境界線

真花

境界線

 紀美香きみかが死んだので、黙祷の時間が五限目の後に設けられた。僕はそんなこと知らなかった。説明もないままに死の事実だけに対して、まるでポスターに祈るようにクラスの全員が沈黙を守った。合図があり、短い悼みから部屋は解放される。杉原すぎはらが企みを腹に育てた顔で僕の横に座る。

「お前、大学に朝から来ないから出遅れるんだよ」うるさい蝿のような声だけど、僕は聞かなくてはならない。杉原は僕の顔をじろじろと覗いて、不敵に笑う。「お前、片瀬かたせと仲よかったんじゃないのか?」

「それなりにね」

「さっき知ったって顔だよな。キャンパス中、片瀬の話で持ち切りだよ。どこまで知ってる?」

「生きてたとこまで」

 僕の声にため息と落ち着かなさが混じっていたことを嗅ぎ付けたように、杉原は頬を左右にもっと吊り上げて、まるで王様の顔。

「自殺だよ。自殺。練炭だってさ」

 僕はそれを信じられないと言うことが出来ない。むしろ妥当だと感じる。いつかはそうなると思っていたと後になって言うのは卑怯だけど、僕は今、生きていた中で最も卑怯な気持ちだ。「そっか」と視線を落として応えると、杉原は勢い付いて、声が大きくなる。

「車の中で、一人で練炭炊いて、きっとピンク色になって死んだんだろうな。よく言うよな、綺麗に死にたいって。どうせ不審死だったら裸にされて解剖されるのにね。尊厳死って言葉を考えた人はそう言う、尊厳を傷付けられる、死後のシステムのことをよく知ってたんだろうね」

 冷たい台に横たえられて体を切られる紀美香の姿が脳裏に浮かんで腹の中がかき混ぜられる。傷はもう十分なのに。でも二度と血は流れない。

「分かったよ。もういいよ。ありがとう、杉原」

 杉原は勝利の盃を手にしたアスリートのような表情で僕の肩を叩く。触らないで欲しい。

「何か思うところがあったら、何でも話してくれよ。じゃあな」

「ああ。ありがとう」

 杉原は教室を出て行く。僕は席から動けない。杉原に話せる訳がない。他の誰にだって話せない。僕はスマホを鞄から出して紀美香のアカウントを呼び出す。ブロックしたままになっている。今、ブロックを解除して電話をかけたら誰が出るのだろう。よくて両親だ。紀美香ではない。黙祷までしたけど実は生きているなんてことはないだろう。僕があのときブロックしたりせずに電話をかけて、多分会って、彼女の中に溜まった泥を吸っていたら、彼女は死ななかったんじゃないか。いや、きっとそうだ。僕のせいで紀美香は死んだのだ。肩から腹から体の全てにかかる重力が加速的に増して、僕は小さな黒い点になる。彼女を助けることが出来たのは僕だけだ。紀美香の彼氏じゃない。でも、役割としては彼氏の方が助けるべきで、僕は手を出さないのが正しい位置関係だ。それでも、紀美香は僕に助けを求めた。だから、助けられたのは僕で、その僕は彼女をブロックした。

「結果、死んだ」

 呟いたときには教室にはもう誰も残っていなかった。まるで僕は絞首台で輪っかの前に立たされているみたいだ。その輪を取る手を動かすのは、僕のやった事実と、やらなかった事実。だけど僕は紀美香のために死ぬつもりはない。そっと十三階段を降りて、日常の中に逃げ込む。紀美香のことを忘れないと口ずさみながら、いずれ思い出さなくなる。……そうするには僕のした行為は重過ぎる。七人の悪魔も、八人の天使も、口を揃えて「ギルティ」と僕を指差すだろう。

 僕は動けない。

 呼吸すら止まってしまいそうだ。

 鼓動は駆け足でどこかに向かおうとしているし、粘り気のある汗が滲み出している。許しを乞うべき神様がいたらどんなに楽だろう。いや、僕を裁いてくれてもいい。釣り合いの取れた罰は、僕が救われるための道だ。

 思考が急に止まる。そして再び蟲が蠢くように、自分のブロックのことを想う。それを何度も繰り返した。その何度目かの思考停止の後に埋まっていたものがようやく地表に出て来た。

「紀美香、練炭だって、……死ぬのはしんどかったよな」

 途端に彼女の色々な表情が浮かんでは消える。憂いていたり泣いていたり苦しんでいたりしたことの方が圧倒的に多かったのに、ふと見せた優しい顔とか、ひとときの安心した顔が、映し出された。さよならはまだ言えない。彼氏はもう言ったのだろうか。両親は。きっと具体的な死を目の前にしているから、言わざるを得ないだろう。でも僕は違う。……もう紀美香が死んだことを受け入れている。それを前提にここにいる。だけど、僕はまだ言えない。言ってはいけない。

 僕はもう黒い点ではなかった。息は苦しいし鼓動も何かから逃げるように早い。だけど、僕は、僕で、紀美香は死んで、彼女のために黙って、きっとしばらくの間、僕のせいの何割かを彼女のために割き続ける。それが終わったときに初めて「さよなら」と言おう。

 深い息を吐く。まるでここまで考えたことを保存するために吹き掛けるように。

 立ち上がれば次が始まる。まだ力が入らない。もう少し、今とここにいなければならない。


 *


 HUBで濃いカクテルを煽りながら、紀美香は僕にしなだれかかる。「ねぇ、聞いてよ」耳許には大き過ぎる声に僕は彼女をカウンターの上に戻す。「聞いてるよ」店内は人の声が混じり合ってまるで弾幕を張られているみたいに僕達の声が閉じ込められる。紀美香は大仰にため息をついて、グラスの酒を空にする。置いたグラスの中の氷が澄んだ音を立てる。

「ゆーちんがまた浮気した」

「その話何度目だっけ?」

 紀美香は苦そうな顔をする。

「毎回違う女だって」

「その度に僕を呼び出すよね」

 はぁ、と紀美香は短いため息をついて、とろけた目で僕の顔を覗き直す。

「他に話聞いてくれる人いないもん。それに、誰とでも寝る訳じゃないし」

 紀美香は最初からセックスの気配のする女だった。尻が軽いとか、ヤリマンだとか言うのではなく、存在とセックスが近くて、でもそれが僕にはすぐにヤれそうな感じがして、だからこそ簡単にはそうはならないように距離を調整しながら付き合って来た。でも、彼氏が浮気したと泥酔する彼女に誘われた僕は、いや僕のリビドーは、ころりと態度を翻して彼女を抱いた。一度やってしまえば、後はチャンスがある度に繰り返した。紀美香の言葉に今日も同じ流れで行くとふんだんに含まれている。

「話くらい聞くよ」彼氏にバレてないのか気になるけど、僕はなんとでもなる。

 紀美香は壁を向いて横顔になる。彼女の魅力の大半が若さなのだと気付く。それはセックスの価値を含んでいて、いずれ年をとればなくなってしまうもの。出涸らしになった彼女は今の僕のように誰かに時間と心を割かれることがあるのだろうか。それとも、年齢を重ねるに従って別の魅力に置換されてゆくのだろうか。それは僕にも同じことが言える。それが、「金を持ってる」だったら嫌だな。紀美香の横顔から声が聞こえる。

「話なんて、浮気された事実しか、ない。でも私はゆーちんと別れるつもりはないし、ゆーちんだってそうだと思う。だから話はここでおしまい。傷付いた私をどうやって癒すか、それだけの問題、でしょ?」

 紀美香は僕の手に彼女の手を重ねる。初めてされたときには鼓動が飛び跳ねたけど、もう何回目にもなると彼女の掌の温度と湿度を感じるだけだ。それでもこのやり取りの帰結がもう分かっているから、僕は頷く。彼女が続ける。

「いつものように、してね」

「じゃあ、店を出よう」

「ここでもいいよ」

「丸見え上等? みんなが参加して来ちゃうよ?」

「大乱交事件の首謀者になっちゃうね」

 紀美香は笑ってから席を立った。僕もそれに続く。店の中の人は皆それぞれの会話をしている。もしかしたら僕達と同じような二人組もたくさんいるのかも知れない。つまり、前戯としてのカクテル。僕達は店を出て、最寄りのラブホテルまで歩く。紀美香は酔っている割にはしっかりとした足取りをしている。すれ違う人は僕達がこれからセックスをするって分かるのだろうか。交わったことのあるカップルってのはその距離感で分かるけど、これからするかどうかを見分けるのは難しいかも知れない。僕達二人も、したことのある二人と外から見えるのだろう。彼氏が見てもそう見える筈だ。僕は半歩彼女から離れて歩く。


 二回して、僕達は横並びに寝て、僕は天井を、紀美香は僕を見る。本当にこんなことで浮気された傷付きが解消されるのかは疑問だけど、見れば紀美香は穏やかな顔をしている。外で会っているときには決してしない顔だ。紀美香が僕の腹に手を乗せる。

「ありがと」

 こういうやり方しかないのだろうか。傷付けられたのを、隠れて相手が傷付くようなことをして相殺することは出来ないんじゃないのか。

「どんな気持ちなの?」

 僕が訊くと、彼女は「え」と凝った声を上げる。しばらく考えて、僕の腹の上の手を揉んでから、続ける。

「今だけは満たされてる」

「いつもは?」

「全然満たされない。何をしても、どこに誰といても、満たされない」

「彼氏は?」

「もちろん、満たされないよ」

「じゃあ、僕といる方がいいじゃん」

 紀美香は言葉を探すように黙る。僕が彼女と本格的に恋人同士になりたい訳じゃないことは分かっているだろう。

「こう言う形だから、初めて満たされるんだよ。ステディーじゃダメなんだ」

「厄介だね」

 彼女は小さく息を吐く。厄介さを吹き飛ばすように。

「そうなんだから仕方ないよ。でもね、その中でも『満たされるとき』が見付かってるってのは大きいんだ」

「なるほど。他にもあるの?」

「気付いていると思うけど、これ」

 彼女は左腕に巻いていた包帯を取る。そこには真新しい切り傷が並んでいた。

「リスカ、始めたの?」

 紀美香は頷く。つまり、僕とこの切り傷は同じ扱いだと言うことだ。切り傷だらけの腕を握って、僕の腹の底の方から黒い炎が噴き出した、「痛いよ、どうして?」と彼女の声に僕は手を離す、自分がこの傷と同等であることが許せない。

「切ったら楽になるってこと?」

「うん。一人で出来るし」

「つまり僕も、紀美香に傷を付けるための道具だったってこと?」

 紀美香は視線を逸らす。僕は冷徹に響くように声音を下げる。

「分かった。もういい。もうこれっ切りにしよう」

「え」

 僕はベッドから出て服を着る。「ねえ、ちょっと待ってよ」と紀美香はベッドから声を上げる。僕は「これからは傷はナイフに付けて貰えばいいだろ」と返す。

「じゃあ、分かった。もうリスカしない」

「そう言う問題じゃないんだよ」

「それでもしない。しないから、見捨てないで」彼女はベッドから出て来る。溌剌とした体、価値のある裸体。僕に抱き付く。「お願いします」と耳許で乞う。全身で彼女の存在を感じたら、勢いで別れるのにセロファン一枚分の惜しさが挟まった。

「じゃあ、今回までは見逃す。でも次にやったら終わりだから」

「約束する」

 僕は服を脱いでベッドに戻る。紀美香はさっきよりもずっと安心した顔をしている。リスカでもセックスでもない方法を探さなくてはならない。今、その両方ともと違う何かが作用して、紀美香を安心させている。でも、それが何かは分からない。腹の中に黒煙が広がっていて、そんなことを考える隙間がない。僕達はお互いに昂った気持ちをぶつけるようにもう一度セックスをして、その後は薄く眠ってから帰った。


 二週間後、自室で夕食を作っていたらスマホがLINEを報せる音を出した。

 手を止めて見れば、紀美香から。本文がなく動画が添付されている。腹の中に煙が吹き荒れる。それを鼻から出して、動画を開く。

 彼女の腕。切ったばかりの傷から血が溢れている。

 動画を閉じて、僕は紀美香のアカウントをブロックした。


 *


 黙祷の日から一週間が経った。僕に通夜などの連絡が来る筈もなく、一見何もなかったかのように毎日を送る。だけど、紀美香のことを考える。もしもブロックをしなかったらと、なかった方の未来を何度もなぞる。それでも止められなかったかも知れない。けど、止められたかも知れない。それが永遠に分からないのだから、僕はこの迷いから抜け出すことは出来ないのかも知れない。彼女が唯一安心した場所が僕のところなのだ、僕にだけは彼女を助ける力があった。だけど現実の彼女はもう死んでいる。どうやったって戻ることはない。

 僕は動き出さなくてはならない。

 紀美香のために留まっていてはいけない。

 もう使わないものは捨てて、毎日やって来る明日に向かわなくてはならない。

 だけど、僕は紀美香のアカウントを消せない。


(了)

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