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【プロローグ】


 人の気配が失せた深夜の病院は、よくホラーゲームの舞台にされるのだとか。


 長く直線的な廊下。影に落ちた真っ白な壁を、緑色の明かりが不気味に染めている。

 左右に立ち塞がる扉。飾り気のないソファ。肩身の狭そうな観葉植物。

 タイル張りの床を革靴の底で叩く音が反響する。ジリジリと呻く古い非常灯の中身は、未だ蛍光灯のままだ。


「……なるほど。確かに、いつどこからそういうものが出てきても許される雰囲気ではある――」


 突き当たりの、両開きの扉の前に立って。


 俺は視線を斜め上に向けて、壁に据え付けられた「手術中」のランプが消えていることを確認した。

 振り返る。

 受付にはまだ看護師が数人残っているはずだが、気配も明かりもこの場所までは届いてこない。


「……ふ。もしこれがホラーゲームなら、ここで突然襲われたりするんだろうな」


 そしてもう一度周囲をぐるりと見回して扉を細く開け、その隙間に滑り込んだ。


 手術の前には必ず手を洗わなくてはいけない。タワシを使ってゴシゴシと、爪の隙間から肘先までくまなくだ。

 今この手術室には患者も医師もいないのだが、外科医である俺にとってそんなことは一切関係なかった。これはこの部屋に入るための儀式のようなものなのだから。


 おっと、眼鏡に水滴が飛んだ。

 ふき取るついでに、真っ赤なフレームも磨き上げておく。


 昼間の手術が長引いたせいか、鏡に映った俺の顔は少し疲れているようにも見えた。自覚症状はない。あったとしても、この銀の瞳が生きているうちは問題ない。

 

 使い捨ての手袋と手術着は身に着けず、白衣のまま部屋に入る。万が一にでも発掘されて面倒なことにならないよう、最低限の予防策だ。


 誰もいない手術台の前で足を止める。

 静寂が生む微かな耳鳴りをかき消すように、低く広がる自分の声を確かめながら呟く。


「さて、それでは――始めます」

 

 今からちょうど三時間前、俺が手術をしている裏で医療ミスを起こした場所。死ぬべきでなかった患者を殺した場所。

 綺麗に掃除されて悲劇の跡形もないその上に、広げた右手を低くかざす。


「冥府冥土の神々に請い願う。死者仇人の魂魄、暮夜の内に繰替えらんことを――」


 かざした手のひらが熱を持った。実行可能のサインだ。

 名を聞けば誰もが眉をひそめる、とある山奥の閉鎖集落。その中でも特定の家系にのみ伝わる、禁忌とすら呼ばれる能力。本来であれば門外不出のそれを。


「――『死責転嫁』」


 途端、弾けるように熱が拡散した。

 手首を強く握って、手の激しい痙攣に耐える。


 やがてその震えが治まった時、手術室には何の変化もなかった。ただ、背後の扉の奥の奥の更に奥が、なにやら騒がしい。

 俺は手首をひと振りして踵を返し、来た時と同じように気配を殺して廊下に出た。ドタバタと誰かがエントランスを駆けずり回る音が聞こえる。深夜の緊急搬送だ。ただし、救急車のサイレンは鳴っていない。


「赤井先生! しっかりしてください、赤井先生―っ‼」

 

 若い看護師の、空を裂くような金切声。

 なんだ。赤井の奴、思ったよりも近くにいたんじゃないか。出たらすぐにタクシーを呼ぶとか言っていたくせに、随分と吞気なもんだ。危機管理意識の欠片もない。

 

「俺が気付いていないとでも思ったのか、はたまたミスじゃないと言い張ればよしと勘違いしたのか……なんにせよ、これで実証はされたわけだ。また人事が忙しくなるな」


 ストレッチャーがこちらに転がされる音を聞きながら、俺はそれに出くわさないよう階段を足早に降りる。今度の目的地は地下。赤井の身代わり、いや、赤井が身代わりになって蘇った患者の女性が霊安室にいるはずだった。麻酔の切れた彼女が意識を取り戻して大騒ぎする前に、状況説明のための準備を整えておかなければ。


 霊安室の扉をノックする。返事はなく物音も聞こえない。よし、間に合ったな。


 現在保管されている遺体は、彼女一人だけだ。顔写真もカルテも把握済み、間違えようがない。

 体温が戻っているのを確認して慎重に身体を運び出し、事前に持ってきておいた車いすに座らせる。ゆっくりと押しながら、エレベーターの方へ。


「……ん……うん……」

「気が付かれましたか」


 上昇するエレベーターの中でほどなく目を覚ました彼女は、背後に立つ俺の顔を見て怪訝な表情を浮かべた。まあそうだろう、なにせ初対面だ。こんな状況にならなければ、そもそも出会う予定などなかったのだから。


「ええと……ごめんなさい、どちらの先生かしら。見覚えがないのだけれど」

「失礼、自己紹介が遅れました。外科医の先島礼二と申します。主治医の赤井の代理で参りまして」

「ああ、赤井先生の! お若い先生ね、おいくつ?」

「20です」

「あらあら、まあまあ……それじゃあ、手術はきっと成功したのね。腕の立つ先生に、ってちゃんとお願いしておいて良かったわ」

 

 女性は安堵の笑みを浮かべて自身の腕をさする。俺は愛想のいい小さな笑い声で返した。

 そう、手術は成功だ。俺がそういうことにした。

 その腕の立つ赤井先生は初歩的なミスで貴方を殺しましたよ、などという事実は俺の記憶以外において完膚なきまでに消え去った。


「今はお部屋に向かっている途中です。到着してから後ほど、看護師が点滴などを持っていきます」

「ええ、ええ。分かったわ、お願いね」


 患者は病院に詳しい専門職じゃない。こんなに粗がある説明でも、何の疑問も抱かずに納得してくれる。

 こんな夜中までみんな大変ねぇ、なんて他人事のように心配しながら。このざわめきの原因は自身の主治医の死亡である、だなんて思いもしない。


 女性が元いた部屋の近くで看護師を呼び止め、車いすを託す。検査お疲れさまでした、と看護師は俺の手から患者を引き継いで運んでいく。

 ふむ、なるほど。今回はそういうシチュエーションで事が収まったらしい。


 まあ、いいだろう。これで俺の目的は達した。あとは何事もなかったかのように帰宅し、明日改めて赤井の不幸に胸を痛めるふりをするだけだ。



 ――『死責転嫁』。

 不当な死に見舞われた人間を蘇生し、犯人を死に至らしめるもの。

 周囲の人間全ての記憶すらも書き換え、事実と真実の両方を覆すもの。

 これで俺は人を救う。

 価値のない人の命を犠牲にして、かけがえのない人の命を拾い上げるのだ。




【第一章:蟲毒の医師】


「いやー、それにしてもまさかあの赤井さんが! これは我が医局最大のピンチなのでは!?」

「……おまえ、誰かが死ぬたびにそれ言ってるだろ」

 

 たはは、と不謹慎に頬を緩め、若い男の研修医は俺の正面に座る。俺がうどんをすする何倍もの速さで、トレーの上に並んだ鯖定食が彼の口の中に消えていった。


「にしても、今年もう三人目ですもんねぇ。それもポスト職の外科ばっか……内科も一人いましたっけ」

「俺からしたら、それでも補充がきいてる方が怪奇現象だよ。病院長のパイプには常々驚かされる」

「出た、人脈オバケ。オレ、もう先生方の名前覚えるの諦めましたもん……ほんと、呪われてるとしか思えないっすよこの病院」


 冗談めいた言葉に、俺は肩をすくめて水を喉に流し込む。


 もちろん、呪いなどということはない。今年の三人、去年の五人、そしてその前も、俺には全て心当たりがある。

 呪いというなら、むしろ名の知れた医師が医療ミスを頻発していることの方がそうだ。できない手術をできないと断言する者より、見栄を張って失敗を隠匿する者の方が出世する評価システムも右に同じ。本当にたちが悪い。


「にしても、先島先生っていっつも一人で飯食ってますよね。なんで人気ないんだろ、そりゃちょっとカタブツかもだけど手術でミスは絶対にしないし、アメリカで飛び級しちゃうくらい優秀だし、患者さんへの態度なんかピカイチなのに」


 ものの三分で空になったトレーを脇に避け、研修医は頬杖をついた。その視線の先、俺の背後では見覚えのある外科医たちが仲良く食事を共にしている。食堂はざわついているが、時折俺のことを話題に出しているのが確かに聞こえてきていた。人混みの中で自分の名前だけは聞き分けられる現象……カクテルパーティー効果というものらしい。


「蟲毒。そう言ってるのが聞こえるだろ。俺の周りの優秀な医者は次々と死んでいく……だから、怖くて近付かない。何も恐れず絡んでくるのなんておまえくらいのものだ」

「ん……つまり、友達いないってことですか」

「それは残念ながら変換ミスだな」


 研修医はいまいち理解できないという顔をしている。ようやく俺もうどんを食べ終え、姿勢を崩してプラスチック椅子の背もたれに体重を預けた。


――と。

首から下げた、俺の業務用スマートフォンが鳴る。


「はい、先島。……ええ、分かりました。至急向かいます」


 通話を切りながら勢いよく席を立ち、食べ終わったトレーを研修医の前へ押しやる。突然活発になった俺の動きに目を白黒させながら、研修医は慌てた手つきで食器を重ねた。


「うおう! ちょ、どうしたんですか」

「緊急搬送だ。開腹手術の執刀医に呼ばれた。悪いが後片付けを頼む」


 了解の声を背中で受け止め、振り返らずに食堂を飛び出す。

 

 緊急搬送はとにかく時間が要だ。たった十秒の遅れが患者の生死を分けることだってある。

 曲がり角で危うく看護師と正面衝突しそうになりながら、廊下を全力で競歩。この時間帯なら、エレベーターよりも階段を使った方が早い。すねの前面が熱くなるのを感じながら、一段飛ばしで一気に駆け下りる。


 そうして準備を整え手術室に辿り着いた時には、もう俺以外の全員がその場に揃っていた。


「姫宮礼緒さん、17歳女性。右上腹部に切創、大量出血で肝臓に到達の疑いあり」

「保護者の方から手術の同意は取れてます」


 助手と看護師から口々に報告を受ける。麻酔科医からバイタルチェックを聞いて、俺は挨拶もそこそこに患部を確認した。


 表面の傷はそんなに大きくない。ただ、それにしては出血量が尋常じゃなかった。傷の角度からも、肝臓の損傷は間違いないだろう。あとは時間との勝負で、損傷個所を塞げさえすれば……。


 傷口近くにメスを入れる。


 絶句した。


「これは……一体何でどう刺したら、この傷口でここまで肝臓が損傷する?」


 例えるなら、中で傘を広げたような。

 傷口より何倍も大きく、広範囲で、縦横無尽な刃の跡が患者――姫宮の肝臓をズタズタに切り裂いていた。


「出血量、2000ミリリットルを超えました!」

「輸血、全然足りません!」


 当たり前だ。ここまで命を繋いでいただけでも奇跡に等しい。

 一時的に心臓を止めたとしても、その時間だけで傷口を塞ぎきるのは不可能だろう。もちろんやれるだけはやる、だが俺は千手観音じゃないし、助手も二人しかいない。神のような高速縫合術など持ち合わせていない――


「出血量――」

「血圧――心拍――」

「――脈――血――心――」


 集中力を乱す、耳障りなアラーム音。


 一定のリズムを刻んでいた心電図がゼロに沈黙するまで、

 そう時間はかからなかった。



 ビル群の頭が成す地平に、肥大した橙色の太陽が沈んでいく。

 夏の終わりのひんやりとした風が刈り上げたばかりの髪を梳いて、風圧が耳元でぼわりと膨らんだ。

 背後からの足音。手すりに腕を乗せたまま振り返ると、あの物好きな研修医が缶コーヒーを持った両手を高く掲げている。


「お疲れ様です。聞きましたよ、昼の緊急手術の件。なんか肝臓がエラいことになってたって看護師から」

「ああ、あれは搬送時点で既に手遅れだった。警察曰く、事故ではなく他殺だとか」

「らしいですね。17歳……まあ確かにちょっとヤンキーっぽい子でしたけど、一体どんな恨みの買い方したらあんな風に刺されちゃうんでしょうねぇ」


 さぁな、と答えて手渡されたコーヒーを一気に喉へ流し込む。じんわりと舌の上に残る甘さが妙に温かくて、俺の克己心に火がついた。


 そう。他殺なのだ。

 あの姫宮礼緒という少女を殺した犯人が、存在しているということだ。


「……緊急搬送されたのなら、救急車を呼んだ場所が判明しているはずだな」

「あー、商店街のことですか? ほらそこの下に見えてる、アーケードのど真ん中……先島先生、知らなかったんですね」

「……は。なんだと?」


 あまりにも当然のように言うものだから、度肝を抜かれてしまった。

 確かに、そう言われて見てみればアーケードの周辺を警察が封鎖しているが……情報の取り扱いとしてはどうなんだ。個人情報ではないにしても、関係者以外にそうそう出回るものだとも思えないが。


「そのコーヒーはオレのおごりです。それじゃ、また助手やるときはよろしくお願いしますね!」


 俺が質問する前に、研修医は小走りで去っていった。

 手元に残ったコーヒーを飲み下す。中身が減っていたせいか、もうすっかり冷めてしまっている。


「アーケードのど真ん中、だな。遺体はもう警察に行っているとして……封鎖は完全じゃなさそうだ。あとはどれだけ現場に近付けるか、か」


 『死責転嫁』を実行できる条件は三つ。

 一つ、殺害した犯人が存在していること。

 一つ、次の夜明けまでに実行すること。

 一つ、現場で実行すること。


 そのうち一つ目は確実になった。二つ目の制約があるから、警察がはけるのを待ってはいられない。三つ目、これは死亡した病院の手術室ではなく致死ダメージを受けた通報現場のことだ。手がかざせる距離まで近づけるかは現地まで行ってみないと分からない。


 幸い、今日はこれ以上オペの予定がなかった。院長の都合で回診も休み、特に気をつけなければいけないような患者も抱えていない。


 で、あれば。賭けてみる価値はあるだろう。

 俺は呑み終えたコーヒーの缶を握り潰し、空いた手で手すりを力強く押して院内へと駆け戻った。



「冥府冥土の神々に請い願う――」

 

 それから約二時間の後。

現場の、すぐ脇にある細い路地裏。そこに俺は身を隠していた。

 やはり、警察による封鎖は解けていない。それでも、昼間に比べたら随分と人が減っていた。


「死者仇人の魂魄――っと。またダメか」


 手を引っ込め、数歩後ずさって闇に身をうずめる。恰幅の良い警官が、縦長の視界をゆっくりと往復していった。


 この場所にいる限りは、通りの警官に気づかれない。さらに運の良いことに、この路地のギリギリから手を伸ばせば現場の真上まで届くのだ。だが警官が徘徊しているせいで思ったように口上を言い切れず、足踏みを繰り返している。


 早口で強行できなくもないが、それは考える間でもない悪手だ。姫宮が蘇ったところで、『警察の封鎖内で俺という部外者が不審な行動をしていた』事実と記憶は覆らないのだから。


「台詞を噛みでもしたらそれこそ目も当てられない。急いては事を仕損じるとはよく言ったものだよ」


 ただ、おかげで幾つか情報を聞きかじることはできた。今回の犯人の名前と、所属。通報当時の現場の状況。

 犯人は隣町のヤクザの下っ端だった。この街の暴力団とは日頃いがみ合っている仲だが、それがどうして一般人を殺害する流れになったのかは分からない。

 それから武器のことも聞いた。刺してから身体の内部で扇のように展開できる刃物だということだ。なるほど、展開したうえで左右にひねればあの滅茶苦茶な傷もつく。オーダーメイドかつ犯人が持ち去ったらしく、警察の手元に現物や類似品はないらしいが。


 と、視界の外から何やら会話する声が聞こえてきた。さっきの警官のもとに誰かが来たようだ。


「お疲れ様です。交代ですね」

「引継ぎを頼む」

「16時から現在まで異常はありません。捜査の進行状況はいかがでしょうか?」

「犯人はまだ捕まっていない。早く取り調べをさせろと署長が息巻いてるよ」

「はは、相変わらずですね」


 仲がいいのか、二人は雑談を続けている。チャンスだ、やるなら今だろう。

 新しく来た方の警官は、こちらに身体を向けていた。会話に集中していることを願って、俺は可能な限り姿勢を低くする。なにせ通路の幅が狭いものだから、ただしゃがむのも楽じゃない。

 地面すれすれで、手を路地裏から出して。今見付かれば、立ち上がるのに時間がかかる。相手は懐中電灯も持っているだろうし、逃げ切ることはできないだろう。


「冥府冥土の神々に請い願う。死者仇人の魂魄、暮夜の内に繰替えらんことを――」


 よし、いけるぞ。まだ会話は途切れていない。


「――『死責転嫁』!」

「それでは、失礼します」

「ああ。ご苦労さん」


 実行すると同時に会話が終わった。早まったか? 新しい方のが、じきにここまでやってくるな。

 熱の拡散。これが治まるまで手は動かせない。

 あと少しだ。頼むから気づいてくれるなよ。


 すり足気味の足音が、のんびりとしたペースで近付いてくる。

 もう視界には入ってしまっているだろう。視線を下に向けさえしなければ、でも現場が地面にある以上不可能か。

 目を見開いて、神経を耳に集中させて。少しでも早く警官の反応を察知できるように、細心の注意を払う。


 『死責転嫁』を実行してから約三十秒が経った。心臓の激しい動悸が指先まで伝播して分かりづらいが、震えはほとんど治まったように思える。もういいだろう。手を路地裏に引き込み、音がしないように立ち上がって……。


「……ん!? おいそこ、なんだ! 誰か――」


 ああくそ、最後の最後で気付かれたか……!

 背後に迫る声。路地裏の反対側へ、全速力で駆ける。

 退勤後で白衣は着ていないから、医者だと一目でバレることはないと思うが。

 懐中電灯の光。黒いシャツの背中くらいは、映されてしまったかもしれない。



 寝不足だった。

 

 結局路地裏の先までは警官も追って来ず、無事に大通りまで出られた……それはいいものの。『追われている』不安感が帰宅して眠ってしまうまで抜けなかったのは想定外だった。まるで周囲のあらゆる場所から監視されているかのような……相手が警察という特殊性のためだろうか。中途半端に逃げ切れも掴まりもしなかったのが悪かったらしい。


「あ、先島先生! 昨日の緊急オペ、素晴らしい手腕でした! さすがです!」

 

 朝から、廊下で看護師とすれ違うたびにそんな言葉をかけられる。あの傷がどういう変化をしたのかは分からないが、どうやら俺は昨日、あのどうしようもなかった手術を成功させたことになっているらしかった。


 『死責転嫁』は、そこまで大きな事実改変を行うわけではない。姫宮が刺され、緊急搬送されたところまでは同じだろう。

 であれば、この病院のどこかに彼女の病室があるはずだ。午前中は時間がある、少し覗いていくことにするか。


 一階と二階に入院用の病室はない。湧き上がってくるあくびを噛み殺しながら三階に上がってすぐ、彼女の名前を発見する。四人収容できる大部屋だったが、名札は彼女のものしかはまっていなかった。


「失礼します。術後、体調はいかがですか」


 ノックして部屋に入り、半分だけ閉められたカーテンの前に立って返事を待つ。直後、中から聞こえてきた気だるげなあくびに、ついつられてしまった。こういうのは何故か連鎖しがちだ。咳払いをして、気恥ずかしさをごまかす。


「んー? 誰ぇ? 看護師のヒト?」


 間延びした声が聞こえて、カーテンの端がひらひらと揺れ動く。どうやら足先で器用につまんでいるらしい。開けようとしているのだろうか。


 俺には女性の患者を担当する機会が少なく、こういった術後対応の経験も全くと言っていいほど足りていない。果たしてこの場合、勝手に覗き込んでいいものか……とはいえ、着替え中という感じではないな。昨日の手術を担当した以上、主治医も俺になっているだろう。なら問題ないか。


「……失礼します」


 制止される可能性も考えて、ゆっくりとカーテンの開いている側に回る。視界の端に映りこんだ姫宮はベッドの上で半身を起こしたまま、そんな俺の挙動を興味深げに眺めていた。拒絶するような気配はない。


 背中の中程まで伸びた根元の黒い金髪に、おそらくはカラーコンタクトだろう緑色の瞳。耳には金属製のピアスが大量についていて、やや長めの爪もビビッドなピンクに塗られている。偏見だが、見るからに不良といった風貌だった。むしろ化粧をしていないことに違和感を覚えるほどだ。


「なんだ、看護師のヒトじゃなくて先生か。名札見して……先島? 先島って、あ、もしかして昨日アタシの手術してくれた人じゃん?」


 病床に近付いた俺の名札を持ち上げ、姫宮は大袈裟な動作で手を打つ。ひらめいた、と言わんばかりの表情が顔全体に貼りついていた。

 患者が元気なのは喜ばしいことだが、とても……瀕死の重傷を負っていたようには、見えないな。若者は回復力に優れている、それだけで説明できることにも思えないが。あとで看護師に彼女の傷の具合を聞いておくか。


「ええ、元気になられたようで何よりです。痛みや違和感などは?」

「んー、じんわり~って感じ。ケチャップと間違えてタバスコ吸っちゃった時より全然マシ」


 独特な比較対象を挙げ、姫宮はにかっと笑う。その表情を見ただけでも、昨日リスクを冒して『死責転嫁』に踏み切っただけの価値があると感じた。

 そう、やはり患者は健康に笑顔でいてくれなければな。それでこそだ。


 さて……では無事な顔も見たことだし、そろそろ業務に戻るべきか。


「もし痛みが強くなったり吐き気などがしたりする場合には、遠慮なくナースコールを押してくださいね。では、私はこれで」

「えー? 先島サン、もう行っちゃうんすか? そんなに忙しい感じ? もっと話したいんすけど」


 袖口を掴まれる。

 全く、17歳だっていうなら友人の十人や二十人はいるものだろう。一人暮らしの老人じゃあるまいし、わざわざ俺を捕まえなくたって……いや。

 そういえば、姫島のベッドサイドはやけに整然としていた。物が少ない、というよりお見舞いらしき形跡が微塵もないのだ。女子高生なら通知で七転八倒しているであろうスマートフォンも、無造作に置かれたまま画面を暗くし沈黙している。


 ……なるほど。それなりに訳ありということか。

 

「アタシ、家族とか全然いないんすよね。ココのお金出してくれてる保護者ってのも、血ぃ繋がってないし。学校もほとんど行ってないし?」

「はあ……それでは、まぁ、十五分程度なら。ですがとても、共通する話題があるとは思えませんよ」

「えー? そんなの、どーにでもなるって。だいじょぶだいじょぶ。じゃあ先島サン、こっち座ってー」


 ベッドの端を手でポンポンとされる。

 無視して壁際の椅子に座った。


「えー。こっち座んないの?」

「いえ、結構です」

「冷たいなー。あ、もっと枕元の方が良いとか? どーぞどーぞ」

「遠慮しておきます」

「……膝枕してあげてもいいすよ?」

「要らんと言っているだろうが!」


 おっと、いかん。あまりのしつこさに、ついつい語気を荒らげてしまった。

一瞬だけきょとんとした後、姫宮は楽しそうに笑った。一線外れた見た目とは裏腹になんとも少女らしい、無邪気な笑い声だった。


「あはははは! 先島サン、っぽいすねその言い方! なんか頑固で気難しそうで頭固くて……ヘンクツ? トーヘンボク? って感じ!」

「な、そこまで言うか、この……いえ、忘れてください。仮にも患者様の前で、礼に欠けた発言でした」

「えーなんで? アタシはそっちのほうが好きだし。ヘンクツボイス採用で」

「ヘンッ……おまえ馬鹿にしてるのか⁉」


 足をバタバタさせて笑い転げる姫宮。腹筋を酷使して傷が痛むのか、布団の上から脇腹を抑えて小さく呻く。それでもまだ、頬は持ち上がったままだった。


 やれやれ。彼女がそう望むのであれば話し方なんて正味どうでもいい。むしろ素の方がこちらも好きなだけ言ってやれる。ああ好都合だとも。そういうことにしておこう。


「それで? わざわざ多忙な医者を捕まえてまで、話したいことってのは?」

「うん。先島サンさ……復讐って、興味ある?」


 ぴくり、と。

 俺の右手が、無意識に跳ねる。

 咄嗟に拳を固く握って、湧き上がる動揺を隠した。


 まさか。ただの雑談だとばかり、思っていたのだが。


「おまえを刺した犯人は、今朝自宅で心肺停止の状態で発見されたそうだ。そのまま搬送後、死亡確認……看護師から聞かなかったのか」

「や、それは聞いてるけど。そーじゃなくて。その……なんていうかさ、心当たり? アタシ、今度裁判呼ばれてるんすよね」

「裁判。一体何をやったら裁判沙汰になった上に刺されるようなことになる!」


 俺が椅子から立ち上がると、姫宮は慌てたように両手を前に出して上下に揺らした。落ち着けと言いたいのだろうが、裁判と言い復讐といい未成年の口からそんな物騒な言葉を聞いて冷静でいられるわけがなかった。


「ちーがーう、被害者っすよアタシは! この前痴漢されて、なんかウザかったから訴えるって言ったらなんか裁判になって」

「痴漢なんてわざわざ裁判にしなくても、被害者側が十中八九示談で慰謝料もぎとれる案件だろうに。どうしてまた」


 なんかそこら辺の仕組みよく分かんなくて、と姫宮は首を傾げた。あっけらかんとした笑顔が、いっそ清々しかった。

 それも保護者とやらの仕業か、逆に相手側が訴えるようなことをしたのか……とにかく、姫宮まで殺人犯だなんてことではなかったらしい。俺が座ると姫宮も乗り出した姿勢を元に戻し、安堵の息をついた。


「やれやれ……それで、復讐っていうのはその犯人にか? まさか、俺に痴漢し返してほしいなんていうトンチキな話じゃないだろうな」

「違うってば。もちろん、この傷の復讐っすよ」

「痴漢の犯人とおまえが刺されたことに、一体なんの関係があるんだ」

「んー。いや、勘なんすけど」


 自分を刺して死亡した犯人と痴漢の犯人は繋がっている。裁判で負けたくないから依頼して自分を刺させた――というようなことを姫宮は語った。


 理論上不可能とまでは言わないが、それはあまりにも妄想がすぎるだろう。本人も言っているとおり根拠がない。そんなあやふやなものを土台に復讐なんてしたら、取り返しのつかないことになるのが目に見えている。

 だから。


「……荒唐無稽にもほどがあるな。興味云々の前に、それを復讐とは呼ばないよ。証拠を揃えて出直すか、大人しく裁判で事実を話して慰謝料をガッポリ稼いでくるといい」

「あーそれ、看護師のヒトにも言われた……アタシの勘って結構当たるんすよ?」


 姫宮が意見の説明に時間をかけていたせいか、会話を始めてから既に十五分以上が経過していた。俺が最初に宣誓した時間だ。立ち上がって背筋を伸ばし、今度は姫宮の引き留める声も無視して病室を後にする。

 あの傷がある以上勝手なことはしないと思うが、場合によってはもう一度……想像すると寒気がするな。


 もし姫宮が独断で不当な復讐をしてしまったなら、俺は犯人を生み出した責任をとって彼女を手にかけなければいけないだろう。だが、『死責転嫁』は助けるための能力だ。助けた相手を殺すための能力じゃない。一度は助けたいと願った相手なのだ。


 蟲毒の名にふさわしいほど、残酷にはなれない。もしも俺が機械や死神だったら、どれほど楽になれるだろうか。

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①死責転嫁《Bois de Justice》 秋月 菊花 @akizuki_kikka

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