第19話 残るもの消え去るもの

 



 紅葉を見に行くことにした。

名所と言えば東叡山寛永寺とうえいざんかんえいじ谷中天王寺やなかてんのうじ、根津権現に滝の川、大塚護国寺、高田穴八幡、品川東海寺など上げれば限がないが、多岐の希望で根津権現にしたのである。

 この日は曇天であったが然程寒くはなく、二人はお揃いのような縦縞の綿入れの小袖を着込んで出かけた。

金澤町から茅町に出て、不忍池沿いに歩いて行くと道は大名の屋敷の間を抜けるように折れて七軒町の丁字路で右に曲がって掘割まで行ったが、向こう岸に渡るには右端の道からでないと門前町には入って行かれなかった。

可なり混んでいた。

右側にあるのが別当昌仙院で、左に清水観音があり、その奥に権現社があった。

紅葉は丁度見頃で色づきも良く、観る人の目を楽しませてくれた。

 房吉は多岐に此処に来たかった訳を訊くと、此処は豊島村から母親に連れられて来た時に寄った所で、その時のことが懐かしく思い出されて来てみたくなったというのであった。

 この根津権現は元は甲府中納言の屋敷跡でその邸内にあった太田道灌ゆかりの御社を昇格させて、豪壮な社殿を建造して祀ったのである。

 二人は門前町で茶菓子を食べたりしてゆっくりすると、今度は房吉の提案で天王寺に参ることにしたのである。

 谷中天王寺は寛永寺の裏にあるので、門前町から東に出て三浦坂を上って行くと、瑞輪寺は御会式おえしきらしく、何時にない人出で多くの信徒らしき人々が出入りしていた。

 其処を抜け出て自證寺、大行寺の間を抜けて左に曲がると正面に門が見えた。

天王寺の正門である。

此処の紅葉も有名で矢張り見頃であった。

その色付いたもみじの中に、薄桃色の花びらをつけた木が見えた。

「あれは何」

「桜だろう」

 彼岸桜を俗に会式桜えしきざくらといい、狂い咲きしていたのである。

門前の茶屋で茶漬けを食べてから不忍池しのばずのいけへと下って行った。

辨才天べんざいてんを過ぎて三橋に差し掛かった時、多岐が行き成り房吉の袖を引いたのである。

「何だよ」

 多岐は何も言わず前方に顎を突き出して見せる。

 何を差しているのか分からなかったが、

「あそこを見て」

 と耳元で囁く先に居る二人連れをよく見ると、綾錦ときみ(艶錦)であった。

《何であの二人が》と房吉も多喜も異様に思ったが接点がない訳ではないので決して不思議でも不可解でもなかった。

 綾錦ときみは松江松平家訪問時に会ったが、この時来の関心は中郷源四郎であったが、源四郎が国許に戻るとそれっきりとなって縁が切れたようだ。

 綾錦は奥女中の多美との仲を続けながら、いつの間にかきみと親密な間柄になって居たのである。

親方綾錦は独身だし、多美との間で交わした約束もなさそうなので誰にもとがめられることはなかった。

「姉さんもあの方が気楽でいいみたい」

「合併相撲に出る心算なのか」

「姉さんなら屹度出るわ」

 江戸相撲に回向院を横取りされた感じになって、会頭の曲淵善兵衛は彼方此方のお寺に話しに言ったが条件が合わず、両國廣小路での開催を思いついて普請奉行の直属である上水方道方下奉行じょうすいかたみちかたしもぶぎょうに陳情して、札銭の一割相当の上納を約束し、更には役方を招待することを約束し、更には通行の邪魔にならないように普請することで許可を貰ったのである。

 勧進相撲となると寺院での開催となる為、その是非は寺社奉行の許可が要ったが、この廣場での興行は公共の往来でもあり、中々思い付かなかったが、儲け仕事に長けた善兵衛は大道芸人らの人集めの巧みさに着目し、また将来的にも興行地の拡大を図る上でも廣小路に着眼したのであった。

 この年は秋場所とはせず、本所の寺で巡業場所として開催し、入場者数を稼ぐ為晴天十日としたのである。

 これが結構好評で押上村や亀戸村からも人々が押し寄せて観に来たのであった。

小屋掛けはしなかったので門で頂く札銭は一人当たり五十文であった。

その為広い境内も見物客で一杯になった。

何と十日間同様の入りとなったのである。

 途中でこの話を聞いた房吉と多岐は頭巾を被って変装した心算だったが、がたいが大きいので如何やら見破られていたようである。 この場所の優勝相当は川並部屋の艶錦であった。

百八十両の札銭収入から二十両を寺に納め、各部屋に分配金として二十両づつ配った。

役員などの取り分が仮に五十両程としたら、五十両ほどが残ることになる。

 それはどのように使われるのだろうか、会所の運営に使われるならば問題ないが、どうも金貸しの資金に使われているようだった。

 曲淵善兵衛はこれに気を良くして本場所の合間に巡業と称して小屋掛けしないで済む寺院境内を見つけては上手い話として持ち掛けたのである。

 扨て待ちに待った両國廣小路での開催である。

この場所は盲人対女力士の対戦として事前に引札(広告)が配られ、前評判は上々で、小屋掛けも桟敷席を設けるなど準備は万端であった。

 普請奉行直属の上水方道方下奉行らを特上来賓とし、江戸会所の役員らを招待するなど派手な動きを強調するように見せた。

小屋掛けに関しては回向院の小屋掛けに携わった鳶に頼み、八千からの入場を可能としたのであった。

 開催日数は八日。

連日満員で盛況であったが、取組内容で見ると力と力、技と技のぶつかり合いは半分程しかなく、男が手探りに追い回し、女が逃げ回るような展開が目立ったのである。

だがそれが意外と受けたのだ。

 この場所は成功裏に終わったのである

曲淵善兵衛は次回もこの場所での開催を上水方道方下奉行に願い出たが、老中や寺社奉行から、広場を埋め尽くすような使用は緊急時の妨げとなるとして各方面から苦情がでた為、老中や年寄りから通を塞ぐような大掛かりな催しは罷りならぬとのお達しが出たのである。 

それと内容の部分で女同士でさえ風紀を乱しかねないのに、男と女が公衆の面前で裸で抱き合う形は不埒で好ましくないとされたのであった。

 房吉多岐夫妻は、この両國廣小路場所にも途中二回ほど見物席に紛れ込んで見ていた。鴫原岩や艶錦、花の山、肥田桜などは技で見劣りしない程の活躍であったが、時雨山や泪川となると力量が男らに比して明らかに劣っていたのだ。

それ以下となると問題外であったが、御家人や町人らにしたらこの上ない娯楽で、特に独り身にとっては最高の見世物であった。



 房吉は綾錦爲衛門の補佐として相撲衆と手木衆の補助的役割を熟していた。

六月朔日の氷室の日の氷献上は重要な任務であったが、力士養成の任務に専念するようにとの会頭からの命令に従うことを余儀なくされて、力士の養成に力を注いだ。

 その成果は少しずつ顕われて来たが、未だ二段目あたりの者が多くて、前頭は綾戸川(政吉)一人しか居なかった。

 依然ならお抱え力士による交流試合が大名家の間で頻繁に行われていたが、会所所属の相撲部屋への移籍が進むと、お抱え力士も減っていったのである。

江戸会所も、人気あるお抱え力士なら出場の要請もしてきたが、そうでない者は敢えて放っておいた。

 


 江戸会所の本所回向院での九月秋場所の後の十一月冬場所は市ヶ谷八幡社で行われ、その後も富岡八幡宮開催が多かった。

芝神明宮や浅草蔵前八幡宮などの開催を挟んで、寛政年間に入ると本所回向院での開催が極端に増加した。


 一方女力業(相撲)は、従来通り女だけの場所と盲人との合併相撲を興行したが、その際土俵上で再三に亘って破廉恥行為が行われたとして、寺社奉行所より即時興行の停止命令が出され、興行主と世話人が処断されたのである。

以後公序良俗に反し、風紀を乱すものとして合併相撲は禁止したのであった。

女同士の相撲については特にお咎めなかったのでその後も存続した。

 江戸会所の回向院での初開催が明和五年九月秋場所であったが本角的に本拠地化するのは、それから四十数年後の文化文政の時代で、この間七十場所中十六場所しか使わなかった。

如何やらその間は従来の女力業らが興行した模様である。


 時代は前後するが大名家お抱え力士を少し挙げてみると、仙薹松平せんだいまつだいら(伊達)家の二代目谷風梶之助、姫路酒井家の不知火しらぬい光右エ門、出雲松平家の雷電爲右エ門と稲妻雷五郎、高松松平家は初代谷風梶之助、久留米有馬家は小野川喜三郎と名だたる力士を輩出したのである。


 褌担ふんどしかつぎの房吉の登場する時代はこれらの少し前の時代、宝暦年間から明和の中頃までであったので、残念ながら綾錦などと共にその名を歴史に留めることはなかったのである。

                 完

 

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褌担ぎの房吉 夢乃みつる @noboru0805

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