第3話 仏滅

「もしも明日地球が終わるなら何をする?」

誰もが一度は問いにした言葉で、誰もが一度はその問いに答えたことがある。はずだ。当時小学生だった私達も例に漏れず、その言葉は暇潰しのために口にされた。もうすぐ中学生になる歳の子どもが話のネタにするには少し幼稚で、でもその話をする時はそれなりに真剣だった。教室の片隅に放置された学級文庫は、一部の読書家には人気だったけど、ほとんどの人間が読むことはなかった。読書の習慣を身につけさせるために設定された、朝の読書の時間でさえも読んでもらえるかどうかわからない、文豪達の本だった。校庭に咲いている桜が綺麗だと近所の人から囁かれている時、小中高大どこでも学校という場所には美しく咲いているそれが、取り立てて綺麗だという話で、「死体が埋まっているのかもね」と笑う人がいた。

 それが園美綾子だった。瀬川と園美で席が前後だった私たちはその時初めて会話をし、彼女に勧められて文豪の本を読んだ。いつ購入されたのか、何度目の刊行かもわからない、古臭い端の擦れた文庫本だった。教科書で名前くらいは聞いたことがあったが、いざ読んでみると難しい話ばかりで、物好きしか読まないな、という感想しか抱かなかった。

「でも、全部ちゃんと読んだんだね」

偉いよ、と綾子は微笑んだ。

「まぁ、読書自体は好きだから。でも、人間失格はちょっと気分悪くなったからもう読みたくないな。杜子春も」

「一回読めば十分だよ」

綾子は、教室の隅で本を読んでいるような子ではなかった。目に見えて活発なタイプでもなく、どのグループでもやっていける愛嬌の良さがあった。私達はいつしか友達になっていた。とは言いつつも、小学生の自分は携帯電話なんてものは持っておらず、綾子とは学校内と放課後の交流だけだった。


 美術科目のために学校で支給された十二色のアクリルガッシュでは物足りず、美術部に所属する際にお小遣いから二十四色のアクリルガッシュを買った。多くても二時間は授業として充てられていた美術は、中学に進学すると一時間になった。授業のコマとして一時間と呼んでいるが、厳密には五十分、片付けの時間も含めると四十分が限界だった。たった四十分で何が描けると言うのだろう。この国は美術のことを舐めている。私の画力や技術が上がれば、四十分でも何かが生まれるのだろうか。読書が好きな人に送るプレゼントとして選ばれる栞は、その実人によって使われなかったりする、というのを最近知った。毎日少しずつでもいいから読むことは大事だと習慣付けさせたい大人達が設けた読書の時間は十分程度で、それは県内のどこの小学校・中学校にも設けられており、綾子はその十分のことが嫌いだった。一気読みが出来ない、中途半端な時間だと。だから彼女は基本的に栞を使わないし、必要性も感じないようだった。少しだけ綾子の気持ちがわかる。勉強には長い集中力を求めるのに、それ以外の部分では中断を余儀なくされる。時間を忘れるくらい没頭できるのは、大人が決めた時間だけだった。四十分を積み重ねて、その中にはたくさんの妥協も含まれていることを、みんな知らないフリをする。勉強では、自分で考えてわからなかったら質問に来いとこちらに時間を与えるくせに、それ以外の部分では、やってみせた方が早いから、と平気で人の作品に手を加えてくる。人の心を踏み躙る人間が道徳の心を解いている様は滑稽だった。私は学校が嫌いだった。友達もいるし、好きな教科もあるし、好きな先生もいる。楽しいと思う瞬間もある。でも、学校のシステムが嫌いだった。教師になりたがる人間の気持ちも理解できないし、学校が好きな人間は信用できない。学校に行きたくても行けなかった人間を心が弱いだけで片付けた子が保健室の先生を目指していると聞いた時も信じられなかった。優しさや思いやりだけでは世界が回らないことを知っていても、知識だけで人は救われないことを私達はもっと勉強するべきだった。


「主人公はエリスに殺されても文句言えないと思う」

何度目かわからない、定期的に開催される私と綾子の読書会で、その日彼女が持ってきたのは太宰治の本だった。私たちはお互いに部活に入っているけれど、美術部の活動は不定期で、月末に作品を提出すればそれで良かった。対して綾子は、文芸、カルタ、将棋や囲碁など、部員数の少なそうな活動を寄せ集めた総合文化部に所属している。綾子ならもっと活発で活動的な部活でもやっていけそうなのに、総合文化部員だと図書館の貸し出し冊数の上限が増えるから、という理由で、いつも本を読んでいた。ただ、総合文化部も不定期の代わりにレポートだか感想文だかを求められるらしく、読書好きが皆部活に入っているわけでもない。私も読書は好きだけど、そんなことをしている時間があるなら絵を描いていたい。前回、彼女に勧められた森鴎外はたいそう立派な人だったようだけど、書いた話は真面じゃなかった。

 ちゃぶ台とは別の勉強机に置いたままの本を手に取り、綾子に差し出す。綾子はそれを受け取って、代わりに私に太宰治の本を差し出した。

「そうね、私だったら殺してる。なんなら、その友達も殺す」

「綾子ならやりかねんな」

「まぁ、本気だからね。されたらの話だけど」

「綾子好きになった人は大変やね」

「でも多分、私が好きになった人はそんなことしないよ」

私たちが交流できるのは放課後か休日だけで、それは決まってお互いに部活の無い金曜日だった。場所は私の家で、理由は私の家の方が中学に近いからだ。放課後の教室に残ろうとしたこともあったけど、吹奏楽部の子が練習に使うみたいで教室にはいられなかった。図書館は総合文化部の子が静かに使っていて、部員じゃない私は居心地が良くなかった。綾子の家にも行ったことがあるけど、煙草の匂いが充満していて少し苦手だった。そういう私を察したのか、学校帰りに寄りやすいからかわからないけれど、基本的に私の家で遊ぶようになった。遊ぶと言っても、本を読むか、それについて話すか、課題を教えてもらうか、といった程度で、私たちが県外に出ることはしなかった。でもそれで十分だった。決してそんな理由でずっと一緒にいたわけではないけれど、綾子は頭が良いから、綾子を連れて来ても父さんが何も言わないのはストレスがなかった。綾子から本を借りているおかげか、国語の成績が少し伸びたので、それは嬉しかった。

「部活、最近どう?」

「どうって、別に普通。可もなく不可もなし」

「そっか。私もそんな感じ」

「じゃあなんで聞いたの」

「いや……なんとなく」

そう、と、綾子は教科書から顔を上げることなく呟く。この頃、綾子は休日にも会いに来る回数が増えた。何気ないことだけど、綾子が特に何もないというなら、何もないのだろう。話しかければ答えてくれるし、会話に乗ってもくれるけど勉強の邪魔はあまりしたくないので、そのまま本を読み始める。理解できないこともないけど、少し内容が難しいので、綾子に文豪の本を借りる時は集中できるように家で読んでいる。私がページを繰る音と、綾子がペンを走らせる音に、時折近所の子どもたちの声が聞こえる。本の世界に入っていくと、それも聞こえなくなる。その時間が大好きだった。


「……死にたいな」

向かいからぽつりと、音が聞こえた。

「え?」

本当は聞かないフリでもしてあげれば良かったかもしれないのに、私の喉が音を鳴らした。ふ、と反射で綾子の方を見てしまう。左手の親指に力が入って、ページを繰るのが躊躇われる。外では五時を知らせる童謡が流れ始めて、近所の小学生の笑い声が聞こえて、気づけば赤い西日が部屋に差し込んでいた。

「ごめん、なんでもないの」

気にしないで、と、綾子は視線を落としたままペンを走らせて、言葉を取り消そうとした。私は本を開いたままで、綾子は私の耳にその言葉が届いていないことを期待して、無かったことにしようとした。見ていられなくて、すぐに手元に視線を戻した。ページを繰ることができない。綾子が触れて欲しくないと言うなら、それを察するべきだ。このまま私たちはいつも通り本を読んで、感想を言い合って、次に会う約束をするだけだ。

それでいいはずだ。

「…………その時が来たら、教えて」

「……何?」

綾子が身じろぎしたらしく、カス、とシャーペンの先がノートを掠めた音がした。

「……わかんないけど、私は綾子に死んで欲しくないけど、でもそれは私の都合じゃん。友達だけど、それとこれとは話が別だし。……でも、一人で死ぬの、寂しい、と思うから……死、ねるかどうか、わかんないけど、その時が来たら一緒に死ぬよ」

残りの数行を読み進められないまま、私はページの端を人差し指で弄る。向かいに座る綾子の顔を見るのが怖くて、内容を一切理解できないまま活字を追いかける。左手の親指を緩めて、ページを繰る。七十二ページ。右手の人差し指を挟んで記憶しながら、また後で読もうと思った。

 相変わらず外は騒がしくて、締め切った部屋の中の空気は少し生ぬるかった。綾子との沈黙は嫌いではなかったのに、今この沈黙だけは早く死んでほしかった。

「……わかった」

綾子は小さく口にした。ゆっくりと顔だけそちらに向けると、綾子は俯いたままだった。

「もし、その時が来たら、陽子に言う。……だからさ、約束して」

綾子の細長い指が目の前に差し出される。本を閉じて、私は綾子を正面から見据える。

「ゆびきりげんまん、嘘ついたら針千本のーます、指切った」

指切った、のあと、綾子はその時真面に私と目を合わせた。

「……約束ね」

綾子が笑った。



 ぱち、と目が覚めて、いつもと変わらない天井が映った。首を右に向けて、いつもはちゃぶ台にコップかゴミが放置されているのにそれが無く、綾子が突っ伏して寝ていた。幽霊って寝るんだ。と思ってから、天使だったっけ、と考えて、どっちにしろ昨日の出来事が夢ではなかったと知る。下腹部がずっしりと重く、ベッドの上で均等に身体全体に体重がかかっている。暑いけど布団を蹴った後は無くて、特にお尻の下あたりに熱を感じた。部屋には西日が射していて、ぼやけていた脳が一気に覚醒する。ゆっくりと上半身を起こして、恐る恐る下半身を捻ってシーツを確認する。いつもと変わらない、白いシーツのままだった。その事実に安心し、枕元のスマホを手繰り寄せる。十四時を回っていた。全く持って朝ではないけど、バイトに行くには丁度良い時間だった。掛け布団もシーツも汚れていなかったけど、下半身が気持ち悪いことに変わりはないので、すぐにトイレに向かう。男子を家に招き入れたことがないので、生理用品はトイレにそのまま置いてある。普通のサイズに変えて、バイトに行く直前に大きいのに変えることにした。

 ふと、自分が大きく息を吐いたことで、息が詰まっていたこと自覚した。人は呼吸をするけど、思ったより酸素を吸えていないから体調が悪い時は深呼吸をしたほうがいい、と昔保健室の先生が言っていたのを思い出した。できるだけ沢山息を吸い込みながら、キリキリと痛む下腹部に手を当てる。部屋の片隅に設置されたドレッサーに向かい、化粧品に紛れて出しっぱなしになっていた鎮痛剤を取り出す。ふと、起きてから何も口にしていないのを思い出して、軽く舌打ちをしてしまう。錠剤を人差し指と親指で握りしめたまま冷蔵庫に向かって、鉄分含有のゼリー飲料を飲み干した。噛まなくても摂取できるのが便利で、これだけは切らさないようにストックしてある。表面が少し解けた錠剤を口に放り込んで、一気にコップ二杯分で流し込む。バイトが始まる頃には効き始めるだろう。ドラッグストアは制服の下はなんでもいいので適当なTシャツと黒のレギンスに着替えて、綾子の向かい側、ベッドを背にして座る。ゴミ箱に捨ててあったレシートを取り出して、裏に「バイトに行ってくる」とだけ、忘れないうちに綾子に書き置きを残す。綾子は起きる気配がなかった。そもそも寝ているのかどうかも怪しい。特に用もないのに弄っていたスマホを机に置いて、床に手を付いて、ゆっくりと膝で綾子に歩み寄る。絶妙に上半身が上下しているのがわかる。幽霊も呼吸をするらしい。髪の艶ではなく、頭上に天使の輪が光ってさえいなければ、綾子が死んでいるようにはとても見えなかった。昨日、どうやら私を迎えに来たらしい綾子は、「その時が来てない」とだけ言って、それ以上説明してはくれなかった。

 死の舞踏。死の象徴である骸骨が、身分関係なく人間を平等に死へ導く、ペストの時代に流行ったヨーロッパの寓話だ。綾子が死んだ人が書いた話ばかり読んでいる一方で、美術準備室に設置された顧問の先生の本棚を読み漁っていた私は、その単語に聞き馴染みがあった。綾子とも、県図書館で美術史の本を探していた時に話題に出したことがある。

 見た目は骸骨ではないし、綾子は綾子のままだ。今は疫病も流行っていないし、死者が迎えに来るなんて現実的ではない。でも、綾子は目の前にいる。伏せたままの綾子の顔が少しだけこちらに向く。首が少し痛いらしい。拍子に、耳にかけられていた綾子の髪の毛が頬に滑り落ちる。それをもう一度耳にかけようとして、ふと手が止まる。『私に触らないでね、消えちゃうから』と言った、昨日の綾子を思い出した。ギュ、と内臓が握られているような痛みが走る。まだ薬は効き始めない。痛みには波があって、綾子に伸ばしかけて空中で止まっていた手が膝の上に落ちると同時に、膝立ちしていられなくなって、正座の状態に落ち着く。足が痺れると困るから、すぐに足をずらした。キリキリと、腹の中でウニが転がっているような感覚が走る。少し汗をかき始めた。針を飲み込んだ時はこんな痛みになるんだろうか。沢山息を吸い込んで、そうやって腹が動く度に刺さる箇所が増える。何百何千という針が蠢いていて、それから逃れることができない。約束を破ったのは私じゃない。痛みから逃れようとして身を捩ると、ドロォ、と、股から何かが伝うのがわかった。起きた時は大した量じゃなかったけど、やっぱりバイトの前には大きいものに変えなくてはいけない。できるだけナプキンがヨレないようにしながら立ち上がって、左手につけた腕時計を確認する。そろそろバイトに行く準備をしなければならない。動き始めたら痛みがマシになって、お前はいつもそうだよな、と子宮に悪態をつく。先にトイレに行って、そうしたら不快感も幾分かマシになった。洗面所で髪を後ろで一つに縛って、軽く化粧をする。ふと、洗面台の脇に剃刀が放置されていた。葬式でストッキングを履くために一昨日剃ったのをそのままにしていた。刃が引っかかって肌が少し抉れたのを思い出して、足首から何かが這い上がってくる感覚がして、逃げるように洗面所を後にした。部屋に放置してあったバイト用の鞄を掴んで、できるだけ綾子を見ないように部屋を出て行く。

 私じゃ一人で死ねない。綾子の笑顔が頭にこびりついたままだ。

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