同級生
結城柚月
同級生
息子が一人立ちしてから、家に帰っても私一人ということが多かった。
旦那は現在海外に出張中で、帰ってくるのは数ヵ月先のことになりそうだ。
家族のために作っていた料理も、自分のためとなると億劫になってしまう。
いつしか私は仕事終わりに近くの居酒屋に立ち寄ることが習慣となってしまった。
「いらっしゃい
店の暖簾をくぐると、女将の元気な声が飛んできた。
この店は店主の旦那さんが女将と一緒に立ち上げた店らしく、売り上げはぼちぼちだがそれなりに細々と続けてきているそうだ。
「とりあえずビール一杯」
「はいよ」
注文するや否や、すぐにジョッキに並々注がれたビールが届いた。
この一杯のために働いていると言っても過言ではない。
ぐびっ、ぐびっ、ぐびっ。
疲れた体にアルコールが染み渡る。
あっという間にジョッキの半分を飲んでしまった。
我が家では私が一番の酒飲みだ。
旦那はあまり酒が強くなく、息子もその遺伝子を受け継いだため全くと言っていいほど飲まない。
だからこうして一人で好きなだけ飲めるのは解放感がある。
「今日のオススメは何?」
「えっとねえ、今朝生きのいいタコが入ったんだ。だからタコ料理全般」
「ならタコの唐揚げにしよっかな。あと枝豆とだし巻き玉子ね」
「あいよ」
女将に注文し、厨房の店主は料理を始める。
この料理の音をダイレクトに聴けるのも、カウンター席ならではだ。
店内のBGMを片耳に、あたしはビールをもう一杯飲む。
するとそのタイミングで、ガラガラと店の扉が開いた。
「あれ、
会社の直属の部下である
彼は数年前に我が社に入ってきた新人で、お調子者だが仕事には人一倍熱心に取り組む真面目な奴だ。
あとは世渡り上手な一面もあり、ムードメーカー的な存在でもある。
「入野じゃないか。こんなところで会うなんて珍しいな。それともなんだ、お前もAdultKidsのファンなのか?」
「まあ、そんなところッスね」
AdultKidsとは、今から30年前にデビューし、90年代のCD全盛期においてミリオンヒットを連発した4人組のモンスターバンドだ。
デビューしてから現在に至るまで、日本の音楽業界で第一線を走り続け、子供から大人まで幅広い世代から支持を受けている。
実は店主と女将は、AdultKidsの大ファンで、この店に流れている曲は全て彼らの曲である。
そのためAdultKidsファンからこの店は聖地として崇められているのだ。
でもまだ20代の入野がAdultKidsのファンだなんて知らなかった。
「まあ隣に座れ。奢ってやる」
「え、いいんスか?」
「いいから座れ。ほら早く」
入野は渋々私の隣の席に座り、同じくビールを注文した。
「しっかしお前、こんな若いのにAdultKidsのファンなんて、なかなか渋いな」
「湯島さんこそ、AdultKids好きなんて意外でした」
入野は豪快にビールを飲む。
仕事もできるし、飲みっぷりが気持ちいいから、こいつは私のお気に入りなのだ。
コトン、と私の目の前に枝豆の皿が置かれた。
ここの枝豆は塩加減が丁度いいから酒が進む。
ビールが尽きてしまったので、私はもう一杯ビールを注文した。
明日は休みだし休肝日だから、どれだけ飲んでも文句は言われまい。
「お酒はほどほどにッスよ」
「お前こそよく飲むじゃないか」
「俺はちゃんと飲む量決めてるのでいいんスよ」
彼の元に軟骨の唐揚げが届く。
コリ、コリ、と歯ごたえのいい音が私の食欲をそそった。
BGMが変わる。
聴いているだけでテンションがあがるような、そんなポップソングが流れてきた。
「あ、俺これで好きになったんスよ」
入野が軟骨を口にしながら話す。
確かこの曲は入野が生まれる前にリリースされた曲だ。
まあベスト盤にも収録されているし、シングルの中でも3番目に売れた楽曲だから若い世代の彼が知っていても不思議ではないのだけれど。
「だから今年の30周年のライブで聴けた時はめっちゃテンション上がりました」
「おお、お前ライブにも行ったのか」
「はい。東京公演の1日目だけッスけどね」
彼が指定したそのライブの日は、AdultKidsがメジャーデビューした日でもある。
そんな特別な日の特別なライブを堪能できたことを少し羨ましく感じた。
タコの唐揚げがコトン、と目の前に置かれた。
軟骨に負けず劣らずの歯ごたえがいい。
「そうか、あいつらも30年か……」
昔を懐かしむように、私は唐揚げを噛みしめた。
噛むごとに、青春の淡い記憶がほのかに蘇ってくる。
ビールを片手に、私は少しだけくすぶっていたことを入野に打ち明かした。
「実はな、私、あいつらの同級生なんだよ」
あたしの告白を受けて、入野は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。
「マジッスか」
にわかには信じられない、という顔を浮かべる。
それもそうか、このバンドは全国ツアーまで開催する超国民的バンドなのだから、こんな近くにその知り合いがいるなんて、信じろと言う方が難しい。
「ああ、大マジだ。ついでに言うと、私はボーカルに恋をしていた」
グビッと私はビールを飲み干す。
女将は苦渋の笑みを浮かべ、新しくジョッキにビールを注いでくれた。
そうだな、久々に語りたくなってきた。
「高校の時にあいつら……まあボーカルの
始まったよ、と女将は苦笑いを浮かべる。
別にそんなつもりはないのだけれど、ついつい何度も昔話をしてしまうため、女将にとってはもう耳にタコができるほど聞き飽きた話なのだ。
が、入野は初耳なので構わずに話を続ける。
伊崎は昔から顔が良かった。
今は50代特有の大人の渋みが前面に出たカッコよさがあるが、デビュー当初はもっと可愛らしい表情で人気を博していた。
その甘い顔つきは高校時代から確立されていて、彼の笑顔ひとつで多くの女子生徒の心が射抜かれたことだろう。
だけど伊崎にはもう一つの顔があった。
それが音楽に対するストイックさだ。
普段はのほほんと明るい表情を見せるのに、音楽のことになると途端に顔つきが変わる。
ライブで歌う彼は本当にかっこよくて、メンバーの中で一際存在感を放っていた。
ハスキーで、だけど力強くて優しくて、そんな歌声で多くの生徒たちを魅了した。
私もその一人だ。
それが恋だということを自覚するのに時間はかからなかった。
顔が良くて、クラスの人気者で、歌が上手くて、カリスマ性があれば、誰だって好きになる。
しかし、あの時伊崎には好きな人がいることを私は知っていた。
伊崎がクラスメイトとそんな話をしているのを偶然耳にしてしまった。
相手は一つ上の学年の先輩で、当時の生徒会長だった。
彼女はとても美人で、威風堂々としていて、まさにみんなの上に立つべき存在だった。
噂ではファンクラブも存在していたらしい。
そりゃ伊崎も惚れるか、なんて半ば納得しようとしていた。
でも、どうしても諦めることができなかった。
だって、初恋だったから。
ここまで心を動かされ、搔き乱されたのは伊崎が初めてだったから。
「責任取れ、バカァ」
あいつが生徒会長のことを好き、という事実を知った日は、部屋でかなり泣いたのを今でも覚えている。
もう心がぐちゃぐちゃになって、涙で感情を吐き出しても、私の恋心は収まらなかった。
それくらい、初恋というものは大きなものなのだ。
そこから私の中で何かが弾けた。
どうせ玉砕するのだから、いっそ清々しく散ってやろう、と。
忘れもしない高校1年生のクリスマスの日。
放課後、私は学校の下駄箱の前で、練習終わりの伊崎に勇気を振り絞って声をかけた。
「い、伊崎!」
普段あまり接点がなかったから、あいつはキョトンとしていた。
「何? 湯島」
いつもの優しい微笑で彼は話しかけてくる。
思えば、ちゃんとまともに会話したのはこれが初めてだったような気がする。
もうこの場で死んでもいい、とあの時は思った。
でも死んじゃダメだ。
死んだら、想いを伝えることができなくなる。
またしても勇気を振り絞る。
グッと、拳を握った。
「話したいことがあるから、ちょっといい?」
「いいよ」
伊崎は他のメンバーを先に帰し、一人私を見た。
一対一になると緊張感が一気に高まってくる。
どくん、どくん、どくん。
あの時の心臓の痛みは今でも鮮明に覚えている。
鼓動が強すぎて、伊崎に聞こえているんじゃないか、とさえ思ってしまうほどだ。
「それで、話って何?」
「えっと、その……」
頭の中では何度もシミュレーションしたのに、いざ本番になると口にできないものだ。
言葉が喉奥につっかえる。
伝えたいのに、声が出ない。
このもどかしさが私の焦燥感を刺激した。
勢いで声をかけた時はそこまで気が回らなかったけれど、少し経って冷静になり始めた頃、ちらりちらちとこちら覗く人が何人もいることに気づいた。
多分狙いは伊崎だ。
何事だろう、と興味本位で私と伊崎のやり取りを盗み見してくる。
途端に恥ずかしくなってきた。
「……ちょっと、移動しよっか」
私は彼の提案に頷くことしかできなかった。
きっと、彼は見られてもどうとも思っていなかっただろう。
だけど私はそうじゃなかった。
それをあいつはとっさに見抜いて、声をかけてくれたのだ。
だけどこういう優しさは、私だけに向けられたものではないということくらいちゃんとわかっている。
体調の悪い子に声をかけたり、勉強で困っている生徒の面倒を見たり、雑務で忙しい人を助けたり。
きっと、私に対してのそれもその一環の一つにしか過ぎない。
わかっているから辛かった。
私は、伊崎の一番にはなれない。
伊崎に連れられ、いつも使っているクラスの教室に入る。
茜色に染まった誰もいない教室は、いつもとは違う雰囲気があった。
「それで、話って何?」
窓に背を委ねて彼は尋ねる。
私の緊張はまだ続いたままで、「あの」とか「えっと」とかを繰り返すばかりだった。
こんなに気遣いのできる彼なのだから、私が何を言いたいかくらいわかっているはずだ。
わかった上であえて私に言わせようとしている。
意地悪な奴だ。
ふう、ふう。
トントントン。
胸を人差し指で小突き、平静を取り戻そうとした。
けれど動悸は止まる気配はなく、息苦しさだけが私を支配する。
「あー、またにしようか?」
「いや、今! 今がいい、です……」
我ながら情けない声だった。
けれどここで引き止めなければ、二度とチャンスはない。
ちゃんと言うんだ。
腹を括れ、私。
すうっと息を吸う。
もう勢いに任せてしまうしかない。
「好きです! 私は、伊崎のことが、ずっと好きでした! 付き合ってください!」
頭を下げ、右手を差し出した。
気合を入れて告白したせいか、思っていた以上に声が出てしまった。
恥ずかしくて顔から火が出てしまいそうだ。
どくん、どくん、どくん、どくん。
心臓の音が鮮明に聞こえてしまうくらいに、教室の中は静かだった。
実際にはほんの数十秒程度だろうけれど、私にはその時間が永遠化のように長く感じた。
「気持ちは嬉しいよ。ありがとう。でもごめん、俺、君とは付き合えない」
伊崎の返事は、少し悲しそうな声をしていた。
まあ、予想はしていたけど、実際に言葉にされると想像以上に辛い。
伸ばしていた腕がだらんと下に垂れていく。
立っているのが精一杯で、顔を上げることなんか到底できそうになかった。
だって今、どんな顔をして伊崎のことを見ていいのかわからない。
泣きたかった。
叫びたかった。
でも、そんなみっともない姿を伊崎に見せたくはなかった。
「……知ってた。生徒会長でしょ? あの人美人だもんね」
「うわ、知ってたんだ。なんか恥ずかしいな」
「有名だよ、伊崎が生徒会長のこと好きってこと。クラスのみんな知ってる」
マジか、と伊崎は呟いた。
声から察するに、随分と恥ずかしがっているようだったけれど、私は彼の顔を見ることができなかった。
気を許せば涙がこぼれそうになる。
「ごめん、呼び止めて。それだけだから」
じゃあ、と吐き捨てて、私は教室を去った。
最後まで、彼の顔は見れなかった。
夕焼け道を私はただひたすらに走った。
叫んで、吠えて、涙を流して。
それでも溜まっていた感情は消え去ることはなく、ただ伊崎への想いが募っていくばかりだ。
こうして、私の初恋は見事に玉砕した。
わかりきっていた負け戦に、見事に負けてしまったのだ。
「これが私の初恋。どう? 羨ましいか?」
「なんと言うか……切ないッスね」
感傷に浸るような口ぶりで入野は話す。
話すことに夢中になって気が付いていなかったが、彼のつまみが全然減っていなかった。
どうやらこんな五十路の初恋話を真剣に聞いてくれていたらしい。
丁度店内のBGMが変わった。
偶然か必然か、ファンの間でもかなり人気な失恋ソングが流れてくる。
「うわあ、女将さん、このタイミングでこれ流す?」
「それはうちの旦那に言って。セットリスト考えてんのこいつなんだから」
厨房で店主さんがコクリと黙ったまま頷く。
その表情はどこか恥ずかしそうで、照れを隠すためかそっぽを向いていた。
「あ、これ東京公演でやってましたよ」
「マジか。ますます行きたかったな」
この曲はライブでは滅多に演奏されることもなく、是非ライブで聴きたいと切に願っているファンも多い。
だから入野が体験した30周年のライブは、ものすごくレアな出来事なのだ。
羨ましいぞ、畜生。
はあ、と溜息をついた私は、愚痴るように言葉をこぼした。
「でもこいつ、生徒会長にフラれてんんだよなあ」
「え、そうなんスか?」
入野が食いついた。
なんだか私の身の上話を話した時よりも食いつきがいいのが少し癪に障る。
「そうなんだよ! あいつ、年明けに告白して、フラれてやんの。会長、大学生の彼氏がいたんだって。あいつ、相当落ち込んでたなー。クラスでずっとこの世の終わりみたいな顔して。ちょっとざまあみろって思っちゃった」
思い出すと、今でも少し笑えて来る。
机に突っ伏した伊崎のあの落ち込む様は、いつもの爽やかな感じとは違ってギャップがあり、とても滑稽だった。
それを見た瞬間に、私の苦しみは解放された。
決して彼に失望したとか、そういう悪い意味ではない。
伊崎にフラれたということに対して、ある種の復習が果たされたからだろう。
「ざまあみろ、ッスか」
不思議ように入野が尋ねる。
「そ、ざまあみろ。なんかね、もう伊崎に恋してたとか、どうでもよくなってた。あいつがフラれたところを見れてスッキリしたんだよ。だから、恋心がなくなったんだと思う」
「そういうもんなんスか?」
「そういうもんだよ。少なくとも私の場合はな」
ビールを飲もうとしたが、ジョッキの中は空だった。
すぐに頼もうとしたが、女将が呆れた目で私を見てくる。
「あんた、これ以上飲んだら死ぬよ。もう若くないんだし、ほどほどにしときな」
「大丈夫だって。私、お酒強いから」
「いい加減にしなさいな。そりゃお金を入れてくれるのは嬉しいけどさ、正直身体が心配だよ」
「平気平気。この前の健康診断もどこにも異常なかったし」
自分でも不思議だった。
これだけ飲んだり食べたりしているのに、どこの数値も正常範囲内なのだ。
これはもうそういう体質なのかもしれない。
とはいえお酒だってタダではない。
何杯飲んだかは忘れてしまったが、かなりの量を飲んだと思われる。
ちょっと財布が心もとないので、今日はこの辺で打ち止めにしよう。
「じゃあ、お冷貰えるかな」
「はいよ」
女将はビールジョッキに氷を投入し、水をたく、たく、と注いでいく。
こいつは無料だから、いくら飲んでも財布は困らない。
「これで頭冷やしな」
そんな言い方はないだろう、と少し不服だったが、一口いれると氷水の冷たさがほんわかと火照った身体を冷やしてくれた。
ビールほどではないが、やっぱり美味い。
「で、どこまで話したっけ」
「ざまあみろッス」
「ああそうだ、それだった」
手元に残っている料理を食しながら、私は話しを進めた。
「まあ、あ伊崎への恋心はなくなったって言ったけど、あいつらの音楽はそれでも好きだったから、卒業してからもずっと聴いてたよ。小さいハコでさ、毎日のようにライブやって、その演奏を見るのが好きだった。で、そこで出会ったのが今の旦那ってわけ」
へへん、と意味もなく胸を張ってみる。
しかし入野にはあまり響いていないようで、そうなんスね、と冷たい反応をされてしまった。
しかし、あの時伊崎が私をフッていなければ、最愛の夫と出会うことはなかっただろうし、息子だって生まれてはこなかっただろう。
伊崎も今では私でも生徒会長でもない別の誰かと結婚し、3児のパパにもなった。
そういう意味ではあの失恋は正解だったと言えるかもしれない。
人生、どうなるかわからないものだな。
ここまで私の話に付き合ってくれた入野は、ビールをもう一杯注文していた。
「お、飲むのか?」
「まあ、明日休みッスからね」
ぐびっと彼はジョッキを喉奥に流し込んだ。
頬が少し赤くなっているので、それなりに酔っているようだ。
入野の飲みっぷりを見ていたら、私まで飲みたくなる。
「ねえ女将、やっぱり私も飲みたいんだけど」
「これ以上飲んだら身体壊すよ」
「ケチ。もう1杯くらいいいじゃん」
「アンタどんだけ飲んだと思ってんの。今日はもうダーメ」
女将は頑なに許してはくれなかった。
自分の中のアルコール許容量はまだ大丈夫だし、50年近く生きてきて、まだお酒で失敗したことはない。
あるとするならば、飲み過ぎて散財してしまったことだろうか。
あれはまだ私が大学生だった頃、アルバイトの給料日前だったからかなりピンチだったのを覚えている。
その時も彼氏……今の旦那が助けてくれたから、感謝しかない。
がらがらがら。
店の扉が開く。
ここの常連客である
3人はもうどこかで一杯済ませたらしく、既に頬が赤く染まっていて、何より酒臭かった。
「あんたたち、もう飲んでんの?」
「いいじゃねえか、今日は金曜日だ。明日は休みだし、とことん飲むぞぉ!」
女将の呆れっぷりを気に留める様子もなく、3人はビールを注文し、お座敷の方に入っていく。
曲がさっきのしんみりとした失恋ソングから激しいロックサウンドになったせいだろうか、店の雰囲気も随分と明るくなった。
「なんか、楽しそうッスね」
ガヤガヤと賑わう3人を見て、入野はポツリと呟く。
「楽しいよ、大人になるっていうのは。いろんな誤魔化し方を覚えて全部どうでもよくなる」
「それじゃあダメでしょ」
「ダメなもんか。そうやって受け入れていかないとこの先辛くなるだけだぞ」
「そういうもんスかね」
そういうものだ。
ある程度歳を重ねたら、ちょっとやそっとのことじゃ動じないくらいには神経が図太くなる。
どれだけ叱られても「そういうもの」として割り切ればある程度はなんとかなるものだ。
しかし、なんとかならないことだってある。
例えば恋愛。
伊崎への恋は叶わなかったし、今となってはもう彼への恋心など皆無に等しい。
だとしてもたまに思ってしまう。
もしも、あの時伊崎が私の告白を受け取ってくれていたら。
ひょっとしたら私は伊崎と結婚していたかもしれないし、バンドもデビューせずにいたかもしれない。
でも結局それは夢物語に過ぎず、今こうやって私は普通に働いているし、伊崎たちは国民的アーティストになっている。
これが現実だ。
店内のBGMは、彼らがデビューした初期の曲だ。
インディーズ時代から存在していて、小さなハコでよく演奏していたのを今でも覚えている。
「ホント、遠い存在になっちゃったなあ」
独りごちながら、お冷を飲み干した。
やっぱりこういうセンチな気分の時はアルコールの力で誤魔化すに限る。
「ねえ、やっぱりもう一杯欲しいんだけど」
「ダメ。身体壊すよ?」
「やーだ。こういう時は飲むのが一番なんだ」
その後しばらく女将との攻防が続いたけれど、私がしつこく粘ったおかげで、ラスト1杯、という制約付きでビールを注文した。
「これで最後にしときなよ。肝臓壊しても知らないからね」
「平気だって。私お酒にめっぽう強いから」
しかし酒だけだとやっぱり物足りない。
私は追加で軟骨の唐揚げを注文した。
やっぱり入野が食べていたのがとても美味しそうだと感じた。
程なくして、注文した唐揚げが届く。
揚げたてだから熱々の衣をまとった軟骨が、コリ、コリ、と口の中で音を立てる。
ビールに合う、最高のつまみだ。
「あんまり飲み過ぎると明日に響くッスよ」
「大丈夫だ。私アルコール耐性ばっちりだから。万一何かあっても明日休みだし」
がはは、と私は疲れを吹き飛ばすように笑った。
やっぱり酒はいい。
日々の疲れや嫌な思い出を消し去ってくれる。
「で、入野。結局どの曲が一番好きなんだ?」
「そうッスね……」
入野が言葉を口にしようとしたその時、お座敷から酔っ払いトリオが私たちのところにやってきた。
この店に来た時点で相当出来上がっていたのに、さらに顔が真っ赤になっている。
「おう兄ちゃん、オススメは5枚目のアルバムの『化石』だぞ」
「何言ってんだ、最新曲の『LIVE』だろうが」
「わかってないなあ、『絆』のカップリングの『残響』が至高なんだろうが」
どうやら私たちの会話を聞いていたようで、3人衆は各々一番好きな曲を次々に挙げていく。
話を振ったのはあんたらじゃなくて入野になんだけどな。
けど、こうやって熱弁できるのは、やっぱりその曲が好きだから、そのバンドが好きだからであって、そういう彼らに私は若干のシンパシーを感じる。
「で、入野はどうなんだ?」
「そうッすね……いろいろありますけど、やっぱり『果てなき道』にはいつも勇気とか元気をもらいますね」
彼が挙げた曲は、AdultKids最後のミリオンヒット曲だ。
壮大なロックバラードだが、その歌詞は多くの人を今日に至るまで励まし続け、この曲を試合前に聴く、というスポーツ選手だって珍しくはない。
「いいよなあ、アレ。俺30周年の最終公演行ったけどさあ、まさかの一発目にこれやってくんのよ。それでアウトロのMCが本当に感動ものでさあ」
「え、奥寺さん大阪まで行ったんですか? すげえなあ」
確か全国ツアーの最終会場は大阪のスタジアムだった。
奥寺さんにはライブの最終公演には必ず足を運ぶ、というこだわりがあるそうで、その行動力には本当に脱帽しかない。
「マジッスか。東京公演、やってくれなかったのでちょっと寂しかったんスよ」
「へへん、いいだろう」
どや、と奥寺さんは鼻高々に笑う。
本当にその演奏とMCが印象的だったようで、奥寺さんは聞いてもいないのにべらべらと話してくる。
「ああ、若いの。別に気にしなくていいから」
「そうそう。奥寺さん、こうなったらとまらないからさ」
「この話さっきの店でやったっての」
呆れたように矢野さんと瀬川さんがそれぞれ口にする。
そんな奥寺さんに圧倒されながらも、入野はビールを喉奥に流し込んだ。
「なんかいいッスねこの店。おんなじ仲間がいっぱいいる感じがして」
「だろ?」
私もどやっと誇らしげにしてしまった。
明らかに女将に振っている感じだったのに、自分のことだと勘違いしてしまって本当に恥ずかしい。
そのタイミングで、またしてもガラガラガラと店の扉が開いた。
たまに顔を見せてくる常連客だ。
この酔っ払い3人衆とは違ってそこまでここに足を運ぶ頻度は高くないが、AdultKidsへの愛は本物だ。
「いらっしゃい。ごめんねうるさくて」
「いえいえ。こういう空気結構楽しいので」
それから一人、また一人と、どんどん店に人が増えて活気に溢れていく。
全員顔なじみだ。
どこの誰かも知らないのに、ただ伊崎達の音楽が好き、というだけでこれだけ人が集まってくる。
やっぱり、あいつはものすごい奴だったし、そんな彼に惚れていたことを今となっては少し誇らしくも思う。
「さーて、今日は騒ぐぞ!」
祭りは終業時間まで続いた。
ガヤガヤと賑やかで、うるさいとすら思えるけれど、ここではこれが日常だ。
こんな風に誰かの心に彩りを与えてくれる伊崎の音楽を、私はこれからも愛していきたい。
翌日、私は人生で初めての二日酔いに襲われた。
同級生 結城柚月 @YuishiroYuzuki
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