抽象的アルゴリズム

 あの後、秋先輩の家に行った。

 夢で聞いた「思い出の化け物」の話。彼女にしてみたが「んー?」と変な顔をするだけで何も言わなかった。

 ……ただ、わかる。彼女と何年も一緒にいたから。

 それが本当は知ってること。ごまかしているのだということ。

 何かをごまかされた経験は何度もある。でもそれは後でいじわるそうに教えてくれた。でも今回は何も教えてくれなかった。

 何だったんだろう……。

 

 そして時間は過ぎて7月の半ば。

 蝉メインのオーケストラが奏でているうるさい曲は どうも耳になじまない。

 がたんがたん。と車の中の揺れが心地よい。

 私は外の風景を眺める。

 いつも通りの住宅街。ところどころに人が見える。どこに行くのだろうか。買い物か。はたまた娘の家に行くのかもしれない。もしくは習い事か。

 私?私は今廃墟に向かっているところだ。

 廃墟。ロマンの塊。

 昔からホラー小説を読んでいるときに感じたあの恐怖。それは廃墟にある得体の知れなさも関係していることだろう。

 そんな得体の知れなさを今、目前にできる。

 写真はどれくらい撮ろう。帰ったらその写真でスケッチでもしようか。廃墟をテーマにしてどんな小説が書ける?小説のテーマは何にしよう。そう……廃墟を探索していると得体のしれない化け物に襲われる。みたいな……。

 夢が広がる。

 きー。と寂れたマンションの前で止まった。

「ありがとうございます。おじさん」

ここまで連れてきてくれたみーのくんのおじさんに感謝をする。

「おーん。じゃ一通り見終わったら戻ってきてくれ。ここでスマホ弄ってるわ」

 ラフな格好をした彼がスマホを片手にもう片方の手をひらひらとさせる。

「わかりました」

ぺこりとお辞儀をして、みーのくんの服を引っ張る。

「行こ」

 するといかにもだるそうにこっちの方を見る

「あい」

今日は休日。みーのくん。こと奥田河努くんとともに廃墟に来ている。

この廃墟はおじさんが昔持っていたマンションだったらしいが、持っていたことを忘れたまま放置していたらしい。そのため役所から連絡が来るまでこのままにしていたそうだ。金持ちの感覚というのはわからないものである。

そのため今日は取り壊すまでに時間があるのでここを好きにしていいよ。とのこと。

そこでホラーがそこそこ好きな私がみーのくんと同伴で廃墟を探検することになったのだ。

「廃墟探索とかだるくない?」

ふぁーあ。とあくびをして、冷たい目線を私に送る。

 私が行きたいだけ。そら何の興味もないみーのくんはだるいだろうなと思いながら答える。

「やってみたら意外と楽しいかもしれませんよ?」

「そうかなぁ」

そんなことを言いながら私の後ろを歩いてくる。

まずは一階。

薄汚れた廊下の隅には、誰も掃除する人がいないのだろう。ほこりがこんもりと溜まっている。

窓ガラスは風呂の曇った鏡のように薄汚れ、まるでここから別の世界に通じているような、この窓ガラスが唯一の現実とのつながりのような、そんな錯覚をしてしまう。

「どっか部屋入ってみます?」

みーのくんを振り返り、聞く。

「なんか怖くない?」

「怖いって。ホラー目的で来てるんですから当たり前でしょう」

夜に来なかっただけ感謝しなさい。と心の中で付け加える。

「いや、そうじゃなくて。なんかこういう廃墟ってホームレスとか、人が住み込んでそうじゃない?普通にやなんだけど」

と、露骨に嫌そうな顔を見せる。

「それもそうですね」

「じゃ帰るか」

さも嬉しそうにみーのくんが言う。

「5階くらいの部屋なら入ってくる人もいないでしょう。そこ探索しましょう」

 途端に彼のテンションが下がる。

 「……めんどくせぇな」

 そうは言っても渋々ついてくるあたりやっぱり彼は私の親友だ。

 「みーのくんが親友でよかった」

 「腐れ縁と呼んでくれ」

 そうして二階、三階。と上がっていく。

どこも同じような風体で、そこそこ汚い。そもそもここの管理人は誰だったんだろう。所持者と同じじゃないだろうし。まともに運営ができなくなって逃げたんだろうか。

逃げる理由。というと色々ある。例えば借金。夜逃げ。嫌だなあと思う。私の周りに借金をしている人がいるわけじゃない。漫画とか、インターネットを見ていると借金は嫌なものだなあと思ってしまう。ただ、私がもし金が無くなったら……借金するかもしれないなぁ。

「みーのくんは借金とかしてます?」

「何で今借金してることを聞くんだよするわけねぇだろ。」

「そうですか」

「これからもしない。あとあと苦労するの嫌だしな。今が楽しければいいって考え方じゃないんだ。俺は」

ふふん。と鼻を鳴らす。

「かっこいいですね」

「お前に言われたくないな」

また途端にテンションが落ちる。何なんだこの人は。長年の付き合いとはいえよくわからない。性格が真反対だからだろうか。

「じゃあもし」

「もし借金したらどう逃げます?」

ぴん。と指を立てて聞いてみる。

「なんで借金して逃げること前提なの?」

目を丸くして聞く。

「もしもの話です」

「もしもかぁ」

「……」

「普通に荷物まとめて逃げるだけだろ。それ以外なんかあんの?」

しばらく考えた割にはずいぶん普通の答えですね。と言いたい気持ちを抑える。

「まぁそうですよね」

もしも。もしも私だったらどうするだろうか。

ただ荷物をまとめて逃げても逃げ切れるかどうかわからない。失うものもそう少なくはないはずだ。それならいっそのこと……。

「いっそのこと。自殺しちゃったらどうですか?」

「なんで俺にアドバイスしてんの?」

「借金しそうだからです」

「そうかなぁ」

自殺。そう自殺ならすぐ逃げ切れる。ぱーっと。私だったらそうするってだけの話。

まぁ借金なんてしないし。そんなことないだろうけどね。

「自殺かぁ」

「借金程度で自殺するなよって思うけどなぁ俺は」

彼は天井を仰ぎながら言った。

「それに自殺って迷惑になるんだぞ?するなよ」

「私はしませんよ」

「しないって言ってるやつがするんだぞ」

「なんですかそれ」

迷惑になる。ああそうなんだろう。最近もニュースで見たことがある。デパートの屋上で自殺者が出て営業が一時停止したっていうニュース。

「だから樹海自殺なんかが横行するんですよ」

「そうだなぁ」

「見つからなかったら見つからなかったで怖いよな」

「うーん」

腕を組んで考え込む。

そういえばここって何で廃墟になったんだろう。

数年前におじさんが買ったマンションならそこまで昔のマンションではないはずだ。おじさん自身もそこまで年を取っているようには見えなかった。

それに営業が停止したというのならおじさんに少なからず連絡は来るはず。じゃあなんで来なかったのか。

「みーのくん」

「なんや」

「ここって今も営業してるんですかね」

「してるわけなくない?取り壊すって言ってたし」

「ですよね」

うーん。とまた悩みこむ。

「なんでここ廃墟になったか知ってます?」

「へ?」

変な声を上げる。

「……人が住まなくなったとか。そういう理由だろ」

「なんで住まなくなったんですかね?」

「俺に聞かれても」

とん。と5階へ続く階段をのぼりながら言う。

「あれ」

「なんですか?」

首をかしげて言う。

「なんかここだけ踊り場多くね?」

「んー」

確かに踊り場が前の階よりも二つ多い。ちょうど階が一つ隠されているようだ。

 みーのくんが踊り場の壁の前に立つ。

「本当はここが5階。とか」

「まさかぁ」

茶化すように言ってみたがなんだか私もそんな気がしてきた。

「隠された階。ですか。ロマンありますね」

「……ちょっと別のところから上がってみるか?」

「はい」

たった。と降りて4階。廊下。

どこも同じ。ただ汚いだけ。

周りをきょろきょろと確認しながら進む。

ただここは違った。

何か廊下の真ん中にぶら下がっている物が見える。

「ん」

近づいてみると、通気口の蓋に、薄汚い茶色の……ロープ?ちょうど何かをかけられるようにわっかになっている。そんなロープが椅子の上にぶら下がっていた。

ちょっと触ってみると埃が落ちた。手をぱっぱっ。と払う。

「なんですかね。これ」

みーのくんも近づいてくる。

 「首吊り縄じゃね?」

「ですよね。そう見えますよね」

良かった。私がホラー脳なだけかと思った。

「でもなんで首吊り縄がこんなところに」

「んー」とみーのくんが首を傾げる。

「もしここで首を吊ったとしたらこの首吊り縄は回収されるはずだろ。……もしここに死体があったら『ああ、ここで首吊ったんだな』ってわかるけど」

「怖いこと言いますね」

そうしてくるくるとロープの周りを歩きながら考える。

椅子がある。ロープがある。廃墟。

多分これだけで自殺する環境は整ってると思うのだが。

「もしかしてこれだけ用意して怖気づいたとかですかね」

「……」

「みーのくん?」

聴いても返事が返ってこない。ぽんぽん。と軽く頭を叩いてみる。「痛い」そんな強く殴ってねぇよ。

「わかった」

ぱっ、と嬉しそうに振り返った。

「これ首吊り縄じゃない。上の階に行く道だ」

「……どういうことですか?」

 私がそう聞くと彼はさも自慢げに話し出した。

「さっき上の階踊り場多かっただろ?だけどその階に入るドアがなかった。つまりここが隠された階への通路なんだよ」

「ほへー」と私にしては珍しく感激する。「ロマンありありじゃないですか」

「どう?行ってみるか?」

珍しくノリノリな様子のみーのくん。ただ、なんとなく彼がテンション高いとこっちのテンションが下がる。シーソーみたいな関係なんだ私たちは。

ただ廃墟探索に乗り気になってくれたのはこちらとしても嬉しい。嬉しいんだけれども……。

「絶対服、汚れますよね」

「……うるせぇな行くぞ」

「やぁだぁ」

嫌がる私の手を引っ張り、通気口を「ガタン!」と開ける。

暗闇。光が一つもない暗闇。

スマホのライトを照らし、みーのくんが上に登った。

「ほら。こい。割と広いぞ。」

「うー……」

地団太を踏む。それでも何もならない。というか服汚れても何かあるわけではない……いや親に怒られるか……。まあそれでもロマンが追求できるというのなら……。

しばらく考えていると私の頭はどちらかというと「行こう」といった方に傾いていた。

「よし」と意を決する。

「うんしょ」と私も椅子とロープを足かせに登る。案外上りやすく、ちょうどよく間がある。つまりこの登りやすさは、誰かがこれまでも登っていた。ということがほぼ確実になった。と言えるのだろうか。

 上に登り、ライトで照らされた場所を見る、と……そこはなぜか妙に綺麗な場所だった。

 「はえ」

 「綺麗ですね」

 「そうだな」

 しばらく進むと何か奥の方に黒っぽい何かがあるのが見えた。

 「なんだあれ」

 黒っぽくて何か液体を垂れ流している。目のような何かが色んなところにあって、それを黒い肉のような物が覆っている。

 そしてゆっくりと蠢き、何かを食らっている。ように見える。

 「きぃ」

 その何かが変な声をあげて……鳴いた?

 その何かがこちらを見た。

 「きしゃあ」

 こっちに歩いてくる。私たちはそれを見て何かを言うまででもなく、後退りする。

 「逃げるぞ」

 みーのくんの声を皮切りに、全力で後ろに走り出す。

 ただその時、逃げられることはなかった。

 ライトの先に道がない。

 代わりに光の点々が私たちを見守るようにそこに浮かんでいる。

 「え」

 地面にライトを当てる。そこも闇。光が届かない。

 「なん……で?」

 「わかんないけど早く逃げましょ!あんなよくわからないやつに追いつかれたら……」

 「なんで」

 暗闇の中で、その声はなぜか一際異彩を放っていた。

 「なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで」

 「え。え?」

 「ああああああああああああああああ」

 みーのくんが叫びながら土下座する。

 「ごめんなさいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい」

 そしてぱっ、と。

 潰れた。

 「は?」

 あまりにも突然の出来事に何も頭がついてこない。

 ゆっくりと振り返る。私の体は震えていた。

 逃げてもきっと同じようになる。私も同じように死ぬんだ。

 「なん。ですか?」

 はぁはぁと漏れる吐息すら今は消してしまいたい。何が「彼」の逆鱗に触れるかわからない。

 「きぃ」

 そうか……これが夢で見た「思い出の化け物」なんだ。

 ふとそう思った。

 今持っているものは……ティッシュ。ハンカチ。そして護衛用のカッターナイフ。

 「……」

 カッターナイフなんか、もし使ったとしても歯が入るわけがない。人間の体にさえ歯が波打って突き刺さらないだろう。

 逃げるのは……無理だ。もう既に前がどっちかわからない。

 ただ、なぜか不思議とそんなに怖くない。いや、あの黒っぽい何かは怖いんだけど、死ぬこと自体。私自身がそれを受け入れているかのように怖くない。

 「きぃ」

 その何かと目が合った瞬間。

 「あ、あああ、ああああああああ」

 口から涎と共に嗚咽が漏れる。

 腹の中から抑えきれないような罪悪感。止まらない。止められないほどのどす黒い罪悪感。

 「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 気がつくと私も土下座をして謝っていた。

 そして気づいた。ああ。私も潰されるんだなと。

 それを認めた。

 それを信じた。

 それが事実であると思った。

 だったならば。

 ここで立ち向かうことはイレギュラーであるだろう。

 心の中で何か黒いものが渦巻いているのがわかる。

 ざー。ざー。と音を立てて渦巻いている。

 途端、体がゴムで弾かれるように、何か強い衝動に駆られた。

 「はああ?」

 喉の奥底から。燃え上がるような声が絞り出される。

 ぴんっ、と跳ね上がるように咲真珠音が起き上がった。

 「なぁにがごめんなさいだ。テメェが言う番だろうがそのセリフはよぉ!」

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