幽霊提灯
いぬきつねこ
幽霊提灯 表
幽霊提灯というのは、言ってみれば幻灯機の一種で、提灯のように見える丸く膨らんだ瓶の中に幽霊の欠片をひとつまみ入れてハンドルを回すのである。
すると硝子製の丸みを帯びた筒がくるくると周り、煙の中にその幽霊の記憶がふんわりと映るのだ。
白にほんの少しだけ赤を混ぜたような慎ましい色をした幽霊の欠片は、幽霊提灯の中でやはり慎ましい色の炎に変わった。
そしてその光が映し出したのは丘に咲く芝桜の大群だった。
丘を埋め尽くした薄桃色の花弁を踏まないように、花と同じ色の服を着た女が歩いている。
花は丘を埋め尽くしているから、自然と彼女の歩みは下手くそなステップを踏むことになる。
誰かの、男の押し殺した笑い声が混ざった。
女がこちらを見る。はにかんだように笑う。少し怒ったような、困ったような笑いだ。
——花をね、踏んだら可哀想だと思って。だってこんなに一生懸命咲いているのだから
女の声。
中空を舞い踊る蝶の群れがその前を横切り、部屋に充満する煙の匂いとは違う清浄な甘やかさを湛えた風が女の服の裾を揺らし、吹きすぎていく。
そこで幻は途切れた。
客の老女はささくれた畳に膝をついて泣いていた。
皺だらけで、節の目立つ指が震えている。
えいいちろうさん、だか、せいいちろうさんだか、涙を含んで水っぽくなった声が名前を呼んだ。
女の隣で、兵隊の格好をした男がそっと微笑んだ。
元から劣化したフィルム映像のようにぼやけてノイズかかっていた男はそうして消えた。
「良き思い出をお持ちだ」
幽霊提灯のハンドルを回していた周が、闇に溶けてしまいそうな声で言った。止まっていれば黒のように見えるのに、少し揺らめくと深い青にも碧玉のようにも炎と同じ色にも変わる長い髪が白いシャツの上に垂れている。細面の白い顔に、髪と同じ不可思議な色彩の瞳を持つ周は、人ではない。
「お茶をいれよう」
周は女の残していった紙幣をぞんざいに焼き菓子の入っていたブリキ缶の中に放り込み、台所へと歩いていった。どこもかしこも古びて軋む床を、天音は音を立たずに歩き回る。
私は幽霊提灯の中に入ったままの幽霊の燃え残りを見つめた。爪の先ほどの大きさのそれは桜色の石のような光沢ある欠片で、人工物にも自然物にも見えた。
周の指はその辺りを漂っている幽霊の端を摘み折ることができ、そしてそれを、この幽霊提灯で上映する。
お代は決めていない。その人が払える額を払う。
周は客に憑いている幽霊を削るようにして欠片を取り出し、ただ幽霊提灯を回す。
部屋に漂う甘い煙は、幽霊と相性が良くてスクリーンのような役割をするらしい。
煙は座敷の隅に置かれた茶箪笥の上の、片手におさまる大きさの香炉から湧いている。獏が蹲った形の香炉は滑らかな白い焼き物で、内側で灯る火が、透かしを通して橙色に揺れている。
しばらくして周が盆の上に中国茶の茶器と甘く煮た棗の実を載せて戻ってきた。
やはり足音はしない。長くて今は緑色に見える髪が、サラサラと揺れていた。
少し目を離した間に、幽霊提灯の中の欠片は消えてしまった。
この家には座卓もテーブルもないから、ささくれて日に焼けた畳の上に茶器を広げることになる。
芳醇な中国茶の香りが煙の匂いを押し退けてゆく。
茶器もまた白く、丸みを帯びていて幽霊提灯に似ていた。
「もういいか?」
周は茶器の蓋を取って私に尋ねた。
茶器の中では茶葉が開き、琥珀のような色合いの液体が揺れていた。
「もう少し蒸らしたほうがいい」
そうかと周はこたえた。
茶の淹れ方を周に教えたのは私で、それは周がこの古ぼけた一軒家で幽霊提灯の店を営み始める前だった。
あれはずいぶん前のことのように感じる。
私は目を閉じて記憶を辿った。
あれは何年前のことだっただろう。
私たちの生活に裂け目という存在がすっかり定着したが、裂け目の向こう側からやってきた彼らを目にしたことのない者もまだ多かった。
最初、裂け目は富士の樹海あたりに現れた。
それから数年でさまざまな場所に現れ、そして日常に溶け込んでいった。
その向こうは
彼らの生を取り巻く法則は私たちとは異なっていて、それでも彼らは人を害することはなかった。
彼は死なず、老いず、そして例外なく美しかった。
最初に見つかったのが山深いところだったからか、国は彼らを
私が初めて出会った山人が周だった。
周と出会ったのは、山深い森の中だった——と言いたいが、町の小さな不動産屋の店先だった。
周は店の硝子戸に貼ってある間取りと家賃と駅までの距離が書かれたチラシを熱心に眺めていた。
もう少しで硝子に額がつくんじゃないかというくらいに、体を折り曲げて、精巧な美術品でも眺めるかのような様子だった。
構造色の美しい髪に粉雪がついて、雪の白の下で光が瞬いていた。その雪がいつまでも溶けなかったのを思い出す。
「これは、集合住宅ではないだろうか?」
なぜかガラス戸の向こうに立ったまま、その古くて小さな不動産屋のカウンターに座っている私に周は訊いた。
白い指がひとつの物件を示した。
「こちらの文字にまだ馴染んでいない。読めないんだ」
美しい顔に、子どものように無垢な光の宿った目で見つめられ、私は頭をかいた。頬に血が昇るのを感じながら、早口でその物件を読み上げた。
「それは緑町の一軒家ですよ。中へいらしたらどうですか?雪、強くなっていますよ。寒くないですか?」
「招いてくれ」
周は真っ直ぐに私を見つめた。
青から紫へとゆっくり色を変える美しい瞳。
周は私を見て、そしてガラス戸の引き手あたりに目をやって言った。
「私たちは招かれなければ入れない」
あっと私は声を上げた。
山人にはいくつか決まりごとがあった。そのひとつがこれだ。
「どうぞお入りください」
すまない、と言ってから周は店に足を踏み入れた。
コートの肩についた雪は、少しも溶けていなかった。
美しい山人は、どうやら家を借りたいようだった。
「これは戸建ですね。安いですが
「なにか問題があるということか?」
「ええと、人死があった、そういう家です」
「あなたたちは死ぬのだろう?そして住むところを家というのだろう。誰も死んだことない家があるのか」
外の雪はひどくなってきていて、風がガラス戸を揺らす音もした。それにかき消えてしまうような声だった。か細いのではないが、無理やり人の声に近い音を出しているという感じだ。しかし声もまた、知らない国の楽器のようで耳には心地よかった。
「もちろんみんな死ぬんですが、なんというか、普通ではない死です。殺されたり、死んだ後に弔ってもらうのが遅れたら、そういう死があった家は問題なんです」
「幽霊が出るからか?」
「はい?」
「そういう場所には幽霊がいる。あなたたちの言葉で幽霊というのではないのか?」
私はその時、山人は瞬きをしないのだと知った。
私を見つめる瞳は、今は深い海の底の色をしていた。そこに私まで沈んでいきそうで、私は周の代わりでもあるかのように何度も瞬きをした。
「見えるんですか?」
「あなたたちには見えないのか?」
少し間をおいて、周が尋ねた。
「殆どの人は見えないと思います。さ、山人さんたちは見えるのですか」
私はこの美しい化生の名前を知らなかったので、躊躇しつつ山人さんと呼んだ。
「
「では、こちらにお住まいに?」
「お住まいに、なる」
その言い方がおかしくて、私は笑いを隠すので一生懸命だった。
山人の客は初めてではなかったが、私が店番の時に来たのは初めてだった。
国は彼らを歓迎した。何故なら、彼らが貨幣の代わりに持ってくる品はとても珍しく、価値のある物だったからだ。それはこの国のどのような技術を用いても作ることができず、またこれから先も作れないだろう物だった。
「店を開きたい。許可はもらってある。この家が最も条件がいいのだ」
「何のお店を?」
あまり詮索は好きではない私が質問をしている。
そのことに自分で驚いた。
「幽霊の記憶を売る店を」
周は黒い革のボストンバッグをカウンターの上に乗せた。
そこから出てきたのは。丸い透き通った瓶だった。
提灯のような形で、提灯と違うのは、瓶の上にコーヒーミルのようなハンドルが取り付けてあることだった。
「失礼」
周の長い指がするりと伸びて、私の肩に触れた。
薄氷を踏むような音がした。
周の指には、薄灰色の石のようなものが摘まれていて、周はそれを瓶の中に――どこにも口は空いていないのに――そっと入れた。
ハンドルを回す。オルガン弾きの仕草だ。
すると瓶が回転を始めた。次第に早く、早く、くるくると回っていく。
欠片がぽっと炎を放った。
私の目の前で、その映像が始まった。
――タビ。おいで。
その声はまちがいなく私の声だった。
しかし、声変わりを迎える前の、高くて不安定な声だ。
映っているのは私だ。子どもの私が大きく手を広げて、「タビ」と呼びかけている。
白黒フィルムの色の幻影。これは、犬の視界だ。
私は嬉しくて嬉しくて走り出す。私はこの人のことが好きだ。
好き、いとおしい。守ってやりたい。
私は、少年の頬に濡れた黒い鼻先を押し付けた。
私の意識が、この映像の主と混ざり合う。
「タビ」
私は自分が発した声で、再び人間の私の中に帰還した。
「足先だけ白いから
周が几帳面に訊いた。
それだけで、周もまたあの場面を見たのだと分かった。
「いい記憶だ」
周はふっと息をついた。
音楽を鑑賞するように、あるいは紅茶の香りを楽しむように、周は目を閉じていた。
私は今見たものが消化しきれずに、ぽかんと口を開けていた。
足元に、柔らかな毛並みの感触があり、脛の辺りに濡れた鼻が押し当てられたのがわかる。足の下には板張りの床があるばかりで、かつて私が愛した黒い犬の姿はなかった。
「タビの幽霊?」
つんと鼻の奥が痛かった。
私の記憶に残るタビは、すっかり綻びた犬用の布団に横たわり、苦しげに息を吐く老犬だった。
タビはよく生きたが、最期は痩せて毛艶も悪くなり、白内障で濁った目が痛ましかった。
私が撫でると大儀そうに顔を上げるのだが、「そんなことしなくて良い」とその度に私は俯いてしまった。死の目前のタビの姿が、その前に確かにあった穏やかで満ち足りた幸福を塗り潰してしまい、私はそれを思い出せなくなっていたのだ。
「これが見せるのは、その幽霊を形作る最も大事な記憶だ。あなたはタビに愛されていたのだろう」
周は幽霊提灯を乾いた布で丁寧に拭き、再びしまった。
「今もまだ、タビは私の隣にいるのですか?」
私は問う。もう一度会いたい。
周は頷いた。頷くことが肯定を表す仕草だと覚えたばかりらしく、ぎこちない動きだった。
「だが、これは幾度もは使えない。削るたびに幽霊は消耗する。あなたたちが幽霊と呼んでいるものは、人や場所に刻まれた記憶の一部だ。そしてこれはその記憶を再生してくれる。これを使わなくとも、あなたに既にタビの幽霊は刻まれている。だからもう、使わなくても分かるはずだ」
周の言葉を聞いている間に、幽霊提灯の中のタビの欠片は消えてしまったが、私の心に刺さり続けた寂しさも柔らかく溶けていった。
それが私が初めて見た幽霊提灯の映像だった。
無事に件の家を借りた周は、そこで店を開いた。
そして、私がそこに手伝いがてら上がり込むようになるのに時間はかからなかった。
周は金の管理に無頓着で、店という体を成して人を迎えるための準備も何も1人ではできなかった。
表情は変わらないが、呆然と家具ひとつない居間に立って途方にくれている周を放っておけなかった。
「何も知らないのに何で店を始めようなんてしたんだ」
私が呆れると、周はその静かに色を変える瞳をいつもの色で揺らした。
「あなたたちの記憶が好きなのだ」
客に茶を出すしてみると良い、私は周に助言した。
「茶というのは不思議で、同じ植物の葉なんだ。その後の工程で色も風味も香りも変わる。それから、同じ工程を経て作られた茶でも、その日によって少しずつ淹れ方を変える必要がある」
何を隠そう、私の趣味は茶を飲むことだった。親から受け継いだ不動産屋でも、客には決まって茶を出した。初めて会った時に周にも出したが、周は口をつけることはなかった。飲食は山人には必要ないのだ。
だが、丸っ切り無理という話でもないようだった。
私が店を手伝うようになってから、周は茶を口にするようになった。
「甘いだろう」
私が言うと、「これは甘いのか」と呟いた。
その仕草に、周が人間を理解しようとしている努力が滲んでいて、私はできるだけ丁寧に言葉を選んで話した。
「甘いというものにも色々あるんだ。こっちも甘みのある茶葉だが、さっきのとは違うだろう」
周は別の茶器に入った茶を飲んで、首を傾げた。
考えるとき、人がそのような動きをするのだと、周はあれからまた覚えたようだった。
山人には人と同じような味覚はないらしいが、味の違いを学習することはできるようだった。そうして、周は少しずつ、味というものを知っていった。それに伴って、周は人というものをより深く知っていったような気がする。
「茶を飲むというのは、その空間を共有することを許す意味合いがあるのだな」
幾度目の夏だったろうか。
硝子の茶器を手に、周がそう呟いて、その後長く黙っていたことも、私は覚えている。
客は周のいれる茶を飲んで、見えた映像や、幽霊について話しては帰っていくようになった。
こんなことがあった。
ふらりと現れた身なりの良い紳士は、幽霊提灯の話を聞いてこの店を探し当てたという。
幽霊提灯という捻りのない名前を考えたのは私だ。
どこにもチラシも出さなければ宣伝もしていない、町外れの裏道にある一軒家は、人から人への噂だけを頼りにそこそこ繁盛していた。
周はいつもの通りの表情のない美しい顔で、虚空に手を上げて幽霊を摘みとった。
幽霊の欠片は乳白色で、ミルクのような色の炎になった。
紳士は周が出した茶を飲まなかった。
「早く幽霊を見せてくれ」
幽霊提灯は回り始めた。
周の手で回した時しか、記憶は見えない。
甘い匂いの煙の中に、流れていく海が見えた。
潮の匂いを確かに嗅いだ。
自動車に乗っているのだ。光る海が後方に流れていく。
海辺の自動車旅行というにはいささかゆっくりとした速度だ。
――きれいね。カモメが飛んでいる。
女性の声だった。
幾分か若いが、確かに目の前の紳士だと分かる横顔が見えた。
助手席からの視点だ。
――運転しているあなたが好きよ。とっても私のこと、考えてくれてる。
光を跳ね返す海。
――交通ルールを破れない臆病者なんだ。
紳士の声。
――とても、いいことよ。
好きよ、とまた女の声が呟いて、それに海鳥の声が被さって、提灯は止まった。
「もう一度」
紳士の声が、煙の匂いを切り裂いた。
声は震えていた。その震えは怒りだった。
「もう一度だ」
「できない」
すぐさま周は申し出を却下した。
「幽霊にはその記憶しかない。何度見ても同じだ」
「そんなはずはない!」
紳士は拳で床を叩きつけた。
周は身じろぎしなかったが、瞳が揺れて私を見た。
「御婦人は事故で?」
私は尋ねた。
紳士はゆっくりと項垂れた。
「私の運転する車で事故に遭った。追突されて、そのまま、潰れて死んだ」
「あなたは――」
私は周の口を押さえた。人間には言わないほうがいいことがあるのだ。
周は恐らくこう言いたかったのだろう。
あなたは、安全運転をする人ではなかったのですか。
「自分ではどうしようもないこともある」
私は小さく囁いた。
「もらい事故というものか?」周も小さく囁く。私は頷く。
「あなたは――」
今度は私が言った。できるだけ心を傷つけない言い方を選ぼうとしたが、それは困難だった。すでに心から血を流している人には、そよ風でさえ激痛をもたらすことを、私は知っていた。父も母も、タビも私が愛した人はみんな喪われてしまったから。
「あなたは、奥様に恨んでいて欲しかったのですか」
紳士は応えず、そうしてとうに冷めてしまった茶を口に運んだ。
「だめだ。それでは美味しくない。それは冷やして飲むものではない」
「黙って」
私は周を座らせ、少し待ってから新しい茶をいれてきてほしいと頼んだ。
叱られた子供のように小さくなっていた周は、いそいそと台所に消えた。
「あんな死に方をして、恨んでいないはずがないんです。車体の間に挟まれた妻は、ひどく苦しんで死んだんです。私のことを恨んでくれたらいい」
紳士は、言葉を少しずつ区切って発した。
彼の中で煮えたぎる後悔と怒りと悲しみは、言葉と言う不自由な形では表しきれないのだ。
「幽霊提灯に映るのは、幽霊が一番大事にしていて、自分の核にしたいと願った思い出なのだそうです。奥様は、最期にあなたとの思い出を選んだのではないかと私は思いますよ」
陳腐だと自分でも思った。
だが、その陳腐な慰めが、幽霊提灯の映像と重なって紳士の胸に届いたのかもしれなかった。
周が持ってきた茶を、紳士は今度は飲んだ。
「奥様は、あなたを忘れることはない」
周は茶碗へと茶を注ぎながら言った。
時間が経つと茶器の中で花が開く、花茶だった。
蓮に似た、しかし蓮よりもずっと小さな花がガラスの茶器の中であぶくを出しながら開いていく。
「あなたは恨まれなくとも、忘れられることはないのだ」
周の声もまた、朝露のなかで静かに睡蓮が開く音のように微かで厳かだった。
周には人の気持ちや機微が分からないが、時折こういう鋭いことを言う。
「幽霊はあなたを忘れない。美しい思い出として永遠におぼえている」
周の言葉を聞き終わった紳士は、茶を飲みほして、そこで堰が切れたのだろう。
嗚咽した。
「だが、私は忘れていく。妻の顔も、あれだけ瞼に焼き付いていた死に顔も、どんどん薄れていく」
「忘れることはない」
周がきっぱりと言った。
それがひどくはっきりとしていたので、紳士は虚を突かれたようだった。
「忘れないから、死んだときに思い出が核になる。あなたがたが魂と呼ぶものが、おぼえている」
だから、忘れることに怯える必要はないのだ。
紳士を見送った後、私は周に尋ねた。
「山人に死はあるのか?」
「人の死は細胞が呼吸をしなくなることだろう。私にはそのような現象はない。私たちの記憶は衰えることはない。だが、最近は少し考える。私は幽霊になれない。あなたたちの感情を借りれば、それはさみしいことなのだろうと、最近は思う」
店には、様々な客がやってくる。
幽霊提灯を眺めているうちに、私は炎の色で記憶の種類が分かるようになった。
淡い色で、瓶に入れられる前からほんのり光るのは、柔らかくて愛おしい記憶だ。
透き通っているのは、悲しい記憶だ。
扱いに困るのは、澱んだ赤色の幽霊だった。
この古い家に憑いている幽霊も、赤色の記憶だった。
私がいない時に周が一人で提灯を回そうとしたのだ。
だが、運悪くそこに私が訪ねてきた。
周は居留守を使うとか、無視を決め込むことができないので、結局私を家へと上げた。
それは一人で死んだ年輩の男の記憶で、誰も映らなかった。
この家の、店として使っている床の間がある8畳間の南の壁だけがずっと見えた。
痛い痛い痛い、どうして俺はこんなところで一人で死ぬんだ。
男は、ひどい糖尿を患っていたらしい。足の指に生じた擦過傷から侵入した細菌が彼の足を腐らせるにはさほど時間はかからず、医者を呼ぶ力もなくなった男は、痛みの中で怨嗟を吐き続けた。肉が腐る甘い匂いと、それにつられてやってきた鼠の群れが男を食う湿った音。それだけが延々と続いた。
私は卒倒し、周に水をかけられるまでその部屋で伸びていた。
「死んだのか?あなた、死んだか?」
「死んだら返事はできない」
そんなことを言って起きた。
店はあくまでも店で、善悪で客を分けることはしなかったので、濁った赤色の幽霊を連れてくる客もいた。客がそれに気が付かず、さぞかしい美しい幽霊の記憶を見れるものだと期待している場合には、私が「今日は幽霊提灯の様子が悪くて」とか「店主が急な腹痛で」とかごまかして帰させた。周は腹痛のふりが上手くなり、私は周が削った幽霊の色を見抜くのが上手くなった。
だが、中にはおぞましい記憶を見ることが楽しくてたまらない手合いがやってきた。
私は本当に恐ろしかったのは、彼らが普通の人だったからだ。
女学校の制服を着た乙女が連れている幽霊は、学校の屋上から突き落とされた記憶を映しだした。
地面に衝突する瞬間に彼女は死を悟り、そのわずかな間に絶望し、頭蓋が割れて自分の脳と血が飛び散るのを感じながら死にたくないと叫んだ。
幽霊提灯が止まった時、私はこの乙女がどんなに衝撃を受けただろうかと心配したのだが、彼女は鈴が鳴るような澄んだ声で笑っていた。
「もう一度見ることはできますの?」
周が首を振ると、乙女は「残念」と小鳥のように小さく首を傾げた。
そして、頬を赤らめて「楽しかった」と息をついた。
突き落としたのは、彼女だろう。
そういう客が来ると私は疲れはてた。
そんな時には周はさっと店先の札を「準備中」に裏返した。
そして、あの甘い匂いの香を焚くのをやめて、幽霊提灯を磨き始める。
ガラスに似た透き通った幽霊提灯は少しも汚れているようには見えなかったが、周はそれを柔らかな布で丁寧に磨いていた。
その背に寄り掛かって、私は目を閉じる。
さっき消したはずの、あの甘い匂いの香がまだ空気に漂っている気がする。
「もういいか」
周に再度問われて、私ははっと目を開けた。
長いこと物思いにふけっていたような気がしたが、白い茶器の中の中国茶は湯気をたてていた。
「ああ、ちょうどいい。すっかり上手くなったなあ」
「そうか」
周は茶碗に茶を注いだ。
深い森に似た香りが、甘い香の匂いを揺らし、私は少し眠気を覚えた。
「なあ、周。あの香はいつから焚いているんだったか」
周は私の顔を覗き込んだ。
黒い目が、黒から青へと色を変えた。
「ずっとだ」
珍しく、周の答えに間があった。
私は周の頬に触れた。
体温のない、冷たい肌。
周と出会ったのはいつで、どのくらい長く一緒にいるのか、もう思い出せない。
私は周の膝に置かれた幽霊提灯を見た。
私が映っている。まるでその中に私がいるみたいだなと思い、少し笑った。
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