第4話 大安

「本当のところはどうなの?」

家の最寄り駅の改札の傍にはすぐ踏切があって、通学時にデオンデオンという地響きを聞いている。登った階段の段差の分だけ線路とは離れていて、そこに飛び降りるだけで人生が終わることは人身事故の放送で知っていた。黄色い線の内側に下がっても「三番目の車両が身体の上を通過するまで痛みを感じる」と聞いたのを思い出しては、剃刀で皮膚を抉ってしまった時のように脚に鳥肌が走った。トロッコ問題と同じで、私が間違いを犯してもそれは私が間違っていただけで車掌さんは何も悪くない。電車の遅延は殺意に変わって、でもその殺意を向けられている相手はとっくに人間ではなくなっていることの方が多い、らしい。結局、死ぬことばかり考えていても私は一度も間違ったことがない。怪我をしたらちゃんと手当もしたし、薬を飲んで自転車でバイトに向かった。バイト先は踏切の向こうにあって、大学がない日もこの地響きは日常のBGMになっている。死なないようにしているのが正解なら、私が腰抜けでも何も問題はなかったはずだ。

 一昨日、葬式のために実家に帰らなくてはいけないので、と休みの連絡を入れたのに、出勤打刻をする前に店長に改めて理由を聞かれている。私の代わりに出勤してくれたパートさんにはさっきお礼を言って、それでこの話は終わったはずだった。

「バイトの子はさ、気楽でいいよね。代理を探すのも人に任せられるもんね」

事務所の古びたパイプ椅子をギシギシと揺らしながら店長はため息を吐く。年季の入った換気扇が申し訳程度に循環させている空気は最悪だった。私は立ったままで、店長は座ったままなのに、見下すような視線が刺さる。中途採用の若い女性店長は、いつも疲れた顔をしていた。

「バイトが他に捕まらなかったので……連絡をしていただきありがとうございます」

「うん。まぁ、そうだろうね。馬鹿は飛んだしね」

「え」

馬鹿、とは欠勤を繰り返している同じ歳のバイトの子だ。先月無断欠勤した末に、どうやら連絡が付かなくなったらしい。

「別に瀬川さんのせいじゃないけど、休む時は最もらしい理由にしてよね」

デスクに整頓されたファイルを何冊か取って、店長は立ち上がる。胸元の社員証をスキャンして、休憩終了をパソコンに打ち込んだ。

「いや、だから葬式に参列するためにですね、」

「はいはい、困った時の言い訳に使うやつね」

「は」

喉から変な音が出た。鼻で笑って、店長が私の横を通り過ぎて行く。息を吸い込んだ拍子に出た音は濁っていて、腹はまたキリキリと痛み始めた。


 十一時閉店で深夜零時を回った退勤後、近場のコンビニに直行して目についた飲み物や食べ物をドカドカと籠に放り込んだ。酒を飲みたい気分だったけど、生理中だからやめて、代わりに炭酸水を選んだ。生理中に良い、と聞いたのでレジ横のホットサービスで小さなココアの缶を頼む。カバンの中でぐちゃぐちゃになった袋にそれらを強引に詰め込んで、自転車の前籠に押し込む。袋の口から零れ落ちた缶の打ちどころが悪くて、ココアが飛び散った。「くそが」と口から吐き捨てて、面倒なのでそのまま袋に押し戻し、無理矢理袋の口を縛った。これをさっきやっておけば良かったのに、という後悔が芽生えて、やらなかったもんはしょうがないでしょ。と、思考を振り切るように少し肌寒い夜風を切って帰った。

「ただいま」

破裂したかのように見えたココアは小さく穴が空いているだけで、パンパンになった袋のおかげでひっくり返ったりせず、思ったより大惨事になっていなかった。シンクに常に放置されているコップにそのココアを注いで、缶は排水溝の上に逆さまにしておいた。ゴミのように収まった消耗品達を冷蔵庫にしまうのが面倒で、部屋まで持っていく。電気を付けると、綾子はいなかった。私が置いて行ったレシートの伝言の横に、「散歩してきます」という綺麗な文字がある。これをいつ書いたのか、いつ出て行ったのかわからないけど、その字体で綾子が存在していたのが夢ではない事実に、キュッと締め付けられるような痛みが頭に走った。レジ袋をちゃぶ台に置いて、ベッドを背もたれにして座り、夜風に当たったからか、すでに温くなったココアをゴクゴクと飲み干した。手探りでレジ袋の中を漁り、おにぎりのラップを乱雑に剥がす。大口を開けてそれを噛み砕き、塊が多少残っていても気にせず空気毎ゴクンと飲み込む。心臓の辺りの気道に引っかかったのを炭酸水で流す。炭酸は喉で一度引っかかって、でも全部飲み込んだ。塊が喉を通過する度に、私の内臓が満たされていくのを感じた。でも舌の根に少し苦みが充満しているのが嫌になって『一日分の鉄分が取れる』と謳われた飲むヨーグルトを袋から取り出す。付属のストローを強く突き刺して、五秒もしないうちに吸い終わる。本当にこんなので鉄分が補われたのか不思議になる。下腹部はずっと重くて、でもどうしようもない痛みはない。バイトに行く前に鎮痛剤を飲んだので、五時間は空いているはずだ。立ち上がるのが面倒で、膝で移動しながらドレッサーに向かう。残りは一錠だった。口に含んで、ちゃぶ台には水が無いことを思い出した。さっきまでココアが入っていたコップを掴んで台所に向かう。蛇口を大きく捻ると、勢いよく水がシンクに飛び出す。衝撃で、排水溝の上に立てておいた缶は音を立てて転がった。コップの中身も表面もその水圧で適当に流して、ベタベタのまま、昼と同じようにコップで二杯分、一気に飲み干す。水道水は特別不味くもないけど、少し変わった味がした。部屋に戻って、コンビニスイーツの、カスタードクリームが沢山使われたエクレアに噛み付く。正理中はクリームを摂取しない方がいい、とどこかで聞いたけど、今はそんなのどうでも良かった。イライラしているのに、心がなんとなくスカスカで、そのくせすり減って行くのをどうにかしたかった。早く満たされたかった。甘いだけのクリームと、少し苦い炭酸水の相性は良かった。もうほとんど全部飲み物だ。舌の根に残っていた苦味は消え去って、たった一個のエクレアで当分甘いものは要らないように思えた。

 私の気が済んで、その日初めてスマホを開いた。通知がいくつか付いていて、大学の美術サークルと弟からだった。サークルの方は来週から始まる大学の後期日程だった。添付されていたファイルを保存して、通知が貯まらないよう、他の人と同じで既読だけ付けて返信はしないでおく。右に身体を捩って、ベッドと壁の収納の隙間に放置された水張りパネルを引っ張り出す。夏休み明けに提出する作品はもう完成している。最後に少しだけ微調整しておくか、と、カルトンの下の紐がパネルの角に引っかかって一緒に滑り出てきた。一度パネルをベッドの上に避難させて、床に右手を付き、左手で途中まで出ているカルトンを引き抜く。座ったまま横着をして引っ張り出したから、そのままの勢いで中身が滑り出てきた。上の紐も解けていたらしい。なんとか左手で踏ん張ろうとするも、そこそこの重みがあるカルトンは片手では支えきれず、「あーあー」と情けない声が出ている間に中身が部屋に散乱してしまった。これを期に断捨離でもするか。今度はちゃんと腰を上げて、両手でカルトンを支える。開いた状態で立たせて、反対側の部屋の隅に移動させる。フィキサチーフをかけていても、カルトンの内側は薄黒く汚れていた。大学に入ってからはあまりデッサンをしていない。しても数枚なので、いちいちカルトンを取り出したりせず、隙間を開いて中に挟んでいた。その繰り返しの結果、紐が解けてしまったのだろう。

 初期、木炭紙大に木炭で描いた石膏像は酷かった。メタリックに見えないだけ、大学に入ってから鉛筆で描いたB3サイズの静物デッサンが幾分かマシに見えた。爪先立ちをして、それらを踏まないようにしながら廊下に飛び移る。シンクの下、包丁が収納されている扉とは逆を開けて、ゴミ袋を取り出す。重なり合った紙の裏側にも粉が付いていて、動かす度に少し木炭の粉が落ちる。一枚ずつ順番にゴミ袋に入れていく。初めから袋に入れた上でカルトンに挟んでおけば良かった。カルトンは高校生になってから買ったので、高校の美術部で描いた時のものがほとんどだ。美大に進学するにしないにしろ、どのくらい時間をかけたかを書いておくといい、と顧問の先生に指導されて、左上に苗字、日付、時間がhで記録されている。元々、ある程度木炭と鉛筆で分けていたので、時々挟まっているB3サイズのものを避けて、先に木炭デッサンだけ纏め終わる。残りの鉛筆デッサンが散らばった先の、本棚と床の僅かな隙間にも画用紙が入り込んでいた。それを抜き取ると、少しだけ埃が付いてくる。こまめにコロコロで部屋のゴミを取っているけど、こういうところはやっぱり掃除機じゃないと厳しい。

「あれ」

本棚の一番下には資料が並んでいて、その中の一冊が少しだけ前に出ている。西洋美術史。ギチギチに並べてある棚は、本と上の棚との隙間に指一本が入る程度で、指で斜めにして引き抜く。隙間を覗くと、他の美術史には昔付けた付箋の隙間に埃が引っかかっているのに、これだけは他より綺麗だ。この辺りの本は最近読んでいない。

「綾子が読んだのかな」

絵の資料や専門書は大体高校生の頃に買い集めた。似たようなタイトルが並ぶ中で、高校の図書館や県の図書館に通って中身をある程度読んでから、一番理解しやすいのを選んだ。中学生の頃は一週間に一度、高校生の頃は一ヶ月に一度の頻度で、綾子と図書館に通っていたから、綾子もこの本は読んだことがあるはずだ。一旦西洋美術史を脇に置いて、先にデッサンを片付ける。鉛筆の方は木炭と違ってあまり汚れないので、ゴミ袋に纏めたものの上に重ねた。薄黒く汚れたカルトンも、一度は拭いた方がいいかもしれない。ティッシュを片手に埃を取りながら、脇に置いた西洋美術史の上に他の本も積んでいく。ふと、視界に何かがよぎる。小さな蜘蛛だった。反射で、ティッシュで押さえつける。ぐしゃぐしゃに丸めて強く抑え込んだ。「ごめん」と口から言葉が滑り出てきて、蜘蛛を殺してもいいのは昼だったっけ、と考えてから、もう殺してしまったのに何を、と思考を振り払った。ゴミ箱に投げ捨てて、残りの本を外に出す。端の方の本には蜘蛛の巣がかかっていた。新しくティッシュを握って、乱雑にそれをはらう。小さな埃が空中を舞う。水があった方がいいかも、と振り返ると、綾子が立っていた。

「わ、え、あ、いたの!? いつから?」

眠い頭のせいで反応が遅れる。ドアの音もしなかった。否、綾子は幽霊なのだから、すり抜けて来たのかもしれない。バイトから帰ってきた時も鍵はかかったままだったし。床に置いたままのデッサンを迂回して、綾子は積んである本を挟んで私の隣にしゃがんだ。

「今だよ。ただいま〜」

「おかえり? ……ていうかどこ行ってたの」

「散歩! で、陽子は何してるの? 身辺整理?」

ティッシュを掴んでいる手にギュッと力が入る。違う。私は提出物の確認をしたかっただけで、その拍子に部屋が散らかって、ついでだから掃除をして、だから、

「……違うよ。掃除してただけ」

ふと、綾子から目を逸らす。下には、美術の本の山。

「ふーん。ま、いっか。あ、これ高校の時に買ったやつだよね。西洋美術史、さっき読んだんだ。勝手に読んでごめんね」

「いや、別に、そんなのはいいけど」

綾子の手が視界に入る。一番上の本を手に取って、パラパラと捲る。

「昔は結構こういうの沢山読んでたのに、途中からあんまり買わなくなったよね」

「そう、だね」

綾子は本を元に戻すと、私が後ろに放置したデッサンの方に身体を向けた。

「なんだかんだ、あんまり陽子のデッサン見たことなかったかも」

積み重ねただけの鉛筆デッサンを一枚一枚捲っていく。確かに、絵の具で描いた絵は何度か見せたことはあるけれど、デッサンはあまり見せた記憶が無い。綾子の興味がそちらに向いたので、立ち上がって、さっき使ったばかりのコップに水を注いだ。ティッシュに少し水を含ませながら埃を拭う。ついでに、側に放置していた漫画も棚に戻す。漫画の棚は上下がギリギリなのでほとんど埃は無い。

「ねぇ」

端から順に美術の本を戻していると、綾子が一枚のデッサンを抜き取った。

「なんでこれだけ描きかけ? なの?」


『瀬川 11/10 3h』


構図を決めて、ある程度の比率と、陰影が付けてあるだけのデッサンだった。十一月十日。確か、そのあたりだったはず。

「ねぇ」

頭上から綾子の声がする。デッサンに視線を向けたままで、綾子の顔が見れない。

「確か、この日だったよね、海に行ったの」

部屋の温度が下がった気がした。元々今日はそんなに暑くもないし、私はご飯を食べたし、生理中だから身体は熱いはずだ。思い出すと、腹がまたキリキリと痛み始める。無意識のうちに大きく息を吸って、また針が刺さる。約束を破ったのは私じゃない。薬を飲んだのに。クリームを食べたから? いやそんなことはどうでもいい。どうでも良くない。満たされないことばかりして馬鹿みたいだ。いつも一瞬の快楽を優先して、人生の中で後手に回っている。それは私のせいで、でも生理は私のせいじゃない。描きかけのデッサンから目を逸らすと、綾子が何枚か手に持っているデッサンの下に、十月の日付が見えた。「先週の方が良かったね」耳の奥で顧問の声がした。胸が痛い。心臓が箱に閉じ込められていて、私が呼吸をする度に、それがどんどん小さくなっていく。胃がムカムカして、自業自得なのに、心がスカスカになっていないことに安心する。取り込む酸素が少ないと呼吸の回数が増して、荒くなる。綾子がデッサンを元に戻した。

「陽子」

綾子が正面から私を抱きしめる。背中に手を回されて、ゆっくりと撫でられる感触がする。

「ゆっくりでいいから」

私は綾子に手を回さなかった。床に手をついたままで、綾子の胸元のリボンを見ていた。この季節にはまだ少し早い、カーディガンが頬を掠める。ゆっくり、ゆっくり、と綾子が繰り返しささやく。でもやっぱり腹に針が刺さる。

「ん」

声を出しても痛みは変わらない。冷や汗をかいて、本当は身体が熱いはずなのに寒気を感じた。下腹部が重くて、床に縫い付けられたように動けない。薬が効いてない。薬が無いと生きていけない。目を閉じたままだと、身体は動かないのに脳みそだけが揺れている感覚がして吐きそうになる。できるだけ目を開けて、ゆっくり動かす。左側にまだ本棚に戻していない本が映る。

「はやく、やめたいな」

口から零れ出たのは、私の口癖だった。綾子がより一層私を強く抱きしめる。セーラーの襟が鼻に当たる。綾子の声が耳元で聞こえた。

「後少しだから」

綾子の制服からは、煙草の匂いがした。

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