物隙目

鯉川夏代

第1話 友引

「人間辞めたい」

 明け方の四時、散らかった部屋の中の、唯一まっさらなベッドの上で、口からぽつりと溢れた。汚いものは嫌いだけど、何の気無しに床に置いたもの達を退かす労力はなかった。枕元の延長コードは満員御礼。その先に繋がれているのはスマホだけだ。暇つぶしに数冊選ばれた漫画達は、久しく本棚に戻っていない。折り畳み式の机の上には、夕飯のコンビニ飯のゴミが置いてある。煌々と灯りがついたままのこの部屋は、いつぞや誰かが遊びに来た時にデッキに入れたままのライブDVDが流れていた。虫が沸くほどでもないギリギリの生活ラインのおかげで、私以外がこの部屋で生活することはできない。入居前にバルサンを焚いたのが功を奏したのかもしれない。

 疲れていたとはいえ、よくこんな環境で寝られたものだ。いや、こんなことを気にして眠ることができずにいたなら、私の部屋は今頃もっと綺麗だったろう。意識が覚醒すると同時に、身体が固まっていることに気が付いた。上半身だけを起こして、軽く伸びをする。ゴリゴリ、と、骨の開く音が聞こえた。余程変な体勢で寝ていたらしい。心なしか首も痛い。ベッドから手を伸ばしてギリギリ届く場所に設置されている机の上の、半分ほど緑茶の残っているコップを手に取る。コップの結露が溜まった痕があり、中身は温かった。夕飯に食べたおにぎりのゴミをレジ袋に纏めるだけの労力はあったくせに、それを流しへ持って行く労力はなかったのか。今度はベッドから降りて、全身を伸ばす。コキ、と、先ほどとは違う箇所から骨の音が聞こえた。ゴミとコップを流しへ持っていく。ゴミ袋を流しの横のゴミ箱に押し込む。朝、食器を洗うのが億劫なので、今日は試しにゼリー飲料だけでバイトに向かったら午前はずっと不調だった。コップに水道水を注ぎ込んで適当に指で擦る。どうせお茶しか飲まないので、これくらいでいい。コップを逆さまに振って軽く水気を落とし、シンクの隅に置いておく。

 明日……今日は休みだが、このまま二度寝する気にはなれなかった。シャワーも浴びていないし、化粧も落としていない。夕飯を食べたら眠ってしまったけど、それはそれ、これはこれ。自室に戻り、ベッドの下の収納ボックスを開ける。ボタンをかうのが面倒なので、いつもTシャツと短パンで寝ている。そろそろ生理が来そうなので、紺色を選んだ。ふと、音が止んだ。DVDの再生が終わったらしい。いつも同じライブをBGMのように流しているので気にしていなかったが、途端に静寂の音が煩い。夜の、こういうところが苦手だ。でも今からシャワーを浴びるので、テレビは切った。昔は熱いのが苦手だったのに、中途半端に温いお湯を浴びるのが苦痛になった。熱い夏の日でも、だ。本当は湯船に浸かった方がいいらしいけど、多分気絶するので、いつからかシャワーだけになった。本当は指で擦り過ぎない方がいいらしいけど、さっさと終わらせたいので、いつまでも安物のメイク落としで顔をゴシゴシ洗っている。風呂から出ると、すぐに換気扇を回す。湯気を残していても意味がないからだ。少し固いタオルで雑に髪を拭く。ドライヤーをしていると、なんのためにシャワーを浴びたのかわからなくなる。冷蔵庫に直行し、さっき洗ったばかりのコップを直に製氷機に突っ込む。薄まった緑茶を注ぎ込み、カラカラと遊びながら扇風機の前に向かう。中、を押すと、まだ乾き切っていない身体が冷やされていった。本当はさっさとドライヤーで乾かしたほうがいいのだけど、やっぱり暑さには耐えきれない。それに、エアコンと扇風機とドライヤーを同時に動かすと、どれかひとつがショートするので最低でも二つに絞らなければならない。最近はずっと、もうほとんど乾いたんじゃないかと思うタイミングまで扇風機で乾かして、その後ドライヤーをするようにしている。少しずつ緑茶を口に含む。キンキンに冷えた緑茶は美味しいけど、一気にたくさん飲むと口の中がびっくりするので、チビチビと飲む。床にコップを置いて、ベッド付近のコードを手繰り寄せる。コードを無理やり引っこ抜くと中が傷付くらしいけど、いつも横着をしてスマホを手繰り寄せてしまう。グ、とボタンを押して一秒、ホーム画面が一瞬見えて、すぐにSNSに切り替わった。寝る直前までタイムラインを眺めていたらしい。五時間前のツイートが並んでいた。高校の友人が砂浜で遊んだ動画をあげていた。五時間前にもおそらく見ただろうに、また私はその動画を開いた。ゴボゴゴゴ! と雑音が弾けた。慌てて音量を小さくする。DVDを見ていたので音量が半分以上になっていた。風が強いらしく、彼女の長い髪が時々画面に映り込んでいたが、陶芸を趣味にしている友人の砂の城は立派だった。動画の途中で「いいね」を押して、スマホを床に置く。少し寒くなったので、扇風機を弱に変えた。

 最後に海へ行ったのはいつだったろう。夏休みにプールへ行ったりもしたことがなかった。皮膚病の肌に塩素が染みるので、あれやこれやと理由を付けて休んだ結果、中学の成績で唯一体育だけ評定が二だったことがある。幼い頃、一度だけ親に連れられて行った海水浴でも、高校の時、友人に引っ張られて行った時も、泣いていた記憶がある。

 ブブ、とバイブレーションが短く鳴いて、電話がかかってきた。『瀬川陽太』と表示される。弟だ。

「何」

「今、いい?」

「いいけど。何よ、こんな時間に」

いつもの弟らしくなかった。こいつはいつも無遠慮で、年が近いからか私に対して強い物言いをする。ノックはするけどすぐに部屋のドアを開けるし、名前を呼び捨てにする。

「死んだ」

「……は? ごめん、もう一回言って」

「園美綾子が死んだ。実家に連絡が来たんだ。葬式がある。明日、帰ってこい」

いいな、と一方的に強く言って、陽太は電話を切った。身体に鳥肌が走って、扇風機を消した。上半身だけが乾いていて、踝から下はまだ濡れていた。『怖くないよ、ほら』と、海辺で手を引かれたのを思い出した。何となく、爪先をキュッと丸める。拍子に、頬に押し付けたままのスマホが離れた。少し汗をかいていたみたいで、画面が濡れている。服の裾で雑に拭うと同時に、指がボタンを掠めた。スマホはホーム画面に戻っていて、もうすぐ五時になりそうだった。冷えてボサボサになった髪を乾かすために脱衣所に戻る。適当にドライヤーを吹きかけて、乱雑に櫛でとく。少し焦げ臭い。やはりそれなりの値段の物じゃないとダメだな、と思いつつ、ほとんど乾いてから使うのに良い物を買って意味なんかあるのだろうか、と悩む。綾子なら、きっとさっさと捨てるだろう。コードをドライヤー本体にぐるぐる巻いて、元の場所に押し込む。ペロン、とコンセントが飛び出てくる前に強く扉を閉める。部屋に戻って、床に放置したお茶を飲み干し、机の上に置いた。さっきは寒かったのに、また少し暑くなってきて、足の指で扇風機の弱を押す。床に置いたままのスマホを手に取る。友人から通知が来ていた。

『綾子、自殺したらしい』

『葬式に参列するけど、帰って来れる?』

『花束、一緒に出そう。他にも声かけるから』

定期的に連絡を取る友人から、中学卒業以来連絡を取っていない知人まで、朝も早くからご苦労なことだ。葬式に出す花束の集金のためにグループに招待されていた。扇風機の微弱な風で、パサついた髪が視界を過ぎる。そういえば、綾子の髪は綺麗な黒髪だった。天使の輪が輝いていて、三つ編みをしても緩く跡がつくかもわからないくらいだった。全然巻けないの、と悔しそうに笑っていた。コテもアイロンも持っていない彼女は、度々私の家に入り浸っていた。昔、体の弱かった彼女はあまり外に出たがらなかった。大きな病気を持っていたわけでもなく、しょっちゅう風邪を引いたりインフルエンザに罹ったり腹痛になったりと、皆勤賞とは無縁の子供だった。袖口から見える肌だけは、黒髪がとても映える白さで綺麗だった。いつも誰かと一緒で、人当たりの良い笑顔を浮かべて、明るくて可愛げがあった。私はというと、笑顔は下手くそで、可愛げはなかった。歳を追うごとにそれは加速して、今や立派な隠キャである。彼女は陽キャでもなかったけど隠キャでもなかった。そういう次元の話じゃない。特別会話に混じるでもないが、花束はあったほうがいいだろうと思ってグループに参加した。早朝ということもあり、まだ具体的な予算などは話題に上がらず、友達の友達、その友達の友達、といったように人数は増えていった。こう見ると、本当に友達の多い子だ。中にはただのクラスメイトの子もいそうだったが、彼女はどのクラスのどのグループでも上手くやっていける要領の良さがあったので、当然と言えば当然の人数だった。

 私が死んだらどのくらい集まるんだろう。お母さん、お父さん、陽太……綾子も来るかも。でも、もう綾子はいないみたいだから、家族と親戚しか集まらないだろう。右手でスマホを握りしめたまま、机のコップを片す為に台所に向かう。蛇口の真下にコップを置いて、水を溜めていく。腹が鳴る。昨日の夜、適当に炭水化物を腹に押し込んだのに、鯨は一夏何も食べなくてもあの大きな身体で生きていけるのに、人間と来たら非効率的で仕方がない。やはり、生理が近いのだろう。冷蔵庫の中身は殺風景だった。買い物に行ってもいいが、明日にはあの子のために地元に帰らなくてはいけない。礼服は大学生になった時に買ったので、押入れを探せば置いてあるはずだ。冷凍庫には、かなり賞味期限が過ぎた食パンが冷凍されていた。氷で張り付いているのを一枚剥がし、電子レンジをグリル設定にして中に放り込む。食パンだけを齧るのも味気がない、何かあったっけ、と、ついさっき見たばかりなのに思い出せなくて、また冷蔵庫を開けた。調味料のところにマヨネーズ、隅っこにチーズとハムを見つけた。食パンを四分に設定してあったので、裏返した時に一緒に乗せた。水を張ったコップの中身を捨て、また製氷機に直に突っ込んでお茶を注ぐ。またチビチビとお茶で喉を潤しながら、スマホをいじる。五時間分のSNSを見返していると、トーストが出来上がった。

「っつ」

この程度で熱いなんて、火葬の時にはどのくらいの温度になるのだろう。少し長く使っただけでブオーン、と音を立てる電子レンジも、そろそろ買い替えた方がいいのかもしれない。全部まとめて一新するか。明け方はまだ涼しい方だけど、やっぱり夏場の台所は暑い。一度引っ込めた手をもう一度電子レンジに伸ばす。さっき裏返す時に使った鍋掴みで、オーブンの受け皿を少し引き出す。皿を机に用意して、右手で食パンを掴む。「あつ、あつ」と思わず口に出しながら素早く皿に乗せる。途中。台所は右端から冷蔵庫、電子レンジ、シンク、調理台の順になっていて、電子レンジから皿までにはお茶が並々と注がれたコップがあった。勢いよくコップが倒れ、氷が弾き出される。

「あーあ……もう」

ほんっとこういうのやめたい、と文句を言いながら、まずは食パンを皿にちゃんと置いて、壁に吊るしてあるティッシュを二、三枚取る。喉を過ぎる時はキンキンに冷えているくせに、床に広がった液体は生ぬるかった。隅まで滑って行った氷を回収し、シンクに投げ捨てる。シンク側に倒れてくれれば良かったものを、中身は調理台からその下の収納扉に滴っていて、先に床を拭いても無意味だった。隣の収納扉にかかっている布巾を抜き取って、調理台に広がったお茶を拭う。僅かな隙間から収納の内側にも入ったらしく、ため息をつきながらまずは外側を拭き取る。収納扉を開けると、内扉に収納されている包丁は濡れておらず、扉の上から二滴程垂れているだけだった。それも軽く拭い、扉の真下に滴ってできた小さな水溜りに布巾を落とす。

扉を動かす度に、宙ぶらりんになった包丁がカチカチと音を立てる。小さな包丁と、少し大きめの包丁と、パン専用の包丁。普段よく使う、小さくて子供みたいな私の手にちょうど収まる、小さい包丁を抜く。どうせ地元に帰るなら、研ぎ石でもお母さんに貰おうかな、と、左手の指先で刃先をなぞる。暗闇に放置されている包丁の刃はひんやりとしていた。そのまま包丁を滑らせて、左手首に当てる。

 このまま。このまま右に引いたら。このまま強く押し当てたら。右手で強く握りしめて、刃がブレないように手首で固定する。身体が熱くて、刃の冷たさに身体がびっくりした。

「ひっ」少し跳ねた左手が刃に当たるのが怖くて、勢いよく左手を引いて、右手で手首を抑える。床に落ちた包丁は大きな音を立てて刃先が欠けた。恐る恐る手首を見ると、薄く小さく皮だけが切れていた。欠けた包丁はもう買い換えなければならない。欠けた切先を見つけて一緒に処分しなければならない。使えないこともない。けれど、一般的には捨てる。

 包丁を再び掴み取って、今度はちゃんと、薄い傷を目印にして手首に当てる。『手首は切り落とす勢いじゃないと死ねない』と、何処かで聞いた言葉が頭を過ぎる。膝の上に左腕が落ちる。視界が滲む。頬の肉が痛い。顔が歪み始める。歯の奥が力む。頭が痛い。ぽた、ぽたた、と、短パンに染みができる。右手で包丁を握りしめたまま踞る。

「う」

声が漏れる。顔をどんなに強張らせても涙が止まるわけがない。そんなことは逆効果だ。頬の痛みが涙腺を緩くしていく。

「う、あ、」

情けない声が漏れる。どこも傷つけてない。出血のしない傷なんか何にもならない。思い切ってやるだけ。出来るでしょ。今はどこも痛くないんだから。思いっきり突き刺すだけ。もし外したら? ちゃんと死ねなかったら? そんなのやってみないとわからないでしょ。包丁を強く握りしめて、それに疲れて緩めて、また握りしめて、を繰り返して、それ以外に一向に身体が動かない。動けない。動かしたくないのかもしれない。

「も、やめたい」

口からぽつりと溢れた。私の口癖だった。辞めたいなら、早くしなさいよ。辞めたいなら、ここで終わらせる。大丈夫、綾子だってやれた、私だって出来ないことないでしょ。アパートの三階から落ちても骨折にしかならない。ちゃんと死ねない。出来ないなら自分で、

「早く、自分で、」

包丁を強く握りしめる。

『出来ないでしょ、腰抜けだもんね』

頭の中で綾子が笑う。綾子。友達の、園美綾子。カラン、と右手から包丁が床に滑り落ちる。

「んぅ、うぅうう、う……」

頬も目の奥も口の中も痛い。胸が苦しい。涙が止まらない

「はやく、死にたいよ」

『……私、ずっと死にたいの』

頭の中で綾子が笑った。

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