君とのいろいろ

霞(@tera1012)

第1話

「ねえ佑馬ゆうま、これ食べない」


 つんつん、と背中をつつかれ振り返ると、ずずいと目の前に、皿が押し出されてきた。その上には、何やら崩れかけた茶色のかたまりが載っている。


「おい、何だよこの食べかけ」

「えー、チョコレートケーキ」

「最後まで食べろよ、自分で買ってきたんだろ」

「やだあ、太るもん。さーて、サプリ飲まないと……」


 どういうことだ。いつもながら、彼女の行動原理は全く理解できない。

 わざわざ金を出して高カロリーな嗜好品を摂取し、さらに金を出してその脂肪吸収を妨げる気休めを行う。不合理すぎる。


 はあ、とため息を吐き出し、俺はその茶色いかたまりを一口ぶん切り分け、口に入れる。


 うまい。


 何だこれは。この濃厚な甘み、鼻に抜ける芳醇な香り。


「おいしい? 気に入ったみたいだね」


 小首をかしげて、彼女が言う。

 俺は無言でその茶色のかたまりを食べ進める。



 歯を磨いて戻ってくると、沙希さきはコロコロに着ぶくれていた。暖房のきいた室内での異常な厚着で、顔は真っ赤になっている。


「おいお前まさか、サウナで痩せられるとか思ってるクチじゃないよな……」

「え、痩せらんないの? ……いや、これはそうじゃなくて。散歩行こうよ」

「いや俺はいま論文が」

「進んでないんでしょ。気分転換。ほら、すごい、いい天気だよー」


 開け放たれたカーテンの外、まぶしい青空が目に染みる。


「はやくはやく。わたし熱中症になっちゃう」

 

 苦笑いをして、俺はコートに腕を通す。



「わあ、ここ、柿の実がいっぱいなってるね」


 彼女の視線につられて見上げると、確かにそこには、たわわに実をつけたままの木があった。


「どうして取らないんだろ。もったいないねー」

「おい、おまえ……。戻ってこい、他人の庭の木の実を取るのは、犯罪行為だぞ! あとこれは、おそらく渋柿だ。ひとつも鳥につつかれてないだろ」

「えー……」


 未練たっぷりに柿の木を見上げる彼女の手を引いて、急いでその場を離れる。


「渋柿かあ。甘くするの、大変だもんね」


 俺は、渋柿が干すとどうして甘くなるのかを科学的に説明しようとして、口をつぐんだ。3年間もほぼ毎日そのかたわらを通りながら、柿の実の存在にすら気付かなかった人間が得意げに話すことでもないような気がしたからだ。


 沙希の手は、冷たかった。俺は黙って、つないだ自分の手ごと、コートのポケットにその手を突っ込む。

 えへへ、と沙希は嬉しそうに笑った。



 たどり着いた場所は、鮮やかな黄色に染まっていた。


「すごいでしょ。ちょっとクサいけど」


 沙希が鼻をうごめかしながら言う。

 公園のイチョウ並木は午後の日差しを受けて、どこまでもまっすぐ続いている。


「ねえ、これ開けて」


 鼻歌まじりに自販機で買った缶コーヒーを、沙希は俺に差し出した。


「なあ、その爪でプルトップ開けられないなら、スクリューボトルのにしろよ」

「あ、そうかあ、そうだね」


 やっぱり、あたしは駄目だなあ。沙希はまた、えへへと笑う。


「でも、あたしには佑馬がいるから、大丈夫だもんねーだ」


 俺が差し出した缶コーヒーをほっぽり出して、沙希は走り出すと、降り積もった黄色い葉をすくっては投げ上げる。

 道を行く人たちが、ぎょっとしたように彼女を眺める。




 君の奔放さが、天然なのか計算なのか、そんなことは俺にはどうでもいい。

 君はよく、俺がいないとだめだなあ、と笑うけれど、多分、君が思っている10倍か100倍くらいは、君がいないと困るのは、俺の方だ。


 それは、君が絶妙な半熟の目玉焼きが焼けるからでも、俺の裏返った靴下をひとつひとつ戻しながら洗濯かごに入れてくれるからでもない。

 君の唇がいつもぷっくりとつやつやしていて、君の体が抱きしめるとひどく柔らかくていいにおいがするからでもない。いや、それももちろん、あるけれど。


 俺の人生の色のついた部分のほとんどは、君との時間でできている。


 俺は黙って、抜けるような青い空に投げ上げられてはくるくると落ちてくる、おそろしく鮮やかな黄色いかけらたちを見上げ続ける。

 今日は本当に、いい天気だ。

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