第6話 先勝

 肌が白くて可愛いと言われた。上手く巻けない髪の毛も、サラサラで綺麗だと褒められた。「ありがとう」と友人各位へにこやかに返せるようになって、歪んだな、と思った。

 昔の私なら、「おえ」と口から溢れていたはずだ。その後に咳き込んで、脆い身体に鞭を打って逃げ出したはずだ。それほどまでにこの空間に漂う煙は酷い。一瞬火事でも起きたのか、バルサンでも焚いたのかと思ったが、熱くはない。煙草だ。締め切った空間で換気扇も付けずに、まだ一回は吸えそうな煙草が何本も灰皿に押し付けられている。この家に灰皿があるとは知らなかった。酒瓶が大量に転がっているよりマシかもな、と思いながら、この思考も頭がおかしいことに気づいて、文字通り乾いた笑いが漏れた。もっと汚れたゴミ屋敷みたいな家になっていると思ったが、案外そうでもなかった。昔の同級生にそういう子がいたから、きっとこの家も一週間も経たずにダメになると思っていた。机の上に異常な量の煙草があるが、それは生前とさして変わらない。

 最初は煙草など吸う人ではなかった。酒もしない、煙草もしない、誠実な人だった。真面目で勤勉で家族想いの良い親だった、と思う。それは今でも変わらないか。外面だけが良いならそれでも良かった。むしろ、そちらの方がこちらとしても早く諦めがついたし、もっと早く死ぬことが出来ていたかもしれない。なんて、今更焦がれたところで無意味だけれど。もしもなんて無くて、でも昔の私はそういうものを信じていた。いつかきっと誰かが、と思いながら、クラスメイトとお姫様の話をした。家族に虐げられた、本当はみずぼらしい女。舞踏会の夜に魔法にかけられて、王子様に見つけてもらえる。魔法はこの世にないし、現代の日本に舞踏会なんかない。見つけてくれてありがとうって言えるのはアイドルだけで、私みたいな人間を誰かが見つけてくれる可能性はほとんどない。ほとんど、なんて期待を込めながら生きていたのも馬鹿みたいだ。本当は、見つけてもらえるだけじゃダメだった。見つけてくれてもその後見て見ぬフリをされたら何も意味がないし、現実では目を逸らす人の方が多かった。そういう人間は、定期的に学校で配られるいじめのアンケートにも「私は見たことがない」とか当たり障りのないことを書いて、いざ先生から問題提起されたら心配する素振りを見せるだけの何の変哲もない人間だった。いじめを傍観している人間は、自分がどうしたらいいかわからない人間か、いじめられている人を見るのが好きな人間か、いじめっ子にもいじめられっ子にも興味がない人間の三択。稀にその三択から外れた人間がいて、それが瀬川陽子だった。

 私は人生でいじめられたことなんかなかったし、親はそういうつもりじゃなかった。ただ、普通の親とは違うということだけは、途中で気がついた。


 痛みで目が覚める。煙草の煙の充満するこの部屋は、いつも息苦しかった。

「……あ、お、起き、起きた? 生きてる!」

決まって、ベッド脇に座る母親が、起き抜けの私の体を抱きしめる。

「ごめ、ごめんなさい、綾子、わた、私……また、ごめんね」

母が患部に触れようとする。空気に触れるだけでも痛みが走るが、いつも、そんなことは頭から抜け落ちていて、母の手から逃げるように布団の中に足を引っ込める。案の定、柔らかい布団が患部を掠めるだけで顔が歪んでしまう。

「あ! あ、ごめん、ごめんね綾子、痛い、よね」

ごめんね、と、譫言のように呟きながら、母は私の頭を撫でる。泣きたいのはいつも私なのに、目が潤むだけで母のように泣けない。

「ごめんなさい、もし、あなたが目を醒さなかったらって思うと、ごめ、ん」

嗚咽混じりに、いつもの言葉を繰り返す。

「…………大丈夫だよ」

母の手を両手で包む。だからこんなことしなくてもいいよ、と、いつも言えない。ごめん、を繰り返しながら、母は私を抱きしめる。酷く焦げた煙草の匂いが充満する部屋の中で、母の匂いは暖かかった。この瞬間のせいで、私は今日も、母を突き放すことが出来ない。


 父は出張で家を空けることが多くて、必然的に家に残るのは私と母だけだった。普段から暴力を振るわれているわけでも、母が私のことを疎ましく思っているわけでもない。外に出てみたらなんでもない親子だった。ただ一つ、母にはトラウマがあった。母の姉が過眠症の末に亡くなったことだ。それは私が生まれたての時で、起きるか起きないかわからない人間に、いつも起きることを願っていて、それでも目を醒さなかった絶望が母を永久的に支配している。私は過眠症ではないし、母の子供であって、母の姉の子供ではない。それは母も理解しているはずなのに、どこか母の姉と似ている私が眠っているところを見ると、母は時折パニックになる。最初から煙草を押しつけられていたわけじゃない。そもそも昔は煙草を吸っていなかったし、意図的に私を傷つけるわけでもなかった。

 私の家は、ほとんどが母の作ったもので構成されていた。クッション、巾着袋、シュシュ、スカート、複雑じゃないものなら母はなんでも裁縫で作っていた。家には大量の布があって、小さい頃から母の作った服を着ていた。服飾を仕事にしているわけでもないけど、趣味が高じれば複雑なものも作れるようになる。小学四年生の夏、フリルのスカートをお母さんにもらった。誕生日プレゼントだった。嬉しくて、その日の朝に真っ先に履いた。汚したくないから家の中で遊んで、疲れて昼寝をしていた。

 躁鬱とでも言うのか、母のそれは、いつも突然やってくる。身体が揺すぶられている。起きて、起きてよ、と誰かが泣いている。軽い身体は簡単に揺れて、スカートが擦れる。暑いけど瞼は重くて、もう少し眠りたい。頭はぼんやりと起きていて、その時、太ももに痛みを感じて飛び起きた。隣では母が泣いていて、痛んだところを見ると、スカートにはまち針が刺さったままになっていた。「ごめん、ごめんね。今度からちゃんと確認するからね」と、母は私を抱きしめて、頭を撫でながら泣いていた。子どもながらに、母を泣かせてはいけないのだと、使命感のようなものが芽生えた。

 事故に遭って身体の感覚の麻痺した人が、感覚の麻痺していない部位を確認するために、針を刺すことで痛覚を試される、というのを耳にしたことがある。私は一度も麻痺したことがない。母の作ったスカートにまち針が刺さったままだったのは偶然で、でもその日以降、意図的に刺されるようになった。毎日ではない。私が先に起きていれば母が不安になることはないし、起きていないから刺されるわけでもなかった。裁縫の針一本程度、血が大量に流れるでもなく、でも、いつ来るかわからないのは怖くて仕方なかった。

 風邪、インフルエンザ、ノロウイルス、生理痛、偏頭痛、数え出したらキリがないほど、私はいろんな病気を拾った。特別大きな病気になったことはないが、クラスの中ではよく休む方で、皆勤賞とは無縁の子どもだった。でも、そんな子はさほど珍しくなくて、クラスに一人くらいは居るものだ。

「死にたいな」と陽子の前で口に出したのはうっかりで、やってしまったと後悔した。なんでもないふりをしたけど、普通の子はこんなこと言わないし、きっと冗談だって笑われて、その度に自分がおかしいことを認識するのは嫌だった。

「…………その時が来たら、教えて」

初めてだった。こんな馬鹿なことを言って、みんなは「そういう冗談はやめてよ」って困ったように笑った。みんなきっと、そんなふうに言葉に出せるうちは本当に追い詰められてなくて、どうせ死なないって思ってるんだ。それか、どうせ死なないでしょって、取り合うだけ無駄だって思ってるんだ。一人で死ぬのは寂しいから一緒に死んであげるって、陽子だけが、私を助けてくれた。それが嬉しくて、陽子のために生きようと思った。


 ことが大きく傾いたのは、中学生の頃だ。どこから流れてきたのか、時期外れのインフルエンザが大流行した。毎年のように罹っている私は当然のように感染して、一週間公欠で休んだ。信じられないくらい体温が高くて、母にずっと看病されていた。病気になるといつも本を読んでいたけど、起き上がるのもだるくてずっと仰向けになって寝ていた。母の看病を考えれば居間で寝ている方が楽だとは思うが、この頃から母は煙草を吸い始めて、衣類に匂いが付くのが嫌でやめた。寝てれば治るから、と、できるだけ母に会わないようにした。今がいつで、朝が来たのか夜が来たのかもわからない頃、控えめにドアがノックされた。少しだけ明るい部屋の中に誰かが入ってくる。頭がぼーっとしていて、いつ貼り替えたかわからない冷えピタは生ぬるかった。その人が顔を覗き込んできて、でも頭が痛くて涙が出てくるから、上手く顔が見えない。額に手を乗せられて、冷えピタの端っこだけが少し役割を果たす。「大丈夫?」という音が聞こえて、その瞬間、喉が焼けた。

「いっ!?」

思わず喉を押さえて、身体が左を向く。脳が一気に覚醒して、突然動いた脳みそが固まっていた身体の動きに逆らう。偏頭痛を起こしたみたいに脳みそが揺れて、「あ、あ」と動かしていなかった喉から掠れた音が漏れる。誰かが弾かれたように部屋を飛び出して、瞼を開いても閉じても光の粒が視界を飛び回っていて気持ち悪い。重い上半身だけを起こして、「誰か」と喉から掠れた声を出す。「綾子!」と、パニックになっている時の母の声がする。寝起きの身体に、焦っている母の声。ベッドは壁際にあって、私には逃げ場がない。喉を押さえている右手を母に引っ張られて、空気が患部に触れる。痛みが走って、すぐに氷水が入った袋が押し当てられた。あらかじめ用意していたのだろう。「ごめん、ごめんね」と、繰り返し謝る母の声が頭の中でこだまする。母が私を抱きしめて、頭の痛い私は母に寄りかかったまま、泣いていることしかできなかった。母の服からは煙草の匂いがした。

 痛みを感じている時には生きている感覚があって、痛みがない時には安心を得られた。早くこんな身体を捨てられたら、痛みを感じなければ、眠らなければ、母をもっと安心させられたのかもしれない。死にたいわけじゃなかった。死ねなかったら、今度こそ私の身体はもっと酷い目にあって、母はきっと取り返しの付かないくらい不安になって、だから、そんなことは考えないようにしていた。陽子がしてくれた約束は嬉しかった。でもやっぱり、私は普通の子になれない。陽子の考えていることが同情でもなんでも良かった。ただ、私のことを普通に肯定してくれたのが嬉しくて、でも、私は陽子の為に生きられない。一緒に死んでくれる約束をしたのに、母が死ぬまで、母の為に生きなくてはならない。ごめんね、と、母が私を抱きしめる度に、身体に傷が増える度に、頭を撫でられる度に、この人が死ぬまで死ねないのだと悟る。


 誰が正しくて、私のどこがおかしいのかわからない。陽子とは高校生になっても変わらない関係を続けていて、私の感情を肯定してくれた陽子にこれ以上助けを求められずにいる。陽子の家に行く度に、優しげな彼女の母親と接する度に、一言だけ挨拶をしてくれる弟くんを見る度に、家に帰りたくないと足が竦む。でも、私は陽子とは違う人間で、きっと、一緒にいない方が良いんだ。彼氏なんか欲しいと思ったことないのに、陽子と離れた方がいいって頭の中で誰かが言うから、友達の中で彼氏を作った。やることはさして変わらない。放課後の多くを彼と過ごして、できるだけ家に居る時間を減らす。母はどんどん過保護になって、塾に通うこともなかった。門限ができるようになって、煙草の匂いが充満する家にいる時間が少しだけ伸びた。父は歳を追うごとに出世して、家に帰らない時間が増えた。母を孤独にする方が、より一層母の不安を煽る悪循環が形成された。私が生きて、呼吸をし、話をしている時だけは母は普通の人で、正常とか普通とか、考えるのが嫌になった。

換気扇を回していても僅かに残る煙草の匂いと、空箱が敷き詰められたゴミ袋の山を見て、その日、連続して有給をとった父は顔を顰めていた。母の煙草を吸う頻度が異常に増えていることに、やっと気づいたらしい。

「母さんのことを任せっきりにしてすまない。でも、申し訳ないけど、お前にはもう少し母さんのことを気にかけてやってほしい。俺も、できるだけ家に帰れるようにするから」

気にかけるって、これ以上どこを。母の理性は働いているのか、傷は服で隠れるところにしか付けない。いや、そもそも理性があったらこんなに煙草を吸わないし、娘に煙草を押し付けるなんてこともしないし。

「あぁ、うん。わかった。私、頑張るよ」

いつも通りニコニコ笑って、私はお父さんの言葉を遮らない。そうすると、少し疲れた顔をしていた父もつられて笑って、

「ありがとう。父さんは、綾子の笑った顔が好きだな」

なんて。私、笑ってないと人に好きになってもらえない。


 土曜日の午後、突然連絡を入れたのにも関わらず、陽子は一緒に海に行ってくれた。今年、夏に一度会った頃より、陽子は痩せた。私たちは他愛のない話をして、今日なら死ねるかも、なんて思ったり。秋も終わりがけの海は死の匂いがした。死んだ人が書いた話ばかり読んでいる一方で、陽子に借りた美術史も面白いものが多かった。宗教は生き方や死に方に纏わる思想が多くて、そういうところが私も好きだったのだと思う。文豪も、今よりもっと苦しい時代を生きる人々の話が多くて、そういうところで、私たちはきっと趣味が似通っている。

昨夜の父の話から、一つだけ学んだことがある。それは「いつか誰かが」と待っていても、自分で言わなければ誰も助けてくれないし、迎えに来てもくれないということだ。陽子は、いつかやってくる、私が死にたいその時に一緒に死んでくれる約束をした。でもそれは口約束で、具体的にどう死ぬかって言うのを、何も決めてはいなかった。

「知ってる? 海ってね、一番白骨化が進むスピードが速いんだよ」

陽子に借りた美術関連の書物にあった、死の舞踏。死の象徴である骸骨達が身分差関係なく死へと人間を導く、ヨーロッパの寓話。本当にそんなものがあったとしたら、火葬を行う日本では、それはきっと海から始まるのだろう。墓場には誰もいなくて、墓石に何を言っても無駄なのだから。夏、陽子に見せてもらった絵の骸骨には下顎がなかった。学校のモチーフにはそれしかなく、そのままそれを使っていると聞いたけれど、死人に口なしとも言うし、下顎の無い骸骨は、死の象徴として立派な役割を果たしている。

 一刻も早く、私はそれになりたかった。でも、陽子はそうなりたいわけじゃない。私みたいに死にたがってるわけじゃない。陽子の好きなものはおかしくない。私達はきっとどこもおかしくない。自分のしていることに「理由がない」と言う陽子の手を引っ張って、私は彼女を海に引き寄せる。触れた海水は思ったよりも冷たくなくて、なんだかがっかりした。

『私ね、死ぬなら海がいいの』

『中学の時、一緒に死んでくれるって言ったよね』

『ねぇ、私達はおかしくないよ。芸術が希望や救いだけを見てきたなら、きっとこんなに好きにならなかったよ』

矢継ぎ早に海に誘う私に、陽子は惹かれてくれない。泣きながら、喉に言葉を詰まらせながら、陽子は「私もいつかその時が来たら」と紡ぐ。

「出来ないでしょ、腰抜けだもんね」

思ってもない言葉が口から滑り出す。話し出したら止まらなくて、顔を崩すのが怖い。ずっと笑ったまま、もう一つ、私は陽子に約束を頼む。

「いつかその時が来たら、陽子のことは私が殺してあげる」

どれだけ待っても、骸骨達は迎えに来てくれない。私を死へ導いてはくれない。陽子のことは置いていけない。陽子は私みたいな死にたがりじゃない。わかってる。でもお願い。あの時みたいに何気なく、私を肯定して。

「ね、お願い。約束、して」

喉に言葉がつっかえた。今日はまだ死ねない。死なない。だから、今の私を助けて。


「いいよ」


陽子が震えながら笑った。寒くても、怖くても、同情でもなんでもいい。これでもう、陽子のことは誰にもあげない。


 はずだった。

 大学三年生の夏も終わる頃、限界が来たのは私の方だった。肌を隠すのも慣れて、家に父がいることが多くなって、時々おかしくなるけど、もうすぐ始まる就活で、今度こそ私はこの家を出て行くはずだった。

嗅ぎ慣れた煙草の匂いが染み付いた家と、俯く母と、疲れた顔の父と、見知らぬ女。三人家族、四人がけのダイニングテーブルに座るよう促される。

「悪いけど、俺はもう限界なんだ。どれだけ言っても煙草はやめないし、俺はこの家に帰ってきても、何も感じないんだ」

この人は会社の人で、母とはお見合いで、この人とは恋に落ちて、向かいでただただずっと黙ったままニコニコと笑って、事が終わるのを待っている女に、無性に腹がたった。

「綾子も働くようになるし、来年までは待とうと思ったんだが、その、彼女が三十歳になるまでに結婚したいと聞かなくて」

父は、この場の誰とも目を合わせようとしない。

「でも、綾子は俺がいない間もずっと母さんと上手くやって来れたから」

「なにそれ」

自分でもびっくりするぐらい、冷めた声がした。

「綾子、もちろん養育費は来年まで出すつもりで」

「そういう話じゃない!」

思わず机に手をついて立ち上がって、音を立てて椅子が転がる。手のひらがジンジンと痺れるが、こんな痛みはなんともなかった。父も母も驚いた顔をしていた。今まで一度も、私はおかしくなったことがなかった。

「今まで上手くやってこれた? は、なにそれ? 冗談だったとしたら全然面白くないんだけど」

目の間に居座る女が眉を顰めて、口を開こうとする。

「言っておくけど、この場であんたに発言権なんかないんだからね」

「綾子」

少し強めの声で、父が私を咎める。

「何? お父さんだって強く言える立場なわけ? 散々家族のことほったらかしてさ。お父さんが見てたのはお母さんだけでしょ。そのくせ私がどんな目に遭ってたかも知らないくせに!」

私が傷を隠せば母を傷つけずに済んだし、家族は円満だったはずだ。父は母を愛していて、私だけがその輪から外れるだけでよかったはずだ。家の中でもずっと着ていたままの上着を脱ぎ捨て、踝まである白いロングワンピースを、下着が見えるのも厭わず胸元あたりまでたくし上げる。不倫相手が悲鳴をあげる。

「何。自分がされたわけでもないくせに悲鳴あげて馬鹿みたい」

おかしいね、と、私の口が喋る。隣で母がいつものように「ごめんなさい」を繰り返していて、父は何も言わずに涙を流した。

「意味わかんない。泣きたいのはこっちなんだけど。でも、もう別にどうでもいいよ。私がニコニコ黙ってれば円満に事が終わって、就職すればハッピーエンドだったけど。でも、そんなの意味なかったね。何にも意味なかった。今までの人生、笑って過ごしてきたのが馬鹿みたい。でも、もうそれも意味ないね」

はは、と乾いた笑いが漏れる。おかしくって笑いが止まらない。

「狂ってる」

女が笑っていた顔を崩して呟いた。

「あっそう。別に、もうどうでもいいよ。……あんたの人生、これからハッピーだったんだろうね。でも残念、今日から一生悪夢見て生きてけよ」



 女にそう吐き捨てて、その後のことはあまり覚えていない。つい一週間くらい前のことなのに。死んだ後、魂だけの状態みたいになって、陽子のアパートに向かった。約束、破っちゃった。でも、陽子はきっと死にたがってない。私が一方的に強く言った約束なんか。

「……はやく、死にたいよ」

陽子の下宿先のアパートにすり抜けて入る。玄関の目の前の廊下、台所に寄り掛かりながら、陽子が呟いた。陽子の右手の先には包丁が落ちていて、左の手首にはうっすらと傷付けた跡が見える。「う、あ」と、言葉にもならない声をあげて、陽子は泣いている。ああ、なんだ、そう。陽子も私と一緒だったんだ。はは、と、喉から乾いた笑いが漏れる。

 だったらやっぱり、迎えに来てあげなくちゃ。


「だからね、お母さんは、一人で死んでね」

煙草の充満する家には、もう母しかいなかった。自分の葬式は見ていない。そんなの意味がないからだ。父はきっとあの時の女と暮らし始めて、この家に一人、母だけが残された。陽子が実家に一度戻ると言うから、私も一度くらいは見に行ってやろうか、なんて思ったり。生前、あんなに気を張って生きていたのに、本当に馬鹿みたいだ。父があんなことを言い出さなければ、私のおかしな提案も、陽子と私の人生に起きることがなくて、なんて、考えても無駄なんだった。陽子を死に導くと言った次の日、散歩に行くと嘘をついて、陽子から姿を見えなくした。私の人生には何も無い。墓にも何も無い。私の未練は陽子だけだった。一週間だけでも、ずっと陽子のそばにいれば、陽子の気持ちがわかるかもしれない、なんて。私の知らない、陽子の生きた街を見た。あのバイト先の店長にはちょっとムカついたから転ばせてやったけど。陽子はずっと寂しかったんだね。私達はギブアンドテイクの関係なんかじゃなかったし、かけがえのない親友だし、親不孝者だし、私は陽子じゃなきゃダメだったし、陽子もきっと、私じゃなきゃダメだったんだ。

「だからね、お母さん」

自然と頬が上がる。綾子、と、母が呟いた気がした。

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