第3話

 あれからもうすぐ三十年。

 おれは、親父の転勤で、あのあとすぐに昭島あきしまを離れた。携帯電話も普及してない時代で、おれと小菊こぎくの連絡はそれとともに途絶えた。おれは自動車会社に就職し、エンジンの開発を任された。結婚して、子どもも生まれた。

 そして、何年か前に、いきなり軽量燃料電池の開発部門に回された。会社はカーボンフリーの航空エンジンとして売り出したいという。

 むちゃ言うな、と思った。だれが水素で飛行機を飛ばしたいなんて思うんだ?

 四苦八苦して開発した燃料電池の航空エンジンだが、そんなものが売れるあてなんてあるはずがない。

 ところが。

 そのエンジンの試作品を使わせてほしいという団体が現れたのだ。

 「昭島の空にクジラを飛ばす会」。


 「じゃあ、行きます。いいですね?」

 おれの部下が、多摩川の河原で声を立てた。

 「はいっ!」

 そう元気よく声を立てたのは、プロジェクト代表の女のひとだ。

 「お母ちゃん、早く!」

と髪の毛を後ろにふたつ結びにした女の子が言う。小学校高学年ぐらいだろうか。

 「いや、お母ちゃんが飛ばすわけじゃないんだから」

 プロジェクト代表の女のひとはその子に言っている。それでも、そのお母さんも、浮き立つ心を抑えられないらしい。

 部下は、確認を求めるようにおれの顔をちらっと見た。おれはガラにもなくサムアップして部下に合図する。

 係留索けいりゅうさくの留め金をはずすと、飛行船はふわっと浮き上がった。

 全長は十メートルもない。クジラと言うには小さすぎる。飛ばしていいという許可は取っていないので、ほんの数メートル、浮き上がらせるだけだ。

 米軍の飛行機が飛んでいく低い空よりもさらにずっと低い空しか、まだ飛ぶことはできない。

 それでも、気嚢きのうにふんわりと詰められた水素ガスは、おれのチームが開発した軽量燃料電池の航空エンジン二基を軽く持ち上げた。

 うちの社のスタッフと、その「飛ばす会」プロジェクトのメンバー、合わせて十人ぐらいが拍手した。

 とりあえず、成功だ。

 おれは、ふうっ、と長く息をついた。

 「変わってませんね」

 すぐそばから声をかけられて、おれはびっくりした。

 プロジェクトの代表がおれの横まで来て、並んで立っていた。

 女の子が浮き上がった飛行船に気をとられているあいだに、その子のそばを離れてこっちまで来た、ということだろう。

 「何が?」

 「そうやって深く息をつくところ」

 は、言って、笑う。

 「小菊はずいぶん落ち着いた」

 おれも同じように笑うしかなかった。

 違うと思うんだ。

 昔、おれが深く息をついたのは、この小菊があまりに「空気を読まない」ことを言うからで。

 「約束、忘れないでいてくれたんだね」

 小菊がしっとりした声で言う。

 「約束、って、何?」

 「だから、クジラを飛ばすために燃料電池のエンジン開発してくれたんでしょ? そして、わたしは街の企業とかを説得して、飛行機の街を取り戻そう、とか言って。それで、あのときの夢を実現したんじゃない?」

 いや。

 おれがこのエンジンの開発に関わったのは、そんな理由じゃなくて。

 でも、言わなかった。

 低い空を行ったり来たりするだけの飛行船を、小菊の娘と、たぶん彼女の友だちの男の子が、目を輝かせながら、ときどきはね上がりながら、河原を走って追いかけている。

 二人とも、その姿を追うのに忙しかったから。

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空飛ぶクジラ 清瀬 六朗 @r_kiyose

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