第2話 先負
「化けて出るなんて馬鹿な真似しないで、だっけ?」
友達の園美綾子が死んだ。彼女の友達が大勢集まった葬式はなかなかのもので、羨ましいと思った。供花の中の彼女は美しかった。死んでも人形みたいに美しいところが信じられなかった。大学生になって初めて礼服に袖を通した。私が参列したことのある葬式は、中学生の時のひいおばあちゃんだけで、彼女は老衰だった。線香の匂いが染み付いた制服を学校にも着て行った。大学入学前に買った礼服は、在学時に着ることなんかないだろうと思っていた。
「陽子は変わらないね」
綾子が目の前で笑う。私の記憶通りの姿だった。根本から毛先までサラサラで、天使の輪みたいな艶が光る。違和感があるのは、彼女が高校の制服を着ているところだった。私と同じ歳で大学生のはずの彼女は、高校の冬服セーラーに、灰色のカーディガンを羽織り、黒のタイツを履いていた。葬式で見た、彼女の遺影と一緒の姿だった。年中長袖を着ている彼女の肌は白かった。体育以外で髪を結んでいるのを見たことがなかった。校則で許されているから、年中黒タイツを履いていても誰も何も言わなかった。
「私が言ったこと、覚えてるんだね」
「当たり前でしょ。だからここにいるんだよ」
綾子はずっと笑ったままだ。なんとなく、視線を床に落とす。顳顬から顎にかけて汗が伝う。もうすぐ秋になるはずなのに、残暑がまだ厳しく、エアコンをつけず窓も閉め切ったこの部屋は蒸し暑い。葬式に参列だけして早々に下宿先の自室に帰ってきたのは良くなかったのかもしれない。誰に連絡をしても信じてもらえるわけがない。そもそも今頃綾子は火葬されているはずだ。私だって棺の中で横たわっているのを見た。本当はまだ夢の中で、葬式にも出ていないのかもしれない。台所で死ねなかった私を笑いに来たのかもしれない。
「ねぇ、とりあえずさ、座ろうよ。疲れてるでしょ」
帰宅早々、自室のドアを開けると綾子が突っ立っていた。それを見た私への開口一番のセリフが冒頭の言葉だった。我ながら馬鹿というか、腑抜けというか、状況把握能力に乏しいというか。否、この状況を完全に把握して幽霊が家に来たんだと納得できるのもとんだ馬鹿野郎だ。そもそも、誰のせいで疲れたと思っているんだろう。
「ね、顔色悪いよ」
綾子が私に歩み寄る。彼女の白い手が伸びてくる。汗が止まらない。
「ヒュ」
声にもならない音が喉から聞こえた。思わず後ずさった私は、ドアの敷居に左足の踵をぶつける。
「わっ」
そのまま足裏のストッキングが床を滑って、廊下に尻餅をつく。はずだった。間一髪、綾子が私の左手首を掴み、私はその反対の手を壁に引っ掛けた。その瞬間に右足を後ろに引いて踏ん張る。転ばずに済んだ。
「大丈夫?」
綾子は腕を掴んだまま私を引き起こす。
「う、うん。腕、ありがと」
綾子は私の腕を握ったままだった。幽霊って、人間に触れるんだ。綾子の手は、やっぱり白かった。掴まれた腕を凝視したままの私は、綾子の手に触れようとした。その瞬間、彼女は手を後ろに引っ込めた。
「あ、私には触らないでね。消えちゃうから」
「はぁ? 今自分から触ったくせに」
「まぁまぁ、座りたまえよ」
「いやここ私の部屋だし」
促されるまま、ちゃぶ台を挟んで綾子と向かい合う形で、なんとなく正座をする。
「ね、あんた、本当に幽霊なの?」
うっすらと透けているわけでも、足先が消えているわけでもない彼女は、とても幽霊には見えなかった。肌も白いけれど、生前より白いことはなく、棺の中でされた死に化粧の白さや鬱血した白さはなかった。触れられたところが異常に冷たいとか、部屋の温度が下がるとか、そういった霊現象もない。そもそも今私の腕に触れてきた。でも綾子は死んだ。
「まぁ、そうだね」
「なんでここにいるの。成仏できないとか?」
「成仏〜……かな? どうなんだろう。似てるかも?」
机の上に突っ伏し、ウンウンと唸っている。
「なんで曖昧なの。あと、なんで高校生の姿なの? 遺影がそうだったから?」
「え、そう見えてる?」
バッ、と顔をあげた彼女の黒目と目が合う。長い睫毛の上を前髪が流れる。
「そっか〜……そっかそっか」
なるほどね〜。と、彼女は一人で頷く。置いてけぼりをくらい続けている私は、その態度に無性にイライラした。
「何、説明して」
「いや、単純に。私と死んで欲しくて」
「は?」
さっきの間延びした理解し難さとは違う。当たり前のように彼女の口から滑り出てきた言葉に耳を疑う。いきなり私の前に現れて、一緒に死んでくれなんて、本当に意味がわからない。先に死んだくせに。自分の顔が引き攣るのがわかった。机に頬杖をついて、ニコニコと笑っているその女は、じっと、私から目を逸さずに言った。
「一緒に死んでよ。ね、いいでしょ?」
綾子の左手の薬指が光った。
前にも言われたことがあった。居酒屋で、考えておいて、と。
一緒に飲めるようになったね、と、居酒屋に行こうと連絡をよこして来たのは綾子だった。成人式を迎える前に二人とも誕生日を迎えて、いつもはおしゃれなご飯屋さんに行くのに、その日からお酒が飲める場所に行くことも増えた。半年に一回、会うか会わないか程度の交流だったが、私と綾子は小学校時代から友達という関係を続けている。
「私と一緒に死んでよ。ね、いいでしょ?」
名案! とでも言うように、彼女は笑った。場所は居酒屋で、ここが外であることに感謝した。周囲の人間は自分の目の前の相手との会話に夢中で、彼女が少し声を弾ませたことなど気にも留めていないからだ。普段は耳障りだと感じる酔った冗談達が一斉に鳴り止むことが無くて安心した。私はウーロンハイを飲み干した。聞こえないふりはしなかった。周囲のしゃがれた声とは違う、凛とした彼女の声を、私が聴き落とすわけがなかった。し、よく通るその声で、さっきの言葉を大声で言われたら、居ても立っても居られなくなるだろうから。
「だってさぁ、あんた、寂しいんでしょ」
からからと笑う。私は追加のウーロンハイを頼んだ。酔っているのかもしれない、と思ったが、呑む時に一度も顔が赤くなったことがないのを思い出し、すぐに運ばれてきたウーロンハイを呷った。綾子はきっと、否、絶対酔っている。
「彼氏の一人もできたこと無いし、おまけに友達も少ないしねぇ」
左手でジョッキを掴んだまま、右手を彼女の前に鎮座している器に伸ばした。枝豆を掴み取って、豆を一粒ずつ口に運ぶ。私を咎めることはしなかった。そもそも居酒屋はシェアする料理がほとんどなのだから、咎められる筋合いもなかった。
「広く浅く、みたいな感じじゃない。私みたいな子、他にいる? あ、同じ大学の人は無しだよ」
スプーンで端まで拭ったポテトサラダの器に、枝豆の皮を捨てる。彼女がいろんな皿に置いたままの串を回収して、一箇所にまとめる。汚れの少ない皿同士を重ねて、タレの残っている皿は端に寄せる。
「ねえ、もう、九時になるよ」
「え、あ、本当だ〜。そろそろ帰らなきゃ」
彼女が小さいカバンを持って立ち上がる。カバンから、これまた小さな財布を出して、端の折れた千円札を何枚か机に置く。
「じゃ、考えておいてね」
バイバイ。彼女が左手を振りながら上機嫌に店を出て行く。薬指の指輪がオレンジ色に光った。彼女が残して行った枝豆の残りを掴み取って、空いている皿に豆だけを取り出す。スナック菓子のカスを食べるように、皿から豆を流し込んで残りのウーロンハイを飲み干した。お酒を飲むと、身体は冷えていても顔は熱くなる。蒸したタオルを押し当てた時みたいに、目の奥がじんわりと潤む。視界が歪む。
大怪我をした時、死ぬ間際、どれだけ相手が大事でも、家族以外は病室に入れてもらえない。葬式のお骨拾いだって、婚約者か恋人にでもならない限りすることはできない。友達の上が親友で、好きの上が愛してる。友達以上恋人未満の男女が親友という立場をどれだけ望もうとも、周囲は結婚だ入籍だと囃し立てる。友達以上恋人未満の同性の友達には、親友という称号しか与えてもらえない。
「何、が、いいでしょ、なの」
顳顬から汗が流れた。一瞬、言葉が喉につっかえた。
「なんで、あんたもう死んでるじゃない」
「うん。きっと今火葬してるんだろうね。身体が熱いから」
エアコンもつけず、礼服を着たままの私は暑くて仕方ない。一日家を空けていたから、締め切ったままの暑い匂いが残っている。生暖かい空気を吸い込む。肺が膨らんだり縮んだりするたびに、肌着が汗で濡れていることを実感する。それに比べて、目の前の綾子は涼しい顔をしている。セーラーにカーディガンを羽織って、完全に冬の装いだというのに。
「なん、で、あんた、が先に、や、約束、破ったくせに」
乾いた喉から言葉を絞り出す。
「……そうだね」
不気味なくらい、ずっと綾子は笑っている。
「何にも言わないのも可哀想だから、少し説明してあげるね。他の人に私の姿は見えないし、触ることも当然できない。肉体は死んだし、幽霊みたいなもんだけど、身体はちゃんとあるんだ。陽子の前ではね」
「なにそれ。あんた、恋人いるじゃない。なんで、その人はどうしたの」
「いつの話してるの? もうとっくに別れたよ」
「じゃあその左手の指輪は何?」
ニコニコしていた綾子は、きょとん、と顔を崩した。頬杖を付くのをやめて、左手を机の上に置く。
「……そういえば、こんなの付けてたね」
ふ、と声を出して笑った。
「懐かしいね。あの時の子はもう別れたよ。ちょっと付き合っただけだよ。元々友達だったし。一番やっすいペアリング買って付けてたの。懐かしいなぁ、知らない? 今時結婚なんかしなくてもペアリングくらい付けるんだよ」
私には陽子がいるからね。と、綾子は声を弾ませる。
「は」
喉から音が出たのか、声帯が動いたのかわからない。正座したままの足に痺れを感じる。身じろぎすると、足の甲の骨が床と擦れて、ゴリ、と鈍い音が聞こえた。爪先に力を込めて、抜いて、込めて、を繰り返す。そういう余計な行動が痺れを加速させる。少しずらした先の床は、少しだけ冷たかった。汗が滲んだ部分が空気に触れると冷たさを感じて、私が酷く冷や汗をかいていることに気づいた。落ち着かなくて、左手を右手で包み込んで、親指で左手の骨格をなぞる。
死んだはずなのに目の前にいる綾子。恋人がいたはずなのにその人と別れて私の元に来た綾子。死んだはずなのに、私と死んでほしいと笑う綾子。
「意味、わかんない」
「そうかな」
掌をひらひらとゆっくり動かして、指にはまったままの指輪を光に翳して遊んでいる。私の方を見ないその態度に無性にイライラして、頭とお腹に熱が溜まる。
「そうだよ。好きな人がいたならその人と幸せになればよかったじゃん。約束だって……覚えてたけど、そんなの、私にごめんねって言うだけでよかったじゃん。中学生の戯言だよ。……高校生になった途端恋人作って、頻繁に会わなくなって……なのに、突然なんなの、なんで……なんで、死んだの?」
ピタ、と綾子は手の動きを止める。理解が追いつかないからか、お腹が突然キリキリと痛みだしたからか、飄々とした綾子の態度が気に入らないのか、何が信じられて何が信じられないのか、もうよくわからない。ずっと冷や汗が止まらない。自分から死にかけみたいな息をする音が聞こえる。この時初めて、綾子はニコニコと笑い続けるのをやめた。
「私、普通じゃないから。……感覚ぶっ飛んでるから、一緒にいない方がいいかと思って。そうやって生きてきたんだけど……でも、そんなの意味なかったね。だから帰ってきたの! それだけの話だよ」
「なんで」
「だって、死にたいんでしょう」
「陽子がいるからね」と言った時のように、綾子は言葉を弾ませた。昨日のことがフラッシュバックする。背後で、ボン、と蛇口からシンクに水が落ちた。思わず、綾子から目を逸らして、右手で左の手首を膝に押し付けて、止血するかの如く強く抑え込む。礼服を着ていても、片手で一周できる手首。ここ数日は馬鹿みたいに食べていたけど、夏バテのせいでとんと食べていなかった。先ほど少しずらした足を元に戻す。と、下着に違和感があった。
「陽子は普通の子だったから、私みたいなのが傍にいない方がいいかと思って。でもそうは言っても寂しいじゃん? だから男の子と付き合ってみたんだけど……でも、やっぱり駄目だね。私、陽子じゃないと駄目みたい」
俯いたままの私に、綾子が耳元でささやく。いつの間にか隣に来ていた。
「ね、昔、陽子が言ってたでしょ? 死ぬなら、本当に死ねなきゃ意味がないって」
視界の端で、綺麗な黒髪が揺れる。
「私なら、陽子のことちゃんと殺せるよ。約束、まだ叶えてあげられるよ」
素手で私に触らないように、腕を大きく広げて、私の頭を抱えるように綾子が抱きしめる。ふと顔を上げてしまう。長い睫毛に、真っ黒な瞳に、サラサラで艶のある黒髪。記憶の中、幻覚に見えた綾子の頭上には、薄白い輪が光っている。
「待たせてごめんね。私達の死の舞踏が始まるよ」
綾子が触れている肩は、異常に冷たかった。
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