無垢なる子
──パリン
と、ガラスが割れたような、そんな音が響く。
実際の音ではなく、空間の揺れによって生じた破裂の音。
第一大陸の極西のとある半島から発せられたその揺れは小さく、けれど広範囲に伝わる。それこそ、大陸の極東どころか、他の幾つもの大陸にまで。
多くのものにとって、その揺れがなにを意味するのか、まったくわからなかった。だが、一部の高位に至った生物、そのさらに一握りだけは、それが何かを理解した。
それは“無垢なる子”と呼ばれる、何にも染まっておらず、数えられないほどの無限の可能性を内包した、そんな存在。100年に一回の周期で世界に産み落とされ、その在り方は様々。卵や、自我の確立をしていない状態の子、無生物なんてこともある。いずれも、育て親の種族となり、繁殖をしない幻想生物にとっては“子”を得るまたとないチャンスだ。
そして、もっともそれを早く認識した存在があった。
亜神族(土地神)。種族、黒を内包せしもの。形態、蛸。年齢、海より大地が見え出した頃から。現在住所は、第一大陸極西にある暗黒半島、その最も内陸に近い砂漠地帯に聳え立つ、世界樹の苗木が成長したやつ、の
そんな蛸姿のソレは、その気配を感じた瞬間、『またか』と思った。ソレにとって100年という時は長い時間ではなく人間にとっての『一日経ったな』と同じようなもので、言うなれば眠りを妨げる目覚まし時計かのように感じているのだ。
だから、ソレはのっそりと体を起こし、薄く目を開く。頭の中では今回はずいぶん近くに“無垢なる子”が生まれたものだなどと考えており、次第に野次馬根性が目覚めて、“無垢なる子”を見てみたいと思うようになった。
ここまでの所要時間は半刻。思考時間が長いのか、思考速度が遅いのか、はたまたその両方か……。
どれにせよ、ソレは長い時間を要してようやく考えをまとめると、“無垢なる子”が生まれ落ちた場所へと赴いた。
ソレは“無垢なる子”が生まれた場所に着くと、滞空したままあたりの様子を把握するため力を放出する。
目当ては少し先にいるのだが、それよりも、だ。あたりには戦闘の気配が濃厚に漂っており、どちらかと言うとそちらの方に気が散ってしまう。
なにせ長年の怨敵の気配だ。ソレの頭の中では『ぬっ』とのんきな亀の顔が浮かんでくる。
思わず、ソレは脳内で亀をコテンパンに叩き潰すのに思考を割いた。そして、その間にシュワシュワと大地に音を立ててくる雨雲に、『うざっ』と足を振るって吹き飛ばす。
あらぬ方向へと転換して離れていくのは、雲が一つの生物の意思によって進むからだ。端的に言えば、雲を操る生物が逃げたから雲も一緒に去ってったと言うわけだ。
恐るべきは腕を振ると言う動作だけで、雲を操るものが彼我の差を感じたと言うことだろう。ソレの異質さが、より際立つ。ただ、ソレはそんなことなど気にも留めないだろう。己の特殊さを理解していたとしてもそれを恐怖することが理解できないのだ。
たったそれだけの行為であると言うのに、強烈な慈愛の念を呼び覚まさせられた。
一目見た瞬間に心を掴まれ、『守らねばならない』と、そう思った。それは強迫観念にも似た感情の濁流。
そして気付けば、攫っていた。
ソレが思い出すのは、“無垢なる子”の能力だ。
繁殖を必要としない、もしくはできない種族に庇護されることでその種族の力を身に宿すようになる存在。そしてそのためにはソレらの種族に庇護される存在でなければいけないのだ。ゆえに、“無垢なる子”は特定の種族に愛されるようになっている。
もちろん愛は愛でも、
家族愛など、生まれてこの方感じたことすらない。そんなソレが、“無垢なる子”の持つ固有能力によって初めての家族愛を植え付けられたのだ。
ソレは己の感情に困惑し、ただただ感情の赴くままに行動するしかない。
落ち着こうと、ソレは自分の心を沈めて、次の行動を決めようと思った。怯えている“無垢なる子”をどうするべきなのかと思ったソレは、とりあえず相手の意思を読み取ろうと思った。
その力は、(種族が多く、姿形もほとんどが異なっていることから)相手の行動が読めないためいつのまにか習得していたもの。相手の行動を読めるように祈っていたから勝手にそんな力がついたのだろうとソレは思っている。
果たして、その力を使った結果、“無垢なる子”の表層心理では怯えているというkとがわかった。
どうすればいいのかとソレは考える。
怯えを取り除くには、こちらが敵でなく、危害を加えるつもりがないと言うことを伝えなければいけない。
ソレは向こうの意思はわかるが、こちらから意思を伝えるといった能力は持ってない。必要なかったからだ。ゆえに、どうするべきかと悩み、“無垢なる子”をくまなく見つめた。
そして、“無垢なる子”の体力が消耗していることを理解した。そして次に、“無垢なる子”は脆弱な存在だとわかる。また、食べ物を摂取するしなければ生きれないだろうと推測した。
それらの思考から導き出された解。
つまり、自分の縄張り(オアシス)で取れる果物をあげればいいと考えたのだ。
手持ちに五つほどあった。200年ほどにもぎ取ったものだ。まだみずみずしい。さすがは世界樹の実。下手をしなくても1000年くらいはこのみずみずしさを保ったままであるだろう。
赤い世界樹の実をごそごそと取り出して、“無垢なる子”に見せる。
食べてきていいのか、と言葉そのものは分からずとも意思を感じたので頷く(なお、ソレが頷くと言う行為を選択したのは、彼女の思考の中に顔を上下にしてほしいと言い紙を読み取ったからだ)。
そして、全てを食べ終えた“無垢なる子”は二つ目をねだってきた。しようがないなと同じ実を渡してあげる。そこまできたところで、“無垢なる子”の虚ろなを見てソレは失敗したなと思った。
ソレにとってはただの嗜好品であった果物だが、人間である“無垢なる子”にとっては毒でしかなかったのだ。
長い間生きてきた記憶を引っ張り出した結果。世界樹の実を食っていたやつは常に、違った外形をしている実を同時に二つ食べていたことを思い出す。
残った三つの実の中に一つ、それ(“無垢なる子”の言うところのどんぐり)があったので“無垢なる子”の口内に突っ込んだ。
正気を取り戻したその瞳が、ジトリと睨んでくる。
居た堪れず、意識を他所へやると少し離れたところ(地平線のあたり)に瀕死の龍を見つけた。龍と言ってもそうやらまだ幼体で小さかったが、目覚めたばかりの腹ごなしには十分だろうとそちらへと足を向ける。もちろん、“無垢なる子”を連れていくのも忘れない。
案の定というか、ソレがゆっくりと移動している間に龍は息絶え、死骸となっていた。殺す手間が省けたと思いながら、ソレはグチャグチャガリボリとその死骸を砕いて口にする。美味しいと言うわけではないが不味くもない、独特の味。個人的にはクセになるなどとソレは思っていた。
そこで、ついでに『食べるか?』と、“無垢なる子”に一切れ渡すも、いやいやしながら食べていたので二切れ目は上げないことに。嫌いなものを食べても仕方がないだろうとの判断、賢明だ。
ソレは鱗の一つも残さず食べ切ったところで、“無垢なる子”を自らの住処にご招待することにした。
これから“無垢なる子”は“我が子”となるのだ。私の庇護がなければこの場所で生き延びるなんてことはできない、とソレは考える。
そう、“無垢なる子”はソレの子となったのだ。ソレがこれから七日間の間にに見捨てれば話は変わるのだが、ソレは自らの子を捨てるなんて考えは一切ない。
壊れ物でも扱うようにソレは触手を動かして“我が子”を抱く。
ゆっくりと力を解放して飛び立つ。“我が子”に害がないような力加減で、空を加速する。
物珍しそうに“我が子”は辺りを見ている。その様子にソレは感動を覚えて、速すぎないように動きを制御する。
ゆっくりと時間だけがすぎていく。
そして、ついには地平線の彼方に住処があるオアシスが見えてきた。
大きな湖のど真ん中に生えている世界樹の林の、とりわけ大きな樹に降り立つ。
“我が子”は呆然として、なぜか涙を流していた。
驚いて心をのぞくも、これといったことが自分にできるわけではないと知ると、ソレはしようがなく先ほどの世界樹の実を取り出す。
実は二つあった。
茶色の実(どんぐり)と黄色の実(なし)。
いざとなったら茶色の実をあげればいいなんて考えながら、ソレはそそくさと黄色の実を“我が子”に与える。なぜ大した理由もないのにそちらを選んだ。これが直感っていうやつか。……そうなのか?
どこか胡乱げな瞳を向けながらも、“我が子”は黄色の実を食べてくれる。食べ終わった様子から毒などはなかったようで、ソレはふぅと一息をつく(実際に息を吐いたわけではないけど)。
さてさて、次はと幹に空いた
“我が子”が落ち着いたのは、結局青色の恒星が地平線の果てに消えてなくなる直前だった。少し急いでソレは“我が子”を自らの住処、
そんなことはつゆ知らず、“我が子”は
けれども、ソレにとっては久しぶりの運動をしたせいで(精神的に)疲れていた。なのでさっさと寝ようとする。
ソレは困惑している“我が子”を置き去りに、すやすやと眠りについたのだった。
斯くして、ここに己の欲望や感情に振り回されているソレ(蛸様)と、異世界から飛ばされてきて頭の許容量を超え達観ている“無垢なる子”のペアが出来上がるに至った。
双方、コミュニケーションはほぼ成り立たず、手探り状態。
彼ら彼女らの行く先はどうなることやら……。
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異世界漂流譚 二日目
https://kakuyomu.jp/works/16818093081785503231
異世界漂流譚 初日 碾貽 恆晟 @usuikousei
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