第二話 カリン

 部活終わりの更衣室。Yシャツのボタンを留めながらあくびをかみ殺した。

「香凛、眠そうだね」

 綾がわたしを見てにやっと笑う。

「ばれた~」

「けどもう帰れるからねっ」

「あ、そうだ。早く帰りたいとこ悪いんだけど、今日ちょっと花屋寄ってもいい?」

 綾が言った。

「ん、いいよ~。何買うの?」

「お父さんが誕生日でさ。なんか買って帰ろうと思って」

「偉っ、私何もしてないわ」

 彩希が大げさにのけぞった。

「そんな、たいしたことないよ」

「あるよ、ある。香凛はなんかしてる?」

「……ううん。何もしてない」

 わたしの変な間に気づいてないのか見て見ぬふりなのか、彩希は「だよね~」と着替えを再開した。


「あ、あった」

 彩希が指さした先に花屋はあった。いつも通る道なのに、目的地以外って思っているより風景と化しているんだななんて考えていると腕を引かれる。

「香凛、行くよ~」

「何の花とか決めてるの?」

「ううん。特には」

「カーネーションとか?」

「それ母の日でしょ」

「……ネットで調べたらさ、父の日には黄色いバラが良いんだって」

「誕生日じゃなかったっけ?」

「あ、でも父の日やってないしそれで良いかも。あるかな?」

 綾はそう言って、店の奥へと足を進めた。

「ん~、なさそう?」

「まあ、父の日シーズンじゃないしね」

「お店の人に聞いてみる?」

 見回してみるけど、そういえば人影がない。あまり花屋に来ないので分からないけど、普通「いらっしゃいませ」くらいあるものではないのだろうか。

「……こちらになります」

「ひょえっ」

 彩希が変な声を上げて飛び上がる。振り向くとエプロンの女性が黄色いバラを手に立っていた。胸元の名札の右上には小さく「店主」と手書きの文字がある。

「いたんだ。店主さん」

 わたしのつぶやきにはスルーで店主、深山さんは話を続ける。

「黄色いバラには、〈美〉や〈思いやり〉という花言葉がある一方で、〈嫉妬〉や〈薄れゆく愛〉といった花言葉も持ち合わせています」

 突然始まった解説に驚きつつ耳を傾けた。

「父の日に黄色いバラを、という風潮があるのは日本だけという話もあります」

 そこから聞いてたんだ。

「え、じゃあプレゼントだめじゃん。他に良い花とかありますか?」

「白いバラには、〈心からの尊敬〉などという花言葉があります」

 心からの尊敬。

「へぇ、じゃあそれにします」

「綾、お父さんのこと尊敬してんだ?」

 彩希がおちょくる。綾はごまかすのかと思いきや「まあね」と照れながら答えた。楽しそうな二人を横目に、わたしは振り払えない靄を胸に感じていた。


「……ただいま」

 目線を落としても父のよれた革靴はない。ダイニングテーブルにはラップのかかった夕飯。

「今日もお父さん、食べてくるって。香凛のは今から温めるからね」

「いいよ。自分でやるから」

 思わず棘った声で返す。母は、ただ微笑みを浮かべているだけ。それもわたしの苛立ちを増長させた。

「お父さんは忙しいからね」

 わたしに言い聞かせているのか母は呟く。


 家はいわゆる「亭主関白」であり、父の思想は「男尊女卑」。しかもそれが行き過ぎている。この時代にしてはとても。幼い頃はこれが当たり前だと思っていた。威張り散らす父に、三歩後ろをついて行く母。女は男を支えるものとまっすぐに信じていた。

 いつだったか、父親と友達のように遊ぶ同級生たちに「かりんちゃんのおとうさんは?」と聞かれて、何も答えられ無かったことがある。それを母に言うと、「お父さんは不器用なだけなのよ」と言われた。それが言い訳にしか聞こえなくて、靄が胸を覆っていって、その頃からわたしは父と距離を置くようになっていった。

「香凛ちゃんはおませだから反抗期が早いのね」なんて親戚は納得していたけど、それとは違うとわたしには分かっていた。


 小学生の時、自分の名前の由来の作文を書くというよくある授業があった。おうちの人に聞いてきてねと言われ、わたしは迷わず母に訊いた。その頃既に父に嫌悪感を抱いていて、子供の名前などと言うものを父がつけるとは考えられなかったから。しかしその予想は外れ、母に「お父さんがつけたのよ。花言葉からとったって言ってたけど詳しくは教えてくれなかった」と言われたわたしは、父に訊くのも癪だったのでネットを駆使した。

 女の子だから花の名前って安直、とむすっとしながら調べると答えはすぐに見つかった。「カリン 花言葉:豊麗、唯一の恋、優雅」。思わず顔をしかめたことは覚えている。あんな父だけど名前には意味を込めてくれてるかもしれないと思ったけれど、結局「女の子らしさ」ばかりなんじゃないと父への期待はそこですべてしぼんだ。

 発表は授業参観だった。やっぱり父は来なくて、母は撮った動画を夜に見せていた。わたしは、父に訊かずに書いた罪悪感からか居づらい空気を感じ部屋を出たけれど、気になってこっそり覗いた。意外にも父はちゃんと見ていて、その横顔が少しだけ哀しそうに見えた。その表情は、なぜか今も覚えている。私の思いが、そう見せただけかもしれないけれど。

 

「何やってんだ木下! お前次はないからな」

 久々に父のいる休日。隣の部屋から怒鳴り声が聞こえる。

「パワハラ」

 叫びたい気持ちをこらえて呟く。会社でもこうなんだなと改めて失望しながら。いつまでも続く怒号は家中に響いていて、耐えきれず家を出た。

 特に行き先も無く、ふらふらと歩いていると見覚えのある道に出た。綾は彼氏とデートだし、と彩希にメールすると「ごめん。お出かけ中」ときた。途方に暮れていると携帯が震え、「暇なら、あの花屋さん行ってみたら?」とメッセージが来た。あの花屋、とはこの間寄ったところだろう。なぜ勧められたのか分からないけどちょうどこの辺だしと行くことにした。

 

 ゆっくり店内を見て回る。特に目当ての物がないと、接客が緩いのもいいのかもなんて思いながら。この間来たときはあまり見なかったけど結構な種類が揃っている。奥には枝ものもあった。

 ふと流していた視線が止まる。隅に置かれた枝に咲く花に、わたしは見覚えがあった。

「カリン」

 私の名前のもとになった花。5枚の花びらはくるんと丸まってこちらを見つめている。でもよく知るその花の姿の違和感に気づいた。

「白い」

「カリンの花というと淡いピンクのものや紅色のものを思い浮かべることが多いかと思いますが、白い花もあるのです」

 この間と同じ。深山さんは突然現れる性質なのだと受け入れるべきなのか。

「そう、なんだ」

「カリンの花言葉は、」

「豊麗、唯一の恋、優雅」

「ええ」

 私が口を挟むと、深山さんは黙ってしまった。気分を害してしまったのだろうか。けれどカリンの花言葉は私も嫌というほど覚えている。

「ですが、白い花にはもう一つ花言葉があります」

「え」

 思わず声が出た。深山さんは構わず続ける。

「〈可能性〉。カリンの実はそのままでは食べられませんが、加工すると薬としての効果があります。そういうところからつけられたのでしょうか。西洋では〈限りない可能性〉ともいうそうです」

 すぐには飲み込めなかった。たくさんの感情が押し寄せてくる。

「なんで」

「なんで?」

「いえ、何でも無いです」

 なんで今頃。なんであのとき、もっと調べなかったの。気づかなかったの。後悔の渦が押し寄せるとともに、それとは相反する感情が生まれているのにも気づいた。

 父は不器用だから、口下手だからと繰り返していた母の言葉を突然思い出す。わたしは、いつからか自分から父を、父と向き合うことを避けていたかもしれない。自分で決めつけて、自分で自分の可能性を閉ざしていたかもしれない。

 目を向けると、あのときから好きになれなかったカリンの花が瑞々しく輝いているように見えた。

「これ、これをください」

 一本の枝を手に取った。ざらざらとした枝の感触が妙に心地よかった。


 この花を持って、家に帰ろう。もしかしたら杞憂で、由来は本当はたいしたことないのかもしれない。でも、訊いてみよう。話してみよう。拭えない靄はあるけれど、〈可能性〉に賭けてみよう。

 こんなに軽い心で家に帰るのは、何年ぶりだろうと思った。

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あなたには、この花を。 咲森 瑤 @sakimori_you

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