に来るたびに、朝の光が差し込んでくるようだった。

 彼は周の店で、客がいない時には色々なことを話した。

 人間のありようや、自分の生い立ちのこと。成人してすぐに母が病で死に、数年前に父が事故で死んだこと。店を受け継いだこと。人と話すのは好きだが、賑やかすぎる場所はあまり得意ではないこと。こうやって、だれかと一緒に茶を飲みながら話をするのが好きなこと。それから、周の髪と目の色について。この色によく似た色を持つ美しい蝶や鳥がいること。

 そういう時に、周は心地よさと同時に、どこかに隠れてしまいたい欲求を感じていた。理由はわからなかった。

 周は彼が自分の家へと帰っていった後、彼のいれてくれた茶の匂いの残る部屋で、その日彼と話した記憶を反芻し続けた。それが済むと、彼の近くにいる幽霊から折り取った欠片を幽霊提灯で奏でた。

「幽霊提灯」という名前は彼がつけてくれた。

 幽霊の記憶の中の小さな彼と、少年の彼と、大人になった彼が同一の存在であることに気が付いてから、幽霊提灯の奏でる映像ははっきりした気がする。

 その彼も、やはり愛されていて、それを全力で享受していた。


 ある時、彼のそばいいるはずの幽霊が消えた。

 周は彼の後姿を見て、幽霊提灯を見て、静かに静かに動揺した。

 動揺という言葉と自分のありようが一致したことに、また動揺した。

 削り尽くしてしまったのだ。もう幽霊は欠片も残っていなかった。

 罪深いことをした気がした。罪とは何なのかということも分からないまま、周は何か取り返しのつかないことが始まってしまったのを悟った。


 店にはたくさんの客が訪れるようになった。

 周の店が開くのは夕方からだったから、青年は自分の不動産屋の仕事が終わるとやってきた。帳簿をつけ、客の応対をしてくれる。

「お客は、幽霊の記憶を見たいし、見たものの話をしたいんだ」

 彼は言った。

 たしかに記憶を見終わってすぐに帰る客はほんのわずかで、ほとんどは何度も茶をおかわりしながら見たものの意味を周と彼に話して聞かせた。

「幽霊提灯が回ると妙な感覚になる」

 周は、秋の虫が庭で鳴き競うようになった夜に彼に打ち明けた。

 幽霊の記憶が奏でる映像と風に似た振動の話をした。

 彼は、縁側におろした足をぶらぶらさせて聞いていた。

「ああ、それは、というんだ」

「さみしい」

 周はその単語を繰り返した。

「それは、周りに心通い合うものがなく、もの悲しいという意味の、あれか」

「辞書みたいだな」

 彼は吹き出し、周が笑う意味がわからないと言った顔をしているのを見て、「すまないね」と謝った。周には謝られた意味もわからなかった。

「そうだな。そういう意味でもあるのだが、未来が分かっているから辛いという意味もあるんじゃないかと僕は思うよ。幽霊は、もう二度と会えない。それが分かっているから、悲しい。ただ悲しいんじゃない。また会いたいという叶いようのない願いと混ざり合った悲しさだ。少なくとも僕の寂しさはそういう形をしている」

 彼は空を見た。月は雲に隠れていたが、星は出ていた。

「ここでは、死んだ人が星になるというんだ」

 彼は「鼓星はまだ見えないな」と星を指で数えていた。

「人は死ぬ。そして人は残される。残された者は忘れていく。忘れたくないと思っても記憶は薄れる。この間の紳士の客も言っていただろう。だから少しでも忘れないために、星になったと思って見上げるんじゃないだろうか。幽霊提灯も、そういうものだ」

 言い終わって、彼は少し恥ずかしそうに頭を掻いた。

 彼にはもう父も母も、愛犬もいない。

 それに、両親の幽霊は私が消してしまった。

 周は彼の目を見つめるしかなかった。

 彼の目は穏やかで、朝日のようで、触り心地の良い羽毛のようでもあった。

 その視線の中にずっといたいと思い、その瞬間に周はまた気が付いてしまった。

 彼の幽霊の記憶を何度も見たのは、彼のことをもっと見たかったからだ。

 それから、彼にあんなに愛情深い視線を向け、そしてそれを享受して輝く彼の目を独り占めにしていたものたちを消してしまいたかった。彼を、彼の記憶も含めて、自分のものにしたかった。

 急に体の中心にあの震える風が吹き抜けた。

 寂しさと言う名前を与えられたその風は、あっという間に周の全身を捕らえてしまった。


「それは恋だぞ」

 栄はこの間と違う、ただ見目がいいのは同じ死んでいるが生きているように見える少年を向かいに座らせていた。あのカフェのオープン席である。

「お前は、恋をしているんだ」

 栄は紙巻の細い煙草を吐き出すと呆れていた。

「やめとけ。人は死んじゃうぞ。人みたいな真似はやめとけよ」

 栄の方が周よりもずっと人間じみた仕草と物言いだった。

「恋とは何だ?」

「執着、独占、心拍と血流の増加、それから性的興奮。そんなもんを混ぜて詩的な言葉でまとめたものだ」

 新しい煙草を栄が取り出し、すかさず少年がそれに火を点けた。

「あなたと、その死んでいるのに生きているみたいな少年は恋人ではないのか。前の死んでいるのに生きてるみたいな女はどうした」

 周は前回の失敗を踏まえて、小声で訊いた。

 カップの中の紅茶は冷めている。飲む気にならなかった。彼がいれてくれたものでなければ意味がない。

「前のはとっくに壊れちゃったよ。俺の仕事を言ってなかったっけ。お前、連絡を寄越さないからなあ。あれからもう15年だぞ」

 周は周りを見た。記憶を正確に呼び覚ます。

 見える景色が変わっている。この店も、前と同じ店ではない。内装は同じようにしてあるが、調度品も店員も、テラス席の木目も、植わったオリーブの木も違う。

「これが時間の経過ってものだよ。だから、諦めな。俺たちがこの世界で何と呼ばれたか知っているか?」

山人サンジン

「もっと前だ。時間ってものをさかのぼってみると、俺たちはと呼ばれていた」

 栄は真珠色の中に遊色が瞬くオパールに似た色の目を細めた。


 様々な幽霊の記憶を、幽霊提灯は奏で続けた。

 周は昼間のうちに、新しい機械を作った。自動巻きの幽霊提灯だ。

 幽霊の欠片を絶やさなければ、ずっと記憶を再生しつづける。

 その原動力になる特殊な香も作った。

 香を焚く香炉は、潰れかけた古物屋で見つけた。

 夢を食べるという奇獣を象った意匠の香炉を、周は茶箪笥の上に置いた。


 おかしいなと感じたのは、彼が玄関のわずかな段差につまずいた時だった。

「最近は足が上手く上がらなくて」

 彼は頭を掻いた。困ったときや恥ずかしい時の癖だった。

 周はまた、おかしいなと思った。

 彼の髪がやけに白かったからだ。前は白くなって、また黒く戻っていたのに。

「髪」

「ああ、最近は染めてないんだ。むこうの店もそろそろ畳む」

「畳めるのか、あの店は大きくないか」

「店をやめるんだよ。そういうことを畳むと言うんだ」

 彼はいつものように、周の言葉の間違いをやんわりと訂正した。

「なぜ?」

「歳をとったからね。そろそろ無理はできない」

「成長するのか」

 声に出していた。

 彼の両親の記憶の中で、彼は成長していた。あれで終いかと思っていたが、どうやら人はまだ大きくなるらしい。

「どうかな。成長と言うよりももう、退化かもしれないなあ」

「戻るのか?」

「戻れたらいいなあ」

 来月からは昼間からここに来れるよと彼は言った。


 町がやけに浮かれ騒ぎ、あちこちの店が樅木を飾るようになると、彼は昼間から店にいてくれるようになった。

 周はそれが嬉しく、何か欲しいものはないかと訊いた。

「そうだな、椅子がほしい」

 彼の動きは前よりもぎくしゃくしていて、滑らかさに欠けていた。

 周はまた、おかしいと思った。


 彼が死んでいるのを見つけたのも、また周だった。

 店の戸口のところで、蹲るように死んでいた。

 傍らに紙袋が転がっていて、新しい茶器と茶葉がはみ出していた。

 周は彼を抱き上げて家の中に運んだ。関節はもう固くなりかけていた。

 そして公衆電話で栄に連絡をした。

「彼が死んでしまった。死んでいるのに生きているみたいにできないか」

 やってきた栄は「やめとけって言ったのに」と言いかけ、周がいつにも増して挙動不審なので黙った。今日連れている巻き毛の少女は、笑って佇んでいた。

「血を抜いたら内臓を取り出して代わりに絡繰りを詰めるんだ。こいつにしてほしいことを絡繰りに覚えさせれば毎日同じように動いてくれる。こいつはもう骨も劣化してるから骨組みも別のもので代用する。皮膚は一度溶かして皴を伸ばして、髪は黒く染める。そうすれば見た目も若くなるし……」

 待ってくれと周が懇願するので栄は手を止めた。

 試しに腕の皮膚を裂いて骨の状態を見ようとした時だった。

「やめてくれ、彼を傷つけないでくれ」

「そりゃ無理だ」

 栄は肩をすくめた。栄はこの動作が人の動きの中で一番好きなのだった。

「お前だってこいつにまだしてほしいことたくさんあるだろ。抱きしめてほしいとか好きなことができるんだよ。嫌か?」

「嫌だ」

 周はきっぱりと言って、冷たくなった彼の額に手を当てた。

 次に頬に、最後にそっと唇に触れる。

「いいけどさ。どうすんだ。このままだと腐るぞ」

 周はこの家の家主が鼠に食われた記憶を思いだした。

 甘い腐臭。それが確かに彼の中からもする。

「埋めるか。死体を地面に埋めることを、埋葬っていうんだ」

 栄は庭を指さした。

 周と、栄の連れてきた死んでいるのに生きているように動く少女は、庭に深く掘った穴に彼を埋めた。

 栄はその間ずっと煙草をふかし続け、新しい煙草を取りだすたびに少女は泥だらけの指でそれを火を点けていた。

 真夜中に墓穴はできあがり、彼は埋葬された。

 周は泥で汚れた格好のまま店に上がり、香を焚いた。

 獏というらしい奇獣は、甘い匂いの煙を濃く吐き出した。

 そして、庭に漂っている彼の幽霊を、周はそっと抱き寄せた。

 小さく、できるだけ小さく幽霊を手折って、手回しの幽霊提灯に入れて回す。

 彼は若草色をした欠片だった。

 彼は沢山の記憶を大事にしていた。彼の両親と同じく、ちりばめられた記憶が展開する。その中に、たしかに周と過ごした日々があった。

 幽霊提灯に、幽霊提灯を回す自分が映し出された。

 ――茶を飲むというのは、その空間を共有することを許す意味合いがあるのだな

 周が発した言葉。

 周は手を止めた。すっと息を吐き、漂う幽霊に指を当てた。

 できると確信していた。同時に彼に何度も謝っていた。

 嘘をついた時と同じ苦しみが全身を刻んだが、周は止まらなかった。

 りんごの皮を剝くように、周は幽霊をそっと削った。

 自分の記憶だけが残ればいい。残ってくれ。誰のことも思い出さないでくれ。私もあなただけを記憶しているから、だから。

 すっかり小さくなった幽霊を、周は自動巻きの幽霊提灯に入れた。

 あれから改良を加えて、幽霊が燃えてもまた燃え滓から記憶が再生されるようにした。これならずっと長くつはずだ。

 若草色の幽霊は、ぽっとほのかな炎を上げて記憶を奏で始める。

 周は彼の記憶と同じ言葉を吐いた。

「茶を飲むというのは、その空間を共有することを許す意味合いがあるのだな」

 幽霊は記憶だけの存在だ。そこに、記憶と変わらないものが現れたらどうなるのか。

 おそらく、それが記憶だと認識できなくなる。周はそれに賭けた。

「周?」

 目の前に、彼がいた。今起きたような顔をしてぼんやりしている。

 正確には彼の幽霊が見ている夢だ。幽霊の幽霊。記憶が呼び起こした幻だ。

 栄がそっと出ていく音がした。小さく「それでいいのか?」と皮肉気な声がした。

「なあ、周。あの香はいつから焚いているんだったか」

 ずっとだ、と周はこたえた。おそらくこれから何度もこたえるだろう。

 彼だって、戻れたらいいといったじゃないか。

 彼の指が周の頬に触れた。

 その仕草から、彼はすべて見通しているんではないかという気がした。

 彼は何度も同じ思い出を繰り返す。

 幽霊提灯の中の彼が燃え尽きるまで、ずっと。

 周は同じようにこたえる。

 それは満ち足りていて、たまらなく寂しかった。

 幽霊提灯の中で、若草色の火がゆるゆると燃えている。


 幽霊提灯 完













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幽霊提灯 いぬきつねこ @tunekoinuki

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