閑話: リーロの日記1
この日もコンフィオルは晴天。
この周辺は夜に雨が降ることが多く、日中は基本的に気持ち良く晴れる。
私がクレム聖泉内の拝壇から戻り、聖殿への階段を上っている時のこと。
階段の途中で礼拝に訪れた二人の守人女性たちから話しかけられた。
「リーロ様、エイス様はいつ町にお戻りになられますか」
あぁーっ。またその質問ですねぇ。
今日はこれで三度目。昨日は私だけでもこの質問を七度受けた。
一昨日もおそらく似たような回数だったはず。
「エイス様はしばらく町にはお戻りになりません。
いつお帰りになられるかも、イストアール様からはまだお伺いしておりません」
私がそう答えると、二人は急に
「はぁ……。ご存知ないのでございますか。
それは残念です。
さすがにイストアール様にお尋ねするわけにもまいりませんし……」
二人の表情もどんよりと暗くなる。
先週からエイス様の所在について尋ねられることが多くなった。
これは、エイス様の姿がコンフィオルの町から忽然と消えたため。
出立されてから時間が経つにつれて、町の人たちもエイス様の姿が見えなくなったことを気にしだした。
エイス様を意識している人たちがそれだけ多いということなのだろう。
もちろん、エイス様の所在の質問をしてくる人たちの大半は女性。
ただ、以前にも大滝ミララシアにエイス様が滞在されていた間、聖殿には不在だった。それもあって、町の人たちはエイス様がいつ戻ってこられるかを気にしているようなのだ。
──エイス様はもうコンフィオルには戻ってこられない。
そう事実を伝えることもできる。
本当はそう伝えるべきなのだろう。
でも、イストアール様からエイス様の出立について箝口令が敷かれている。
「よいか。エイス様がインバルに向かわれたことをしばらく誰にも話してはならん。
ここを発たれたことは伏せておくのだ。
大滝に向かわれた時と同様にいずれ戻ってこられるように上手く取り繕っておきなさい」
イストアール様がこのように命じられたのだ。
ところが、これがなかなか難しい。
私だけでなく、エリルもアミルもこれに四苦八苦している。
この箝口令には二つの理由がある。
エイス様がベルト地区内を居住地にする──街ではそう噂されている。
これは、コンフィオルのあるベルト地区長のボナザ・エ・ラル・ベルト様の意向でもある。
もちろん、エイス様はそれをお断りになられたのだが、ベルト様はまだ諦めておられない。
それもあって、少なくともエイス様がインバルに到着されるまでは、コンフィオルを去られたことを秘密にしておかれたいようだ。
ベルト様に想定外の動きをされても困るからだ。
もう一つの理由も、エイス様の出自に関するイストーアル様のご深慮。
エイス様はクレム聖泉に封じられる以前の記憶を失われた。
アルス様のことも憶えておられない。
イストアール様は、エイス様が過去の記憶を完全に失われたと考えられている。
そう考えられて、エイス様をアルス様とは無関係な(半)
エイス様の過去を完全に消すことはできないにしても、英雄アルス様との結び付きを可能な限り隠しておかれたいようだ。
このために、しばらくの間は、エイス様がコンフィオルの町にまだ滞在されているかのように私たちは演じる。
こうしておけば、聖殿の重職者でもない限り、インバルからエイス様とコンフィオルを簡単には結び付けられなくなる。
*
午後、イストアール様宛の翼竜便が届いた。
差出人はゴードウィク大聖殿の最高位神官ヨルド様だ。
いつになく分厚い書簡に、厳重な封蠟がされている。
この厚みだと50ページ近いと思われる。
これは……。緊急ではないけど、重大案件に関わる封状のはず。
私は急いでイストアール様の執務室へと向かった。
「イストアール様、ゴードウィクのヨルド様からの翼竜便でございます。
こちらは重大案件と思われます」
「ヨルドからの翼竜便だと?
はてっ、と……。何用かのぉ」
私は届いたばかりのその書簡をイストアール様に手渡した。
その書簡の厚みと重さに、イストアール様の表情が俄かに曇る。
それも当然だろう。
私の知る限り、この五年内に翼竜便で送られてきた書簡の中でも最も厚くて重い。
「これは一体何事だ」
机の上のペーパーナイフを手に取り、封が開かれた。
その中には10ページほどの書状。さらに、かなり分厚い横綴じされた報告書が収められていた。
イストアール様は私の存在を忘れたかのように、急いでその書状に目を通される。
一分ほどで、少し硬かったイストアール様の表情が穏やかになっていく。
それを見て、私も安堵した。
どうやら悪い知らせではなかったようだ。
イストアール様の口元に小さな笑みが浮かんだ。
「リーロ、エイス様がゴードウィクの人族社会を救われたようだ」
「は、はいっ!? エイス様がゴードウィクで?」
イストアール様は笑顔でそう話されてから、書状を私に手渡された。
そして、椅子にお座りになり、今度は報告書の方にも目を通されていく。
手渡された書状には、エイス様が水航路で同船になった人族の姉弟を救ったこと。
その後にその姉弟をゴードウィクまで送り、その親族と係わる間に、複数の人たちをお救いになった。
同時に、町の人族社会に潜んでいた医業界の悪漢たちを炙りだし、その主犯も捕えられ、自白させた。
そして、それが糸口となり、他にもこれに関わっていた医術師や薬師たちを一網打尽にできた。
ゴードウィク大聖殿からの書状には、エイス様の尽力のおかげで町の人族社会に長年巣くっていた医業界の闇が払われた、と記されていた。
イストアール様は報告書を読み進められながら、時折愉快そうに笑われた。
その報告書には、エイス様が大聖殿と現場で使われた医系術が詳細に記述されているのだそうだ。
残念ながら、報告書の方までは読ませていただけなかった。
「ふぉっほっほほほっ……。
これは、エイス様がインバルにお着きになられてからが楽しみだわい。
あの天才シキも目を丸くするだろうのぉ。
これはエイケルにも先に知らせておくとしよう」
報告書を読まれているイストアール様は頗る上機嫌。
シキ様とは、言わずと知れた医術界の頂点に立つ天才医術師。
そして、エイケル様はインバル聖守術修学院学長。
なぜその超大物のお二方の名前をここで挙げられたのか……。
え? ま、まさか……。
エイス様のインバル行きにはそのお二方が最初から係わっておられた?
もしかしたら、イストアール様は秘密裏に今もインバルを動かされているのかもしれない。
私は直感的にそう考えた。
ただ、これは本当に直感でしかない。根拠はない。
それなのに、そんな気がしてならない。
報告書を読み進めていたイストアール様のページを捲る手が止まった。
なにか気になる記述を見つけられたようだ。
「ふーむっ……。エイス様はゴードウィクの町では一切の金品を受け取られなかったそうじゃ。
相変わらず欲のないお方よのぉ。
町でも助けた姉弟の親族の家に宿泊されたと書いてある」
「えっ? 人族の一般家にお泊りになられたのでございますか」
「うむ、どうもそのようだ。
大聖殿の方で高級宿泊室を用意したらしいのだが、それもお断りされたようだ」
「エイス様はそれほど路用をお持ちではないと思いますが」
「一人旅に困らない程度にはお持ちのはずだが、そう大した額ではないはずだ。
おそらくインバルに到着される頃には十日分の宿代が残っているくらいではないかのぉ」
「はぁ……。それで大丈夫でしょうか」
「どうだろうのぉ……。
まぁエイス様のことだ。なんとかなさるだろう」
報告書の最終部を読まれたイストアール様が、最柊ページにヨルド様直筆の追記を見つけられた。
そこには、エイス様には無断でインバルまで二名の従者を随行させたと書かれてあった。
エイス様のインバルまでの路用等は大聖殿が担うとのことだ。
それを読まれてイストアール様も安心されたご様子だ。
それなら、インバル到着後もしばらくは資金的に大丈夫なはずだからだ。
ところが、最後の最後に書かれていた文を読まれて、イストアール様が急に慌てられる。
「これはマズいわい!
ゴードウィクの人族が広場にエイス様の彫像を設置すると言っておるようだ」
「彫像でございますか?
そんな彫像を建てられてしまいますと、町だけでなく、周辺地域でもお名前が知られてしまうかもしれません。
それではせっかく目立たないように出立された意味がなくなります」
ここで私とイストアール様が懸念するのは、彫像に説明書き等が取り付けられること。
エイス様のフルネームは「エイス・オ・ルファ・リート」。
当然だが、アルス様と同様に「リート」の名を持たれている。
そこからエイス様とアルス様の血脈を疑う者が出てくるかもしれない。
記憶を失い、過去を捨てられたエイス様の出自を今さら調べられても困る。
おまけに、ゴードウィクはコンフィオルに近いだけでなく、ミクレストアム共和国まで水航路で数日の距離。
隣接するエステバ王国とミクレストアム共和国の二国の英雄は今もアルス様。
首都だけでなく、多くの町にアルス様像が設置されている。
エイス様の彫像がゴードウィクに設置されると少々面倒な状況にもなりかねないのだ。
コンフィオルでの偽装工作が無駄になるかもしれない。
イストーアル様は急いでヨルド様宛の書状を書き始められた。
無論、エイス様像の設置中止を要請するため。
ただ、イストアール様であってもこの設置中止要請の理由付けは簡単ではない。
イストアール様も少し考え込まれた。
時折、文面を考えながら何度も独り言を呟かれる。
それなのにイストアール様のお顔がどこか嬉しそうに見えるのは、私の気のせい?
その様子を見て、私は俯いて、小さく笑ってしまった。
イストーアル様はいずれにしてもエイス様の情報が得られて、嬉しかったのだと。
そして、それは私も同じ。
結局のところ、町の人たちも含めて、みんなエイス様のことを気にしているのだ。
そして僕は龍人になった【書籍化決定】 丘之ベルン @leamington
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。そして僕は龍人になった【書籍化決定】の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます