壁の向こうで

@AsumiYumehara

壁の向こうで

「今夜、壁の向こうで、誰かが歌うんだ」

 その言葉が流れ出したのは名もなき若者たちの間だった。それは実に荒唐無稽で、ありうべからざる噂に過ぎないと誰もが思ったが、彼らの壁に対する反抗の態度だと考えれば、そういう噂が流れるということに不思議はない。しかし、嘘か真かも殆どの者は知らないその言葉が、境界の壁を打ち破って目前に立ち現れるとは、あの雲一つない空の暗闇に眩く散らばる星屑が、平生以上に人々の目を惹きつける、一つの夜が引き入れた時間、十二時きっかりに唐突に流れ落ちたラジオの声を聴くまでは、言葉を生み出した張本人でさえも信じていなかったはずだ。

 壁は、人々が生まれた時に既にあった。泣くことしかできない赤子から、歩くこともままならない老人まで、彼らの生活の背景に壁はあり、皆が壁と共に育った。

 壁は大きい。人々を見下ろすように聳え立つ灰色の目、人々はその監視のもとに暮らしていた。何故壁はあるのか、そう注意を払ったり、疑問を抱いたりするものは案外に少ない。壁の存在は世界の常識で、壁があるからと言って生活に不便をするでもなし、人々は壁を受け入れていた。

 しかし、若い中には相応の情熱にかられる者がいる。彼らはつるはしを持ち、勢いのまま壁に向かって打ち付けたが、壁は頑健で崩れるどころか削れもしない。痺れた手に顔をしかめる様子を見て友人らは笑う、やっぱり無理だ。そう、壁は壊れない。

 壁を壊そうと思った者たちにその理由を求めることはまず出来ない。彼らは有り余った情熱のはけ口を求めているのであって、確固とした思想をもって壁に立ち向かうことはない。壁が若者にとって自分の前に立ちはだかる象徴としてあったのは確かだが、結局はただ壊してみたいから壊す、それ以外には何もない。壁の向こうを見てみたいとか、そういうこともない。壁の向こうは壁の向こうであって、一切人々が感知できるとこのものではない、そもそも壁の向こうなんてものが存在するのかすら怪しい、実際にどうかはともかくとして、小さい頃からその規範の下に育ったためか、疑う必要がなかった。

 壁に監視され、壁に寄り添い、壁と共に暮らす、そういう日常に満ち足りていた中に男は現れた。

 初めに声をかけられた青年が抱いた印象は、穢れた小男、それだけであった。ぼろい衣服を身に纏い、顔や手足は煤だらけ、頭髪は乱れ、口の隙間から見える歯は黄色く淀んでいた。

「君、ちょっといいか」

 そう笑う男を青年は当然のごとく無視しようと思ったが、相手は案外に図太くて、いくら離れようと試みてもなかなか振り切れない。かと言って青年の方も諦めるではない。歩く速度を上げたり下げたり、行く方向を唐突に変えてみたり、突然に立ち止まってみたり、色々してみるが男は笑ってついてくる。これはもう暴力に頼る以外になかろうかと青年がため息をついた時に男が発した言葉、

「私は壁の向こうから来たんだ」

 それは青年にとって聞き慣れない言葉で、理解するまでには暫くの時間が必要だったが、何とかその意味を飲み込むと目を丸くした。と言っても、彼がまず考えたのはどうやらこの男は頭がおかしいらしいということである。青年は少し馬鹿にしたように、

「壁の向こうなんて、そんなものはないよ。あるのは壁そのものだけだ」

 すると男は幼子を諭すような優しい表情で首を振った。

「それは君がないと思っているからないのさ。壁の向こうがあると思えば、あるんだよ」

「言っていることが良く分からないな」

「それは君が理解しようとしないからだよ」

「馬鹿にしていやがる」

「馬鹿にしているのは君の方だろ?」

「馬鹿にしているんじゃなくて、お前は馬鹿だ。それが事実だ」

 男は寂しく笑って、「仕方がない」とポケットから一つのカセットテープを取り出した。

「……それは?」

「ここには、君の知らない歌が入っている。壁の向こうの歌だ。君にこれをやろう」

「そんなもの……」

「いいから貰っておけよ。また来週、私は駅前の広場にいるよ」

 男は青年の手にカセットテープを無理矢理押し込んで、去って行った。

「ったく……」

 ぶつくさ文句を言いながら帰った青年は、ベッドに寝転がり、押し付けられたカセットテープをかざして見つめた。何か中身の題名らしきものが書かれているが、読むことは出来なかった。青年の知らない文字なのである。それが手の込んだ芝居の小道具のようで、青年は少し腹が立った。

「下らない」

 とゴミ箱に伸ばした手が直前で止まる。何が彼の手を止めたのか、彼自身にも判断しかねることだったが、最も単純な動機を考えれば好奇心に近い。一回くらい聞いてやってもいいかもしれない、青年は立ち上がり、男から受け取ったものを部屋の隅のラジオカセットに入れる。そして何の気なしに再生ボタンを押した瞬間だった。

 ある友人が居眠りをしていたところに青年が駆け込んできたのは、その数分後の事である。

「おい!起きろ!」

「何だよ突然……うるさいなあ」

「おい、ラジカセはどこだ」

「あ?ラジカセ?」

「あった、よし」

「おい、一体何を……」

「いいから聴け!」

 青年は友人の言葉を遮ってカセットテープを入れ、再生ボタンを押す。そしてそれが動き出した瞬間に、眠そうに目をこすりながら迷惑がっていた友人が、驚天動地の表情を見せた。

「……これは」

 目を丸くさせ、口をパクパクさせながら見つめる友人に対して、青年は得意げに、

「壁の向こうだ!壁の向こうは、ここにあった!」

 男のカセットテープは青年たちの間で即座に共有された。彼らは初めは半信半疑で再生ボタンを押したが、次の瞬間には壁の向こうの存在を信じていた。それは決して快楽とか恍惚に近いものではなかったが、存在自体に彼らの心は射止められた。

「なあ、他のはないのか」

「ない、それだけだ」

「もっと他のも聞いてみてえなあ」

「来週だ。来週、あの男がまた来る」

 駅前の広場に、あの汚い男はいた。青年たちは三人だった。あまり大勢だと人目につくということで絞られた三人だった。最初の青年以外の二人、二番目にカセットテープを聞いた友人とその恋人は、男の見た目にうろたえた。だが、それがかえって壁の向こうから来たということの証明になる気もした。

「待ってたよ、おっさん」

「その様子だと、すっかり信じてくれたんだね」

「ああ、信じたさ。壁の向こうはある!」

「うん、その通りだ」

「それで、他のはないのか」

「あるとも。ほれ」

 男はポケットからカセットテープを三つ取り出し、三人に一つずつ渡す。

「また来週、ここで」

 その時男に渡された三つのカセットテープも、やはり壁の向こうに違いなかった。

 こうして男と青年たちとのやり取りは数回繰り返された。青年たちは壁の向こうの存在を証明するカセットテープを擦り切れるまで回し聴きし、度に胸の内に熱いものが込み上げるのを感じた。中にはカセットテープの内容を覚えて再現を試みる者もいて、彼らはいつでもどこでも随意に壁の向こうを創り上げることを可能にした。その際に特筆すべきは、完璧にカセットテープの内容を模倣すれば壁の向こうを創出できる訳では決してない、という点である。これは酷いと思わせるような拙いやり方が誰よりも壁の向こうを現前せしめることが、時としてあったのだ。青年たちはそのことを不思議がったが、結局理屈を振りかざすことをやめ、壁の向こうとはそういうものであり、壁の内側の自分達にとっては魔術めいた力に見える何かなのだ、壁の向こうならそういうこともあると妙な納得をした上で、なお追究の手は止めなかった。

 そんな中での男の提案であった。

「今度、壁の向こうの人間を何人か連れてきて、コンサートを開こうと思うんだ」

 願ってもない機会であった。壁の向こうの者達自体への興味は勿論の事、その理解のためには逃すわけにはいかない。青年たちは興奮して、すぐ連れてくるように頼みこんだが男は冷静で、

「そう急かすな。準備だって色々ある。果たして本当に来れるかどうか、分かったもんじゃない。とにかく危ない橋を渡ってるんだ。だから、焦らずに」

 だが、その日は案外に早くやって来る。男と青年たちは念入りに計画を練り、周到な準備を進めた。場所として選ばれたのは、教会である。聖職者らしい保守的な態度を持たない柔和な顔をした神父は、青年たちを喜んで受け入れた。

「だが、二時間だけだ。それ以上は危ない。怪しまれる」

 準備も含めて午後二時から午後四時、青年たちは何度も頭の中でシミュレーションを綿密に行い、いざ当日が来ると手足を震わせながらも冷静に、手早く事を進めた。

 午後二時半、男がやってきた。連れてきたのは四人組。全員、男と同じような格好だったが、青年たちは驚くどころか拒否感を示すこともなかった。ただ一人、男を直接知らなかった神父だけがぎょっとした顔を見せたが、そこは仕事で培った寛容さですぐさま受け入れた。

 壁の向こうからやって来た四人組は挨拶もそこそこに自分たちの準備に入り、それを数分で終えた。青年たちは固唾を呑んで彼らの一挙手一投足を見つめていた。そしてコンサートが始まった瞬間、カセットテープで聴いた以上に強く、壁の向こうの存在を彼らは確信した。と言うよりも、その瞬間、その一時間程の時間が一瞬としてある時間、教会は壁の向こうになっていた。彼らは今、壁の向こうにいると知り、激しく心躍らせた。

 最も凄絶な感情に打たれたのは神父である。彼はカセットテープすら聴いていなかった。ただ青年たちの情熱に打たれて場所を貸しただけで、自分自身は壁の向こうに興味すらなかった。だがその日、自分自身が信じていたはずの世界の象徴としての教会において開かれたコンサートから受けた衝撃は心を刺し、否応なしに壁の向こうの存在が刻み込まれた。そして自分が壁の内側にいることに慣れきっていたと、強く思い知らされた。感情の洪水の中で、神父は心身を震わせて、一筋の涙を流した。

「私は、いつから自分が壁になっていたんだろう」

 コンサートが終わって男と四人組が去って行っても、青年たちの興奮は冷めやらなかった。男はまた連れてくると言っていた。彼らはその日が来るのを待ちきれなかった。

「次やる時も、うちを使いなさい」

 温かい目で笑う神父の言葉を、青年たちは有難く受け取った。

 しかし、コンサートは二度と開かれることはなかった。男が消えたのである。

 次の週も、次の週の次の週も、そのまた次の週も、男はいつもの広場に来なかった。青年たちは毎日待ち続けたが、男の来訪はぱったりと途絶えた。初めのうちは純粋に心配していた青年たちだが、新しいカセットテープを入手することも出来ず、コンサートも開かれず、そういう状態でそわそわしている間に、若者らしい移り気な性質からか、壁の向こうに向けられていた熱は驚くほど簡単に冷めていった。

「壁の向こうなんて、やっぱりなかったんだ」

 あれは全部夢だった。そうでなければ芝居だった。

 青年たちは壁の向こうを忘れて、今まで通りの生活に戻って行った。特に何をするでもない、壁の下での普通の生活に。

 だが、一人だけ諦めきれない人間がいた。神父である。

 神父には、若者らしい情熱はなかった。だがそれがかえって壁の向こうへの執心に繋がった。彼の壁の向こうへの思いは決して一過性のものではなく、実りきった思想に裏付けられた信仰の一種であった。当然職業柄の真面目さも手伝っていたろう。彼はどうしても壁の向こうを忘れることが出来なかった。それを覚えておくことは、自分に課された義務だとまで考えた。自分が壁の向こうまで彼らを連れて行く、というような英雄めいた使命を思うような驕りを抱いているわけではない。ただ、壁の向こうの存在というものを人々の記憶から消し去ってはならないと強く思った。そして神父は嘘をつく。彼の教条を破る事になるのは明らかだったが、自分自身が正しく生きる事よりも、他の誰かを正しい方向へ導く事こそが価値あるはずだと考えて、

「今夜、壁の向こうで、誰かが歌うんだ」

 と青年たちに嘘をついたのだ。それは若さからは最も遠い存在の一つと考えられていたはずの神父の反抗の態度であった。

 既に述べた通り、青年たちの熱は冷めていた。それでいてその言葉が一つの噂となって彼らの間に途切れることなく伝わったのは、やはり心の中に期待するものがあったのか、ただ話のネタとして面白おかしく話していただけなのか、今となっては知る由もない。ただ一つ言えるのは、

「今夜、壁の向こうで、誰かが歌うんだ」

 という一つの言葉が、神父から若者たちの間に伝わり、そして彼らから別の世代へといつの間にか伝染し、壁の内側中で誰もが囁く言葉となったという事実である。言葉を知らない赤ん坊、言葉の意味を理解できない少年少女、若者の情熱を馬鹿にする父母や教師、聴力が著しく衰えた老人、床に就き死期を指折り数えて待つ病人。皆が知っていた。皆が囁いた。来る日も来る日も、誰もがその言葉を呟いた。

「今夜、壁の向こうで、誰かが歌うんだ」

 そしてある日の深夜。十二時きっかりに流れたラジオの言葉、つまらない天気予報や交通情報を垂れ流すだけのはずのあのラジオから唐突に流れ落ちた言葉を、神父は勿論の事、青年たち、その家族、孤独に生きる人間も、忘れることはない。そしてまた、壁の内側の人間が皆、その夜はラジオを聞いていたという奇跡を思うのである。

「今夜、壁の向こうで、彼らが歌うんだ」

 神父は寝転がっていたベッドから飛び上がり、服を着替えてすぐに外に出た。透き通る夜空に星々が散りばめられた、冷たい夜である。白い吐息と共に神父は急ぎ足で向かった。壁の下へと。

 辿り着いた時、神父はその光景に驚いた。数えきれないほど多くの——実際に壁の内側の皆が——壁に押し寄せていたのだ。老若男女、皆がその寒さに耐えるように肩を寄せ合って、壁を見つめていた。誰もがあのラジオを聴いて、壁の向こうからやって来る歌を聴きに来たのだ。誰も声を発することもなく、静かに歌を待っている。あの言葉が、真実になるのを待っている。神父はその事実だけで、既に目頭が熱くなった。

 だが、なかなか歌は聴こえてこない。待てど暮らせど、向こうに誰かがいるという気配すらなく、ただただ身が凍えるのを待つばかりだ。神父は焦った。このままでは夜が明けてしまう、周りを見渡せば明らかに苛立ち始めた人々の顔。そのうちに誰かが文句を言いださないとも限らない。そして誰か一人が言い出せば、それは嵐となって巻き起こり、目の前の壁を更に強靭なものに仕立て上げるだろう。そして誰かが言う。

「壁の向こうなんて、やっぱりなかったんだ」

 それだけはいけない。何としても防がなければならない。だが、どうすれば?壁の向こうにいる誰かに歌を歌ってもらうには、どうすれば?冷える頭で考えあぐねた神父が最後に出した結論は、ただ一つだった。

 彼は歌い始めた。

 それは、壁の内側で昔から歌われていた歌だった。神父は初め、壁の向こうの歌を歌おうと思ったが、青年たちと違って彼はそれを覚えていなかった。仕方がないから自分が子供の頃から歌い慣れていて、ただ純粋に好いていた歌を歌った。そして歌い出した瞬間、彼自身が驚いた。その歌は壁の内側のもののはずなのに、壁の向こうそのものではないか。そして、その歌を歌ったことが功を奏した。最初は奇矯なものを見る目でいた周りの人々の中に、共に歌う者が現れた。彼らは声を張り上げて、壁の向こうに届くよう、精一杯歌い上げた。そして、歌う人の数は徐々に増え、遂にはそこにいる者皆が歌い始めた。勿論、嫌々周りを見て歌う者もいる。それでも、一つとなった、決して美しいとは言えないが力強い歌声は夜の冷気を突き飛ばし、空へ舞い上がると壁を乗り越え、向こうに消えた。

次の瞬間、壁の向こうから歌が聴こえ始めた。

知らない歌である。全く聞き覚えのない歌である。だが、確かにそれは一つとなって、壁の内側に届いているのだ。壁の向こうで、誰かが歌っているのだ。そのことに気付くと壁の内側の者達は向こうに負けないよう、一段と声を張り上げた。つられて向こうの歌声も大きくなった。二つの歌声がぶつかり合って、混ざり合って、夜空にぐんぐん上って行った時、その歌声の先に彼らは見た。愛の女神の涙のような、輝きと焦熱を込めた幾億の星が覗く夜空の中、くっきりと壁の上に浮かぶ、赤い髪をした一人の人間。

「スターマンだ……」

 歌いながら神父が、いや、皆がそう思った次の瞬間、壁は崩壊した。どんな力をもってしても、どんな暴力をもってしてもびくともしない凄まじい頑健さを誇っていたはずの壁が、一瞬で、吹けば飛ぶたんぽぽの綿毛のように、軽やかに崩壊した。

 そして彼らは遂に見た。壁の向こう側を。

 そこにいたのは、自分たちと何ら変わるところのない普通の人間だった。見知った男、女、老人、青年、子供。殆ど鏡のように、壁の内側と壁の外側の人々——果たして壁の内側と外側の区別などつくだろうか?——は目を丸くしてお互いを見つめ合った。彼らは歌うのを止め、暫く呆然と向かい合ったままだったが、はしゃいだ子供たちが両側から飛び出し抱き合うと、それに続いて誰もが向こう側に歩み寄って、互いに挨拶をして、互いに肩を組んで、互いに笑って、互いに抱擁して、互いに接吻して、そして皆で一つの歌を歌った。神父は涙を流しながら空を見上げた。丁度、壁があったところに立っていた神父の真上、そこにはもう、誰もいなかった。


 次の日には、壁は当然のようにあった。その頑健さは相変わらずで、有り余った情熱にかられた青年がつるはしを振るっても崩れるどころか削れもしない。やっぱり、壁は壊せないよ、彼らはそうやって笑う。人々は皆壁の内側での暮らしを受け入れて、今まで通りに壁に監視され、壁に寄り添い、壁と共に暮らす。もう誰も、壁の向こうのことを口に出したりはしない。壁は簡単に消えないし、壊してもまたすぐに現れる。そういう世界に生きている。

それはきっと歓迎すべきことではない、だが、悲観することでもない。壁が懲りずに現れるのであれば、何度でも立ち向かえばいい。そしていつか、壁の奴の鼻をへし折ってやればいい。だから、壁にひるむことなく、無視することもなく、ただ誇らしげに、壁の下で今日も歌おう。私達は、壁が壊れたあの日のことを、決して忘れたりはしないのだから。

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